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エリス・ラースは平凡な令嬢である。
栗色の髪、茶色の瞳。とびぬけて美人というわけでもなく、普通に可愛らしい令嬢だ。
貴族ならば誰もが通う学園に在籍し、成績は中ぐらい。マナーや音楽が得意で、魔術と数学が少し苦手。大人しく控えめな性格で、学園でも同じように大人しめな友人たちと一緒に居る事が多い。最近は探偵小説に夢中で、恋愛要素も強いその人気の小説を読んでは、友人たちと顔を赤らめはしゃぎながら語り合うのが、何よりも楽しみになっていた。
ラース侯爵家もロメオ王国の中で丁度真ん中ぐらいの地位だ。領地も田畑が広がる長閑な田舎で、主な農産物は他領と同じく小麦だ。堅実な領地経営なので、貧乏ではないが特別裕福でもない。目立つほどの功績もないが、特に欠点があるわけでもない、ごく普通の貴族家だ。
ほんの少し他の家と違うところは、エリスは病弱な兄に変わり、ラース侯爵家を継ぐ事になっている事だ。だが、最近のロメオ王国では貴族の後継に女性が選ばれる事も少なくなく、取り立てて珍しいというわけでもない。まだ決定ではないが、エリスには優秀な婿候補がいるのは周知の事実であり、他所からの婿入りの打診も最近は少なくなり、ラース侯爵家はすっかり落ち着いていた。
そんな平和な雰囲気が漂うラース侯爵家に、驚くような知らせが届いた。
この時はまだ、これがラース侯爵家を揺るがす様な大騒動になるとは、誰も気付いていなかった。
◇◇◇
ダンケス地方を視察中のコルネオン公爵が行方不明になったという一報をラース侯爵家に齎したのは、魔法省副長官のエリフィスだった。
エリフィスのその報告に、お茶を準備していたハルの手が、一瞬、ピタリと止まる。
だがすぐに何事も無かったように、よどみない優雅な仕草で準備を続けた。
「行方不明? コルネオン公爵様が?」
エリスは不可解そうに首を傾げる。
現国王には王太子であるブレイン殿下しか子はいない。そのため、王籍を離れたとはいえ、コルネオン公爵は今も王太子に継ぐ王位継承権第2位を保持している。万が一王太子殿下に何かあれば、国王の後を継ぐのは コルネオン公爵だ。
そのような国の重要人物には、常に幾人もの護衛や従者が付き従うのが常だ。ダンケス地方の視察にも、当然、護衛や従者が付き従っていただろう。それがどうして行方不明になどなるのか。
「ダンケス地方を視察中の公爵が乗る馬車が、崖下に転落したようです。公爵は崖下の川に投げ出されたのか、行方が分かっていません。供にいた護衛と数人の従者は、崖下の灌木に上手く馬車が引っ掛かり、軽傷で済みましたが、公爵は最初の衝撃で運悪く外に投げ出されてしまったそうです。騎士団や魔術師団は勿論の事、我が魔法省からも探査の得意な魔術師が捜索に加わっていますが、見つからないのです」
「事故なのかしら?」
「まだ調査中なのですが、不自然な痕跡は見つかっていないみたいですね」
「そう……」
エリスは呟いて、気遣わし気にハルに視線を向ける。だが、エリスの専属執事は何事も無かったようにエリスに紅茶を供した。
「ハル。コルネオン公爵とは仲良しなのでしょう? 心配なのではなくて? 捜索隊に参加してもいいのよ?」
王家も動いているだろうが、こういう場合、冒険者ギルドにも捜索依頼が掛かる可能性がある。高位冒険者のハルならば、依頼が来てもおかしくはない。
「何のことでしょうか、エリス様。私とコルネオン公爵閣下とは全く関係などございません。それに私はエリス様の専属執事。お側を離れるなどありえません」
何の迷いもない笑顔を向けられ、エリスは小さく溜息を吐く。こういう顔の時のハルには、何を言っても無駄なのだ。
「……わたくしのハルは素直じゃないわ」
「縄で縛り付けてでも捜索に加わらせましょうか?」
主人の心遣いを無にする駄犬執事に苛立たし気にエリフィスが呟けば、エリスは困った様に首を振る。エリフィスならハルを捜索隊に無理矢理参加させることが出来るかもしれないが、ハルの事だからあっという間に逃げ出してしまうだろう。真面目にコルネオン公爵を探している捜索隊に、迷惑が掛かる可能性が高い。
どうしたものかとエリスは考えていたが、やがて何か思いついたのか、悪戯っぽい笑みを浮かべた。
「いいえ、エリフィス。その代わり貴方がコルネオン公爵の捜索に加わってくれないかしら? 魔法省副長官の貴方なら、王家の捜索隊に加わってもおかしくは無いでしょう? わたくし、公爵閣下がご無事かどうか心配なのよ。ハルが動かない以上、貴方に頼むしかないわ」
エリスが甘やかに強請ると、エリフィスは顔を赤らめた。俄然やる気になって、頼もしく請け負う。
「もちろんです、我が君。貴女の忠実なる僕である私にお任せ下さい」
「お待ちください、エリス様! そのお役目は私に!」
滅多にないエリスのおねだりを、エリフィスなどに渡してなるものかと、必死の形相でハルが願い出る。それにエリフィスは本気で殺意を覚えた。
「煩い、駄犬執事。お前は断っただろう」
「エリス様の願いをこの私が断るはずないだろう! エリス様がお望みとあれば、あのストーカーを御前に引っ立ててまいります!」
ぎゃあぎゃあと言い争うハルとエリフィスを微笑まし気に眺めていたエリスだったが、ふいにその表情が引き締まる。
「エリフィス。お客様が来たみたいだわ。少し隠れていて」
エリフィスはその言葉に、己に認識不可の魔術を掛ける。その姿が掻き消えると、ハルはエリフィスの茶器を収納魔法で片付け、席を整えた。するとそこには初めから客などなかった様に、エリスが一人でティータイムを楽しんでいるかの様な体裁が整った。
ラース侯爵家とエリフィスは何ら関係のない間柄だと世間では思われている。エリフィスはラース家を訪れる時はたいてい、転移魔法を使用しているので、彼が私的に何度も訪れている事は他所には知られていない。
しばらくすると、言い争うような声が聞こえてきた。ダフとラブの制止する声も混じっている。
バタンと乱暴にドアが開けられ、飛び込んできたのは妖艶な美女だった。薄く淡い緩やかなウェーブがかった金髪。ほんの少し垂れた蒼眼と、目元の泣き黒子、艶やかな唇が何とも言えず色っぽい。だが。
「出てきなさい! 泥棒猫!」
その可憐な口元から発せられた言葉は、どうにも上品とは言いかねるものだった。
美女はエリスたちを認めると、柳眉を吊り上げ、足音荒くずかずかと近寄って来る。咄嗟にハルがエリスを庇い、美女の前に立ちはだかる。
「だ、誰よ、あの人! 」
「泥棒猫って、まさかエリス様に言ってるのか? 」
遅れて部屋になだれ込んだダフとラブは、美女の言葉に混乱しつつも、エリスを守ろうと美女に駆け寄る。
しかし、一瞬遅く。ばっちーんと、凄い音を立てて、美女は頬を打った。
エリスではなく、ハルの頬を。
「は?」
「え?」
エリスはきょとんと目を丸くして、ハルと美女を見比べていた。ダフとラブ、そして殴られた当事者であるハルも、反応できずにぽかんと口を開けている。
「この泥棒猫! わたくしのルーク様をどこへ隠したのっ!」
美女は片手でハルの胸倉を掴み、もう片方の手を再び振りかぶったが、今度はハルに難なく受け止められた。
「……エリス様。お約束はないようですが、お客様でございます」
そこへ、ラース侯爵家の筆頭執事シュウ・イジーの声が響く。シュウは突然の珍客に驚く様子もなく、いつもの落ち着いた柔らかな笑みを浮かべている。
「コルネオン公爵夫人でいらっしゃいます」
コルネオン公爵夫人は、憎々し気にハルを睨みつけていた。
◇◇◇
「駆け落ち……で、ございますか? ウチのハルと公爵閣下が?」
あの後。糸が切れたようにぺたりと座り込み、さめざめと泣き出したコルネオン公爵夫人、セイディのために、ラース侯爵家の面々は、彼女をソファに座らせ、気持ちを落ち着かせる紅茶を振舞い、侍女の一人も付けずにやって来たセイディの為にコルネオン公爵家に使いを走らせと、大わらわで動き出した。
そうして落ち着いたセイディから事情を聞きだしたのだが。その内容が、余りに突拍子のないものだった。
「ルーク様が、崖下へ落ちて行方不明だなんて、私、し、信じられなくて。きっと、ルーク様は、今までの生活を捨てて、ハル様と、手に手を取って、お逃げになったのだと……!」
妖艶な美女のハラハラと泣く姿は大変、風情のあるものだ。ダフとラブも思わずその美しさに見惚れてしまい、セイディの話す内容はあまり頭に入ってこなかったのだが。流石に最後の言葉は聞き流すことが出来なかった。なぜそうなった? と思わず心の中で突っ込む。
当のハルは、打たれた右頬を真っ赤にしたまま、苦虫を嚙み潰した様な顔をしていた。今すぐにでもセイディを追い出したかったのだが、エリスが甲斐甲斐しくセイディの世話をするものだから、それもできずにいる。姿を消している、いけ好かない魔法省副長官が声も出さずに笑っている気配がして、忌々しい。
「あの、失礼ですが、どうしてそんな事を思われたのでしょう? 確かに公爵閣下はハルを欲しがっていらっしゃいましたけど、それはあくまで側近としてではございませんか? 」
エリスが不思議そうにそう問えば、セイディは俯いていた顔を緩慢に上げる。
「私、知っているのです……。ルーク様は、私を愛してなどいないのです……」
ボロボロと泣くセイディの背を撫で、エリスは首を傾げる。
「まぁ、でも。コルネオン公爵夫妻といえば、ロメオ王国とデルフィル王国の政略ではありますけれど、仲睦まじくていらっしゃると有名ですわ。学園の私の友人たちの間でも、お2人の御関係は憧れですのよ?」
貴族の娘に自由恋愛が許される事は殆どない。大抵は家の利益のために政略結婚をするのが常だ。ルークとセイディの婚姻は、ロメオ王国と友好国デルフィル王国の関係を強化するためにロメオ王国の王弟と デルフィル王国の末姫として結ばれたものであるが、お互いを思いやり大事にしあうその姿は、理想の夫婦として多くの貴族女性が憧れているのだ。
「確かに……、ルーク様は私を大事にしてくださいます。でも、そのお心は、私にはないのです。私は、ルーク様の真実の愛を隠すための、お飾りの妻でしかないのです」
「お飾りの、妻?」
エリスは目を瞠った。真実の愛、お飾りの妻だなんて、まるで巷で人気の推理小説に出てくる筋書きのようではないか。
エリスが読んだその推理小説は、政略で結ばれた夫から『私はお前を愛する事はない。私には真実の愛の相手がいる。お前はお飾りの妻に過ぎない』と言い放たれ命まで狙われた妻が、探偵の手を借りて夫の卑劣な罠を掻い潜り、夫の実家の不正を暴いて、ずっと待っていてくれた幼馴染と再婚して幸せになるという内容だった。エリスも、主人公が幼馴染の存在を心の頼りに夫に立ち向かう姿に、涙を流して夢中になったものだ。
でもそれはあくまで小説の中でのこと。現実にこんな事があったら、大問題だ。
貴族にとって政略結婚は避けて通れないものだ。だからこそ、気に入らなくても相手を尊重するのは当然なのだ。貴族にとっての結婚は家同士の結びつき。結婚相手を軽んじることは、相手の家を軽んじることになり、それが罷り通れば政略が成り立たない。どうしても相手と気が合わなければ、子を作った後に、それぞれ愛人を持つ夫婦もいるが、それはあくまで、跡取りである子が出来た後だ。仮に夫が妻より先に他の女性との間に子を作りなどしたら、後継問題が勃発しかねない。
コルネオン公爵夫妻も、世間的には仲の良い夫婦と思われていたが、それは表向きだけのことなのだろうか。
エリスはコルネオン公爵の事はあまりよく知らない。ハルを側近にしようと、ラース侯爵家に足繁く通っているのだが、それはエリスが学園にいる時に限られている。実は太陽の君などと呼ばれ、未だに貴族のご令嬢たちから人気のあるコルネオン公爵をエリスに近づけたくないハルが、エリスの不在時以外の訪問を頑として受け付けないからだった。ハルとしては訪問は全てお断りしたいところだが、全て拒否してしまうと、コルネオン公爵が無理矢理押し掛けてくることが予想されたので、エリスの外出時には渋々認めているのだ。
「お飾りの妻だなんて、どうしてそう思われたのですか? 公爵閣下がそう仰ったのですか?」
エリスは純粋に疑問に思って、セイディに問うたのだが。
「だって、私、愛されていないと。私は。ああ、ルーク様、ご無事でいらっしゃるの……?」
セイディはそうブツブツと呟くばかりで、エリスに力なく凭れかかり、泣き続けた。
やがてしばらくして、コルネオン公爵家の家令と侍女が大慌てでラース侯爵家にやってきて、コルネオン公爵夫人を連れて帰っていった。ただでさえ公爵閣下が行方不明で動揺が広がっていた公爵家では、いつの間にか公爵夫人の姿まで消えていて、大騒ぎになっていたらしい。家令は気の毒なぐらいペコペコと頭を下げ、ラース侯爵家を辞していった。
大きな嵐が去った後の様に、エリスたちはほうっと息をついた。
隠れていたエリフィスも姿を現す。
「不思議なこともあるものだわ。どうしてセイディさまは愛されていないなどと思っているのかしら」
普段は心の中で思っていても、公爵夫人としての矜持で隠し通していたのだろう。突然の不幸に見舞われ、公爵夫人の中から我慢していた気持ちが溢れ出てしまったのかもしれない。衝動のまま浮気相手? と思い込んだハルの元にやってきてしまったのだろう。
「ねえ、ハル。公爵閣下は奥方を大事にしていらっしゃらなかったの?」
エリスに問われたハルは、首を捻る。
「聞いてもいないのにベラベラと奥方の惚気を私相手に話すぐらいは、大事にしていらっしゃったと思いますが」
ルークがハルの勧誘にラース侯爵家を訪れると、学生時代の思い出やら王宮での世間話やらを語っていく事が多かった。その中には決して少なくない頻度で、妻の惚気を垂れ流していた気がする。『ハルも早く妻を持つといい。妻がいると癒される』などと、有難くもない助言付きで。
「エリフィスはどう? あのお2人が不仲だなんて噂、聞いたことはあるかしら?」
「いいえ。社交界でも評判の仲の良い婦です。あのお2人の間に愛がないなどと、信じられませんね」
王宮内で着々とその力を伸ばしているエリフィスの元には、様々な情報が集まる。エリフィスもラース侯爵家の為にと積極的に動くため、些細な噂程度でも耳に入るようになっていた。だがそんなエリフィスでも、コルネオン公爵夫妻の不仲は聞いたことがないようだ。
「そう……。それなのに、どうしてセイディ様は、愛されていないだなんて思ったのかしら」
セイディのあの愛されていないと信じ切っていた様子。公爵閣下の行方不明に比べれば些細な疑問だったが、エリスの中に不可解な感触を残していた。




