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ロメオ王国の牢番の仕事は、それほどキツイものではない。
貴族牢の牢番であるガスは、常々そう感じていた。むしろ、平民が就ける王宮内の仕事の中では、割がいい仕事だとすら思っている。
友人や家族などは、罪人に関わる仕事だから危険なのではと心配するが、全くと言っていい程そんな事はない。そりゃあ多少は罪人から怒鳴られたり物を投げられたりすることはあるが、そんなのは村の悪ガキだって悪戯でやっていることだし、ガラの悪い罪人たちから脅されたりもするが、ガスはそれを怖いと思った事は無い。
何故なら、王宮内の牢に繋がれるような罪人は、街中の牢に繋がれるそれと違い、その行先は大体決まっている。すなわち、島送りか極刑。そんな罪人たちにいくら凶悪なツラで凄まれようとも、ここから出た後は生きて会う事など二度とない相手だ。脅されたからといってどうして怖がる必要があるだろうか。
それに、ロメオ王国の王宮は、強固な魔術陣で守られている。例えば手下が何百人もいる大泥棒の親分を助けるために、手下たちが王宮に総攻撃を仕掛けても、万が一にもその魔術陣が崩される事などありえない。つまり、脱走など不可能なのだ。罪人を取り逃がす心配をする必要がないし、牢番が罪人を逃がした咎を受ける事もない。安心、安全な上に責任を取る必要もないので気が楽だ。
そんな安定的な職場で、黙々と真面目に仕事を熟すガスは、上司にその勤勉さが認められ、一般牢の牢番よりも遥かに給料が良い貴族牢の牢番に推薦された。貴族牢に入れられる者は、罪が確定するまでは身分的には貴族。それなりの世話をしているという体裁を整える必要がある。本来なら貴族の世話に慣れている者がいいのだが、そういった侍女や侍従のようなキャリアを積んだ使用人は罪人の世話など嫌がる。そこへ、平民ではあるが文句も言わずに貴族たちの横暴にも振り回されないガスに、お鉢が回ってきたのだ。
ガスにしてみれば、気位の高い貴族たちの相手は面倒ではあるが、どうせ裁判が終われば二度と会うこともない相手だ。だからどれほど貴族たちに居丈高に騒がれようと、財力に物をいわせた甘言を囁かれようと、ガスは気にする事無く、淡々と日々の仕事を熟していた。そうやって、老いて職を辞するまで、この仕事を続けると思っていた。
その男に会うまでは。
その男は、恐れ多くも王族の命を狙った疑いで、牢に入れられていた。
銀色の髪と、銀色の瞳。若い娘が見たら、歓喜の悲鳴を上げそうな、怜悧な美貌の男。
男は、重罪を犯し、危険度が高い罪人がいれられる特別牢に収監された。この特別牢は、魔力を完全に無効化する魔術陣が部屋中に仕掛けられており、魔力量の多い魔術師にとっては、牢の中にいるだけで耐えがたい苦痛を与えるらしい。その上、男はこれまた魔力を封じる魔力縄で縛られており、一体どれほどの危険人物なのかと、罪人に慣れているガスですら緊張したぐらいだ。
だが、仰々しい罪状と厳重な警備の割に、男はとても物静かだった。
ガスの事など全く目に入っていないようで、人形の様に動きがない。魔力を封じられて動けないのかもしれないが、文句一つ口にする事もなく、とにかく手がかからなかった。
だからガスはちょっとだけ油断していたのだ。魔力を無効化する魔術陣が張り巡らされた牢の中で、魔力縄で縛られているのだ。凶悪犯だろうと、何ができるのかと。
しかし、ある日の午後、ガスが特別牢の様子を確認した時。いつもなら静かにベッドの上に転がっているはずの男の姿が、牢の中から忽然と消えていた。
「はっ?」
一瞬、取調べの為に牢から連れ出されたのかと思ったが、そんなはずは無かった。特別牢の罪人を外に出す時は、十数人の騎士が警戒する中、さらに頑丈な魔力縄で罪人を戒め、厳重な警戒体制の中連れ出される。それを、牢番たるガスに知らされないはずが無い。
だが何度見ても、特別牢の中には誰もいない。テーブルの上には手をつけられていない食事と水、ベッドの上の毛布には皺が寄っていて、確かに誰かがいた痕跡が残っている。
「だ、脱走!」
すぐさまガスは罪人の脱走を知らせる為に、騎士たちの詰所に走った。
頭の中ではこの失態に対する責任をどうとるべきかとか、一体どれほどの処罰を喰らうのかとか、不安がグルグルと渦巻いていたが、何よりも逃げた罪人を一早く捕らえなくてはいけないという思いでいっぱいだった。
ガスの知らせを聞いた騎士たちは、直ちに非常態勢をとった。まずは王族の安全確保と、王宮中の捜索。そして、脱出ルートを確定するために、ガスと共に数名の騎士たちが特別牢に戻ったのだが。
「……は?」
そこには、相変わらず魔力縄にぐるぐる巻きにされた男が、ベッドに横たわっていた。銀髪に銀目の、2人といない美貌の男。絶対に見間違うはずも無い罪人。
「どういうことだ? ちゃんといるじゃないか」
騎士たちの非難するような目が、ガスに注がれる。
騎士たちは念のため、特別牢内に入り施錠や魔力縄の状態を確認したが、特に異常はない。
「全く! 人騒がせな!」
騎士たちが憤慨しながら引き上げていくのを、ガスは呆然と見送るしかなかった。顔なじみの騎士が去り際に、『ガス、疲れているなら、ちゃんと休めよ』と慰めてくれたが、ガスはそれどころじゃなかった。
ガスは上司に呼び出され、今回は始末書を書くだけの処分で済んだ。上司からは、ついつい真面目で働き者のガスに仕事の負担を押し付け過ぎたかと、逆に謝られたぐらいで、かえって気を遣わせてしまったのだが。
だがガスは、罪人が消えたのは決して気のせいではないと断言出来た。騎士たちには布団にでも潜っているのに気付かなかったのだろうと言われたが、ガスはあの時、罪人が消えた情景を細々と思い出せるぐらい、細部まで鮮明に覚えていた。見間違いなんかじゃない。絶対に、罪人は牢の中にいなかった。
ガスは再び特別牢の勤務に戻ったが、これまで以上に注意深く罪人を見張ることにした。
罪人は、騎士団の取り調べに対しても未だに黙秘を貫いており、何一つ喋ることはないらしい。
ガス自身も、罪人と日々接しているが、この男の声を聞いたことはないなと、今更ながらに思い当たった。
仕事として牢番の役目を熟しながら、ガスはこの罪人に、俄然、興味が湧いていた。
◇◇◇
そうして、しばらくの間、罪人は大人しくしていた。日中は騎士団の取り調べに応じ(といっても、一言もしゃべらないようだが)、夕刻には牢に戻され、特別牢で過ごす。
さすがに、食事には偶に手を付けるようになった。しかし相変わらず、牢の中でも一言もしゃべる事は無い。
ガスはそんな代わり映えのない日々の中、ずっと男を見張っていた。周囲にはわざとあの時の脱走は見間違いだったと溢しながら、男の警戒が解かれるのを待っていた。
ガスの予想では、男はきっと、また隙を見て脱走する。
しかし、逃げるつもりはないのだろう。男の目的は、この牢から逃げ出す事ではないのではないかと、ガスは思った。逃げ出すことが目的ならば、帰って来る必要はなかった筈だ。
もしかして、まだ王族の暗殺を諦めていないのかと思ったのだが、こんな強固な魔術陣を施された特別牢から易々と逃げ出し、また戻って来るような力量の持ち主が、王族の暗殺にそれほど手こずるものだろうか。王族の暗殺より、ここから抜け出す方が、はるかに難しいと思う。
男の真意が知りたくて、ガスは沸き起こる好奇心を押さえながら、何気ない態度で男を見張っていた。
そうしてある日。とうとう男が、再び牢を抜け出したのだった。
男の姿が消えて、ガスは心の中で喝采を上げた。
特別牢の中のベッドの上には魔力縄が転がっている。この魔力縄も簡単に外せるのだなと、ガスは感嘆の溜息を吐く。以前、魔術師団所属の優秀な魔術師が、魔力縄を身体に巻き付ける実験をしていたが、魔術師は魔力縄で縛られた途端、魔力を抑え込まれ、一瞬で昏倒していた。この特別牢で使用されている魔力縄は、それぐらい強力なものだと聞いている。
また、ごく限られた魔術師しか使う事が出来ない転移魔術も、この王宮内では使用不可だと言われている。魔術を無効化する魔術陣が王宮中に組まれていて、転移魔術で賊が王宮に入り込むのを阻止しているのだとか。
特別牢のカギを壊さずに抜け出しているのだから、転移魔術を使っているのだと思ったのだが。いったいどうやって王宮の魔術陣を掻い潜っているのだろうか。
慌てず騒がす、牢番の定位置である椅子に座り、ガスは男の帰りを待った。
待つこと数刻。何の前触れもなく、男の姿が目の前に現れた。
「お、おおう」
予想していた事だが、驚いて声を上げるガスに、男が初めてこちらに目を向けた。
銀色の鋭い視線に射抜かれて、ガスはごくりと喉を鳴らした。
帰ってきたら、色々と問い詰めてやろうと思っていた。どこへ行っていたのか、どうやって抜け出したのか、なぜ帰って来たのか、一体何が目的なのか。それに、恨みだってある。この男のせいで、始末書を書く羽目になったのだ。すぐに騎士たちに報告して、とっちめてやろうと。
だが、男の銀色の目を見返している内に、ガスの中でその言葉たちは急速にしぼんでいった。
しぼんでいった言葉たちの代わりを探しても、ガスの中にはもう何も残っていなくて。
「お、お帰り」
結局、ガスの口から洩れたのは、そんな間抜けな一言だった。




