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「思っていた以上に被害が少なくて良かった」


 ダンケス地方の視察を終え、王都へ戻る馬車の中。ルーク・コルネオンは安堵の息を吐いた。

 予定通り、数日間の視察を終え、馬車の中にはホッとした雰囲気が漂っている。


「長雨の影響が心配でしたが、麦も芋も問題なく収穫出来そうですね」


 同乗している側近が笑顔で応える。長雨で川の氾濫も心配だったが、農作物への影響も懸念されていた。もしもの場合は、公爵家で蓄えている備蓄を出さなくてはならないかと案じていたが、川の氾濫も農作物もなんとか持ちこたえた。長雨も終わりの兆しが見え始め、ダンケス地方の農民たちにも安堵が広がっていた。


「私が公爵領を賜って初めての長雨だったが、何事も無くて良かったよ。公爵と偉ぶっても、天候には勝てない。民の話を聞く事しかできないだなんて、全く、無力なものだな」


「ルーク様が御自ら領内を視察されたので、農民たちも安心されたでしょう。ルーク様が直々に関わって下さるのと、そうでないのとでは、民の安心感は違います」


 自分の無力に落ち込むルークに、側近は厳しい顔でキッパリとそう言い切った。この主人は、優秀で慈悲深く文句の付け所のない素晴らしい領主であるというのに、自分に厳しすぎるのが玉に瑕だ。天候など、誰が領主だろうと、どうする事も出来ないのに自分の力不足だと嘆くのだから。


 ダンケス地方は長く王家の直轄地であり、その管理は地方官が行っていた。しかし地方官はダンケス地方だけでなく、いくつかの領地を掛け持ちで管理しているため、一つの領地にだけ注力する事は出来ない。此度の様な天候不順ぐらいならば、放っておかれる事が多かった。

 だから今回、領主自ら現地を視察に来た事に、農民たちは歓喜していた。地方官による管理の場合は何かと後回しにされてしまうものだが、領主がいれば今まで以上に領地の事に目を掛けて貰える。しかも領主は優秀で現国王の信頼も篤い元王弟。期待するなという方が無理だ。


 現に、ダンケス地方を訪れたルークは、現地の有力者だけでなく畑で働く農民たちにも気さくに声を掛け、長雨の影響や困ったことはないかと意見を聞いてくれた。高貴な身分の方と直接話す事さえ初めての農民たちは、熱心に話を聞いてくれるルークに対し、まるで女神を前にした信者のように手を合わせて有難がったものだ。


 若き公爵はかように熱心に日々努めており、側近としては誇らしくもあるのだが、もう少し肩の力を抜いてもいいのではないかと思ってしまう。公爵として領地を戴いたばかりで気負いもあるのだろうが、余りに自分を追い込んでしまうのも心配だ。

 だから側近は、仕事にのめり込んでしまうルークの気を逸らすために、時折、仕事以外の話も持ちかける。それにはうってつけの話題があるのだ。


「奥様も、ルーク様の視察を大層心配なさっていらっしゃいましたから、お帰りを心待ちにしていらっしゃるでしょう」


 ルークの妻、リングレイ王国一の美姫として名高いセイディ・コルネオン。彼女は外見だけでなく、心根も美しい女性で、政略とはいえルークは妻に心底惚れ込んでいた。結婚して数年経つというのに、新婚の如く仲睦まじい夫婦なのだ。


 いつもならば愛妻の話題を振れば、嬉し気に妻とのあれこれを話し始めるものだが、その日のルークの顔には憂いが浮かんでいた。


「……どうかなさいましたか、ルーク様。奥様に何か」


 その様子に、側近は思わず姿勢を正した。コルネオン公爵夫妻の婚姻はロメオ王国とリングレイ王国の政略。2人が不仲などと噂が流れただけで、国交に影響しかねない。 リングレイ国王は末娘であるセイディを溺愛していて、幸せかどうかと常に心配し頻繁に文を寄こすほどの可愛がりようだ。


「いや……。気のせいかもしれないが、セイディが最近、なにやら思い悩んでいるような気がしてな。私の前では気丈に振舞っているが、ふとした時に考え込んでいる」


 ルークは愛妻の顔を思い浮かべ、深く息を吐く。


「なにか悩みがあるのなら、相談してくれるかとそっとしておいたのだが。未だに何も話してくれないのだ」


「それは……」


 側近は口を開きかけたが何も言えなかった。彼にも妻がいるので、ルークの気持ちが理解できた。夫婦と言えど相手が口に出してくれなければ、無理に聞き出すことも憚れるものだ。


「セイディには、セイディの立場というものがある。ロメオ王国の公爵たる私には、口にできないこともあろう。だが、我が妻の憂い一つ払えぬというのは、なんとも歯痒いものだな」


「ルーク様……」


 側近の困り顔に、ルークはフッと笑った。


「まあ、しばらく様子を見てみるさ。妻も元は王族の一員だ。生半可な事ではへこたれぬ強者よ。その妻の手に余ることならば、私が全て引き受ければよいことだ」


 その力強い言葉にはなんら迷いはなく、側近は人知れずほっと息を吐く。

 公爵夫妻の絆の強さは、他人である自分が心配する事ではないと分かってはいたが、ルークのその力強い言葉に、それを再確認したような気持になった。


「それならば、一層早く戻りませんと」


「そうだな、セイディの喜びそうな土産も、手に入れる事が出来たし……」


 その時。鋭い馬の嘶きが聞こえた。

 何事かと身構える間もなく、視界が反転する。

 激しく身体を馬車に打ち付けたと思ったら、寒々しい外気がルークの身体に突き刺さった。


「ルーク様っ!」


 ルークの目に、側近の焦った顔が映る。こちらに必死に手を伸ばす側近の姿が、遠ざかっていき。

 激しい衝撃と共に、ルークは水の中に落ちていた。

 突然の事に必死にもがくルークだったが、水の流れは速く、抗おうにもどうにもならない。上下の感覚もわからず、ただただ、水の中で藻搔くことしか出来なかった。 


 ルークは必死に手足を動かしながら、自分のおかれた状況を分析した。

 馬車はダンケス地方から王都へ向かう険しい山道を走っていた。あの浮遊感は、もしや崖下に落ちたのか。この水は、崖下の川か。


 ルークは馬車に同乗していた側近、そして馬車に付き添っていた護衛たちの身を案じた。ルークは川に投げ出されたが、もしもそのまま崖下に落ちていたら、無事では済まないかもしれない。

 部下たちの元に戻りたくとも、ルークは川に流れるしかなかった。息継ぎすらままならず、水の冷たさにどんどんと身体の自由が奪われていく。どうにも力が入らず、息苦しさから意識が段々と遠のいていく。


『セイディ……』


 このまま死んでしまうのかと、薄れゆく意識の中で、最後に思ったのは妻のことだった。

 『すまない』と声もなく謝るルークの脳裏から、微笑む妻の姿が、どんどんと遠ざかっていった。

 

◇◇◇


「ルーク様?」


 少しぼんやりしていたセイディは、ルークの声が聞こえた様な気がして、周囲を見まわす。 


「あら、何か仰いまして? セイディ様」


 茶会の主催者である伯爵夫人に声を掛けられ、セイディはハッと気を引き締めた。こんな場所で、ぼんやりとしてしまうなんて。

 

「まぁ、申し訳ありません。ルーク様のお声が聞こえた様な気がして」


 セイディの言葉に、夫人たちはお互いに視線を交わし合った。


「あら、公爵は視察に出られているのでしょう? 領地を回られているとか」


「まぁまぁ、離れていてお寂しいのかしら。仲の宜しい事で」


「本当に、いつまでも新婚の様で羨ましいわ」


「あらでも、ご結婚されて随分と経ちますわ。そろそろ()()()()頃ですわよねぇ」


「コルネオン公爵家にも、()()()()()が必要ですもの」


「そうそう。高貴な王族の血筋が増える事は、我ら家臣の願いですわ」


 くすくすと笑う夫人たちの間で、セイディは曖昧に微笑んだ。

 冷やかしと、ほんのり含まれる悪意。夫人たちの集まりではよくある事だが、だからと言って何も感じないわけではない。


 セイディの夫、ルーク・コルネオンは、セイディとの婚約が調う前は、国内外から釣書きが殺到するほど人気があった。結婚した後もその麗しい美貌と闊達な性格は女性を惹きつけずにはいられないようで、セイディはこうした茶会でよく夫人たちから羨望と嫉妬を受けるのだ。また、ルークとセイディの間には、結婚して数年経つのにまだ子がないため、余計に風当たりが強かった。

 ルークは授かりものだからと気にも留めていないが、血を繋ぐのが責務の貴族にとって、子を成すことは重要だ。ルークとセイディの婚姻はロメオ王国とリングレイ王国の関係を強化するための政略とはいえ、いつまでも子が生せないセイディは半人前の扱いを受けても仕方がなかった。


 夫人たちの愉しそうな会話にどっと疲れを感じながら、セイディは茶会を後にした。


「セイディ様」


 公爵家の馬車を待つ僅かな時間、後ろから呼ばれ、セイディはビクリと身体を強張らせた。

 無視することも出来ずに、セイディは失礼にならない程度にゆっくりと振り返った。正直、誰とも会話をせずに早く公爵家に戻りたかった。夫の不在や、気の抜けない茶会で、思った以上に気力を削がれていたようだ。


「まぁ、アメイス様」


 夫、ルークの学友であるベントレー・アメイスが、いつもの柔和な笑みを浮かべているのを見て、セイディはホッと息を吐いた。


「ご無沙汰いたしております。本日はこちらの茶会に?」


「ええ。お誘い頂きましたの。アメイス様は?」


「私はこちらの書類を届けに。しがない文官の身でありますので、上司の使いっ走りを務めております」


「まぁ」


 ベントレーのおどけた物言いに、セイディは思わず吹き出していた。ルークは友人が多いが、中でもベントレーは学生時代、ルークの側近を務めていたため、側近を離れた後もよく公爵家を訪れていた。自然、セイディとも顔を合わせることが多いのだが、穏やかでいて中々お茶目な一面もあるベントレーに、セイディも親しみを感じていた。


 表情が緩んだセイディに、ベントレーがホッとした顔をする。


「ああ、良かった。セイディ様には、やはり笑顔でいて頂かないと」


「まぁ! 私、沈んだ顔をしていましたか?」


 セイディは、恥ずかし気に顔を押さえる。完璧に表情を繕っていた筈なのに、表に出ていたのだろうか。


「ルーク様がお留守なのです、お寂しくても仕方がありませんよ。……それに、付き合いというものは、気疲れするものですからね」


 分かりますよと片眼をつぶるベントレーに、セイディは苦笑する。


「私もまだまだですわ。これぐらいで気落ちをしてしまうなんて」


「そんな日もございますよ。ああ、そうそう。お贈りしたハーブティーはまだ残っていますでしょうか? こういう日にこそ、あれはピッタリですから」


「まぁ、そうですわね。美味しくて、私も毎日いただいているのよ。本当に、あのハーブティを飲むと、気分がスッキリしますわ」


「セイディ様に気に入って頂けて嬉しゅうございます。無くなりそうでしたら、またお声がけください。ああ、そうそう。ルーク様がお戻りになられましたら、良いワインが手に入ったので、ぜひお会いしたいとお伝えください」


「あら。夫が喜びますわ。いつもありがとう、アレイス様」


「とんでもございません」


 一礼して去っていくベントレーを見送った後、ほんの少し気分が晴れたセイディは、迎えの馬車に乗って、公爵家へと戻った。

 夫の凶事の知らせが、待ち受けているとも知らずに。

 



 

 



 

 

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