19
日課の様に牢を抜け出したハルは、再び魔法省の副長官室を訪れていた。
出迎えたエリフィスとマーヤの顔が盛大に引きつっていたが、ハルが今更そんな事を気にするはずも無かった。
「貴族牢とはそんなに出入りが自在なのか?」
「気の利く牢番がいてな。留守の間は色々と誤魔化してくれる」
エリフィスに厭味たらしく聞かれるのに、ハルは澄ました顔で答えた。
その言葉は本当で、ガスはハルの不在を様々な手を使って隠蔽していた。ハルの不在時の牢番を進んで務めるだけでなく、他の牢番の目に触れそうになった時には、人型に丸めた毛布にわざわざ身銭を切って入手した銀色のカツラ付けて、あたかもハルがベッドに潜りこんでいる様に見せかけるという、涙ぐましい小細工までしていた。見かねたハルが、不在時には幻影魔術でハルがベッドにいる様な幻影を作ったら、『そういうことが出来るなら、もっと早くやりやがれ!』と本気で怒鳴っていた。苦労人である。
「それで、出来上がったのか?」
ハルの言葉に、エリフィスは頷く。
テーブルの上に置かれたのは、手の平程の大きさの、金属の箱だった。箱の中央に赤い魔石が一つ。箱の表面には魔石を飾るように精緻な魔術陣が刻まれている。
「魔力痕跡を測る魔道具だ」
エリフィスが懐からラース侯爵家の紋章が刻まれたカードを取り出す。それは、『紋章の家』という二つ名をもつラース侯爵家を象徴するカードだった。
国に大きな利益を与える時、または国を揺るがす大事にラース侯爵家が関わる場合、王家はラース侯爵家の関与を隠蔽する役割を担う。その際、協力者にはラース侯爵家の紋章が捺されたカードが渡され、ラース侯爵家の功績が表に出ないように取り計らう事が求められる。
エリフィスは『紋章の家』カードを使う事が許されている、数少ない者の内の一人なのだ。
エリフィスはカードにほんの僅かな魔力を籠めた。魔力を纏ったカードを魔道具に近づけると、赤い魔石とその周囲の魔術陣がふわりと輝く。
「これで魔力痕跡の登録が出来た。そして、この魔道具を私に近づけると……」
エリフィスがそう言って、魔道具に手を翳すと、再び魔石と魔術陣が輝く。
「感知した魔力が一致すると、反応するようになっている」
「精度はどれぐらいだ」
「魔力のある人間が軽く触れた程度でも反応するようになっている。例えば一つの物証に、複数の人間が触れていたとしても判別可能だ」
その説明に、ハルは目を見開く。恐ろしく精度の高い魔力判定機といえるだろう。
「我が君の発想の素晴らしさは、今更、言葉にするまでもないが……」
エリフィスはうっとりと魔道具を見つめる。エリフィスは数々の魔道具を作り出した功績があるが、その殆どが元はエリスが考え付いたものである。エリスが思いついた構想を、より昇華し実用化するのがエリフィスの役目だ。
「今回はマーヤも開発に協力してくれた。ここの魔術陣の構成は、マーヤが作り上げたものだ。彼女の現在の研究テーマが、丁度この魔道具に活用できるものだった。お陰で精度が大分上がったんだ」
エリフィスが示した部分には、複雑に組まれた魔術陣が彫られていた。地道にコツコツと頑張るマーヤらしい、細かな魔術陣だ。
控えていたマーヤが顔を赤らめた。エリフィスは元々、褒め言葉を惜しむタイプではないが、面と向かって褒められると恥ずかしいものだ。
「マーヤらしい魔術陣だな」
教え子の成長と、変わらない愚直なまでの実直さに、ハルの表情が緩む。
その別人のように穏やかなハルの表情に、マーヤはやはり偽物が現れたのではと、密かに警戒レベルを高めた。今まで一度だって、ハルがエリス以外の人間を褒めるのを聞いた事は無い。
「我が君にマーヤのお目通りを願おうと思っている」
エリフィスの言葉に、マーヤはピシッと背筋を伸ばした。
そんなマーヤの緊張した姿を見ながら、ハルはエリフィスの言葉を熟考する。
エリスにマーヤを引き合わせるという事は、すなわち、マーヤをラース侯爵家の協力者に加えるという事だ。エリフィスの事だから、マーヤ本人への打診やその他諸々の根回しは済んでいるのだろう。
マーヤは少々性格的に単純な所はあるが、エリフィスの助手を務めることが出来るぐらい、優秀な魔術師だ。ゆくゆくはエリスの為に役立つ人材となるだろう。
「実力は十分だ。異論はない」
驚きで目を瞬かせているエリフィスとマーヤに、ハルが不機嫌そうに唸る。
「なんだ。不服なのか?」
「お前が自分以外の者が我が君に近づくのを許可するとは。少しは成長したのか?」
揶揄うというよりは素直に疑問に思っている声音で、エリフィスが問うのに、ハルはそっぽを向く。
「使える者は使おうと思ったまでだ」
ハルは今回の事で痛感したのだ。自分の責務を疎かにしていたことを。
もっと影たちを使い常日頃から情報収集に努めていれば、今回の様な失態は防げたはずだ。自分一人だけでは、どうしても手に余る事はある。エリスの瞳に自分以外の者が写るのは身を切るほど辛い事だが、彼女の望むままの世界を作るには、ハル一人では到底力不足だ。
ならばハルは自分以外の者を上手く使う術を磨かなくてはならない。
代々のイジー家が、ラース侯爵家のために、そうしてきたように。
「……ようやく、忠実な狂犬として振舞えるようになったのか」
そう呟くエリフィスの表情には、安堵とどこか諦めが混じっているようだった。
「煩い。それじゃあこれは借りるぞ」
照れ隠しの様にぶっきらぼうに言い捨てると、ハルは魔道具を手に取り、転移魔術を展開させる。
ハルの姿が掻き消える寸前に、辛うじて聞こえるぐらいの小さな声が紡がれた。
「助かる」
執務室に残されたエリフィスとマーヤは、その言葉に耳を疑ったが、確かにハルから発せられた言葉だった。
「……本当に、反省したようだな」
元々、ハルは優秀なのだ。その優れた容姿や能力は、周囲を心酔させ、魅了する力がある。
今までハルは、エリスに近づく者を悉く排除する方向に力を発揮していたが、あの男が本気を出せば、周囲を圧倒的な力でねじ伏せて利用するなど容易いだろう。
貴族の社会という物は、ハル一人で全て把握できるほど容易なものではない。ハルが手足を増やし、力を付ければ、それだけエリスを守る手立てが増えるのだ。
エリスが側に置くと決めた唯一には、甘えなど許されない。
ハルがようやく自覚してくれたことに、エリフィスは安堵と共に、心の裡にじくじくとした痛みを感じる。
「エリフィス様は、それでよろしいのですか」
マーヤが、不意に口を開いた。
言葉の意味を測りかねたエリフィスがマーヤに視線を移すと、彼女は今にも泣きそうに目に涙を溜めていた。顔は歪んで、真赤になっている。
「マーヤ?」
「エリフィス様は、本当にそれでよろしいんですか? 自分の気持ちに蓋をしたまま、あの鬼教官に易々と譲ってしまって」
「……」
マーヤの言葉に、エリフィスは口を噤む。
確かに、想いを伝えられない事は苦しかった。何もなかったように呑み込んでしまうには、彼の人への想いは余りに大きくなり過ぎていたから。
だが、とうに諦めたことだ。エリフィスが秘めた想いを伝えたところで、叶う事が無いことは分かりきっているのだ。彼の人が誰を想っているかなんて、ずっと側で見てきたエリフィスには十分すぎるほど分かっているのだから。
しかしマーヤは、納得できないと言わんばかりの顔つきでエリフィスを見つめている。
そんなどこまでも真っ直ぐな部下に、仕方なくエリフィスは口を開く。
「我が君のお心を、曇らせたくはないんだ」
エリフィスの言葉に、マーヤは眉を下げ、視線を落とす。表情は見えなかったが、何かに耐える様にグッと拳を握っていた。
暫く黙っていたマーヤだったが、顔を伏せたまま、ぽつりぽつりと話しだした。
「……私も、私も、片思いをしています。絶対に、叶わないって分かっています。失恋確実です! 今は、告白する勇気はありませんが、いつかは、伝えようと思っています。困らせてしまうかもしれません。今までの様な関係ではいられないかもしれません。でも、きっと、その人は、私が想いを告げても、重荷だなんて思わずに、ちゃんと断って下さると思うんです」
顔を上げたマーヤの顔は、涙で濡れてぐちゃぐちゃになっていた。顔も赤いし、表情も険しい。
でもそんな顔でも綺麗だと、エリフィスは思った。エリス以外の人を綺麗だと思った事は初めてで、戸惑いを感じる。
「ずっと告白したいって思い続けて苦しいより、綺麗さっぱりフラれて苦しい方が、マシだと思います!」
そのマーヤらしい力強く前向きな言葉に、エリフィスは思わず噴き出した。
「どちらにしても、苦しいのだな」
「そりゃあそうですよ。フラれたとしても、簡単に忘れられる筈がないです。でも、想いを告げる事で、ある程度は自分の心に折り合いが付くのではないかと。希望的観測ですが」
ずびずびと豪快にハンカチで鼻を啜り、マーヤは微妙に視線を逸らしたまま早口で答える。今更ながら、上司の目の前で泣いてしまった事を恥ずかしく感じているようだ。
いつも頼もしい部下の可愛らしい様子に、エリフィスは溜息を吐いた。マーヤと話していると、心の裡の痛みが、幾分か和らいだような気がする。
「マーヤほど魅力的な女性に気づかないなんて、鈍感な男もいたものだな」
「……本当に、ねぇ。鈍感なんですよー」
はーっと遠い目で呟くマーヤに、エリフィスは不思議そうな顔をしていた。




