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則天大聖皇帝碑

作者: 川内 稔
掲載日:2021/03/18

    

 中国陝西省の省都西安(せいあん)。その西北に「(けん)(りょう)」という一風変わった陵墓がある。

 乾陵は、もともと唐朝の三代皇帝・高宗(こうそう)の墓であった。しかし、高宗が埋葬された後も、乾陵は造成を重ね、全く同じ形の陵墓が高宗の隣に新しく造られた。これが本作の主人公である武則天(ぶそくてん)の墓である。数ある陵墓の中でも、二対構造で造営され、皇帝と皇后が全く同じ待遇で合葬されたのは、乾陵ただ一つである。

 乾陵を造営した時、人々はこのような特別な措置をなぜ執ったのか。

 それは中国の歴史上、武則天が唯一、女性でありながら皇帝になった人物だからである。


 墳丘に足を運ぶと、そこには彼女の巨大な墓石が立てられていた。その高さは実に八mを誇る。墓石は随所に彫刻が施されているが、なぜか文字は一字も刻まれていない。中国では古来墓碑に死者の功績を記し、顕彰するために碑文を記すのが習わしであるにも拘わらずである。

 何も書かれていない墓誌銘が作られた理由は、武則天の遺言による。それは「どれだけ文字数を費やしても私の功績は書き切れないから」ということだそうだ。それゆえいつしか人はこの墓石を「無字(むじ)()」と呼ばれるようになった。

 虚空に向かって高くそびえる無字碑は、陽光を浴びて白く照り映えている。しかし、その日陰は一際(ひときわ)黒々と見えた。その黒さは、ふと武則天の生まれた時代の暗さを示しているように私には思えた。


 武則天の帝位は、彼女の崩御直前に発生したクーデターによって別の皇帝に移された。それからも理解できる通り武則天の晩年は、多くの反対派に囲まれていた。そのため武則天の遺言があったにしても、墓誌銘建立に携わった人々は、彼女の遺命を遵守する義務はなかった。

 刃向かう人物を悉く殺した武則天、その怨念で憤死した官僚・人民は数え切れない程であり、武則天の碑文に罵詈(ばり)雑言(ぞうごん)を刻むことを求める者が数多く現れている。それにも拘わらず反対派の官僚は、碑文に何も刻ませなかった。それは何を意味するのだろうか。つまりこれは武則天の遺言を守ったのではなく、全く異なる理由から刻ませなかったのである。その理由はこれである。


 ――武ノ得失ハ、後世宜(よろ)シク評価スベキコトナリ。


 このように武の評価は後人に見解を托されたのであるが、実のところ武則天の評価は定まっていない。宋元代、そして明清になっても「武則天は聖人である」「いや。武則天は悪人である」と彼女に対する見解は大きく分かれている。そのため武則天の墓誌にいかなる碑文を刻むべきかという問いは、現在の我々にまで投げかけられている問いなのである。

 そこで以下に、本誌を借りて武則天の生涯とその得失を語りたい。

 武則天と全く関係を持たず、武則天派・反武則天派とも無縁である日本人の史学者ならば、中国人よりも遥かに公平な立場から彼女を論評することが出来る。武則天もまさか自分の銘文が文芸誌に掲載されるとは夢にも思わなかったに違いない。武則天の銘文を検討するのは、世界で初めての試みだ。果たして彼女は何者であったのか。その実像に迫ることとしたい。


男を食い殺す女


 前漢の(りょ)(こう)、清末の西太后(せいたいごう)。そして中共の(こう)(せい)。中国の長い歴史の中で強大な権力を持つ女性は何人か現れた。だが、最高権力者である皇帝になったのは、後にも先にも、この武則天ただ一人である。

 世界史を繙いて女性の統治者と探せば、ビクトリア女王・エリザベス女王などと指を折ることが出来るが、彼女らは元来王族の出身であった。

 だが武則天は違う。彼女は皇帝の血筋を引いていた訳ではない。しかも儒教的価値観が世を支配した中国のことである。女性の社会進出は全く許されず、女性が為政者として君臨するのは不可能である。ならばどうして武則天は皇帝になれたのであろうか。


 武則天、彼女は六二四年に密売薬を売る店の長女に生まれた。本名は勝男(しょうなん)。その名からも判る通り、男勝(おとこまさ)りになることを願って付けられた名前であるが、近隣家族からは「男に勝るどころか男を食い殺す女」として危険視された。そこで彼女は家を抜け出し、当時の女性に与えられた数少ない出世手段である後宮の門を敲いた。

 「則天」という名を貰った武だが、本名の通りに勝気な性格であった。それゆえ乱世を生き抜いた強烈な個性の持ち主であった太宗皇帝とは相性が悪かった。

 こんなエピソードが残っている。ある日、太宗は駿馬を買って来た。しかしこの馬は気性が荒く、皇帝は調教に困っていた。その様子を見ていた武則天は「私にお任せください。」と言い出した。

 驚く太宗を横目に武則天は、

 「私が馴らしてみせましょう。言うこと聞かなければ、鉄鞭で馬の頭を叩いてやります。それでも駄目ならば、匕首(あいくち)で喉元を掻き切ってやります。」と言い出した。

 肝を潰したのは太宗である。「(かん)()(暴れ馬)を掻き殺す」と言うこの妃こそ、悍馬以上の悍馬ではないか。

 「立派な心がけだな。」

このように太宗は応えたが、この気の強さを太宗は終生好まなかった。

 武則天はこれを察するや、次の標的を皇太子に定めた。それが高宗(こうそう)である。

 高宗は、後継者選びのゴタゴタの末に立てられたボンクラ皇太子である。その理由も「おとなしい性格だから、余計なことはしないだろう」という程度の人物である。武則天は高宗に接近し、秋波を寄せるようになる。

すると高宗も武則天に好意を抱くようになった。温和な高宗の性格が、峻峭な武則天の性情と衝突しなかったためである。


 かくして武則天は高宗に接近するが、ここで一つ問題が発生した。武則天が高宗をよく思っていても彼女は太宗専属の宮女であった。そのため太宗の崩御によって、古令に従い後宮の妃は全員出家させられてしまったのだ。


 本来ならこれで彼女の野望は潰えることとなるのだが、彼女はその後鮮やかなカムバックを果たす。その原因は、後宮の派閥抗争――王皇后と蕭淑(しょうしゅく)()の対立にあった。

 高宗の正妻、つまり皇后は「王皇后」という。しかし王皇后は実子がおらず、高宗の寵愛は蕭淑妃へ傾いていた。嫉妬する王皇后と蕭淑妃の抗争は日々熾烈となり、王皇后は自らの後ろ盾にするため、高宗が執心した武則天を還俗させ、後宮に呼び戻したのだ。これには高宗も喜び、武則天に大いに寵愛を傾けた。

 後宮に戻った武則天は、権謀術数を駆使して後宮での存在感を増してゆく。まずは復活の機会を与えてくれた王皇后にまめまめしく仕えて取り入る。王皇后はすっかり武則天に心を許し、後宮での高い地位を与えるよう高宗に口を聞いてやった。

 だが王皇后は、すぐにこの措置が間違っていたことに気付いた。

 今度は何と高宗が武則天に夢中になるあまり、彼女一人だけに寵愛を注ぐようになってしまったのだ。その結果対立していた王皇后と蕭淑妃は、ともに軽んじられる始末であった。

 そこで今度はこの二人が手を組んで武則天の追い落としを図るようになる。だが、宮中での暗闘で武則天の右に出る者はいない。武則天は後世「(こう)ニシテ権謀多シ」と言われたように、武則天はあらかじめ金銀宝飾を賄賂として宮女に与え、宮女の大半を味方につけていたのである。

 一方の王皇后と蕭淑妃は名門の出身であったが、それだけにプライドが高い。ゆえに宮女からの人気は芳しくなかった。その一方多数の味方を手足のように操る武則天は、王皇后や蕭淑妃の動向を手に取るように把握するようになった。


娘を(あや)める


 ここに至って武則天は、王皇后にとどめを刺すべく、信じられない計略を思いつく。

 武則天は当時、高宗との間に四男一女をもうけていたが、生まれたばかりの娘を犠牲にすることで、王皇后を陥れるための罠を仕掛けたのだ。

 それはある日のことである。王皇后は武則天の部屋を訪れ、赤子をあやして帰っていった。この時、武則天は席を外しており、部屋には王皇后以外誰もいなかった。

 そして王皇后が帰ったあと、高宗が部屋に入って来た。高宗が布団をめくると、そこにいたのは首を締められ変わり果てた我が娘であった。

 動転した高宗は、侍女に「部屋に入ったのは誰か!」と尋ねた。すると侍女は「王皇后が来ました。」という。この一件から、高宗は王皇后に猜疑心を抱き廃位しようと考えるようになった。


 だが、皇后の廃立となると、宮中内部の話ではなく国家の大事である。後宮のみならず国家の表側の勢力図にまで影響してくる関係から、元老たちも黙ってはいなかった。

 当時の元老は四人。長孫(ちょうそん)無忌(むき)褚遂(ちょすい)(りょう)()()(ねい)李勣(りせき)である。

 この問題で、武則天の前に立ちふさがったのが、長老格の長孫無忌だった。彼は唐朝成立に貢献した勲一等の功臣であり、政界屈指の実力者であった。そのため高宗は武則天を伴って長孫無忌の邸宅に行き、それとなく廃立問題を匂わせたが、長孫無忌は応じず、全くその話に触れようとしなかった。

 長孫無忌は唐朝家臣の筆頭、どうしても説得したい。そう思う武則天は官界に支持者を獲得すべく繰り返し工作を行う。すると台頭してきた武則天の動きに便乗することで、将来の栄達を目指そうとする輩も現れはじめた。それが当時「人品軽薄の二流官吏」と言われた(きょ)敬宗(けいそう)()儀府(ぎふ)を中心とした武則天支持派である。


 かくして生まれた武則天支持派は、武則天反対派と拮抗する勢力へと拡大するに至ると、武則天は皇后廃立問題に決着をつけるべく、高宗に迫り元老会議を招集させることを求めた。

 当日召集されたのは、先に名前を挙げた元老の四名だった。このうち李勣は病気を理由に欠席、残る三元老の長孫無忌、褚遂良、于志寧が出席することとなった。その議事録は『則天(そくてん)大聖(たいせい)皇帝(こうてい)起居注(ききょちゅう)』によって一字一句漏らさず記録が残っている。その緊迫のシーンを少しばかり紹介したい。


 高 宗 「武則天を皇后と改めるのが良いと思うが、皆はどう思うか。」

 褚遂良 「陛下、皇后を交代させる理由は何でございますか?」

 高 宗 「王皇后には子がなく、武則天には子があるからだ。」

 長孫無忌「恐れながら陛下、王皇后は名家の出身で、今は亡き先帝(太宗)が陛下のためにわざわざ紹介した方でございます。先帝がお隠れになった時に、先帝は私に『息子をそなたに託す』とおっしゃいました。その時の言葉は陛下もお聞きなさったではありませんか?」

 褚遂良 「王皇后に格別の過失もないというのに、軽々しく廃すというのはいかがかと思います。これは先帝のご意志とも反することになります。どうかご再考ください。」


 褚遂良は、物事の道徳倫理を重視する硬骨漢であった。しかも彼は高宗の家庭教師を長年担当している。我が子のように育てあげた高宗を諫めるため、褚遂良は、たとえ死をもっても反対する覚悟だったのだ。

 翌日も元老会議は開かれたが、長孫無忌は口ひげを震わせて、繰り返し反対を述べた。


 長孫無忌「陛下がそれほどまでに皇后を代えたいというのなら、名族より迎えなされよ!武則天は賤しい生まれです。薬売りの娘など論外です!」

 褚遂良 「こともあろうに武則天は、先帝にお仕

えした宮女です。それを皇后に招くの

は、もってのほかのことです!」


 褚遂良はこう言うと、持っていた尺を床に投げ捨てた。そして官僚を示す頭巾をとると「陛下が、そこまで無理をおっしゃいますならば、拙者は郷里に隠退いたします!」と語気を強めた。

 彼の荒々しい態度を見て武則天は顔を紅潮させるや「口を慎め!褚遂良!」と怒鳴りつける。会議は騒然となり険悪な雰囲気に包まれた。

 すると長孫無忌が「褚遂良は先帝の遺詔を受けた重臣です。罪はあれども刑罰を加えてはなりません。」と擁護したことで、どうにかその場は治まった。

 この騒動の中、于志寧一人だけは俯いたまま、目を閉じ一言も発しなかった。


 長孫無忌と褚遂良の強硬な反対のため、高宗は身動きが取れなくなり、武則天も窮地に追い込まれた。その後も彼女は陰に陽に政治工作をしていたが、表立って反対派とやり合わなければならないのは気弱な高宗である。

 ところがこの問題は、思わぬ所から意外な展開を示した。それが元老会議を欠席していた李勣の一言であった。

 彼は、後日参内した折に高宗の下問を賜り、こう述べている。


 李勣「この問題は、陛下のご家庭の問題でありましょう。あらたまって臣下に問うことでもありますまい……。」


 李勣は自分に責任が及ぶことを恐れ、高宗の好きにしたら良い、と述べたに過ぎない。しかしこの発言を、高宗は救いの言葉と考えたのである。

 李勣の脇にいた佞人(ねいじん)許敬宗も、これに便乗して「田舎のオヤジでさえ余分に蓄えができれば、新しい女房に取り替えたくなるものでさ。まして天子ともなれば、皇后を代えるのに、人からつべこべ言われる筋合いはありませんぜ。」と高宗に助け船を出した。


 ではなぜ「唐朝随一の切れ者」と称された李勣は、この時責任を回避したのであろうか。彼の腹づもりはこうであった。李勣は天才的な政治家である。その手腕は名君・太宗皇帝さえも上回り、彼をその気にさせると、国家を転覆しかねない男である。そのため周囲からは要注意人物と噂されていた。それゆえ皇帝は彼を警戒する余り、李勣を強引に左遷させたことがあった。

 皇帝自身もその左遷が、理不尽であることを知っていた。それにもかかわらず命令を下した理由があった。一つ目には、李勣があらんことを考えずにキチンと左遷の命令に従うか――つまり皇帝への忠誠心を問う試金石としたからだ。そして二つ目には、高宗即位後に李勣を中央政界へ呼び戻すことで、高宗が李勣に恩も売れると考えたからである。それほどまでに太宗に才能を恐れられた李勣だが、彼はちゃんと左遷に従い忠誠心を示した。

 ただ李勣も、太宗が自分を試していることを薄々気付いていた。何ら疑うことなく皇帝に忠義を捧げてきた李勣は皇帝の猜疑(さいぎ)(しん)を知ると落胆し、この経験から非情とも言える処世術を身につけることとなったのである。つまり、

「皇帝が自分を信頼せずに忠誠心を試す。それなら自分も危険を冒して皇帝へ忠誠を尽くすよりも、むしろ生き抜くために瓦全(がぜん)することとしよう。」

という考えである。そのため李勣はそれ以後、騒動に巻き込まれることを嫌った。だから「それなら皇帝の好きになさるのが良い。」と高宗に漏らしたのだ。

 この李勣の発言は、後に問題視されている。

 「李勣の発言によって高宗が皇后擁立に舵が切った。」として、後年李勣を激しく非難する者が絶えない。ただ武則天に生殺与奪を握られ、殺気が(みなぎ)る政界に身を置く彼の立場から言えば、この発言は的を射たものであるのだ。

 つまり李勣にとってこの時期は「どんな形であれ生き延びることが大事」と本人は考えたのである。事実、李勣は武則天の統治時代になっても活躍した。そして粛清の嵐吹きすさぶ政界をたった一人だけ生き抜き、彼は無事に天寿を全うしている。だから李勣の判断は彼にとって間違いではなかった。そう、あくまで彼にとってはである。


粛清の始まり


 西暦六五五年、王皇后は廃され、武則天が晴れて皇后に立てられた。高宗の後宮に入って四年後の春のことである。そして武則天の統治時代はここから始まった。

 高宗は、後の歴史書にも「彼を皇太子に選んだことが太宗の数少ない失策」と言われた皇帝である。世間でも昼行灯(ひるあんどん)と陰口を叩かれ、優柔不断で気が弱く、とても人の上に立つような人物ではなかった。そのため勝気な武則天は、皇后即位後すぐに政治の実権を握ることとなった。

 武則天の皇后即位は、そのまま反対勢力の粛清を意味した。

粛清とは、政治闘争の一つで、政策や組織の一体性を確保するために、反対者を追放や処刑などにより排除することを言う。まず武則天のかつてのライバルだった王皇后と蕭淑妃を、真っ先に血祭りにした。信頼に足る歴史書『資治通鑑』によれば、二人は百叩きに処されたうえ、生きたまま手足を切断された。そして酒を満たした樽の中に首まで漬けられ、数日後に二人は死んだという。

 殺害の翌年、武則天は皇太子を廃して、自らの子である四歳の()(こう)を皇太子にすげ替えた。これにより武則天は正式な皇太母となり、自分の立場はさらに強まった。


 そして武の粛清は、ただ後宮だけではなく政界にも及んでくるようになる。

 次のターゲットは恨み重なる元老に向かった。まず元老のリーダー格・長孫無忌を自殺に追い込む。褚遂良を遥か遠方のベトナムに配流する。そしてその代わりに腹心の部下である二流官吏・許経宗や李儀府を大臣に任じた。


 ここに至って高宗は、ようやく事態のただならぬ事を悟った。

 そこで高宗は、皇后武則天を追い落とすべく、自らが政変を企てた。そして当時の宰相を召し出して相談し、戒厳令発令後に武則天を皇后の座から廃する旨の詔勅を起草した。しかしこの情報はいち早く武則天の耳に入ることとなる。皇后の逆鱗に触れてしまった高宗は狼狽し、政変を全て宰相のせいにして、彼に罪をなすりつけたのだ。哀れ宰相は、反逆罪をでっち上げられた上に車裂きで処せられ、宰相の家族・親族まで根絶やしにされる。連座を被った関係者の首は長安の大通りに一列に並べられ、その長さは一キロに及んだという。

 このクーデター未遂後、高宗は全面降伏する。その後二〇年ほど続く高宗の世は、完全に武則天に独占される時代となる。関係史料を見ると、この時期に高宗は武則天よりも長生きすることで、武則天独裁の幕引きすることを考え、各地から仙薬や丹薬を求めるようになった。しかし調達した薬物に武則天は毒薬を混入したため、高宗は目も耳もそして最後には声も出せなくなり、あえなく崩御する。今際(いまわ)(きわ)に記した彼の短冊には「薬屋の娘を娶るではなかった」と書かれていたという。


 かくして唐朝の国政は全て、武則天の意向で決定されるようになり、武則天も皇后という名称を「天后」に改めた。

 武則天は皇后となり権力を手に入れていく過程で多くの人間を殺してきたが、それは家族ですら例外ではない。既に武則天は自らの栄達のために、一人娘と夫を殺害している通りである。

 まずは皇太子に立てられたのは、長男の武弘である。彼は謙虚で礼儀正しい青年に成長したが、母親の専横ぶりをしばしば諫めたので、母親は秘密裏に息子へ毒を盛った。

その代わりに立てられたのが次男の()(けん)であった。この賢はその名の通り聡明な若者で将来を嘱望されていたと言うが、道理を以って母親の政治に批判を繰り返したために、彼も無実の罪を着せて薬殺した。

 四人息子の中で、武弘と武賢は、出来の良い子であった。

 その二人ともが死んでしまい、皇太子は三男の()(けん)となった。この武顕は愚か者だった。しかし、操りやすいというので彼が高宗の後を継いで皇帝に選ばれた。これが高宗の次の皇帝となる中宗(ちゅうそう)である。実権は母の武則天にあり、中宗は大したことはできなかったが、母親に向かって「私は皇帝だぞ。その気になれば母上さえも廃位できるのだぞ。」と怒鳴った。しかしこの発言が問題となり、武則天の姦佞に妨げられた上に帝位を剥奪され、群臣の前で捕縛連行され牢屋に幽閉させられた。皇帝即位からわずか五四日目のことである。

 この後皇帝の座に据えられたのが武則天の四男・()(たん)で、これが睿宗(えいそう)である。睿宗の時には完全に皇帝に実権がなくなり、武旦は一切政治に関与することができなかった。武則天にとって睿宗は残った最後の息子であるので、下手な事をして始末せざるを得なくなると、もう持ち弾がなくなるという事情もあった。そのため武則天は、睿宗を雁字搦(がんじがら)めにし、何もさせなかった。

 相次ぐ息子の反抗を見て、武則天は「息子を選ぶよりも、自分が皇帝となるべき」と考えたのだろう。この頃から彼女自身が皇帝の位を目指すようになった。


愚民政策と密告社会


 皇帝となることを決心した武則天は、地歩を固めるため、彼女の一族を高官へ任命し始めた。しかしこのような武氏の独断専行をよしとしない人物も多かった。そして死を覚悟して皇后を諌める者もいれば、兵を挙げて、現状を力でひっくり返そうとする者も現れた。

 そんな者の中に、あの李勣の息子・()敬業(けいぎょう)がいた。李敬業は不満分子をかき集めて揚州で挙兵し、武則天を討伐するために檄文(げきぶん)を各地に()いた。

 武則天は逸早(いちはや)くその檄文を入手した。その中で「武則天の出身は卑賤だ」と書かれているのを見ると、笑いながらうなずいた。そしてすべてを読み終わると側近に、

「この文章は、誰が書いたのか?」と尋ねた。

「李勣の息子であります。」と側近が応えると武則天は、

「このような文才のあるものを登用できなかったとはな。宰相は一体何をしているのか!こんな逸材を野に残してはならぬ。」

と言うと、直ちに軍隊を派遣し、反乱を鎮圧するや真っ先に徐敬業を誅殺した。

武則天は在野の才人に目を光らせていた。そして自分の命が狙われぬよう、人々を政治的に無知な状態に陥れ、その批判力を奪おうとする政策――愚民政策を徹底させたからだ。

 また、彼女はこの反乱を契機に、反感を持つ者たちの動きを事前に察知する必要を痛感し、中国国内に密告制度を整備するようになる。彼女は密告のための投書箱を各地に設置し、容疑者を逮捕し締め上げる酷吏(こくり)を多数登用する。これらの衆人環視により人々は、いつ自分が密告されるか判らないという恐怖を社会へ植え付けた。

 また酷吏は、ならず者の出身が多く、徒党を組んで容疑者を残酷な拷問にかけた。彼らは無実であろうとなかろうと、お構いなしに拷問にかけて自白させ、次から次へと摘発していった。そして酷吏の暗躍は在野の人々だけでなく官僚にも及び、武則天の反対勢力を次々抹殺していった。


 当時の中国社会は儒教が根本思想となっていたが、その価値観は「男尊女卑」「女必従夫」という言葉に代表される通り、夫の優位性は絶対的なものである。妻は従順で貞節であればよく、才のないのが美徳とされた。この価値観は女帝・武則天にとって厄介なものであった。

 そこで武則天は女性が皇帝となって天下に君臨する根拠を、仏教に求めはじめた。そして仏典の中に記されていた「天女がいずれ天下を統治する」という一節を見つけるや、武は「この天女こそ自分である」と主張し、各地に大規模な寺院を建てるなど仏教を推進していった。

 こうして自分の出世に障害となりそうな勢力をあらかた始末した武則天は、「唐王朝」を廃止して「周王朝」を開き、自ら皇帝の位に就いた。これが「武周」と呼ばれる王朝の誕生である。

 女帝となった彼女は卑賤の出身であったことから、名門や貴族を嫌い、低い身分の出身者を積極的に登用した。そのため貴族が幅をきかせる唐代の中で「武則天の世でなければ抜擢されなかった人物」がこの時期に活躍した。中でも巧みな弁論で有名な(よう)(そう)宋璟(そうけい)の二人は、後の時代で開元の治を実現させた名宰相となる。そして武則天時代を代表する逸材の筆頭格は、(てき)(じん)(けつ)の名を上げることができる。

 狄仁傑は、筋の通った発言で武則天の信頼を得、多くの有能な人物を武則天から守り、彼らの登用に心を砕いた。また武則天が晩年後継者を武氏一族の誰とするべきか悩んでいた時、狄仁傑はこれを強く諌めている。

 これに対して武則天は「これは家族の話である。」と拒絶したが、狄仁傑は「皇帝はこの国に生きるものすべてが家族であり、宰相である私がこの問題を知らぬとは言えません。」と彼女を説き伏せた。

 結局、武則天の後継は一度廃位された中宗と決まり、王朝は狄仁傑の助言により再びと唐と戻されることとなった。武則天へも物怖じせず道理を説く狄仁傑に、彼女は厚く信頼を寄せ「国老(御意見番)」と呼んで敬意を払った。

 武則天が最も信頼した狄仁傑は、武則天より先にこの世を去るが、彼は生前から唐王朝の回復を望み、志を同じくする人物たちに唐朝復興の願いを托していた。その中でも主導的な役割を果たした者に張柬之(ちょうかんし)である。


 張柬之は、武則天が高齢となり病床に伏せるようになった頃、同志たちと行動を開始した。宮城警護にあたっていた将軍の一人を説得し味方につけていた彼は、中宗と二人で武則天が病臥する長生殿を包囲すると、彼女に退位を迫った。老いた彼女にこれを拒否するだけの力はなく、七〇五年中宗が再び皇帝となって唐王朝がここに復興したのである。

 武則天はこの年の秋に遂に世を去る。享年実に八二歳。当時の平均寿命は二七歳であるから、一人で三人分の寿命を生きたことになる。これにより長きにわたり国家に君臨した女帝の時代はようやく終わった。

 敵対するものを叩き潰し、粛清の嵐を巻き起こして権力を手に入れた武則天だが、その最期は静かで穏やかなものであったという。


人間という道具


 冒頭でも紹介した通り武則天は自らの功績を誇った。では彼女が「書き切れない」と言った功績は何だったのであろうか。

 武則天を擁護する学者は、こう述べている。彼女の統治時代の功績は、①庶民の生活が比較的安定していた。②外交上の失策が少ない。そして③武則天は世襲ではなく、才能を基準に人材を登用した。この三つが武則天の功績であるという。

 ①についてだが、確かに彼女の統治時代に農民反乱は少なかった。ただ農民反乱が少ない事が、そのまま社会が安定していた証左と言うのかは早計である。民衆は武則天に恐怖を感じ、多くの農民は畑を捨て流民となっている。しかし全国に張り巡らされた密告制度が足かせとなり、絶望的な憤りを抱きながらも反乱に同調できなかった者が多かった。また唐朝の皇族は次々と挙兵にしたが、いずれも打ち破られた上に族滅に近い惨状を呈している。それを目の当たりにした農民は、武則天に刃向かうことをやめてしまったというのが正確な所である。

 ②にある外交上の失策が少ない点も事実には違いない。だがこれも武則天が損得勘定で国政を担った結果に過ぎない。太宗さえも苦戦した高句麗を滅ぼし、百済も破り、朝鮮まで支配の手を伸ばした。しかしこの地方の経営が利益を生まないとみると彼女はすぐ朝鮮半島を手放した。このあたりの現実的な判断は、彼女の冷徹なリアリストぶりを示している。

 そして最もよく知られている武則天の功績が、③彼女は有能な人物を見つける鑑識眼があったというものである。しかしながらそれも果たして諒とすべき見解なのかと、現在でも首をかしげざるを得ないのである。

 その理由は二つある。第一には、武則天に鑑識眼があったのではなく、武則天による粛清の過程で不良人材が淘汰されたため、結果的に優れた人材だけが生き残ったに過ぎないからである。そして第二には、武則天が優れていたのは人を見る目ではなく、良い人材であれ、不良人材であれ、人の使い方が巧みであったというべきだからである。その武則天の人の使い方を一言で表せば、「徹底的に使役してから殺す」というものである。

 粛清の結果、政界人の大半は殺されてしまったため、武則天統治時代の政界は、極度の人材不足に陥っていた。

官僚もあらかた殺してしまったので、一時は朝廷に参内(さんだい)して皇帝に拝謁に来る官吏も(まば)らだったという笑うに笑えない状況に陥っている。そのため武則天は新たに多くの人物を登用した。その中には二流三流の人物も含まれていたが、武則天はなりふり構わず採用し、自らの態勢を固めるために多くの人材をフル活用した。

 そして武則天は、人材を恐しいほど冷静な判断で見極め、冷徹に使いこなした。そして最後の最後までその人物からうま味を搾り取ると、いとも簡単に虐殺した。例えば奸臣や酷吏などの二流三流の人物を、彼女は反対派の追い落としに使ったが、彼らが図に乗ったり、用済みになったりするとすぐ切り捨てていったのだ。

 例えば武則天の皇后擁立に力を尽くした二流官吏・李儀府は、反武則天派の謀殺に貢献し、その功によって彼女から宰相に任じられた人物である。しかし、後に彼は賄賂を得て私腹を肥やすようになると、武則天は彼をすぐさま罪に問うた。李儀府は「則天の罠に掛けられた」を慟哭すること数日、ついに血を()くに至った。その後も彼は歎き続け、憤を発しそのために死んだ。

 政敵を一掃する際に活躍した酷吏たちも、その末路は悲惨だった。ある者は獄死し、ある者は杖殺(じょうさつ)され、またある者は毒を盛られた。斬罪の上に路上でさらし首にされる者も多く、狂乱と憤懣の中で次々と命を落としていった。

 その典型例は(せつ)(かい)()という僧侶であろう。薛懐義は皇帝となる前から昵懇の間柄にあり、仏教を介して武周王朝の創建に尽力した功労者である。しかし武則天の寵愛を笠に着て、横柄な態度を取り始めると、武則天はあっさりと薛懐義に自殺を命じた。「(よわい)五〇に近い身で、この(はずかし)めにあおうとは!」と薛懐義は武則天を(うら)んだが、それが彼の最期の言葉となった。誰だろうが用済みとなり、害悪となりそうな人物に、武則天は一切容赦しなかった。

 また武則天が貴族名族を目の(かたき)にしたため、古来数百年間永続していた貴族名族という家系は、この時代に一旦その価値を失っている。そして彼女は世襲に依らず有能と思われる人材を盛んにスカウトした。しかし、武則天がスカウトした人物は、人格的にも能力的にもどうかと思われる人物も多かった。この事例からも判るように、彼女自身には人材を見る目はなかった。ただ大量の人材を登用し集まった玉石混淆の人材の活躍振りを冷徹に査定し、無能と判断されると容赦なく殺した。そして死の断捨離の中で生き残った者こそが、結果的に有能な人物であった。それに過ぎないのである。


死者は語る


 銘文の最後に今一度、武則天の功罪を述べておきたい。

過去の人物の評価を定める指標として、その人物の品性や徳性や、すぐれた働きや成果という功績という二面が挙げられるのが一般的である。

その上で武則天の徳性であるが、彼女は自らが皇帝になるため、家族六人のうち四名を殺しており、彼女は人徳を問うレベルにはない。ならば彼女の功績は、徳性の欠落を上回るものでなければならない。ただこれまで指摘したように、武則天による三つの功績の中で、二つまでは彼女の功績ではなかった。それでは残る功績としての官吏登用はどうであったのであろうか。

武則天の評価として挙げられるのが、有能な官吏の抜擢である。

 古来の豪族・貴族による世襲制から、科挙という選抜制へという流れの中で見ると、残した功績はある程度肯定的に評価できそうである。それは彼女によって家柄ではなく実力を重視する官吏登用へという足がかりを作ったからである。

しかしそれは試験という客観的な選抜方法ではなく、判断基準は武則天自身の主観に頼ったため、その判断は時に独善的であり、時に恣意的でもあった。

科挙の場合は、仮令(たとい)不合格となっても、再起三起が可能であり、及第すればその後は余程のことがない限り(とが)められることはない。だが武則天の場合、その時々の言動を一部始終監視した上に、武則天の眼から見て外れた言動と判断されれば、それは即刻死を意味した。かかる文字通りの生死を賭けたサバイバルレースによって国政を安定させたにしても、それがいつ死を賜うかも知れないという官吏の「恐怖の代償」として作られた表面上の安定であり、それを徳政や善政と呼べる筈がない。


 武則天による殺戮は、健忘症の現代の我々に、何を語っているのであろうか。それは、人としての正しい行動を見失った者が、自らの地位を高め、それを守ることを執着すると、天下国家がどうなるのかということを示している。

また武則天は徹底して人を信用せず、何かの目的のために使用する道具と考えていた。だから無用と化した道具はすぐに破棄した。そういう冷酷さが極限まで突き進めた人物が統治者となると、社会はどうなるかということを示している。

 死者の証言は多面的である。無字婢の主のために殺された官僚・人民合計二〇万人は、その声を聞こうとする者には聞こえる声で、語り続けているのである。               (完)




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