21
続きは明日です。
メルの処方した魔法薬を飲み、ルークは現在、眠りについている。処方した魔法薬が身体に浸透するまで、安静にしている必要があるのだ。
エリスは所在無げにルークの目覚めを待つセイディをお茶に誘った。ハルが調査に出かけてしまったため、茶を供してくれるのは筆頭執事のシュウだ。ふわりと漂う茶の香りに、セイディの強張っていた表情が僅かにほころんだ。
「セイディ様。お痩せになられたわ。記憶を取り戻したコルネオン公爵が心配されます。少しでもいいから、召し上がって下さいな」
エリスが口当たりの良い果物や軽めの菓子を勧めると、セイディは素直に従う。
「エリス様。ご迷惑をお掛けしてばかりで、申し訳ありません。以前もみっともない醜態を……」
恥じ入り頬を染めるセイディに、エリスは淑やかな微笑みを浮かべる。
「まぁ。愛する方に不幸が降りかかったのですもの。取り乱したとしても、仕方がありませんわ」
「愛する方……」
ぼんやりと頼り気なく呟くセイディに、エリスは首を傾げる。
「どうかなさいまして?」
「……確かに、ルーク様は私の愛する方です。ですが、ルーク様の愛は私にはありません」
「セイディ様はハルがコルネオン公爵の想い人だと思っていらっしゃるの?」
「……どなたがルーク様のお心にあるのかは存じませんが、私ではない事は確かです」
力なく呟くセイディに、エリスはもう少し突っ込んだ質問をしてみる事にした。
「コルネオン公爵は酷い事故に遭われたのですもの。ハルの事だけ覚えていたのは、たまたまだと思いますわ。側近の話を何度も断られていたから、お心に残っていたのかもしれないわ。セイディ様の事を忘れてしまっていても、先ほどの様子だと、セイディ様の事を想っていないなどとは、どうしても思えないのですけど」
「いいえ、ラース嬢。ルーク様は記憶を失う前から、私の事など愛してはいなかったのです。私は、ルーク様の真実の愛を隠すための、お飾りの妻なのです」
お飾りの妻。以前、セイディがラース侯爵家を訪れた際も言っていた言葉だ。
「あの。セイディ様。お飾りの妻というのはまさか、初夜の晩に『私が貴女を愛する事はない。私には心から愛する人がいる。君との結婚はただの政略に過ぎない』などと言われて、白い結婚を強要されたのですか?」
「え? 白い結婚? いえ、私どもは、閨はちゃんとっ……」
セイディは思わず口を滑らせ、それに気付いてボボッと頬を赤らめた。その様子から、そういう面では良好な夫婦なのだろうと、エリスは察した。
ガチャッ。茶菓子を準備していたシュウの手元で、食器の音がした。
「……失礼いたしました」
動揺を隠して一礼すると、シュウは何事も無かった様に再び準備を進める。
この場に愚息がいたら、シュウどころではない動揺をしていただろうな、と思いながら。
「あら? それではどうしてお飾りの妻だなんて思われたのかしら?」
「どうしてって……」
セイディは考えを巡らせる。
ルークは、セイディを大事にしてくれている。日頃から愛を囁き、感謝を伝えてくれる。
精力的に仕事を熟し、時には数日、家を空ける時もあるが、それは公爵という重責についているのだ、仕方がないことだ。留守の間にルークが浮気をしているかもだなんて、疑ったことはない。
でも、セイディはルークの心が自分にはないのだと感じていた。それは。
「ルーク様は、まるで太陽の様な御方です。あの方の周りには素敵な女性が沢山いて、皆、ルーク様を恋い慕っていらっしゃいます。私には、あの方のお心をずっと繋ぎとめておく自信がありません……」
セイディの劣等感のせいだった。リングレイ王国の姫だというだけで、それ以外はルークの役に立てているとは思えない。父王には可愛がられ、宝物の様に大事にされていたが、リングレイ王国を離れてみれば、自分にどれ程の価値があるのかと思い知ったのだ。
「あら。セイディ様ともあろう方が、その様な事を仰るのですか? 社交界の華とまで言われ、王妃陛下の覚えもめでたく、慈善活動にも熱心でいらっしゃる。コルネオン公爵を良く助け、妻の鑑とまで言われていらっしゃるのに、どうしてそんなにご自分を卑下なさる必要があるのかしら?」
手放しでセイディをほめるエリスに、セイディは力なく首を振った。そして、ためらいがちに口を開く。
「イジー様は、エリス様の婚約者候補でいらっしゃるとお聞きします。エリス様は、怖くは無いのでしょうか? イジー様がエリス様以外の方に想いを寄せられることを。私は、私は怖いです。ルーク様の瞳に、私以外の女性が映るのが。あの人の心を奪い去ってしまうのではないかと」
「まぁ。ハルが、わたくし以外を?」
セイディの言葉に、エリスはきょとんとした。
「ルーク様やイジー様を慕う女性は、沢山いらっしゃるわ。そこには、私たちより素晴らしい女性がいるかもしれない……」
「まぁ。確かにそうですわねぇ」
エリスはセイディの言葉を、どこかのんびりとした口調で認める。
「わたくしのハルは、美しくて有能ですもの。素敵な女性たちを惹きつけてしまうかもしれないわ」
実際に、ハルを慕う令嬢の家から釣書きが届く事もある。正式な発表はないが、ハルがエリスの結婚相手であろうと社交界では殆ど公認されているのに、一縷の望みを掛けて縁を結ぼうとする令嬢もいるのだ。
「でも、ありえませんわ。ハルがわたくし以外に目移りするなんて」
ふふっと笑う顔は、無邪気そのもの。だがそこには、抗いがたい美しさがあって。セイディはそのエリスの妖艶な表情から、目を離す事が出来なくなった。
エリスは、どこにでもいるような平凡な令嬢だ。可愛らしいが、特出した美しさはない。どちらかといえば、大人し気な令嬢だ。
なのにエリスの、この美しさは何なのだろうか。神聖な、恐ろしいまでの美しさは。
セイディは胸の動悸が激しくなるのを感じた。リングレイ王国では王女として、人を見る目は鍛えてきたはずだ。だが目の前のエリスは、全く読み切れない。
セイディの委縮した様子に、エリスはふっと表情を緩める。途端にこちらに圧倒するような雰囲気がが消える。
「だって、そうでしょう? セイディさまもわたくしも、心から愛を捧げているのに」
こてんと、エリスは首を傾げた。
「それなのに、誠実に愛し返してくれない相手なんて、わたくしどもが想う価値などありませんわ」
そんな相手は見限ってしまえばいいのよと、ハルが聞いたら青ざめて泣き縋りそうなことを、エリスは事も無げに口にする。
「そんな! 見限るだなんてっ」
「あら。セイディ様ほど美しくて素晴らしい女性の愛を一身に受けておきながら、他の女性に目移りする男なんて、見る目がありませんわ。どんなに素晴らしくても、そんな目の腐った方は魅力的とはいえないわ」
エリスのどこか冷めた口調に、ルークが貶されていると感じたセイディは、先ほどまで感じていた畏怖も忘れて叫んでいた。
「いいえ! 違います! ルーク様はそんな不実な方ではありません! 私を一身に愛して心を尽くしてくださいますもの! 誰が何といおうと、ルーク様は素晴らしい方だわ!」
セイディの目から、涙が溢れる。
「ルーク様は、私を愛して下さいました。リングレイ王国から嫁いできた私に、『祖国から離れ心細いだろうが、これからは私が貴女の心の拠り所となる』と仰ってくださいました」
隣国から、嫁いできた王女。いくら王族としての役割だと理解していても、祖国とは環境も風土も何もかも違う異国の地で、国の威信を背負って1人、嫁いできたのだ。心細くならない筈がない。
だがルークは、そんなセイディに寄添ってくれた。何よりも一番、大事にしてくれた。誰よりも心強い味方でいてくれた。
「あの方のありもしない不実を信じてしまうのは、私が弱いから。私に、自信がないから。あの方は、私に曇る事ない真心を、ただ一心に捧げてくださっているのだもの! だから、あの方を悪く言うのは、二度と許しません! 私の夫を、馬鹿にするのは許しません!」」
はあはあと荒く息を吐いて、セイディは泣いていた。涙と共に心の澱を流す様に。
エリスを睨みつけ、一気に言い切ったセイディは、そのまま力なく崩れ落ちた。その身体を優しく抱き留め、エリスはセイディをソファに座らせる。
「素晴らしい御言葉ですわ、コルネオン公爵夫人。わたくし、感動いたしました」
微笑んで、エリスはセイディの前に立つと、深く腰を落とし、頭を下げる。
「そして心より謝罪いたしますわ。貴女の愛する方を貶しめたのですもの。どうかご存分に処罰なさってください」
真摯な言葉に、セイディの怒りは流れるように解れていく。
気づいたのだ。エリスの言葉は本心ではなかったのだと。夫の愛を疑うセイディを奮い立たせるために、わざとルークを貶しめるような言葉を口にしたのだと。
「エリス様。頭を上げてください。貴女に謝っていただく事は何もないわ。私が不甲斐なかったために、わざとあんなことを仰ったのでしょう」
セイディは夢から覚めた様な気持ちだった。どうして、あんなに誠実で素晴らしい夫を疑ってしまったのだろうか。セイディの思い込む夫の不実には、何一つ根拠がないのに。彼の言動全てに、セイディへの愛が溢れていたというのに。どうして愛されていないなどと、お飾りの妻だなどと、思い込んでしまったのか。
「あら。わたくしは思った事を口にしただけですわよ。セイディ様のように一途な女性を苦しめる様な愚かな人は貴女に相応しくないと、本気で思っていますわ。でも、どうやらコルネオン公爵に愛されていないというのは、セイディ様の思い違いだったようですわね?」
しれっと格上の公爵への暴言を口にしたエリスだったが、セイディは気づかなかった。それよりも、長らく彼女を苦しめていた疑念から解放され、高揚すると同時に猛烈に恥ずかしくなっていた。
「ああ、私、本当にどうして、ルーク様のお心を疑ってしまったのかしら。あんなに大事にされて、あんなに毎日、熱烈に愛を囁かれていたのにっ……。あんなに、愛されていて。ああ、私、どうして……」
セイディが頬を真っ赤に染め、これまでの行動を恥じるように呟く。エリスにとって非常に気になる恋愛ワードが満載で、ついつい根ほり葉ほりと聞きたくなったが、その好奇心をぐっと押し込めて、エリスはセイディに頷いた。
「ええ。私もどうしてセイディ様が愛されていないなどと思い込んだのか、気になりますわ。ねぇ、セイディ様。その謎を、2人で解き明かしてみませんこと?」
「謎?」
「ええ。誰もが羨むぐらい仲が良い公爵夫妻。それなのに当のご本人であるセイディ様は、公爵閣下が熱烈に愛を捧げていたのにも関わらず、愛されていないなどと思い込んでいた。いくら公爵閣下が時折、ハルの所に訪れていたとしても、公爵閣下とハルが恋仲でセイディ様が名ばかりの妻だなんて、思い込む方が不自然ですわ」
「そう……なのかしら?」
不安そうに、セイディが視線を彷徨わせる。セイディも、結婚した当初はルークとの関係に何の不安ももっていなかった。それなのに、いつの間にあんな疑心を持つようになったのか。何か、切っ掛けがあったのだろうか。
その時、チラリとセイディは違和感を覚えた。
あの人はどうして、いつもあんな事を仰っていたのかしら。
もやもやとした黒い闇が、心の内に広がっていく。初めはほんの少し引っ掛かるだけだった。でも何度も何度も同じことを言われて、いつの頃からか、あの人の言葉は、セイディの心に少しずつしみこんでいった。気づけばセイディの心はその言葉で一杯になってルークとハルの仲が、ただならぬ仲だと思い込んでしまったのだ。
「あの、エリス様。こんな事を申し上げていいのか、分からないのだけど……。あの方は、私の事をいつも心配してくださって、色々と仰ってくださったのだと思うのですけど」
そう歯切れ悪く、セイディは口を開いた。あんなにもルークやセイディを心配してくれていた人を疑うのは心苦しかったが、セイディは違和感を拭えずにいた。とんだ見当違いかもしれないが、黙って飲み込むには大きすぎる違和感だった。
罪悪感と疑惑の間で逡巡するセイディに、エリスは優し気に微笑んだ。
「まぁ、セイディ様。推理小説では、探偵がこう言いますのよ。『どんなに些細な事でも、話して欲しい。それが事件の解決に繋がるのだと』と。どんな小さなことでも、何か違和感があるのなら、仰ってくださいな」
どこか頼もしいエリスの言葉に、セイディは、思い切って口を開いたのだった。




