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メル・レノールはレノール伯爵家の次女である。
薄い赤毛、蒼い瞳。白い肌には薄くそばかすが散っており、少し低めの身長が幼く見えるが、立派に成人した淑女である。性格は、大人しく、温和で内向的。それならば、よくいる大人しめの令嬢に過ぎないのだが、メルは他の令嬢とは違い、人目に触れるのを極端に恐れる極度の人見知りだった。
幼少期、メルは大人しめではあるがごく普通の令嬢だった。近隣の令嬢、令息たちとの交流もごく普通に行えていたし、伯爵家に客が来た時も、たどたどしくも挨拶ぐらいは出来たものだ。それが、ある事を切っ掛けに、他人に対面することが恐ろしくなった。
レノール伯爵家は、ラース侯爵家の分家筋に当たり、代々、魔法薬の生成に携わる一族である。伯爵家の者は国の認める魔法薬師の資格を有している。
そんなレノール伯爵家では、子どもたちは幼い頃から魔法薬師としての教育を受ける。現当主の子どもであるメルの兄、姉、そしてメル自身にも、魔法薬師としての勉強を課せられていた。
メルの兄や姉も優秀な魔法薬師として育ったが、末っ子のメルは兄姉を凌駕する才能を見せた。教師の教えをぐんぐんと吸収し、既存の魔法薬についての知識を習得するだけでなく、研究者たちと一緒に新しい魔法薬の開発にも携わるぐらいだった。
だがメルの優秀さは、父であるレノール伯爵には疎ましいことだった。いずれは嫁にいくメルが、正式なレノール伯爵家の後継であるメルの兄を凌ぐ能力を持つことは、体面が良くないと考えたのだ。レノール伯爵家の娘として恥ずかしくない程度の知識を備えていればそれでよかったのに、出しゃばりな娘だと、忌々しくすら思っていた。
そんなメルが、ある貴族家で催された茶会に参加した時に、それは起こった。
メルが慣れないながらも、同年代の子息令嬢たちと交流している時、魔法薬の話題になった。会話の切っ掛けは、参加者の誰かが、家族に酷い魔力風邪をひいた時に魔法薬を飲んでたちまちに良くなったと話したことだった。大好きな魔法薬に嬉しくなったメルは、ついつい場の空気も読まずにどんどん魔法薬の話を広げてしまったのだ。
魔力風邪の魔法薬の作成方法、薬草の生育方法、魔力を籠めて薬草を攪拌する時のコツ。マニアック過ぎる内容に、その場にいた子息、令嬢たちは誰も話について行くことができなかったが、メルは気づかず、大好きな魔法薬の話を語り続けた。
普段大人しいメルが余りに饒舌に語るものだから、悪目立ちをしてしまったのかもしれない。次第に令息たちの中から、メルを揶揄うような声が出始めた。楽し気に揶揄う令息たちに釣られ、令嬢たちもくすくすとメルを嗤った。メルがハッと気づいた時には、嘲笑の渦はどんどん広がっていき、メルは恥ずかしさの余り顔を真っ赤にさせて俯いてしまった。
お茶会の後、家に帰ったメルが泣いていると、追い打ちをかけるように父に叱責された。女だてらに賢しらに知識を披露するからだと、それは厳しく叱りつけたのだ。
茶会で嘲笑われ、父に叱責され、それ以来、メルは他人の目が怖くなった。
皆が自分を笑っているような気がして上手く動けなくなり、失敗ばかり繰り返すようになった。挨拶をどもる、足がもつれて転ぶ、茶器をひっくり返す。そんな醜態を繰り返している間に、ますます他人の目が怖くなり、とうとう人前に出る事が出来なくなってしまった。父の目がどんどん失望に染まっていくのも怖かった。
メルは、人前に出る事を諦めた。幸いなことに、優しい兄はメルがずっと家にいてもいいと言ってくれている。メルにすっかり失望している父は、メルを嫁にやることを早々に諦めてくれたし、領地に戻り、大好きな魔法薬を作って一生を過ごせればそれでいいと思っていた。
それなのに。メルは何故か、ラース侯爵家の嫡男である、ハリーの婚約者になったのだ。
◇◇◇
メルの婚約は、父から命じられたものだ。
父はホクホクと嬉しそうな顔をして、メルの婚約が決まったことを告げてきた。主家の嫡男との婚約。ラース侯爵家の特殊さを熟知し、崇拝している父は、大喜びだった。
「ど、ど、ど、どうして、わ、わ、私なのでしょうか」
婚約者としてハリーと対面した時。逃げ出したくなる気持ちを抑え、メルは勇気を出してハリーに聞いてみた。伯爵家の娘としても落第点の自分が、侯爵家に嫁ぐなど天地がひっくり返っても無理だ。
プルプルと震え、辛うじて聞こえるぐらいの声量で問うメルに、ハリーは視線を向けた。
「結婚するなら、メルがいい」
ハリーとメルが会ったのは身内での集まりに参加した時ぐらいだし、話した機会はもっと少ない。それなのにハリーにそんなことを言われ、メルは混乱で涙目になった。耐え切れず、幾つか雫が溢れていく。
ああ、こんな事で泣いて、また馬鹿にされる。表情一つ取り繕えないなど、淑女として失格だ。だけど涙を止めることができず、メルは自分が情けなくて仕方がなかった。
泣くメルにハリーは目を丸くしていた。でも、他の人の様に馬鹿にしている様子は一切ない。無表情だけど心配されているのを感じて、メルは勇気を振り絞って話した。
「お、お、お見苦しい、ところをお見せして、す、す、すみません。わ、私よりも、もっと華やかで、しゃ、社交的な方がハリー様には、ふ、相応しい、かと」
「我が家は社交は必要ない。華やかさも程々でいい」
途切れ途切れに訴えるメルの言葉を、ハリーは静かに否定する。ハリーの手がメルの頬に触れ、涙を拭う。その優しい手つきに、今度はメルが目を丸くする。
「メルは他人と話すが怖いと聞いたが……。俺も怖いか?」
ハリーが柔らかく問うのに、メルは慌ててフルフルと首を振った。
どうしてだろう。ほぼ初対面な筈なのに、ハリーの事は少しも怖くなかった。低い声と温かな手が、メルの心を落ち着かせてくれる。
「そうか、良かった。メルは何も心配せずに嫁いでくるといい。社交もしたくないのなら必要ない。俺の横で、好きな事だけをしていればいい」
そう言われて、断る理由も、断れる胆力もメルにはなくて、結局、ハリーとメルの婚約は成立してしまった。ラース侯爵家から帰る馬車の中、上機嫌な父に、メルは泣きついた。
「お、お、お父様。わ、わ、私に、こ、こ、侯爵家なんて、む、無理です」
実の父相手でも、どもって上手く話せないのにと、メルは必死に訴えたのだが。
「馬鹿な事を言うな! こんな素晴らしい縁談を、どうして断ることができるものか!」
途端に鋭くなる父の声に、メルは肩を竦ませる。
そんな娘の姿に流石に気不味く思ったのか、父は宥めるような口調になった。
「相手が侯爵家だからと変に萎縮する事はない。他の高位貴族と違い、ラース侯爵家は必要最小限の社交しかなさっていない。下手に社交好きな夫人を迎えるより、お前の様な出来損ないの大人しい女の方が、あちらも都合がいいのだろう」
父の言葉に、メルはすとんと納得した。ああそうか。大人しく逆らえない性格だから、メルが選ばれたのかと。それならば理解できる。
メルは覚悟を決めるしかなかった。主家であり格上の相手からの縁談を断る事は出来ないし、当主である父の意向に逆らえる筈もない。
ハリーはメルが妻になれば好きに過ごしてもいいと言ってくれた。それを真に受けるわけではないが、少なくとも苦手な社交を強要される事はなさそうだ。婚家でどれほど軽んじられようと、粗雑に扱われようと、魔法薬の研究さえできればいい。そう、メルは割り切る事にした。
だがメルの予想に反して、婚約者になったハリーはとても優しかった。酷くどもってしまうメルを馬鹿にすることもなく、メルが落ち着いて話せるまで優しく寄添って待ってくれる。そしてメルの魔法薬に対する熱意を理解してくれていて、その手助けを惜しまなかった。希少な薬草を手に入れてくれたり、メル専用の研究室を整えてくれたり、高圧的な客をとりなしてくれたり、それこそメルが魔法薬の研究に打ち込めるように整えてくれた。メルの欲しいものを先回りして準備してしまうので、謙虚なメルはハリーの気遣いに恐縮しっ放しだった。こんなに優しい人が婚約者だなんて、夢でも見ているのではないだろうか。
でも、メルは段々とハリーの側に居るのが苦しくなった。
役立たずのメルには何も返せない。いくらラース侯爵家が社交を好まないと言っても、全くないわけではない。最低限、どうしても外せない夜会や茶会には出席している。それに参加することすらメルにはできないのに、ハリーは何も気にせずに婚約者を連れずに一人で社交の場に立っている。参加者たちに面白おかしく噂をされても、気にも留めていないかのように振舞う。
メルは、ハリーに何度も婚約の解消を申し出た。自分では最低限の侯爵夫人の務めすら出来ないからら、相応しい人を娶って欲しいと。メルが婚約者として選ばれたのは、何の取り柄もない凡庸な娘だからだ。それなら、自分でなくてもいい筈だ。
メルの訴えに、ハリーはいつも淡々と『婚約は解消しない』と言う。人前が苦手ならば、夜会も茶会も、出たくなければ出なくていいと言われてしまえば、それ以上メルに抗う術はなかった。
ハリーに何度も婚約解消を否定されて、喜んでいる自分にメルは気がついていた。メルはいつしかハリーが大好きになっていた。上手く話せなくても、じっとメルを待っていてくれて、時折、優しく微笑んでくれるハリーが、メルは大好きだった。
そうして、ハリーと離れなくて済むと安堵しつつも、侯爵夫人としての役割を熟せない後ろめたさ間で悶々としながら過ごす内に、それは起きた。
ハリーが肺を患い、ラース侯爵家の後継から外れてしまったのだ。
医者の見立てでは、ハリーは空気の綺麗な領地で過ごせば特に支障なく暮らせるらしい。王都に留まることが難しい以上、ラース侯爵家の後継となる事は出来ない。
ハリーからそう告げられ、メルは嬉しかった。そして、嬉しく思う自分が、浅ましく思えた。ハリーが病気を患った事を喜んでしまったように感じて、自分の醜さに押しつぶされそうになった。
胸を患ったハリーは、食事も碌にとれず、メルより頭二つ分も背が高いのに、骨と皮ばかりに痩せてしまった。夜も眠れていないせいか、青白い顔で苦しそうだ。メルはハリーと共に領地に戻り、一生懸命、ハリーの世話をした。幸いにも、領地に戻ったハリーはすぐに元気を取り戻してくれたのだが。
でも、メルは気づいてしまった。
気づいてしまって、目の前が真っ暗になった。
そこが限界だった。もうこれ以上、ここに居る事は出来ない。
だから。メルはハリーの側から、姿を消したのだった。