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バターナイフ

作者: 一ノ瀬 孝

 涼しい夏にバターナイフが一つ、朝は澄んだ銀色に夜は鈍い飴色に皿の上で光っていた。

 僕は面の狭く太い三本足の円卓の上で、焼き切っていないパンにバターを塗り、そう長くは取れない朝御飯を態とゆっくりと食べる。蒲団の上でここ五年、ずっと寝ている母を起こさぬように手早く身支度し、玄関に溜まっている新聞を一瞥もせずに居間に置いて家を出た。紙の様に頼りない脚で階段を下り、約二キロ離れた大学へと向かう。その道中にある人へメールをした。


 昔、まだ母が溌溂としていた頃、父は妹を連れて出ていった。僕には事実としての記憶、いや記録しか残っていないが、母が妹の親権がどうとか父と口論していたことは記憶として今でも思い出される。母は専業主婦だったため、父と別れてからはパートの収入と父の残した離別金一千万円を崩しながら生活していた。とても裕福とは言えない状況下で母が僕の十歳の誕生日に買ってくれたのがバターナイフだった。今でもあまり見掛けない左利き用のナイフを皸の塗れた手でキーボードを叩き、背中を丸めて身を乗り出し、老眼鏡も役に立たない程衰えた眼で画面を凝視していたのを、感謝と虚しさと「おそれ」の混じった何とも形容しがたい感情で見つめていた。母が僕を見ることはなかった。

 正直なところ、僕は小説が欲しかった。役への没入が心の孔を埋めてくれたからだ。世界への旅は欠落した感情を体験させてくれた。だが、金銭的余裕がない、そもそも母がそんなものを買ってくれるとは思っていなかったので期待はしていなかった。

 母がバターナイフを選んだ理由は忘れてしまった。その頃はパンの方が米より安く、毎朝トーストを食べていたがナイフは一つしかなかったから、の様な単純な理由だった気がする。ただ、誕生日に何が欲しいかと聞かれたことはない。

 そのナイフを今尚使っているのだが、一時だけ僕の元を離れたことがあった。

 中三の夏、妹が家に帰って来た。父が亡くなったのだ。父は母と別れた後、福岡の実家へと向かっていた。強引に家族と引き離した父と幼い妹との間に軋轢はそこまで無かったようだが、亭主関白は健在で、あまり良い印象は抱いてなかった。言うならば、成長の前借りをしていたのだ。しかし、帰って来た妹の表情は暗かった。家族と引き離したとはいえ物心のつく前から育ててくれた肉親であるため、当然ではあるのだが。

 妹の話を聞くと、父は亡くなった当日も変わらず無地のネクタイに堅いスーツとズボンだったらしい。父は通勤途中に事故に巻き込まれた。妹はその知らせを聞いて直ぐに向かったが、既に息は絶えてしまっていて顔は判別の出来ない程壊れていたらしい。祖母は幾分か前に亡くなっていて、妹は親族ではあるもののまだ小学生であったため、身元確認は母に頼もうと訪ねてきたのだ。

 僕は高校受験があったので、通夜の際には向かうとして母と妹だけが福岡に向かった。別れ際に妹が僕のナイフをせがんだ。後で訳を聞くと、父は妹の五歳の誕生日にバターナイフを二つ買ったらしい。罪悪感からなのか父は忙しい毎日の中でも、三人時には二人で必ず朝食を取っていたようだ。朝食は勿論パンである。つまり、バターナイフは妹と父を結びつけるものだったのだ。妹はそのナイフを遺品として出すことを決めていた。しかし、いくら家族と引き離した亭主関白の父とは言えど、父は父である。記憶の風化、況してや忘却を容易く出来る訳もなく、僕のナイフを父の代替物、つまり薄い父を想起させるものとしてリハビリに使おうと考えていたのだ。

 福岡での通夜が終わり、母と僕が京都に引き揚げた時、妹もついてきた。面倒な手続きは母が済ませてくれたが、妹と僕の間には亀とアキレスのような隔たりがあった。二歳で僕達と離れたとは言え自分を産んでくれた母には直ぐに打ち解けていたが、記録としてしか残っていない僕は他人同然である。妹は現在に至るまで言うことは無かったが、あの時僕のナイフをせがんだ理由の一端はそこに在るのかもしれない。

 僕はその後、高校受験に成功し、バイトをしながら単調な日々を過ごしていた。妹は転校した学校での生活を頑張りながら、五十路を超え日々の仕事に疲弊しきっている母に代わって家事を熟していた。祖母の手伝いをしていて自然に覚えたらしい。

 妹が小六になり中学受験のために塾に通うようになってから、家事は僕が担うようになった。そんなある日、居間に僕と母二人だけの時、皿洗いをしている僕に対して椅子に腰掛けている母が瞼を下ろして小声で言った。

「いつもいつもありがとね」

僕は直ぐに謝するべきだった。しかし、僕は立ち尽くす他なかった。皿洗いを急いで終わらせ母に近寄ったが、既に眠ってしまっていた。

 そのまま時は経ち、妹は中学受験、僕は大学受験に成功した。

 そして大学に入る直前、母が倒れた。医者曰く過労によるものだが、衰弱が激しく意識を取り戻すかどうか分からないらしい。現に今尚ベッドの上である。父の通帳に残っていたお金は殆ど生活と受験に回してしまっていたためヘルパーを雇える訳もなく、妹と二人で母の面倒を見ることになった。妹は五年の間一度も怠けたことがない。来年に大学受験を控えるにも関わらず、毎週水曜日に必ず寮から帰ってきて僕の代わりに母の面倒を見てくれる。今日がその水曜日である。


 講義を終え、家に帰る途中駄菓子屋に立ち寄った。妹の大好きな鯣が激安で売っているのだ。駄菓子屋を出て、何気なく空を見上げると底抜けの青さが少しくすんでいた。家のある方向を見ると黒煙が空を塗り潰す様に上がっている。僕は急いだ。しかし、その甲斐なく母と妹は亡くなってしまった。

 後日、消防隊の人から煤のこびりついたバターナイフを渡された。遺体の手に握り締められていたらしい。

 僕は孤独になった。

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― 新着の感想 ―
[良い点] 離婚をきっかけに、家族全員が不幸になった後味の悪い結末に、主人公の今後を思うと複雑な心境になりました。 まるで呪われているかのようにいつも家族の傍らにあるバターナイフが、一般的にも、実際に…
[良い点] いい小説だね!
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