おじいさんはテロリスト
麻衣はホテル霞沢から下る坂道を歩いていた。右側は雑木林で左側はゴルフ場である。下りきると国道に沿う小さな集落があった。国道に出た麻衣は五百メートルほど先の霞沢駅に向かう。来る時は気にならなかったが、帰りの道程はやたら遠く感じる。
「来なきゃあよかった」
麻衣は思わず口にだしていた。
――この場合は来るべきではなかったというべきだ。
言葉だから通じればいいのに藤岡は細かく指摘してくる。
――お前には知性も教養もない。
さらにはお決まりの台詞でなじってくるが麻衣は気にしてはいない。自分では頭がいいと思っているからだ。容貌に恵まれたので高学歴は不要と悟り、成績を向上させる努力を省いてきただけだ。事実、動物介護学校には推薦で入れたし、修了後も札幌のペットクリニックにすんなりと採用された。東京に出て勤めた渋谷のキャバクラでナンバーワンを維持できたのは、二重瞼にマッチした小顔と、身長が百七十二センチで細身ながらも八十八センチのバストといった容姿だけではなく、明晰な頭脳が寄与したと確信している。
――そのぽってりとした唇がいい。喘ぐ時の動きをみたい。
去年の春だった。ホテル霞沢のオーナーで、保有資産は五十億との噂がある埼玉県の富豪。八十歳になるまで五百人の女性と関係したと豪語する藤岡豊から求婚された。
――月に百万円の手当を払う。月に一度、所沢の屋敷で過ごすだけだ。籍に入っても川崎の姓を名乗っていい。
三年前に若手演歌歌手の三田祐介の追っかけになった。結婚は無理にしても愛人になることをめざし、しつこくコンサートやイベントに参加していた。握手券やチケット代、全国ツアーへの参加費用をペットクリニックの給料からの捻出は苦しかった。賃金水準が高い東京に出て、仕事を探したものの、昼間の勤めで家賃を払えば、札幌で暮らすのと変わらないとわかった。
――手っ取り早く高給を稼ぐとなればキャバクラです。
道玄坂でつきまとってきたスカウトの進言に従い、勤めてから二年。既に二十九歳を超えていた。如何に容貌を維持できても、中年ともなればキャバクラ勤めは困難。藤岡の姓を名乗らなければ、祐介のファンクラブには未婚で通せる。月に一日、顔も体型もダルマを彷彿させる老人の介護をして、金を貯めようと同意した。
キャバクラを辞め、週一は祐介のコンサートに参加し、祐介のプロダクションが入る恵比寿のマンションに入居。祐介と同じエレベーターを使える暮らしに満足していた。
ところが一昨日藤岡の会社から封筒が届いた。
てっきり毎年八月二日にホテル霞沢で開かれる藤岡の誕生パーティーの案内と思った。面倒だが法律上は妻だ。元クラブホステスでタレントのレビ夫人の挨拶とか、面白くない福岡兄妹の漫才を聴くのは辛いが、去年は旅費の他に百万円の特別手当が出た。出席して小遣いを稼ごうと封を開くと、入っていたのは離婚届の用紙。さらに署名して返送しろとのメモ。
麻衣は一瞬目眩を覚えた。
月額家賃四十万円を工面できなくなる。宅配のフレンチも注文できず、週二回の高級エステにも通えない。藤岡から支給された手当は、運転免許の取得やブランド品の購入で使い果たし、貯金は二百万円もなかった。
電話ではらちがあかない。藤岡を欲情させて、思い留まらせるしかないと思った麻衣は、肌に貼りつく黒皮の短パンと白のタンクトップ。さらには肩透けトップスを纏うといった扇情的な装いで、東京駅発の新幹線から信越線に乗り継ぎ、ホテル霞沢のパーティー会場に到着。ピンク地のジャケットを着て、レビと談笑していた藤岡に詰め寄った。
――ここはお前などの来るところではない。帰れ!
顔を見るなり藤岡は怒鳴ってきた。
――わたしはあんたの妻だよ。誕生パーティーに来くるのは当然でしょう……それより何よ! いきなり離婚とは……
麻衣も言い返した。声は響いたはずだ。
――あら、奥様。お客様が大勢いらしていますのよ。大声でのお話ははしたないですわ。
茶髪をタマネギ状にまとめ、深紅のチャイナドレスを着たレビが口を挟んできた。五十人ほどの招待客が一斉に視線を放ってくる。男は一様にダークスーツに白シャツ。オンナは背脂露出のパーティドレス。著名人らしいが麻衣はとってはただの高齢者。
――うるさい! いまは夫婦の話をしているのよ。整形ババアは引っ込んでいなさい!
レビの目がアニメの鬼のようにつり上がる。会場がざわめく。藤岡も目を剥いた。
――お前のそうゆうところがわたしの妻に相応しくない。下品な上に口が軽すぎる。週刊誌の記者にわたしが早漏だとバラしただろう。
麻衣は一瞬怯んだ。
芸能週刊誌の記者から、月イチの濃厚なエッチですかとからかわれたので、ラクなものよ。すぐに終わるから、と、口を滑らせたことを思いだしたからだ。
――事実だから仕方がないでしょう……そこのレビばあさんもよーくご存じのことよ。
口論で不利になると、麻衣は余計なことをいって反論する癖がある。今年で六十歳になるレビも、藤岡の愛人であることは公然の事実。でも、人前で言ってはいけない。
いきなりレビの平手打ち。麻衣はキャバクラで鍛えた庇い手で受けとめる。福岡大吉がスマホを向けているとわかった麻衣はあえて悲鳴を上げた。会場が静まりかえったところで、麻衣はセミロングの髪をかき上げ、藤岡に向き直った。
――いいわ。離婚してやる。でも、わたしに落ち度はないから慰謝料は一億円よ。それとレビばあさん。あんたも暴行で訴えてやるからね。
言い終えた麻衣は背筋をのばして出口に向っていく。そこまではよかったのだが、背後から放たれた藤岡の悪態は、麻衣のプライドを一撃で粉砕した。
――お前などには一銭もやらん。これから若い女と再婚する。もうお前のケツのシワなぞみたくはないわ。
ショーツが食い込んだのよと言い返せばよかった。でも、多少は自覚がある弱点を突かれ、思考と歩行が一時停止した。麻衣はそのままホテルを出るしかなかった。
麻衣は国道に出た。左側は寺の塀で二車線道の向かいにはシャッターが閉まったブロック造りの倉庫が並んでいる。集落といっても店舗や人家はなく、誰も歩いていない。北海道の田舎町の生まれだが、過疎地はわたしの美貌にそぐわない。麻衣は速やかに立ち去らねばと歩みを早める。
前方左側にガソリンスタンドがみえた。野球帽を被り、紺色の作業衣を着たおじいさんが、荷台がブルーシートで覆われた軽トラックに給油をしていた。
給油ノズルを手にしたおじいさんと目が合った。麻衣は会釈をしてみせる。日焼けはしているが、細面で顎が窄まる知的な顔。今年六十五歳になった父親よりはかなり上で、藤岡よりは若い。このおじいさんもわたしの美脚にそそられたはずと思い浮かべながら麻衣は通り過ぎた。
突然、後方でクラクションが鳴った。
麻衣が振り向くと黄色いポルシェが停車している。運転席では金髪をリーゼントにした丸顔の男が並びの悪い前歯を見せている。遠目にも毛穴が目立つポンカン肌。しまりのない口元。田舎でポルシェを乗り回すのは、大抵が土地成金のドラ息子。キャバクラで安物シャンパンにドンペリの料金を払うカモの類いと麻衣は判定した。
ポルシェのウィンドウが下がり、ポンカン男が顔を突き出してきた。
「そこのオネーさん。乗っていかない?」
麻衣は思わずため息をついていた。藤岡と籍を入れた時、週刊誌に顔写真が載った。後期高齢者と結婚した詐欺師。騙した男は百人を下らない。何度もの整形で顔を変えた。大物ヤクザがバックにいる。嘘を書き立てられ、稀代の悪女とレッテルを貼られた。北海道の十勝で酪農を営む父親からも、二度と敷居を跨ぐなと怒られた。救いは、まだテレビのニュース番組では報道されず、祐介のファンクラブの会員であることが露見していないことだが、田舎のボンクラからも風俗嬢扱いをされるまでに堕ちたと実感した。
ポルシェが横についてきた。車の通行が少ないせいかのろのろ運転ができるようだ。
ポンカン男が再び声をかけてきた。
「この先に割ときれいなラブホがあるよ。オネーさんならショートで二万円払ってもいい」
麻衣の怒りが復活した。振り向きざま中指を空に向け、ポンカン男に怒鳴った。
「ふざけないでよ! 自分で擦ってチンカスとりなさい!」
ポンカン男が口を開けたまま固まった。
――バカを怒らせるな。何をするかわからなくなる。
瞬時に麻衣は後悔した。また口を滑らしてしまった。キャバクラでも店長に注意されていたが治らない。だが、今更謝る気にはならない。そのまま歩き出した。
「調子に乗りやがって、たかがキャバクラのホステスが……」
悪態をつきながらポルシェから降りようとしたポンカン男をみて、麻衣は凍りつきそうになる。このポンカン男はわたしを殴る気だ。美顔が傷付き、痛い思いをする。パンプスでは走れないができるだけ離れねばならない。人と出会えばこの危機は乗り越えられると麻衣は期待した。
麻衣が早足に変えた時、ポルシェではないと軽めの音のクラクションが鳴った。麻衣が振り向くとガソリンスタンドから出た軽トラックがポルシェを追い越そうとしていた。麻衣は咄嗟に車道に出て、手を揚げる。軽トラックが麻衣の三メートルほど前で急停車した。軽トラックに駆け寄った麻衣はドアあけて助手席に乗り込んだ。
「何をする。危ないじゃないか!」
運転席にいたおじいさんが怒鳴ってきた。
「助けてください。あの暴走族につきまとわれているの」
おじいさんはドアミラーをみて首を傾げた。
「暴走族? 確かあの男は……あ、シートベルトを」
服が汚れると思ったが、気にしている場合ではない。麻衣が泥のついたシートベルトをバックルに収めると、おじいさんは軽トラックを発進させた。
「あ……追ってくる」
三百メートルほど走ったところで、ドアミラーを見たおじいさんが呟いた。
「駅に行けばなんとかなりますよね」
電柱に貼られた霞沢駅方向との看板がみえたので訊いてみたが、おじいさんは眉をひそめて首を振った。
「あそこは無人駅。列車が来るのは二時間後だ。十キロ先にある町の駅まで行く」
「はい。お願いします」
おじいさんは軽トラックのスピードを上げた。でも、メーターは六十キロ。集落を過ぎると道に沿っての人家はない。左は雑木林で木立の間からゴルフ場がみえる。右側は緩やかな上りの棚田で、前方に生け垣で囲まれた瓦屋根の家がみえた。でも、距離はかなりあると思えた。人がいる気配もない。
「きゃあー」
ポルシェが突然視界に出現したので、麻衣は思わず声をあげていた。
軽トラックが急ブレーキをかけて停まる。シートベルトで胸が圧迫されて、美乳がつぶれる。でも、そんな心配をしている場合ではないと麻衣は思い直す。ポルシェが十メートルほど前でハザードランプを点滅させていた。
右側を大型トラックがけたたましいクラクションを鳴らして追い越していく。おじいさんが軽トラックを対向車線に出そうとするが、ポルシェも進みながら右に幅寄せをしてくる。おじいさんが軽トラックを左車線に戻すとポルシェも左に寄ってくる。軽トラックはポルシェの前には出られない。これは進路妨害という交通違反。
「しつこい奴だ。あくまでもつきまとうつもりらしい」
「警察に連絡します」
麻衣はハンドバックからスマホを取り出す。
「大丈夫だ……何とかする」
おじいさんの声が落ち着いているので、麻衣はスマホをしまった。
おじいさんが突然軽トラックをUターンさせた。麻衣の肩がドアにぶつかり、再びシートベルトが締まる。何かが倒れた音がした。麻衣はリア窓越しに荷台を見る。ブルーシートが剥がれ、先端が丸く、直径が三十センチで長さ二メートルぐらいの円筒の底に三角形の板がついた容器と、トイレ用洗剤のボトルが転がっているのがみえた。
軽トラックは国道を霞沢駅方向に戻っていく。方向転換に手間取ったのかポルシェとはかなり離れた。もう追ってはこないはずと麻衣は安堵した。
「しまった。壊れたかな?」
おじいさんが呟いた。
「なんですか? あのロケットみたいなものは……」
麻衣が訊くと、おじいさんは少し首を傾げてから答えた。
「……ロケットに殺傷力はないから……強いて言えばミサイルかな……」
「すごーい。おじいさんはテロリストなの?」
ネットゲームでテロリストが使う武器はミサイル。麻衣はおじいさんの面白くない冗談にあわせてみた。
「……ちょっと違う。だが、邪悪なものを排除する神の使い手である」
このおじいさんもゲーム好きらしい。高齢者には珍しい話が合いそうなタイプと麻衣は判定した。
軽トラックが左折して幅の狭い舗装道路に入った。両側は棚田だが、雑草しか生えていない。
「この道は何処にでるのですか?」
「行き止まりだ。わしの家に行く農道だよ」
正面に瓦屋根と障子戸がある縁側が見えた。軽トラックが生け垣の間から庭に入る。左側に車庫があり、運転席が剥き出しでバケットがついた大型トラクターがある。右側には漆喰壁の蔵が建っていた。
「やはり、来たか……」
おじいさんは古民家の前に軽トラックを停め、運転席から降り、小走りに車庫に向かっていく。
ポルシェが小道を登ってきたとわかった麻衣は再び不安になる。
ポンカン男はポルシェを庭の入り口に停め、運転席から辺りをみまわしている。
おじいさんが運転するトラクターが車庫から出てポルシェに向かっていく。気づいたポンカン男がポルシェをバックさせようとしたが、遅かった。トラクターのバケットがポルシェの底に入り、持ち上げたので車輪が空回りする。トラクターがさらに前進するとポルシェは横倒しになった。
「テメエ、何をしやがる。この車がいくらするのか知っているのか?」
運転席のドアを両手で押し上げているポンカン男の声が聞こえてきた。
「知らんが、このトラクターよりは安いだろうな」
それは麻衣も知っている。父親も農協に一千万円ほど借金をしたとこぼしていた。
トラクターから降りたおじいさんは、座席の後ろにあった鍬を取り、ポルシェのドアをめがけて振り降ろした。鈍い音がしてドアが閉まった。
「ぎゃー」
ドアに手を挟んだのかポンカン男は悲鳴をあげる。
「出ろ!」
ポルシェのドアの窓からポンカン男が這い出てきた。ブランドらしい茶色のTシャツを着て白のチノパンを穿いている。背が低くて小太り。思っていたよりはひ弱そうだ。ポルシェから降りたポンカン男は、左の手首を右手で押さえている。血は出ていないが手の甲が青い。
「スマホを出せ!」
近づいたおじいさんがポンカン男に命じた。
「あああ、手が痛いよ……きっと骨が折れている」
ポンカン男が顔をしかめながら右手でチノパンの尻ポケットからスマホを出した。
おじいさんはポンカン男からスマホをひったくり、作業着のポケットに入れた。
「たいしたことはない。半年もすりゃあ治る。右手は使えるから死ぬことはない」
半年は重症だ。ポルシェを壊し、ポンカン男に怪我をさせたおじいさんの性格は見た目よりは凶暴。ひょっとすると元反社会勢力。礼を言って早めに立ち去るべきと麻衣が結論を導き出した時、おじいさんが声をかけてきた。
「お嬢さん。その蔵の戸を開けてくれないか」
こうした場合、逆らってはいけない。麻衣は言われたとおり蔵に行き、鉄板が貼られた把手を引いて扉をあけた。把手の横には十センチぐらいの鉄の箱がついている。
「あそこに入れ。トイレは中にあるバケツを使え」
蔵を見たポンカン男はあんぐりと口を開いて、おじいさんに向き直った。
「おい。じいさん。あんた、いま自分がやっていることがわかっているのか」
「わかっているよ。お前がレビのツバメで、このお嬢さんというか、藤岡の奥さんに乱暴しろと命じられたこともだ」
「えーっ、なんでー酷いー」
麻衣は思わず声をあげていた。ツバメとはセフレの意味であることぐらいは麻衣も知っている。
ポンカン男が目を見開いている。驚愕と狼狽。初めてキャバクラの請求書をみた客の表情。
「何を証拠に……」
声も動揺している感じがする。
「わしはホテル霞沢のゴルフ場で働いている。午前中にホテルのVIP駐車場のその車の中でレビとお前がいちゃついているのをみたよ。さらに、この辺りを若い女性が歩くことはない。ナンパならあのホテルのフロント穣を口説くしかない。だが、あの娘は藤岡のお手つきで誰も手を出さない。お前がレビのツバメなら、このお嬢さんが藤岡の奥さんと知っている。でも、追いかけてきた。理由は想像がつくよ」
つまり、パーティー会場に入るのを制止したペチャパイ女が藤岡の再婚相手。ただ若いだけの格落ちオンナに負けた。麻衣はまたしても気落ちしていた。
「お前はレビから報酬をもらったから、何としても仕事を成し遂げたかったということだろう。さあ、入れ。警察に引き渡すまではそこにいてもらう」
おじいさんに鍬を突きつけられたポンカン男は後ずさりをしていく。
「わかった……勘弁してくれ。オレは嫌だといったのだ。でも、藤岡さんがあのオンナはスキモノだから誰とでもやる。お前のデカイのをみせて誘ってみろと……ハメ撮り画像を送信したら三百万円……不倫の証拠にして慰謝料なしで離婚できると……で、オレはあんたとそのオンナが一緒にいるところを撮って、不倫をでっちあげようと……」
「えーっ、なんですって! おじいさん。ちょっとその鍬を貸して……」
つまりは慰謝料を払いたくない藤岡が、レビのセフレを使ってわたしを強姦しようとした。麻衣は藤岡の代わりにポンカン男を殴る気になってきた。
おじいさんは鍬を背中に隠して首を振った。
「まあ、落ち着いて……ほれ、早く入らないと、お嬢さんに汚い頭をかち割られるぞ」
おじいさんはポンカン男を蔵の中入れると、ポケットからエアコンのリモコンのようなものを取り出した。おじいさんがリモコンのスイッチを入れると扉が閉まり、箱から鉄の棒が出て、把手に挟まった。
「電磁弁を無線リモコンで操作した……スプリンクラーを遠隔操作する機械の部品を使ってわしが作った。扉の鍵を閉め忘れた時に使えるので便利だ。リモコンは五百メートルぐらいまで離れていても作動する。わしは元農家だから何でも出来る」
「凄いですね」
おじいさんの説明を聞いたが、全く興味がない。でも、自慢をしているからお世辞をいわなくてはならない。キャバクラで習得した接客の心得。
「ありがとうございました。では、ここで失礼します」
これもキャバクラで客を送り出す作法。麻衣はしっかりと頭を下げる。
顔をあげると、おじいさんが腕を組んで空を見上げている。麻衣はおじいさんが町の駅まで送ってくれると解釈した。
「ま、ひとまずは家に上がって……中でお茶でも飲もう……今年はこの木から茶葉がいいのが採れた。無農薬栽培だ。相談したいこともあるし」
おじいさんは生け垣を指さした。茶の葉とは生け垣から採るものだと麻衣は初めて知った。
「あ、では……」
列車が来るのは一時間半後だ。古民家の中を見るのも悪くない。おじいさんは一人暮らしらしい。久しぶりにみる美貌の女性と話をしたいのだ。麻衣はボランティア精神でおじいさんの話を聴くつもりになった。
麻衣はおじいさんの後について、玄関から古民家に入った。右側が土間で大きなテーブルとシンクがあり、電気ドリルとか電化製品の部品みたいなものが並べられていた。
障子戸で仕切られた居間に上がる、畳を敷いた十畳間の中ほどに鉄瓶を吊した囲炉裏があった。板戸の小窓からシステムキッチンと電子レンジがみえた。おじいさんは意外と文明的な暮らしをしていると麻衣は思った。居間には書棚もあって、有機化学とか石油プラント設計とかの分厚い本が並んでいた。実家も酪農家だったが本棚はなかった。本州の農家は難しい本を読まないと仕事にならないらしい。
襖に地図が貼られていた。脇道に入る角にバス停があり、国道を挟んでゴルフコースが併行しているとわかった。
おじいさんが台所から丸いデーブルを運んできた。ちゃぶ台とか呼ばれる座卓だ。おじいさんが電気ポットと急須、湯飲み茶碗をちゃぶ台に載せた。
麻衣は座布団に座り、おじいさんが注いでくれたお茶を口に含む。不思議と甘く感じる。
「おいしい。こんなお茶はじめてです」
お世辞ではなかった。
「すまんが、今日はここに泊まってくれないか」
「ええーっ!」
麻衣は口に含んだお茶を吹き出しそうになる。
おじいさんの相談とは、わたしとエッチをしたいということだったのだ。まあ、助けてもらったし、わたしをみて欲情しない男はいないから、仕方がないといえば仕方がない。でも、このおじいさん。藤岡よりは丈夫そうだが、ちゃんと出来るのだろうか。
「実はわしは明日、あんたの夫。藤岡豊を殺すつもりなのだ」
話題がとんでもない次元に入ったので麻衣は仰け反りそうになる。
「えーっ、何故?」
麻衣も藤岡には早く死んで欲しいと思っている。でも、殺すとなるとこのおじいさんも無事ではすまないはず。
「みてくれないか」
おじいさんが立ち上がって襖を開けた。隣の部屋の奧には仏壇がある。花瓶に白菊が生けられ、前の経机に、リンゴやお菓子と、遺影らしい写真が二枚立てられている。
「左が三年間前に死んだトモミ。右は去年藤岡に殺されたチコだ」
右の写真は黒猫で左の写真は眼鏡をかけた女性だった。女性の髪は黒く、整った細面。おじいさんにも親子ほども歳が離れた奥さんがいたのだ。仏壇の中には位牌が二つある。ペットクリニックにいたのでペットの位牌があるのは知っていたが、形が人間の位牌とは異なるはずだ。亡くなった家族は奥さんの他にもいたらしい。
「ネコ……チコさんは殺されたのですか?」
おじいさんは頷いた。
「チコと出逢ったのは一昨年のトモミの命日だった。わしが寺から戻るとチコがひょっこりと土間に座っていた。声をかけると近寄ってきてわしの手を舐めだした。その時に思ったのだ。ああ、この猫はトモミの生まれ変わりなのだと……」
麻衣はよくある話と理解した。おそらく戸が開いていたので、ノラ猫が入った。おじいさんの手にはお寺で食べたお菓子のカスがついていた。ネコは餌をくれると誤解し、近寄ってきただけのことだ。偶然を超常現象にするオカルト好きの思い込み。
「藤岡はチコちゃんをどうやって殺したのですか?」
話を長引かせたくないので、先を急がせてみた。藤岡は確かに動物が嫌いだ。
「去年の夏だった。わしと国道を散歩していたチコが、突然、前から来た白いベンツに向かって走りだした。ベンツが通り過ぎた時、チコは道路脇の側溝に転がっていた……」
「あっ……」
麻衣は声が出そうになるのを堪える。思いだした。去年の今頃だ。免許を取ったばかりで、運転がしたくて藤岡のベンツのハンドルを握っていた。助手席にいた藤岡が太股をなぞり上げてきたので、叩いてやった。その時、フェンダーに何かがぶつかった感じがした。あれはチコだったのかもしれない。
「でも、どうして……藤岡の車とわかったのですか?」
麻衣は動揺を悟られないように、わざと言葉を切りながら訊いてみた。
ため息をついてからおじいさんは口を開いた。
「夕方にこの辺りを走る高級車となればホテル霞沢に行く客しかいない。でも、とりあえずチコを獣医に診せにゃあならん。軽トラを運転して町まで行った。最初の獣医はもう助からないといって診てはくれない。何件か回ってようやく手術をしてくれるという獣医がいて……朝まで待合室にいたが、ダメだった」
よくいる悪徳獣医だ。チコは内臓破裂に複雑骨折。心肺停止状態だった。でも、治療をしたふりで適当に皮を切って縫う。様子を見るからと時間を置き、やはり持たなかったと臨終を告げる。治療費として二十万円は取ったはずだ。だが、騙されたのですと話の流れを途切れさせてはならない。麻衣は黙って聴くことにした。
「それから寺で経をあげてもらい、火葬場に行ったりしていると三日経っていた。わしはベンツのナンバーを覚えていた。警察に行くと、人身事故ではないから車は探せないと断られた」
ネコなら保険金も出ないと麻衣はいいかけてやめた。
「それでわしは考えた。あのベンツはまたホテル霞沢にくるはずだ。そこでわしは農家をやめ、ホテルのゴルフ場で作業員として働くことにした。半年前、同じベンツがVIP駐車場に停まっているのをみた。フロントのお嬢さんに訊いてみると一年に二度しか来ないオーナーの車とわかった……明日がチコの命日になる。昨夜はチコが夢に出てきた。顎を撫でてやったが、鳴いてばかり。きっと悔しかったのだろうよ……」
潤んできたおじいさんの目をみた麻衣は、ペット喪失症と診断した。
「あ、でも、どうやって……」
さすがに殺すのですかとの言葉は口には出せない。
おじいさんは立ち上がって戸棚の引き出しから紙を取り出し、テーブルの上に広げた。
ゴルフ場のコース図らしく、距離とかの数字が記入されている。おじいさんは指をさして話を続けた。
「明日はゴルフ場が貸し切りで、限定三組の藤岡豊長寿祈念コンペがある。十時頃に藤岡とレビが乗ったカートが、このアウトコース四番ホール前の休憩所にくる。藤岡は横の簡易トイレに入る。池を挟んだ三番ホールのカート道にミサイルをセットし、リモコンのボタンを押せばミサイルが発射、秒速九メートルで上昇、ロフテッド軌道で池を超え、四秒後にはトイレの屋根に着弾する。藤岡はトイレごと木っ端微塵」
言い終えたおじいさんは歯を見せた。
「でも、藤岡がその時間にそこのトイレに入るとは限らないですよね?」
「いや、わしも年寄りだからわかる。老人は膀胱が硬くなるので小便が近い。フロントのお嬢さんに聞くと、藤岡は前立腺が悪いらしいから必ず入る」
確かに藤岡はトイレが近い。
「あのミサイルは何処から買ったのですか?」
秋葉原で売っているのかもしれない。
「チコを跳ねたベンツごと破壊するつもりで、半年がかりで作った。先端に硝安という肥料と木炭を混ぜてつくった火薬を詰めてある。さっきはゴルフ場での仕事を終えて、ミサイルの推進薬となるガソリンを入れていたところだった」
実家の倉庫にも肥料が積んであったが、火薬の原料になる危険なものとは知らなかった。
「爆弾とかを仕掛けた方が確実では?」
おじいさんは口をすぼめた。プライドを傷付けたかなと麻衣は反省した。
「トイレのような狭い場所に発見されないように爆弾を仕掛けるのは難しい。ミサイルなら離れた場所からタイミングよく狙えるということだよ」
「なるほど……よくわかりました」
実のところ麻衣はよくわからない。でも、このおじいさんはポンカン男をあざやかに制圧した。キャバクラの店長並みにトラブルを解決する能力がある。加えて本棚にある難しい本を読める。わたし以上に頭がよく物知りらしい。ミサイルといっても、ロケット花火を大きくしたようなものだ。材料があれば作れるのかもしれないと思った。
「でも、成功したとして、警察に捕まりませんか……」
「捕まってもかまわない。これをみてくれ」
おじいさんがシャツのボタンを外した。
麻衣はいよいよ来たかと、思わず後ずさりをしたが必要はなかった。おじいさんはシャツをはだけただけだ。あばら骨の下に三センチぐらいの縦の傷跡がみえた。
「胆管ガンでバイパス手術をしたが、十二指腸とリンパに転移して余命半年といわれた。痛み止めを飲んでいるが、もう効かなくなった。黄疸も出た。そろそろ終わりだ。刑務所もホスピスもかわらん。子供も孫もいないから、犯罪者になっても迷惑をかける身内はいない。チコを殺した藤岡への復讐が生き甲斐だった。もう思い残すことはない」
「そうだったのですか」
麻衣は同情をしたが、いかに死期を悟ったとしても、ネコを轢いただけで人を殺すのはどうかと思う。でも、藤岡が死ねば遺産が入る。祐介に月五十万円の手当を払うから愛人にしてくれと頼める。失いかけていた夢が実現する。麻衣はおじいさんのテロを黙認し、成功を心から祈念することした。
おじいさんの作業着のポケットで呼び出し音がした。おじいさんが取り出したのはポンカン男が持っていたスマホだ。
「藤岡がかけてきた」
おじいさんが小声で告げ、通話ボタンを押す。
「竹田か? どうだ。上手くいったか」
藤岡の声だ。離れていても聞こえるダミ声。
「はい」
藤岡はおじいさんをポンカン男だと思っている。ポンカン男は竹田という名らしい。
「よくやった。では画像を送れ」
おじいさんが視線をあててきた。返答内容の相談と解釈した麻衣が手を伸ばすと、おじいさんがスマホを渡してきた。
「残念ね。竹田はゲロったよ。わたしが誰とでもやるオンナだって……ふざけんじゃあないよ。もう一億じゃあ済まない。ムショに入りたくなきゃあ二億払いな。わかった」
「麻衣か……竹田はどうした? いま電話に出た男は誰だ。お前の新しい男か?」
「わたしが雇った恐いおじさんだよ。いま竹田をいたぶっている。慰謝料を払わないと、あんたもボコボコにするよ。くそっ、藤岡のヤロウ……途中で切りやがった」
スマホをちゃぶ台に置いた麻衣は、おじいさんが目を丸くしているのに気がついた。しまったと思った。腹立ちのあまり普段の言葉使いになっていた。
咳払いをしておじいさんが口を開いた。
「明日、わしは八時前にこの家を出る。悪いがお嬢さんはバス停まで歩いていってくれないか……バスは九時五十分にくる霞沢駅は二つ目の停留所で降りればいいはずだ」
「別に明日までいるわたしがここに必要はないのでは……わたしは何もいいませんわ。だって、藤岡が死ねばわたしに遺産が入りますし……」
麻衣は正直に告白をしてみた。晴れて祐介の愛人をめざすとまではいわない。
「そこだよ。問題は……竹田が一緒にいるところみているから、あんたがわしの共犯と思われる。いや、むしろ主犯と見做されるかもしれない」
麻衣は気がついた。確かにいまここを去っても、おじいさんのテロ計画を通報しないと共犯になる。
「確かにそうですね。では、竹田を始末するとかは……」
麻衣は自分でもとんでもないことをいったと気づいた。
三秒ほどあんぐりと口を開けていたおじいさんが、首を振ってから言葉を発した。
「むやみに人を殺してはいかん……こうしよう。あんたもわしに縛られて監禁されていたことにする。朝わしが出ていってから、あんたは自分で縄を解いて出て行く。バス停についたら警察に連絡してこのリモコンのボタンを二回押してくれ。竹田を閉じ込めた蔵の扉の鍵が開く」
麻衣はネコをはねただけで人を殺すのは、むやみなことではないのかといいかけたが、おじいさんの決意を削いではならない。突っ込まないことにした。
「わかりました。では……」
両手を差し出すとおじいさんは三度目の歯を見せた。
「まだ、縛るのは早い。話が決まったところで夕飯にするとしよう」
おじいさんが台所から一升瓶と皿に入った皮付きのピーナッツを持ってきた。
「口に合わんとは思うが、どぶろくも造っている。支度をするから出来るまで飲んで待っていてくれ。これはウチの畑でとれた落花生だ。無農薬だから安全」
どぶろくというからにはマッコリのような濁り酒を想像していたが、茶椀に注いでみると緑がかった透明に近い液体だった。確かに日本酒の香りがする。口に含んでみると甘酸っぱい。白ワインのような味がした。
麻衣がスマホで祐介のブログを読んでいると、おじいさんが二人分のご飯と味噌汁、鮎の塩焼きやほうれん草の煮浸しを大きな盆に載せて運んできた。
「一応、手袋をして作っている……食中毒にはならんと思う」
「ああ、心配していません。遠慮なく、いただきます」
昼を抜いていたせいか、どれもおいしかった。特に鮎の焼きと塩加減は絶妙で、料亭の味に匹敵と思えた。
「週刊誌を読んでみた。藤岡は、若い頃は闇金の取り立て屋だったとか、その時に覚えたノウハウで金融業を開業した。その頃は借金を返せない女性を風俗に売り飛ばしては儲けていたらしい」
どぶろくに酔ったのか、おじいさんの饒舌に輪がかかってきた。
「今でも金融業をしているとは聞いていました」
「それだけじゃあない。借金を返せない人の奥さんや娘さんを住み込みの家政婦にして、気が向いたら手込めにする。藤岡は強制性交で訴えられても、合意の上の愛人契約だと言い張った。とんでもないクズ野郎だよ」
今の家政婦さんは十人目と聞いていた。確かに小太りで色っぽい感じがする。
「あんたも借金を払えなくて、無理矢理だったのだろう」
「ええ、まあ……そんなところです」
ホストに貢いで借金地獄に陥ったキャバクラ嬢と書いた週刊誌もある。高級マンションに住みたかったとの動機では評価されないはずだ。麻衣は借金のカタに悪代官に差し出された哀れな村娘を装うことにした。
外から男の喚き声が聞こえてきた。
「おお、ようやく竹田が中にある木箱を積み上げれば窓に届くことを知ったようだ。どれ、騒がれるとうるさいので、餌をやるとするか……」
おじいさんは台所にあった海苔を巻いたおにぎりとペットボトルが入った籠を掴んで土間に降りていった。
麻衣は縁側の障子戸を開けた。縁側のガラス窓越しに蔵がみえる。蔵の上にある小窓から竹田が首を突き出していた。
「くそーっ」
窓枠が狭いので竹田は首しか出せなかったようだ。
おじいさんが竹竿に吊り下げた籠を蔵の小窓まで延ばす。麻衣は二人のやりとりを聞いていた。
「いくら叫んでもこの辺りには家がない。誰も助けにはこないぞ」
「いつまでこんなところ閉じ込めておくつもりだ」
竹田の声は情けないほどか細くなっている。
「明日、あのお嬢さんが出してくれる。もう騒ぐな。それを喰ってさっさと寝ろ」
眼が醒めた時、麻衣は囲炉裏の傍でタオルケットを被っていた。横の座布団にハンドバックとヒモが置かれている。麻衣は上体を起こした。パンストは脱いでいるが、下着を含めて服は着ている。何かをされた感じはしない。酒豪と呼ばれるほど酒には耐性があるがどぶろくは効いた。
あれからおじいさんは、
――どぶろくを造るには酵母が必要になるのだが、酒造免許がないと買えない。中国人の友達に紹興酒の酵母を送ってもらったよ。
とかの話をしてきた。
麻衣も
――雨の日にキャバクラに来る客は、やたらと触りたがるのよ……
とか、話を下ネタに誘導して、トモミさんとわたしとどちらが綺麗かとおじいさんに訊ねてみた。
おじいさんは顔をほころばせて
――それはお嬢さんだよ。レベルが違う。
と答えてくれた。
酔った状態で男に褒められると、ブラを外して乳房を見せる癖がある。でも、外した記憶がない。おじいさんには見せなかったのか。麻衣はつい首を捻っていた。
ちゃぶ台にコーヒーが入ったガラス製のポットとマグカップ。大皿にトーストと刻んだレタスの上にカットされたゆで卵が載っていた。
古民家にふさわしい木製の柱度計が鳴った。針はちょうど九時を指していた。
麻衣は台所に入ってみた。奧には洗面台とユニットバスがある。トイレで用を足し、メイクを直して居間に戻った。
トーストをかじった時、ちゃぶ台に置かれていた竹田のスマホが振動した。受信モードにする。
「どうしたの? もうすぐスタートよ」
レビだった。藤岡から目論見が失敗したことを聞いていないらしい。つまり、パーティーが終わってから藤岡の夜とぎを務めたのは、レビではなくフロント嬢ということだ。
「竹田はまだ寝ていると思うよ」
しばらく応答がない。
「麻衣ちゃんね。竹田に伝えて頂戴。スタートに間に合わないから首にすると……」
竹田もゴルフコンペのメンバーだったらしい。
「あら、それは気の毒に……じゃあわたしはこれから竹田とエッチをするわ。それから警察に行って竹田に強姦されたと訴える。逮捕された竹田は藤岡とあなたが命じたと供述する……わたしへの暴行もあるから、あなたは確実に刑務所ね」
こうしたやりとりはキャバクラの世界では日常茶飯事。麻衣の脳裏にレビの引き攣った顔が思い浮かぶ。
十秒ほど間があったがレビが声を出してきた。
「麻衣ちゃん。取引しましょう。わたしは週刊誌にコネがあるのよ。あなたが三田祐介の追っかけだとは書かせない。それと、藤岡は若い娘とは籍を入れるけど、飽きると難癖をつけて離婚を迫るの……慰謝料を貰った女性はいないのよ。でもわたしが藤岡と交渉して五千万円で手を打たせる。どう?」
麻衣は思わず遺産が入るからいらないと口を滑らせるところだった。
「それ、いいわ……おまかせする」
レビとの通話を終えた麻衣は舌をだしていた。
レビとのこの会話でわたしはおじいさんのテロを知らなかったことになる。ほら、わたしは頭が働く。
でも、そう上手くいくのかと麻衣は思い直してみた。
レビが藤岡を説得できれば五千万円が手に入る。祐介に既婚者だったことはバレない。だが、藤岡がミサイルで爆死すると、週刊誌が書き立てる。祐介は自分のファンがおじいさんを唆して藤岡を殺したと疑う。そうなると愛人どころかファンクラブも追い出されるかもしれない。おじいさんはチコをはねたのは藤岡と思っているが、実のところはわたしだ。チコは人間ではないし、おじいさんが藤岡を殺してもチコは生き返らない。わたしがチコをはねたせいで、おじいさんが殺人犯になるのは寝覚めが悪い。第一あのミサイルが飛ぶとは限らない。下手をすると発射前に爆発して、おじいさんが怪我をするかもしれない。そうなるとおじいさんを止めなかったわたしが責められる。
麻衣はおじいさんのテロを阻止することに決めた。
スマホを取り出し一一〇番にかける。何回かのコールの後に、録音されていると通知され、中年らしい女性の声が応答してきた。
「こちらは警察です。事故ですか? それとも事件ですか?」
「えーと……テロです。藤岡豊がミサイルで攻撃されます」
しばらく応答がない。
「落ち着いてください。あなたのお名前と今いる場所をおっしゃって下さい」
「わたしは川崎麻衣。あ、本名は藤岡麻衣で、ここは霞沢の古民家」
「詳しい住所をおっしゃって下さい」
明らかに苛ついたオバサンの声。
「知らないわよ。ゴルフ場の近くで棚田と蔵がある。わたしがいいたいことは、霞沢カントリークラブの四番ホールの休憩所にミサイルが撃ち込まれるということ……」
「だれがミサイルを発射するのですか?」
「おじいさん」
しまった。おじいさんの名前を知らない。絶対にバカだと思われた。キャバクラで客から名刺をもらう癖で、訊ねるのを省略していた。戸棚の引き出しとかに手紙とか請求書があるはずだ。
麻衣が戸棚の引き出しをあけた時、柱時計が鳴った。
九時半だった。藤岡に連絡するのが最良の手段と判断した麻衣は、一一〇番との通話を切り、藤岡のスマホを呼び出す。
これもしばらく応答がない。
「何だ! 今、忙しい」
「わかっているわよ。四番ホールの休憩所へいっちゃあダメよ。ミサイルが飛んでくる」
「ミサイルだと……バカなことを」
藤岡は通話を切った。
麻衣は舌打ちをしていた。助けようとしているのに何という態度だ。だが、確かにミサイルの現物を見てない藤岡に信じろというのが無理かもしれない。
こうなったら直接おじいさんを説得するしかない。麻衣はチコを轢いたのは自分だと告白するにした。美貌のわたしが優しく謝れば、おじいさんの怒りは治まり、ミサイルの発射も思い留まるはずだ。
麻衣はパンプスを履いて庭に出た。でも、すぐに困った。歩いていては間に合わない。タクシーを呼ぼうにも住所がわからないし、わかっても来るまでの時間がかかる。
麻衣は辺りを見回してみる。
竹田が乗ってきたポルシェがある。でもダメだ。ひっくり返っている。おや、ポルシェの傍にトラクターがあり、キーがついている。実家にもトラクターが二台あった。小学生の頃に小型のトラクターを動かして父親に酷く怒られた。可愛かったがやんちゃな女の子でもあった。実家にあったトラクターと型は違うが、操縦法は同じなはずだ。
トラクターに乗ったものの、麻衣は狼狽えていた。子供の頃に乗った実家のトラクターよりレバーが多い。とりあえずキーを回してエンジンをかけることにした。エンジンがかかった。アクセルペダルがないのは知っている。座席の横にレバーがあった。引いてみるとバケットが持ち上がった。麻衣は一瞬焦る。間違えてしまった。でも、前は見えるのでそのままにすることにした。先ずはバックだ。麻衣がハンドルの左横にあるシフトレバーをRに入れるとトラクターはバックした。
「おーい。出してくれ」
竹田の声が聞こえてきた。窓からこちらをみている。今はかまってはいられない。
麻衣はハンドルを右に切り、トラクターを出口に向ける。
シフトをFにするとトラクターは前に進み出した。だが、速度が遅い。麻衣がハンドルの下にあるアクセルレバーを引くと、エンジンの回転数が上がり、時速三十五キロをメーターが示した。これなら走るよりは速い。十時までにはゴルフ場につく。おじいさんのテロを阻止し、藤岡に命の恩人と感謝され、五千万円を合法的に入手できる。麻衣は思わず顔をほころばせていた。
国道の手前で、麻衣はトラクターのスピードを落とす。車がこないのを確認してハンドルを左に切る。前方にバス停が見えてきたので、袈裟懸けにしたハンドバックから、リモコンを取りだし、ボタンを押した。蔵からここまでの距離は三百メートルぐらいだ。竹田が扉を開けてでられる。
横を追い越していったダンプカーが窓から手を伸ばしスマホを向けている。美貌の女性が太股を剥き出して運転するトラクター。フォロワーが万台なはずと麻衣は確信した。
麻衣が運転するトラクターは国道を右折し、ホテルに向かう道に入った。クラブハウスと駐車場が見えてきた。麻衣がゴルフ場の駐車場にトラクターを入れた時、サイレンを鳴らしながらミニパトが国道を走ってくるのが見えた。駐車場の端にスタート室と書かれた矢印が見えたので、麻衣はハンドルを左に切る。
トラクターはゴルフカートが並んだスタート室の前に着いた。藤岡お手つきのホテルのフロント嬢がいた。トイレ掃除に使う洗剤とブラシが入ったバケツを手にしている。
麻衣は声をかけた。
「ちょっと、あんた。アウトの四番ホールって何処よ?」
見上げてきたフロント嬢はあんぐりと口をあけた。
「あそこです」
フロント嬢が指さした池の向こう側に赤い屋根のログハウスが見えた。手前のカート道には軽トラックが停まっている。
フェアウェイを横切ると近いと判断した麻衣は、トラクターをコースに入れる。
「それで入ってはいけません!」
金切り声で喚くフロント嬢を無視して麻衣はトラクターのスピードを上げる。トラクターが飛び跳ねるので、尻が痛い。セルライトが痣で目立つが、気にしている場合ではない。麻衣は三番ホールのグリーンの手前でハンドルを切り、トラクターをカート道に載せた。
三十メートルほど先のカート道に停車した軽トラック荷台では、業衣を着たおじいさんが、キャンプで使う発電機のような装置を操作していた。カート道の池を挟んだ左には、四番ホールの休憩所らしい赤い屋根のログハウスと、ゴルフカートが停車しているのがみえた。
トラクターを軽トラックの後ろで停めた麻衣は息を吐いていた。ミサイルはまだ発射されていなかった。麻衣はトラクターのエンジンを切っておじいさんに呼び掛けた。
「おじいさん、ダメだよー」
振り向いたおじいさんが、目を丸くする。
「おお、誰かと思ったらお嬢さんか……トラクター動かせるのか……たいしたものだ。ああ、ゆで卵、半熟だったね……」
「そんなことより……」
麻衣はミサイルを発射してはいけないと言おうとしたが、息が整わない。
「こらー、そんなところで、何をしとる。ここには来るなといったはずだ。ストーカー行為で警察に逮捕させるぞ」
ログハウスのデッキにいた藤岡が怒鳴ってきた。
「助けに来てやったのに何て言い草よ! このミサイルが撃ち込まれるところだったのよ」
麻衣が軽トラックの荷台を指さしながら怒鳴り返す。
「……とうとう本物のバカになりおって……」
藤岡は聞こえるように呟き、デッキから降り、簡易トイレに向かっていく。
怒りが最大限に達したと麻衣は実感した。
「くそジジイ。お前なんか死ねー!」
麻衣が叫び終えた時、後ろから声がかかった。
「ちょっと、そこのあなた。一一〇番通報をした人だね……そこから降りなさい」
トラクターのすぐ後ろにフロント嬢が運転するゴルフカートが停車していた。ゴルフカートから降りた二人の警官が麻衣に近寄ってくる。左側の太った警官の年齢は五十歳ぐらいで、右側の細身の警官は三十歳ぐらい。つまり太めの警官は上司。キャバクラで持ち上げるべき客。悪いことをしたとの意識がない麻衣はどうでもいいことを考えていた。
「ああ、おまわりさん。わたしが悪いのだ」
軽トラックの荷台から軽々と飛び降りたおじいさんが警官に近づいていく。
「この機械をミサイルだとわたしが冗談を言ったので……こちらのお嬢さんが本気にしたのだ」
麻衣は一瞬気が抜けた。軽トラックの荷台に載っているのはミサイルではない。おじいさんに騙された。でも、腹が立たない。とぼけたふりで警官に話しかけているおじいさんの眼光が鋭い。ネコじゃらしの動きを追う三毛猫の目だ。おじいさんにチコの霊が乗り移った。チコは何か恐ろしいことを企んでいるのだ。
「あれは何だね?」
太めの警官が軽トラックの荷台を指さしておじいさんに訊いている。
「芝生に肥料を撒く機械だ。グリーンに上がると芝生が痛むので、遠隔操作で液肥が噴き出るようにしてある。ガスボンベを改良してわしが作った。危険なものではないよ」
おじいさんは再び軽トラックの荷台に上り、ミサイル先端の帽子のようなカバーを外した。斜め上を向いた水栓のようなものが現れた。
「このボンベの中に液肥が入っていて、電磁弁を作動させるとコンプレッサーで圧縮した空気に押されて、液肥がこのノズルから噴出する。水鉄砲と同じ原理だよ」
細身の警官が軽トラックに近づき、荷台を覗き込む。
「この下に付いている羽根は?」
「これは羽根ではなく機械を固定する板だよ」
細身の警官が納得したように頷く。
「中身の農薬は危険なものでは?」
太めの警官がおじいさんに訊いている。
「農薬ではなく肥料だ。鉄分などのミネラルだから、飲んでも死なない。いま動かしてみるよ」
二人の警官は顔を見合わせた。どうするか結論を出せないようだ。
「このリモコンを押すと……」
おじいさんがリモコンを操作するが、何も起きない。
「おかしいな……リモコンが壊れたらしい。お嬢さん。あんたに預けたリモコンを……」
麻衣はトラクターを降り、座席に置いていたリモコンをおじいさんに手渡した。
おじいさんがリモコンを操作すると、ノズルから水が噴き出て、池を超えて簡易トイレに降り注がれた。
麻衣は思わず首を捻っていた。
屋根から流れ落ちた水が、上開きになった窓からトイレの中に入ったはずだ。驚いたはずの藤岡が喚かない。
「しまった。ノズルが回転しない。昨日、転がった時にモーターが壊れたらしい」
雨が降ってきたと思ったのか、レビが傘をさしてログハウスから出てきた。辺りを見回している。ピンクのショートパンツから抜き出た脚が不気味に筋張っている。
「ああ、もういい。わかりました」
太めの警官が手をふる。
おじいさんが再びリモコンのボタンを押すと、噴射が止まった。
二人の警官は小声で話し合っている。事件でもないし、悪戯でもない。とりあえず本署に連絡してとかいっているのが聞こえた。
簡易トイレから温泉の匂いが漂ってきた。
「藤岡さん。そろそろ行くわよ。前の組はグリーンに上がったわよ」
レビがトイレに向かって声をかけている。
「何を食べたらこんなに臭くなるのかしら……」
レビの声はトイレの中にいる藤岡にも聞こえたはずだ。藤岡とレビの言い争いをSNSで流せばバズると麻衣は期待した。だが、藤岡がトイレから出てこない。酷い便秘か。
「レビさん。そこから離れた方がいいよ」
おじいさんがレビに声をかけてから警官に向き直った。
「おまわりさん。消防署に連絡した方がいい。大変なことが起きた」
無線機を操作していた細身の警官が、怪訝な顔つきでおじいさんをみつめる。
「さっきあのトイレを掃除したほうがいいと、そこのフロントのお嬢さんに連絡をした。今日は清掃員が休みなので、自分がやるといった。偉いと褒めてはみたが、スタート室にあった強力な塩素酸系の洗剤を使ったのだろうな……この液肥の成分は硫化鉄で硫黄が含まれている。あの窓からかなりの量が入った。硫黄と酸が反応すると硫化水素が発生する。ちょっと吸っただけでも即死だ……わしは元農家だからよーくわかる」
おじいさんが麻衣に視線を合わせてきた。目つきは穏やかなものに変わっていた。
麻衣にはわかった。おじいさんに憑依していたチコは、藤岡への復讐を成し遂げ、霊界に戻ったのだ。
麻衣は自宅マンションの居間で、応接テーブルを挟み、頭髪がない五十歳ぐらいの腹が突き出た藤岡の会社の顧問弁護士と向きあっていた。
「誕生パーティーでのやりとりを聴いた人が多くいますので、会社としては既に藤岡氏との離婚は成立していたと考えていますので遺産の相続ではなく、慰謝料として四千万円を支払いたいと……婚姻期間は一年と少しですので、藤岡さんの収入に対する貢献度としては妥当な額です」
藤岡が硫化水素中毒で死んでから一週間が経っていた。所沢での社葬には出なかった。実は呼ばれもしなかった。
藤岡の資産は、殆どが会社の所有となっているらしい。
「週刊誌の記者は、離婚は役所に届けが出されてないと法律的には認められないとかいっていましたけど……」
麻衣はキャバクラ時代に仕入れた知識をさりげなく持ち出してみた。
顧問弁護士が息をとめたのがわかった。
「まあ、法定で争うことはできますが……結審に至るまでには時間が……実はいま会社は赤字続きで、ほどなく清算をすることになります。そうなりますと、債務保証の配偶者として、多額の負債を引き継ぐ可能性も……」
はっきりと遺産を相続させたくないといえばと麻衣は口に出しそうになる。
「あのう、諸橋さんは……」
藤岡が救急車で運ばれてから、おじいさんは麻衣に迷惑をかけた償いはすると謝ってきた。さらに自分は諸橋淳次という名前で、年齢は七十三歳。三年前に脱サラをして農家になったと聞かされた。
長野県警の刑事が来たのは一昨日だった。
藤岡の死亡に関わる捜査ではなく、竹田が諸橋を暴行と監禁で訴えたらしい。麻衣は竹田につきまとわれたので、諸橋の軽トラックに乗ったと話した。その後、竹田がまた嫌がらせをするかもしれないので、がっちり懲らしめてと諸橋に頼んだとの嘘を、出てもいない涙を指で拭う演技とともにつけ加えた。
「今、町のホスピスにいるらしいですよ」
「逮捕とかはされなかったのですか?」
顧問弁護士は視線を斜め上に放ち、腕を組んだ。
「鑑識が諸橋さんの作った散布機を使って実験をしたそうです。かなりの溶液がトイレの窓から入らないと、床に溢れた洗剤と反応しても、致死量に至る硫化水素は発生しないとのことでした。女性従業員も溢してはいないと言いました」
麻衣には想像がついた。軽トラックの荷台にトイレ用の洗剤があった。諸橋は藤岡が休憩所に来る直前にトイレの床に撒いておいたのだ。
顧問弁護士が続ける。
「事故が発生した時に、警察官が立ち会っていました。溶液は散布機から噴出はしたが時間はそれほど長くはなかった。諸橋さんが持っていたリモコンは電池切れで、ボタンを押しても散布機は作動しなかった。さらに諸橋さんには藤岡さんを殺害する動機がないので、お咎めはなしだそうです」
麻衣は声をあげそうになる。リモコンのボタンを国道のバス停のあたりで押した。ゴルフ場は国道に沿っている。あの時に諸橋が四番ホールの休憩所の簡易トイレの窓を開けておき、溶液が入るように散布機のノズルを向けていたとしたら、かなりの硫化水素がトイレに充満していたはずだ。諸橋に藤岡を殺す手伝いをさせられたのだ。
だが、考えてみれば藤岡はチコを殺してはいない。チコをはねたのは自分だ。諸橋の恨みを藤岡にかってもらったことになる。後ろめたい麻衣は四千万円で手を打つことにした。
藤岡の会社から四千万円が振り込まれて一週間が経っていた。麻衣は週刊誌の記者に纏わり付かれないように引きこもっていた。当然に体重が増えた。動かねばさらに尻の皮が弛む。来週は札幌で祐介のコンサートがある。参加のついでに実家に寄ってみる気になった。藤岡が死ぬ前に離婚したので遺産は入らなかったと報告をしなければ、親戚から金をせびられている両親に悪い。その前に着ていく服を調達しなければならない。初秋の北海道に合ったコーディネートを考えようと、スマホで検索を入れた時、着信があった。
「諸橋淳次さんの弁護士で、中井と申しますが、これから伺いたいのですが、ご在宅でしょうか?」
「はい。ご在宅です」
麻衣は答えてから用語が正しくないと気づいた。だが、どうでもいいことは気にしないタチなので、ネットで検索を続けていた。
一時間後、玄関ドアを開けた途端に名刺を渡してきたのは、丸顔にボブカットで、黒のパンツスーツを着た四十歳ぐらいの女性弁護士だった。
「諸橋さんの遺言状です。諸橋さんは亡くなられました」
ソファに座ると、中井弁護士は封筒から書類を取りだし、応接テーブルに置いた。
「ええっ、諸橋さんは亡くなったの?」
麻衣が訊き返すと、中井弁護士は頷いた。
「ホスピスから連絡があったのは一昨日です。癌が脳に転移していたそうで……意識が混濁してすぐに呼吸が停止したようです」
麻衣はショックで口がきけなかった。確かに諸橋は末期ガンで死ぬとかといっていた。
「五日前にホスピスで諸橋さんと面会した時、この遺言書を渡されました。内容はこの表書きのとおり、死後、全財産を川崎麻衣さんに相続させる。遺言の執行人はわたくし中井陽子です」
諸橋の財産は霞沢の古民家と棚田だ。貰っても足しにはならないが、トラクターは父親にプレゼントをする。たまには親孝行をしてみようと麻衣は思った。
「諸橋さんは十年前に奥様を亡くされ、霞沢に引っ越す三年前には一人娘のトモミさんも亡くなっておりますので、法定相続人はなく、争いにはなりません」
「えっ、三年前に亡くなったのは奥さんでは?」
麻衣が訊くと中井弁護士は首を振った。
「トモミさんは所沢市のサラリーマン家庭に嫁がれていたのですが、ご主人がギャンブル好きで、あちらこちらに借金があり、街金からも借りていたようです。諸橋さんが肩代わりを申し出たそうですが、トモミさんは断って、その街金の家政婦として働き、返そうとしていた。ですが、ご主人との間で何らかのトラブルがあり、自殺をしたらしいのです。四十歳前でしたがお子さんはなく、写真をみせていただきましたが綺麗な方でした」
聴きながら麻衣は考えていた。
諸橋は三年前に死んだのは奥さんだとは言わなかった。仏壇の位牌は奥さんと娘さんで、チコの位牌はなかったのだ。
諸橋は藤岡が家政婦を強姦していたといったが、週刊誌はそんな報道をしてはいない。警察沙汰にならない当事者しか知らないことだからだ。藤岡は家政婦として働きにきたトモミさんを強姦した。トモミさんは夫に告白して警察に届けるといったが、奧さんを身売りしたつもりの夫は耐えろとかいった。夫の裏切りを許せなかったトモミさんは死を選んだ。想像だがかなり真実に近いはずだ。
諸橋は一人娘を死に追いやった藤岡を殺すつもりで東京から霞沢に引っ越し、機会を狙っていた。でも、ホテル霞沢に藤岡が来るのは年に二度。諸橋は機会に恵まれず、躊躇いもあったがガンが再発、余命を悟り、殺害を決意した。これも推定だが適確なはずだ。
でも、諸橋は藤岡を殺す目的はトモミさんの無念をはらすためだとは言わなかった。ひょっとすると諸橋はチコを轢いたのがわたしだと知っていたのかもしれない。チコの仇を討つといったのは、わたしにチコを轢いたという罪悪感を抱かせ、藤岡の殺害計画を黙認させるためだ。
「財産目録を確認して下さい」
中井が開いた書類には、綺麗な筆文字で土地や建物の所在地、構造とか面積が書かれている。驚いたのは、諸橋が霞沢の古民家だけでなく、東京の港区にマンションを所有していたことだ。中井が預金通帳を広げる。
「これは諸橋さんの預金です。定期預金が一億四千五百万円、普通預金が三千二百万円ほどあります。諸橋さんは株や債券などの金融資産はありません」
「これを全部わたしに……」
中井は首を振った。
「最後の項目に書かれていますが、執行手続きに普通預金残高の十%が当事務所に入りますので、遺贈の相続税とその分は差し引かれます」
「暗算が苦手なのですが、どのくらいですか?」
中井は指折りを始めた。
「霞沢の棚田と古民家、農機具などは買い受け希望者がいるらしく、五千万円ぐらいでしょうか……港区のマンションは、現在月額三十万円で賃貸に出していますが、築十年で相場は八千万円ぐらいでしょうね。預金も合わせると、おおよそ二億六千万円です。諸橋さんは農家をなさる前は、石油化学関係上場企業の代表取締役をなさっていましたので資産家です」
麻衣は夢を見ている気がした。藤岡の慰謝料四千万円など端金。いきなり保有資産三億円の富豪になった。
「でも、どうして縁もゆかりもないわたしに……」
中井は唇を歪めた。指名がないキャバクラ嬢がバックヤードの鏡でみせる自虐の笑い。
「諸橋さんは、あなたには重要な仕事を手伝ってもらい、久しぶりに男としての一夜を過ごせて感謝をしていると……美人は得ですわね」
麻衣は愕然となる。諸橋の遺産は藤岡を殺した共犯としての報酬で、あの夜、ブラを外して見せたとわかったからだ。
(了)