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 レノール伯爵家の嫡男マルクは、屋敷の中を必死に駆けていた。

 

 マルクは優秀な薬師を輩出するレノール伯爵家で生を受け、これまでの人生、順風満帆に生きてこれたと思っている。

 妹のメルのような突出した才能はないが、伯爵家を継ぐに十分な薬師の才能に恵まれたし、もうすぐ婚儀を上げる予定の婚約者との仲も順調。大きな起伏はないが安定した人生を送っていけると、なんの不安もなく生きていた。


 だがここにきて、突然の落とし穴である。一寸先は闇だ。

 マルクがほんの少し妹想いであったが故に、彼は絶望的な命の危機を招いていた。


 その日はいつもと変わらぬ午後だった。薬草園の手入れを終え、日に晒されて火照った身体を覚ますべく、冷たい飲み物でも侍女に頼もうかと思って、呼び鈴を鳴らそうとした時。

 部屋の中央に、魔力の塊が発生した。ピリピリと肌を刺す様な圧と、キンと鋭い耳鳴りを感じた。人気のない森の奥に発生すると言われる『魔力溜まり』が出来たのかと思った。慣れ親しんだ屋敷の、しかも私室に? とマルクが驚いている暇もなく、それは現れた。


「ひぃっ!」


 魔力の塊から滲み出る様に現れたのは、レノール伯爵家の主家、ラース侯爵家のハリー・ラースだった。ラース侯爵家に所縁のある家の子は、一度はラース侯爵家の領地に、教育のために放り込まれる。マルクはハリーと年齢も近かったため、同時期にラース侯爵領で教育を受けていた。侯爵家の子であるハリーは他の子どもたちとは別格の扱いで、同じ授業を受けた事はないが、同じ領内にいたため、顔を合わせる機会は多かった。友人というほどではないが、それなりによく話をしていた方だと思う。


 そんなマルクが一瞬ハリー本人だと分からないぐらい、彼は化け物じみた恐ろしい表情をしていた。青白い顔に落ちくぼんでギラギラした目。その目を縁取るような黒い隈。魔物がハリーの身体を乗っ取ったのだといわれても、納得できるぐらい禍々しい存在だった。


「……()()()()()()()


 地獄から響くような声がマルクを呼ばわった。一音一音に夥しい魔力が込められていて、抗う気力を根こそぎ奪われる。


「ぎやぁぁぁぁぁぁっ」


 マルクは恐ろしさの余り、鶏が絞められる様な悲鳴を上げた。


「お前が隠した事は知っている。メルはどこだ!」


 くわっと目を見開くハリー。そこが限界だった。本能的な恐怖が理性を打ち勝ち、マルクは必死に逃げ出した。もう相手が主家の子息だとか、こんな対応がバレたら父であるレノール伯爵に殺されるとか、そんな事は意識の片隅にもなかった。ただひたすら、逃げなくてはと思い詰めた。


 奇声を上げながら屋敷を走るマルクを、使用人たちが驚いた目で見ていた。だがそんな視線に構うことも出来ずマルクは走った。走って、走って、薬草畑の片隅にある、畑道具を仕舞ってある物置小屋に入って、中から鍵を掛けた。

 荒い呼吸と滴り落ちる汗。狭い物置小屋の中は埃っぽく、息を吸い込むたびに鼻がむずむずして喉がいがらっぽくなったが、ここから出ようとは思わなかった。物置小屋の片隅でカタカタ震える事しか出来なかった。


「ああ、偉大なる女神様。貴女様の敬虔なる信徒をお救い下さい。貴女様の御威光で、あの邪悪を打ち砕いて下さい」


 マルクは必死に女神に祈りを捧げたが、普段は気の向いた時にしか神殿に行かないような不真面目な信徒に、女神の慈悲は降り注がなかった。


「マルク・レノール……」


「……ひぃぃぃぃ」


 マルクの恐れる邪悪は、音もなくマルクの背後に現れた。物置小屋のドアを叩き壊すといった、分かりやすい恐怖を与える慈悲はないようだ。ただ静かにそこに現れ、マルクに絶望を与える。恐怖で震えながら涙を流すマルクの悲鳴は、もはや空気の抜ける様な音にしかならず、物置小屋の中に溶けていく。


 ハリーの骨ばった手が、マルクを捕らえんと伸ばされる。その手には禍々しい魔術陣が顕れている。

 命の終焉を悟り、マルクは静かに目を閉じた。


「お兄様。他所のお宅に、先ぶれもなく突然転移してはいけませんわ」


 マルクの命を救ったのは、呆れを含んだ声だった。


「エ、エリス嬢……」


 マルクを背に庇ったのは、エリスだ。

 フワフワとした白いドレスを纏いハリー(魔王)と対峙している姿は、まるで女神の遣いのようだった。年下の、しかも令嬢に庇われるなど男として情けないが、ハリー(魔王)に対抗できる勢力など限られている。今は藁にでも縋りたい気持ちだった。


「穏便にメル様の居場所を聞き出す筈でしょう? 殺してしまっては意味がありませんわ」


 前言撤回だ。味方だと思ったらこちらもなかなか鬼畜だ。

 

「殺すつもりはない。自白させるだけだ」


「頭の中に直接、自白の魔術陣を埋め込むと廃人になってしまいますわ。メル様が戻られた時に、マルク様が廃人になっていたらショックを受けられますわよ?」


 目の前で繰り広げられる恐ろしい話に、マルクの繊細な神経は耐えられそうになかった。だが、どうやら2人の目当ては妹のメルの様だ。それならば、簡単に引き下がるわけにはいかない。


「い、い、いくら、ハリー様といえど、い、妹を、泣かせる方には、お教えできません」


 みっともなく声が震えたが、マルクは精一杯ハリーを睨みつけた。

 だがマルクのなけなしの反抗心も、ハリーと視線が絡むとしおしおと萎れる。それでも必死に、マルクは虚勢を張っていたのだが。


「……メルが、泣いていたのか?」


 返って来たのは、思いがけない弱々しい声で。気のせいかもしれないが、その表情は狼狽えているように見えた。あの、ハリー・ラースが。


「泣いていました。このまま消えてしまいたいと……」


 泣く妹を突き放すことが出来ず、マルクはメルを匿った。人見知りで臆病で、他人の顔色を窺ってばかりの内気な妹だが、あんな風に泣くのは初めて見た。


「……」


 ハリーの顔から表情が消える。光を失った瞳と青白い皮膚が、良く出来た人形のようだ。これほど生気の感じられない人間もいるのかと、マルクは妙に感心してしまった。


「お兄様! 何を呆けていらっしゃるのですか? 魂に追跡魔法を刻み込むとか、術者の魂と結びつける魔術陣を作っていた時の気概はどこにいったのです! このままメル様に誤解されたまま別れてもよろしいのですか?」


「……誤解?」


 なんだか色々と物騒なワードは聞かないようにして、マルクは首を傾げる。詳しい事情は聞けなかったが、メルは自分が身を引けばハリーが幸せになると言っていたので、てっきりハリーがメル以外の女性を選んだのだと思って、マルクは内心腹立たしい気持ちだったのだが。


「メルはどこにいるんだ? 話をしたいんだ」


 まるで生気を感じられない虚ろな目で呟くハリーを見ていると、心変わりをしてメルを追い払ったようにはとても見えなかった。そこでようやく、マルクは劣等感の塊のような妹が何か誤解をしているのかもと思い至った。メルは優れた魔法薬師だというのに、自分の価値を全く分かっていない。幼少期のトラウマや、父親の前時代的な価値観を刷り込まれたせいなのだが、もう少し自信を持ってほしいものだ。


 元々、このままメルとハリーが何も話し合わずに終われるはずがないと分かっていた。貴族の婚約は家同士の契約だ。解消するにも色々と手続きが必要だ。分かってはいたが、マルクは静かにぽろぽろと涙をこぼす妹を突き放すことが出来なかった。いずれメルが落ち着いたら、ラース侯爵家にメルの居場所を知らせるつもりはあったのだ。


「お兄様は朴念仁で他人の心が分らない方ですけど、メル様を想う気持ちは変わっていませんわ」


 エリスのフォローになっているのか良く分からない後押しもあり、マルクは渋々口を開いた。


「……妹を、これ以上傷つけないと約束してくださいますか?」


 こくりと子どもの様に頷くハリーに、マルクは覚悟を決めて、メルの居場所を告げたのだった。



◇◇◇


 母の親戚の別荘であるこの場所にきて、もうどれぐらい経ったのだろう。

 メルは使用人も少ないこの屋敷で、静かな生活を送っていた。食事の量も減り、夜もあまり眠れず、大好きな魔法薬学の本を読んでも集中できない。日に日に元気をなくすメルに、侍女たちは心配してラース侯爵家に戻ろうとしきりに言ってくるが、メルは頑として首を縦に振らなかった。


 ハリーが肺の病を患い、ラース侯爵家の嫡男から外れ領地に戻ることになった時、メルは魔法薬師として、ハリーの病を治したいと思っていた。そうすれば、ハリーがラース侯爵家を継ぐ事ができるかもしれない。

 メルはハリーに侯爵になって欲しかったわけではない。どちらかといえば、家を継がずとも、2人で穏やかに暮らせればその方が良かった。自分が侯爵夫人として全く役に立たない事はメルにも分かっていたが、優しいハリーに全てを押し付けて、1人だけぬくぬくと守られているのは苦しかった。だからいつかはハリーと婚約を解消するしかないと思っていた。


 でも、ハリーが病気になって後継から外れた事で、今後も一緒に居られる可能性が出てきた。    

 ハリーは肺の病のせいでどんどん病み衰え、メルが処方した魔法薬もなかなか効かず、主治医からは空気の良い場所で過ごした方がいいと言われ王都を離れた。領地での生活は穏やかで、ハリーの咳も治まり、伯父と一緒に楽しそうに領地の視察に出掛けられるまでに回復できた。王都に戻ればまた病がぶり返す可能性が高いと主治医に言われているので、ハリーは戻るつもりはないようで、領地での生活に腰を落ち着けている。メルも領地内に新たな薬草畑を作って、魔法薬師としての仕事を再開させた。領民たちはメルの作る魔法薬が良く効くと、とても喜んでくれていた。


 このまま、領地で穏やかに過ごして行ければと安堵していたメルだったが、心の隅で引っかかっている事があった。メルの魔法薬が、ハリーの病に効かなかった事だ。

 もちろん、魔法薬は万能ではない。患者の症状、体質により、思ったような効果を発揮しない事はよくある事だ。

 でも、メルはハリーとずっと一緒に過ごしてきた。軽い風邪や体調不良の時、ハリーはよくメルの魔法薬を服用していた。新しい魔法薬の治験に付き合ってくれたこともある。だからメルはハリーの体質は誰よりもよく知っていた。それなのに、肺の病にだけは、メルの処方した魔法薬は全く効かなかったのだ。

 ちょっとした違和感を、メルはそのままにしてはおけなかった。今回は回復したが、別の病にハリーが罹ってしまったら次は命を脅かすかもしれない。魔法薬師として、このまま何の対処もせずにいる事は出来ない。

 

 メルは日々の仕事を熟しながら、魔法薬が利かなかった原因を調べた。そしてすぐに、おかしなことに気づいた。

 ハリーに処方した魔法薬の素材の一つに、ある特殊な薬草がある。体質によって飲むと軽い発疹がでるのだが、咳を止めるのには有効な薬草だ。ハリーもこの薬草を処方すると発疹が出た。だが今回の服用時には発疹が現れなかったのだ。


 ハリーの病状が重い時は気づかなかったが、確かに発疹は出ていなかった。つまり、ハリーは処方されていた魔法薬を飲んでいなかったということだ。

 そう考えると、どんどんと違和感が増してきた。いつもの風邪や体調不良の時との、顔色や呼吸の仕方の違い。今回はそれだけ重い病気だったのかと思ったが、それだけではない違いを感じた。

 

 病を装ったのだと、メルは気づいた。

 ハリーは、魔術の天才だ。これまでに何度も、ハリーが魔術を使うところを見てきた。幼い頃はメルを喜ばせようと、空から色とりどりの花を降らせたり、水辺に虹の橋を掛けたりといった幻想的な魔術を見せてくれたこともあった。その中には、別人のように姿を変える魔術もあった。

 ハリーは、病を装うために魔術で病み衰えた姿になっていたのではないだろうか。魔法薬を服用しなかったのは、健康なのに服用すると、かえって身体に悪影響を与える可能性があるからだ。体調に改善があれば、メルはいつも調合を変えていた。過ぎる薬効は身体に害になるから。


 どうしてハリーがそんな事をしたかなんて、考えなくてもわかる事だ。

 ハリーは優しい人だから、メルが侯爵夫人としての役割を熟せないと気に病んでいる事を知っていて、家を継がないと決めたのだ。こんな年齢で婚約を解消された令嬢など、価値はない。兄はメルが辛いのなら、レノール家に戻ってきてもいいと言ってくれているが、あの父がそんな事を許すはずも無い。どれほど条件が悪くても、次のメルの嫁ぎ先を探してくるだろう。

 それを憐れんで、ハリーは侯爵家の跡取りという地位を手放したのだ。メルの負担にならないように。とても優しい人だから。


 メルはハリーにとんでもない事をさせてしまったと、身体が震えるのを止められなかった。ハリーの人生を変えてしまったのだ。どれほど謝罪しても足りる気がしない。

 それと同時に、このまま気付かないふりをしてしまえばいいじゃないかと、メルの中で囁く声もあった。気づかないふりをしていれば、ずっとハリーの側に居られる。侯爵夫人として、気苦労の多い生活をすることもなく、好きな魔法薬の仕事をして、好きな人と一緒に居られる。

 

 そこまで考えて、メルは自分の身勝手さに吐き気がしそうだった。メルが身を引けば、ハリーは輝かしい侯爵としての未来を取り戻すことが出来るのに。メルの様な酷い女にすら、あれだけ慈悲を駆けてくれる人だ。領民たちにとっても、良い領主になれるに違いないのに。


「メル。体調が悪いのか?」


 悶々と考え込むメルに気づいて、ハリーはそう優しく声を掛けてくれた。心配そうにメルを労わるハリーの優しさに、メルは何も言えなかった。


「あまり、根を詰めるなよ? 仕事は程々にな」


 優しく頭を撫でられて、メルは涙ぐんだ。

 駄目だ。このまま、ここに居てはいけない。こんなに素敵な人を、メルが独り占めしてはいけないのだ。


「大丈夫です、ハリー様」


 微笑んで、メルは言ったのだ。


「すぐに問題は解決できますから」


 そうして、メルはラース侯爵領から逃げ出した。

 兄を頼ると、母方のこの別荘を手配してくれて、それからずっとここにいる。


「ハリー様。私の事は忘れて、幸せになってください」


 ハリーほど優しい人なら、メルの代わりなんてきっとすぐに見つかる。

 ハリーが幸せなら、メルも幸せだ。

 これまで一生分の優しさを、ハリーからは貰ったから。

 だから今度は、メルがハリーに返す番なのだ。

 


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