初夏の雨物語
静かな夜である。
温かい風はたっぷりと湿気を含んで、人肌のような温もりでまとわりついている。雨が落ちてきた。細くまばらな雫は、それほど人を不快にさせる物ではなかったが、今まで静まり返っていたと思っていた夜道に、不特定多数の足音を響かせる事は充分に出来た。その武士はまだ若いようだ。大きく荒い息づかいに、整えられていただろう髪も相当乱れていた。刀はいつでも抜けるように少しだけ手をかけて、足は絡まりそうになりながらも、目的を定めて走っている。
時々後ろを振り返りながら、近づいてくる足音に追い立てられるように、絡まりながらも足が勝手に進む。この武士を追っている一団も、そろそろ視界に入る所まで近づいていた。その者達もやはり武士だが、中には雇われたと思われる浪人の姿もあった。若い武士が、風で飛ばされた防火用の桶に足を取られて転ぶ。その間に追手の一団はその武士に追いつき、ぐるりと囲んだ。一斉に刀を抜く音が響く。
「貴様酒松の家臣か……。馬鹿な奴だ、静かにしておれば、命まで落とさずにすんだかも知れぬのに」
「何を……オレは……まだ・・・死ぬ訳にはいかん!」
若い武士が、辛ろうじて立ち上がり、勢いよく刀を抜いた。しかし足が言うことを聞かず、焦点が定まらない 一団の刀は、その武士の頭上できらめいた。次々に襲い掛かってくる刀を押し返しながら、体は逃げ道を探していた。一団の浪人の一人が、若い武士の刀を叩き落とした。若い武士は、手を延ばした先にあった桶を投げつけ、なんとかして脱出を試みる。しかし、浪人の刃はそのまま、一瞬見せられた背中を一直線に割いて行った。
「……籐吾……」
振り返った若い武士が、掠れた声でそう言った。
「九郎……」
切った浪人が、聞き取れない程の声でそう言った。ほんの一瞬交わした言葉だった。若い武士は止まったような間を見つけて、切られた体を裏道に滑り込ませ、体を折るように闇に溶けた。
一瞬立ち往生した一団は、すぐにゆっくりとした足取りで後を追う。切られた若い武士は、路地から飛び出し、大通りに出た。視界はぼんやりとして、自分の足がふわりと浮いているような感覚を覚えた。そんな意識の元で近くに人の声を聞いた。それも一人二人ではない、女や男の騒然とした声である。武士はどうやら何か集団の中に飛び込んで行ったようだった。一時騒ぐ声が続いたが、その後しっかりした温かい声が響いた。
「みんな落ち着いて」
遠くであの忌まわしい足音が聞こえてきた。人の手がぐったりとした自分の体をどこかに移動する。
「御免!」
「何の騒ぎか!」
「こちらに我等が追っていた賊が参ったと思うのだが」
「賊?さてそのような者は影さえ見ておらぬが」
「……そちらの駕籠、改めさせて頂きたい」
「無礼な!駕籠の家紋が目に入らぬのか!」
「なに……」
「よい、駕籠を開けなさい」
張りのある温かい声が言う。若い武士は意識を一生懸命緊張させ、その言葉に聞き入った。
「こ、これは!」
「こちらは、目下藩主市村様の姫君であり、隣藩藩主北原鷹月様の御正室であられる凛様である」
『凛の……姫君……』
その若い武士の緊張の糸はそこで切れた。そして、そこから先は闇に包まれたのだった。
昨日の雨は、城の庭を一段と引き立てる為に降ったのか、細かい露が紫陽花の葉を輝かせ、温かさで昇った水蒸気が、靄をかけ、一層な雅びを演出していた。
「お父上、兄上におかれましては、幾分もお変わりない様子で、凛は嬉しく存じます」
にっこり笑って頭を下げる。久々に帰って来た娘の姿に、城主市村明時は何度も頷いていた。六十過ぎのこの藩主は、戦国の世を生き抜いたとは思えない穏和な顔をしており、目の前にいる凛を見る目は、それに輪をかけて優しくなっている。凛を本当にかわいく思っているのだ。
「どうじゃ、北原殿とは仲良うやっておるか?」
「父上、この顔を見れば聞くまでもないでしょう。普通は嫁ぐと痩せると聞いておるが、凛の場合は……」
「兄上、太ったとおっしゃりたいのですか?」
じろりと睨むと、おどけたような表情でそれをかわした。兄の馮眞は鷹月より一つ年上である。明るく活発な所は鷹月によく似ているが、違う所を上げるとすれば、武芸を好むよりは、城下の経済の様子や政を率先して挑むと言うように、行政面で富んでいる所であろう。凛に言わせるとしたら、鷹月よりも頭が良くって、常識をわきまえている、自慢の兄なのである。
「凛の方は跡継ぎの心配もないのだし。こちらも早くわしを安心させてほしいものだ。のう馮眞?」
「父上!」
馮眞があわてて叫ぶので、凛はちょっとびっくりして二人を見比べた。
「と……いう事は、兄上にもとうとう?」
知らん顔をする馮眞。明時はちょっと声を顰めて嬉しそうに言う。
「我が領地の中にある知行地の直参旗本殿の娘でな。こちらの陣屋に住んでおられる。わしも見た事があるがなかなかかわいい娘であるぞ」
「何と申される方ですか。兄上?」
とっても楽しそうに聞く凛。兄をやり込められる事は、こういう事でなければない事だ。案の定、馮眞はいいじゃないか、と言うように眉を寄せて凛を見るが、いやに楽しそうで意地悪に自分を見ている凛に、渋々口を割った。
「江戸詰め直参旗本、酒松の息女、結殿だ」
「そうでございますかぁ。兄上、良うございましたね」
これは本当に良かったと言う気持ちを込めて言ったつもりであった。しかし、馮眞は凛から顔を外に移したがその顔には、本当に迷惑そうな色が浮かんでいた。凛はそれが自分へ対しての顔色ではなく、縁談そのものに対しての色のようで、凛は少し気になった。そんな事にいっこうに気付かない父は、今度は鷹月の近況について聞き始めたので、その事はそのまま凛の心の隅に残されたのであった。
「小春、伊助」
城の奥にある屋敷が、姫時代の凛が暮らしていた所である。まだ兄に嫁が来ないので、この屋敷は誰も使っていなかった。その関係で、里帰りした凛は、また懐かしいこの屋敷に滞在する事になったのである。正装と呼ばれる何だかややこしく着込んだ着物をさっさと脱いで、打ち掛けだけの部屋着に着替えた凛は、屋敷の中の奥の部屋へ入って来た。それを待っていたように小春が凛を見て声をかける。
「お方様。奥でございます」
凛はそれに頷いて、その部屋のもう一つ奥の襖を開けた。そこには今朝方来る途中で助けた武士が、寝かされており、その傍らで怪我の手当てをし終えた伊助が、様子を見るように座っていた。
「伊助、どう?」
「怪我は見た目程ひどくはありませんでした。それに」
「それに?」
伊助は武士を見たままポツリと言う。
「この傷、どう見ても本気で殺そうとした切り方じゃありませんよ」
そこに小春が桶に水を持って入って来た。三人は蒲団の中で、疲れ切った顔で寝ている武士を見つめた。ふいに凛が真面目な顔をする。
「ねえ、小春」
「はい?」
凛はじぃっと武士の顔を見つめた。
「この人…………男前よねぇ」
「お方様っ!」
「じょ、冗談よ。やだ小春本気になって怒らないでよ」
と、いつもの通りの笑顔で凛は小春を宥めた。と、その時、武士の瞼が少し揺れた。
「あ、起こしちゃったかしら」
「それだけ笑ってれば、起きるかもしれませんよ」
完全に機嫌を損ねた小春がやり返す。
「気がつきました?」
伊助の声と同時に瞼が開いた。開いた途端、そのまま勢い良く身を起こして、背中の痛みに呻いた。
「ダメよじっとしてないと。背中が裂けちゃうじゃない」
「お方様、怖い事言わないで下さい」
小春が慎重に手をかけて武士を寝かせる。寝かされながら武士は三人の顔を緊張した面持ちで見
比べた。
「あの・・・あなた方は・・・・」
「大丈夫、こちらは北原のお方様だ」
伊助が打ち掛け姿の凛を指す。途端自分が逃げた時の様子がハッキリと思い出された。
「凛姫様でございますね。あの時は危ない所、お助け戴いてかたじけなく存じます。しかし拙者、急ぎの用がございまして、こうもゆっくりしておられません」
と、また起きようとする。今度は凛直々に手を掛けて押し戻した。
「だから今起きたら背中が裂けちゃうって言ってるでしょ!無理しないで。ね、もし良かったら私達に話して見ない。力になれると思うわ」
武士は少しためらって、一人一人をゆっくり見た。
「あまりおすすめしたくはないけど、取り合えず、お方様は頼りになるお方ですわ」
「なんてったって、ケタ外れの行動力をお持ちの姫様だから、安心して相談するといいですよ」
「どういう意味なのよ、それ」
「褒めてるんじゃないですか。やだなぁ凛さん」
笑顔でごまかす伊助に、疑い深く睨む凛。それを横でクスクス笑いながら見ていた小春が、きょとんとしている武士を見て、『ね?』と言うように頷いた。武士は一人だけやたら深刻な気分だったのが、何だか可笑しく思えてきた。
「皆様を信じて、お話しいたします」
凛は小春に部屋の回りにいる者をすべて追い出すように命じた。ロウソクの燃える音だけが聞こえて来る頃、武士は口を開いた。
「私は、直参旗本大目付、酒松沖春様の家臣で陣屋勤めをしております滝川九郎と申す者でございます」
「九郎さんね」
凛はそう聞き返して頷くと同時に、兄の縁談相手の家だと言う事にも気を止めておいた。
「我が父は、殿の知行地の一切を預かる役職の者で、屋敷やこの土地の行政などを任されております。すでに御承知かと思いますが、この度殿の姫君の結様が、市村の嫡男馮眞様と御縁談の話が進んでおります。実際にこちらと段取り当を請け負っているのが我が父なのですが。 縁談のお話は何の心配もなく進んでいます。しかしその縁談の日取りが近づくにつれて、こちらの城下及び私どもの知行地内で、不穏な動きが見られるようになったのです」
「不穏な動き?」
三人がお互い顔を見合わせて、繰り返した。
「はい、凛様は北原におられましたので気付かれてはおられないと思いますが、近頃町中に行商人や浪人者の姿がやたらと目立つようになったのです」
確かに。北原の城下は旅人の通り道になっているので行商人や浪人が出入りするのは珍しい事ではない。しかし市村の城下には、決まった行商人が数人出入りしているだけで、ましてや浪人が集まって来るなとどは考えられない事である。
「もしかしたら、今度の縁談の騒ぎに便乗し、誰かが何かを企んでいるのではないかと、我が父が気付きましたそこで父の代わりに私が探っていた訳でございます」
探っていた九郎が襲われた事によって、その企み事が実在する事が分かる。三人は身動きしないで聞き入っていたが、話終わると同時に納得して唸るとそれぞれの顔を見た。
「何か、面白くなって来ましたね。凛さん」
にんまりした顔で言う伊助。その伊助の頭部に凛の手が飛んで来た。
「バカね。九郎さんにしてみれば、殺されそうになったのよ。それにこれは市村にも重大な事態をもたらす事になるんだから、大変な事なのよ」
「へい・・・」
凛に叱られてシュンとする伊助。その横で小春が一生懸命笑いを堪えている。深刻な話をしているのに、なんだか緊張感がなくなってしまうのが、この三人の特徴である。この九郎もそんな雰囲気に心が晴れたのか、少し顔が綻んだ。
「実はね、うちの兄上はあんまり乗り気じゃないみたいなのよ。まぁ、もともとあんまり女の人とか興味ないらしいし」
と凛が言うと、九郎も同じような口調になった。
「ええ、結様も口にはしませんが、あまり乗り気ではないようで・・・」
そこですかさず伊助が聞いた。
「この縁談話、止めた方がいいんじゃないんですかい?好き同士でもないし、乗り気でもないんだったら意味ないじゃないですか」
「そーいう訳には行かないのよ。私だって北原に嫁ぐの嫌だったけど、結局収まってるでしょ。今度の縁談は私が鷹月の所に嫁いだ事よりも、もっと大きな意味を持つ縁談なのよ」
「でも凛さんは、結婚前から鷹月様の事好きだったんじゃないですか」
結局自分の事がきっかけで二人は結婚した訳で、少しスネたように伊助は言った。
「伊助殿。これは凛姫様の言う通りなんです。今回の縁談は幕府と藩が関係しているんです。つまり、市村様は大名といえど外様。譜代、新藩より徳川への結びつきは弱いのです。もしかしたら謀叛を起こす心配もないではありません。そこで徳川の血を引く者や、徳川ゆかりの者が双方の一族に入れば、謀叛の心も和らぐというものです。我が殿酒松様は、三河からの家臣ですから、縁談を取り止めと言う事態になれば、市村の藩が危なくなるのです」
「そうそう、奥州の伊達様も姫を徳川様に嫁がせているし、加賀の前田様も、上杉様も徳川と縁婚の関係があるし、結構大変なんだから」
へえっと、伊助と小春が頷いた。別に二人が物を知らない訳ではない。町の者ならこんな事は知らされないのが普通の時代である。むしろ凛の方がよく知っていると言った方がいい。九郎は改めてこの姫がごく普通の姫ではない事を感じた。
「ですから、縁談を中止する訳には行かないのです。方法はその輩が何を企て、何をするのか突き止めて、それを潰すしかないのです」
「今朝方襲って来た人達がそうなのね?」
「そうだと思います。実は今朝は二度目なのです。一度は知行領内ででした。それも、今朝とは違う顔触れの者にです」
つまり事を企てている者が、酒松側と市村側の両方に入り込んでいると言うのだ。そうなると下手に動くと敵が有利になる危険性が出てくる。それなら・・・と、凛が伊助の方に顔を上げた。伊助が気付いて凛を見れば、目をきらきら輝かせてニッコリ笑いかけているその表情は皆が言うに、『伊助殺し』と呼ばれる凛の定番の笑顔であった。
「凛さ・・・ま?今まさか・・・」
苦笑いで返す伊助。
「やっぱり伊助も思ったでしょ。それがいいわよ」
小春の方にも笑って確認を取ると、近くにあった筆と紙を取った。サラサラと何か書いている間、小春と伊助はお互いの強張った顔を見合っていた。
「はい」
「はい、って・・・」
表に自分の印を書いて、それを伊助に渡した。
「これを鷹月に届けてね」
何でもない事のようにさらっと言う。
「でも、鷹月様はこの頃公務に励んでおられ、城下へ 出る事も止められたとの事ですから・・・」
「だからいいのよ。この頃忙しすぎてってぼやいてたのよ。外に出られるきっかけがあれば、大喜びで飛び出してくるわ」
「でも・・・」
「伊助ぇー、私の言うことが聞けないって言うの?」
ジロリと凛の流し目に合い、ウッと詰まる。所詮凛に逆らえる訳もなく、伊助はブツブツと文句を言いながら書状を懐に入れた。
「頼んだわよー」
「へい、それじゃ」
と、襖を開けて出て行った。
「お方様、とうとう伊助さんも手玉に取ったんですね」
「なーにを、使えるものは使わなきゃね」
御機嫌に笑う凛に、しょうがないと言うように小春は溜め息をついてしまった。その前で、今いち状況を判断しえない九郎が、きょとんとしたまま凛に声を掛けた。
「あのー、誰が来ると?」
「鷹月よ、北原鷹月」
みるみる顔が青くなって行く九郎。やはり当たり前じゃないといいたげな凛。小春は青い顔の九郎に同情の苦笑いを向けたのだった。
市村の城下は、一言で言えば雅びな町であった。海に面した北原の城下が海産物や流通と言った商売が中心な活気のある町であれば、その南方面にある平野ばかりの市村は、織物や陶芸が主流でもの静かな雰囲気が漂っていた。また副産物が豊富な藩なので、食べ物の種類がやたら多いのも目についた。
「凛がよく食べる訳も、料理がうまい訳も分かるような気がするなぁ」
きょろきょろ見回しなから呟いているのは、木綿の洗いざらしの着物に、紺の袴。髪を後ろで一つに結んだ、お馴染みの姿の鷹月であった。朝にも係わらず、この城下では人が仕事場に走る姿はほとんどない。それなのに食べ物屋はもう開いていて、どこにも人が入っている。こんなにのんびりとした町があるんだなぁ、と自分の町と比べて感心していた。
「そう言えばオレも腹減ったなぁ・・・。財布もちゃんと・・・アレ?」
懐に手を入れて動きが止まる。青ざめて、袂を探り、懐を何度か叩く。
「しまった・・。着替えた時に置いて来ちゃったんだ」
いつも支度は凛がするので、自然と財布が入れてある事に慣れていた。つまり殿様ボケである。
「桂介にも内緒で出てきたから、あいつが追って来る訳ないし・・・」
町のいたる所から美味しそうな匂いがしてくる。鷹月は恨めしそうに指をくわえて生唾を飲む事しか出来なかった。惨めな殿様である。とにかく凛に合うまでお預けなのだ。鷹月は凛と会う場所に急ごうと足を早めた。が・・・・
「療輪寺って、どこにあるのかなぁ」
見渡してみるが、近くに寺らしき物は見つからない。それにお腹が空きすぎて歩くのもつらい。仕方がないので、食べ物屋の人に聞く事になり、余計腹の空く思いにかてられたのだった。
同じ頃。北原の武家屋敷通りで、懐かしいあの声が響き渡っていた。
「栗原殿!栗原殿はおられるか!」
栗原の屋敷に飛び込むなり、玄関に向かって叫んでいるのは、いつも心配そうな顔をしている中村であった。しばらくすると奥の方からゆっくりと女性が出て来た。
「まあ中村様。どうなされました血相を変えて」
「ああ、これは圭殿。桂介殿はおられるか?」
ゆったりとした物腰で、息を切らしている中村に、座るように勧める。穏和な顔で優しそうな声で話す。常に落ち着いている所は、やはりあの桂介の母であると実感する。
「それが、殿が・・」
「殿と言うと、鷹月様ですか?」
「はい、居なくなられたのでございますよ!」
「またですか・・・」
呆れたように声が引っ繰り返る。そして、やたらと困っている中村の様子を見て、ちょっと吹き出してしまった。それを見て、またムキになる中村。
「圭殿!笑い事ではございませんぞ!」
「誠に失礼いたしました。なんせ、中村様があまりにも大袈裟に慌てておられましたもので」
「圭殿・・・」
「でもね中村様。わが夫の竜介殿も先代城主月影様に同じように泣かされ、あなたも鷹月様に同じように泣かされているとすれば、家臣泣かせの家出は北原の血筋といえますでしょう?一と二の例があれば、嫌でも三にはその対処が身についているとは思いませぬか?」
中村は、穏やかに落ち着いて言う圭の態度と、さき程から一向に姿を見せない桂介に、何か意味がある事に気がついた。
「と、言う事は。桂介殿は・・・」
にっこり笑って頷くと、圭は言う。
「鷹月様と桂介のいない間、何とか頑張って下さいね」
北原と栗原の結びつきは、さかのぼる事戦国時代に及ぶ。常に北原の片腕として仕えて来た栗原は、先代城主の北原月影が三十後半で病死すると、その側近であった栗原竜介もすぐに病死し、その後栗原は政から一切手を引いたのである。ところが、その息子で嫡男である鷹月は幼なじみでもあった栗原桂介を、側近として城に迎えたのである。
中村はその中継ぎの側近であったが、鷹月のやる事があまりにも突拍子もない為、この頃から急に窶れた。しかし、この圭の動じない笑顔を見ていると、やはり自分は北原と栗原には勝てない。そう思ってしまう中村だったのである。
茶店のお婆さんの言った道を歩いて来たら、何だか城下を抜けてしまったようである。
「確か手紙には、市村に入ってすぐにあるから、って書いてあったのになぁ」
腹が減りすぎてもうろうとしているせいか、それとも生まれつきの呑気が出ているのか、変に思いながらも足はお婆さんの言う通りの方向に進んでいた。ようやく寺の石段に着いた。やれやれと思いながら振り返って見ると、市村の城がはるか遠くに見える。
「お嬢様!」
突然石段の上の方から女性の叫び声が飛んできた。鷹月は自分がお嬢様でもないのに、自分の事かとびっくりして石段の上を見上げた。と、同時に夕日の色に似た着物がヒラリと空を舞っていた。一瞬見惚れてしまった鷹月だったが、それが急速に自分の方に落ちて来たので、慌てて手を広げた。
「ワァッ!な、何だ!?」
ドサリと両腕に重さが伝わると、鷹月は支えながら石段に足を折った。座り込んでから状況を把握しようと、それを覗き込む。
「あ、お嬢様、ね」
両手を鷹月の肩に掛けてほとんど気絶していたが、その顔は女にはうとい鷹月でもかわいいと思ってしまう娘であった。
バラバラと音がして、鷹月の回りには武士と浪人の入り混じった一味が、取り囲んでいた。
「こんな女性一人に、たいそうな人数だな」
男達は物も言わないで、鷹月目掛けて刀を突き出した鷹月は片手だけで男達の攻撃をかわし、何人かを石段の下に落とした。主格の男が舌打ちをして首を振る。途端に一味は退散した。ただのかどわかしではなさそうだ。鷹月が一味の背中を目で追っていると、また石段の上から女性の叫び声が飛んできた。
「お城様!お怪我ございませんか!」
「ええ、おみつ。・・・こちらの方に」
おみつと呼ばれた侍女風の女が、刀を片手に娘を支えている鷹月に一瞬警戒したが、娘が支えられながらゆっくりと立つと、娘を受け取って鷹月にお礼の会釈をした。
「奴らに心あたりはあるのか?」
鷹月の言葉に二人は不安そうに顔を見合わせたが、おみつの方が首を振って答えた。
「いいえ、私もお嬢様も心当たりございません」
「どうやら武家のお嬢様らしいな」
何気なくそう聞くと、二人にちょっとした狼狽の色が走った。
「申し訳ございません。その所は御容赦を」
鷹月は軽く頷いた。
「いや別にいいんだけど。実は人と待ち合わせをしているんだ。療輪寺って言うのはこの寺でいいのかな?」
また二人が顔を見合わせる。今度は純粋にびっくりしている顔である。
「え?ここは永明寺ですよ。療輪寺は市村の城のすぐ近くにございますが」
声もでなかった。お嬢さんの指差す、遠い市村の城がまた鷹月の視野の中でどんどん遠ざかって行く。お嬢さんは茫然としている鷹月をどう取ったのか、感謝の気持ちを口にした。
「あの、助けて戴いた何かお礼をしたいのですが」
「食べ物・・・」
「えっ?」
「食べ物ぉ・・・」
と、意味不明に連発して、その場にへたり込んでしまった鷹月であった。
「おっそいわねー、伊助ちゃんと手紙渡したのかしら」
療輪寺の庭先では、町娘姿の凛がいらいらしながら門の方を覗いていた。療輪寺の位置は、北原の領内から来れば城下に入ってすぐ目に付く所にある。まさか迷っているなどと考えもつかなかったのだ。
「やはり、御城主様はお忙しい身なのでは・・・」
比較的軽傷だった九郎は、体をしっかりと包帯で固めていた。そのかいあってか、ほぼ日常の生活は何とかこなせるようになり、今凛と一緒に鷹月を迎えに来ているのである。
「北原のお城には、優秀な家臣がいっぱい揃っているから、鷹月ごときが抜け出しても差し支えないのよ」
悪気なくいいのける凛に、唖然としてなま返事を返す事しかできなかった。一体このお方様は自分の旦那をどう思っているのだろうか。九郎は、江戸の方でも名声の高い北原の若殿が、どういう殿か分からなくなってきた。
「そうだ九郎さん」
「はい」
「昨日聞き忘れたんだけどね。その背中の傷、切った人に心当たりないかしら?」
そのままさらっと言うので、一瞬九郎もさらっと聞いてしまった。理解する間が少しできてか、声がぎこちなくなってしまった。
「どういう・・・・事ですか?」
凛は伊助が怪我について言っていた事を説明した。
「もしかしたら、九郎さんを殺したくないって思っている人かも知れないって事でしょ?だから」
「・・・いえ、全く」
妙な沈黙が寺の庭に流れた。木の葉の揺れる音の中、九郎は何か格闘しているような表情で押し黙っていた。
「いいわ、別に気にしないでね」
ニッコリと後味のない笑顔に、九郎もホッと頷いた。
「あの、私の方も聞きたい事がありまして」
「なにかしら?」
「伊助さんって、忍びなのですか?」
「簪を作る人よ」
「はぁ?」
凛は髪にさしてあった、銀の平打ちの簪を抜いて、九郎に見せた。
「これね、伊助が初めてあった時に私にくれたの。一番気に入ってる簪なのよ」
嬉しそうに言う凛に、九郎はただ相槌を打つだけだった。
「伊助には元太って言う弟がいてね。私も鷹月も巻き込んで、大変な事件を暴き出したの。結構危ない目にあった事件だったけど、私や鷹月を危機から救ってくれる鍵を持ってたのが、元太。私達と一緒に鷹月を救い出してくれたのが伊助だったの。私が知ってるのはそれだけ。その後鷹月が伊助をどこかに連れて行ったみたいだけど 私が次に顔を見た時はもうあんなになってて、これがなかなか便利なのよ」
「そうだったんですか」
やはり伊助は忍びの修行を積んでいるのだ。お庭番にしては軽いが、切り傷の事といい、応急処置の手際といい、よく物を知っている。確かに役立つ人物である。と、感心している九郎の横で、凛も頷いて言う。
「内緒でお団子買って来てもらったり、城下に手紙を持ってってもらうと早いのよね」
初めはこの第一印象をずたずたに破ったお姫様に、ただただびっくりしていただけだったが、これだけ見せられればもう慣れてしまう。九郎は苦笑して凛を見た。
「姫様」
「凛でいいわよ」
そう言った時、寺の門に伊助の姿が見えた。
「あ、伊助だわ」
門の真下に立った伊助は、凛の姿を見ると軽く頭を下げた。
「遅いじゃない。ちゃんと手紙渡した?」
門の方に近づきながら凛が言う。伊助は何だか居心地が悪そうにしている。
「ええ、ちゃんと渡したんですけど・・・」
「おっかしいわね。まだ来てないのよ。まさか迷ったんじゃないでしょうね」
「はぁ・・・あの、凛さん・・・実は・・・」
「桂介がついてないと、鷹月は道さえちゃんと歩けないのかしら、まったく」
一生懸命言い掛ける伊助には気付かず、凛は一人で怒っていた。九郎はその伊助の後ろに誰かを見た気がして凛に言った。
「あの、門の向こうにいる方は?」
九郎の指す門の角に立っている人影を見つける。凛はその見慣れた背恰好を確認するなり、みるみる顔から血の気が失せて行った。
「ゲッ、桂介!」
もともと表情豊かな桂介ではなかったが、それに輪を掛けて無表情に凛を見ている。明らかに怒っている証拠だ。
「凛さん!まったく、私まで市村の城下に繰り出さなければいけなくなるなんて思いませんでしたよ」
「で、でも。桂介は呼んでないんだから・・・・」
青くなっている凛が、助けを求めるように伊助達に手を伸ばして来たが、伊助も九郎もヒョイとその手をかわす。あまりの凛の慌てた姿に、九郎は意外な光景だと言う顔をしていた。
「桂介と申す方は、どのような方なのですか?」
「鷹月様も凛さんも手玉にとれないお方です」
九郎と伊助が納得しながら話している前で、凛も一生懸命弁解していた。桂介は疲れた溜め息をつき、凛の弁解を止めた。
「ま、呼び出してしまった事は、とやかく言ってもどうしようもありません。殿は・・・若様はまだ到着していないようですね」
いつもの穏やかで落ち着いた口調に変わった桂介に、やっと凛はホッと肩を撫で下ろした。たぶん、今までの桂介の態度と今の態度とどこが違うのか、伊助や九郎には分からないだろう。分かるとすれば、凛の方がいつもの調子に戻った事ぐらいだ。凛は取り合えず、今まで起きた事を桂介に聞かせる事にした。
永明寺の近くの食べ物屋の前で、鷹月が満足そうな笑顔で腹を叩きながら礼を言っている。二人
の女性の方も丁寧にお辞儀をすると、鷹月は笑顔のまま手を軽く上げて別れた。女性二人は、療輪
寺に向かって歩いて行くその背中をしばらく見送っていた。
「そういえばお嬢様。あのお方の名前、結局聞かなかったですわね」
「そうね。でも私の事も何一つ聞かなかったわ」
お嬢様は、クスリと笑ってもう一度、鷹月の姿を目で追った。
「いいお方だわ。自由で気儘で明るくて。見ているだけでおおらかなお心が伝わって来るよう」
おみつが素直に頷いた。
「お嬢様も、いつもはそうでしたよ。少しこの頃はお忙しいせいか・・・」
おみつがお嬢様の顔を見ると、そこには鷹月の姿を眩しそうに見つめる目があった。
「またお会いできるような気がする」
「お嬢様」
諌める口調でおみつが言う。その瞬間、お嬢様の顔から輝きが消えた。分かっていると言うよう
に頷くと、少し寂しそうに言った。
「もう帰りましょうか」
「はい」
鹿脅しが響く。染まり始めた空に従って、その舟宿の部屋に明かりが灯された。今までその部屋からは三味線の口数少ない音が漏れていたが、明かりと共にピタリと止んだ。
芸者の膝から頭を上げた男は、芸者に物を取って来てくれと頼み、部屋から出した。
「逃げたあの若い武士は、まだ見つからぬか?」
男は易者姿である。障子の外で微かに動く人影に話掛ける。
「はい、あと一歩と言う所まで追い詰めた先に、藩主市村の姫君、お凛殿の駕籠に出会いましたが・・・・もしや姫君が奴をかくまったかもしれませぬ」
芸者が回廊を回って男のいる部屋の正面に出てくると丁度部屋の障子が閉まった時だった。中に入った男は身なり整った武士で、先頃九郎を襲った一団の中に見た顔だった。しかしこの洗練された警戒心。無駄な動きの一つもない身のこなし。言葉にするのは難しいが、鷹月や桂介などとは全く違う雰囲気を持っているのだ。どうやら、本当の武士ではないらしい。
「姫君は変わったお人柄との評判。行きずりの武士をかくまう事もやりかねない」
易者姿の男は、切れ上がった目を煙草入れから、武士へと移した。その化粧をしたような青白い顔からは、歳という物を感じさせない。
「ま、そちらの方は後で考えるとして。姫の方はどうした。今日は参拝日であったろう」
「は、それが・・・」
「失敗した事は分かっている。姫のかどわかしに成功しておれば、今頃城も屋敷も慌ただしい動きを見せているはずだ」
「実は、姫を階段から突き落としたまでは良かったのですが、その段の下にいた浪人に邪魔をされました」
「それは、我等の?」
「いえ、今日集まった中にはおりません」
易者姿の男は、考えるように目を宙に飛ばした。
「この計画・・・。すんなり行かぬかもしれんな」
「は?」
聞き返した武士だったが、独り言と気付いて黙った。
「ところで、頭領。あの浪人者ですが」
「籐吾の事か・・・」
「は、頭領とはどういう知り合いが存じませんが、油断いたしませぬように。聞いた噂によると、あの者、この土地の出とか。いつ裏切るか知れません」
易者姿の男は、フフンと鼻で笑って答えた。しかしその答えに武士は幾分の不服も覚えていない。
「では私はこれにて」
「少ししたら戻る」
「は」
男はスッと障子の外に消えた。と、同時に向かいの戸が開き、芸者が包みを持って入ってきた。易者姿の男はゆっくりと煙草を置くと、側に座った芸者の膝に、また頭を預けた。
「あー、やっと来たわ」
凛の呆れた声で、固まって話していた桂介、伊助、九郎は、門の方を見やった。
解放感溢れた笑顔で、鷹月は一歩抜かしに階段を駆け上がりながら、大きく手を振って来た。
「いやぁ、悪い!間違えて永・・何とか寺って所に行っちゃってなぁ」
参ったよーっ、と手を後ろに回して凛の方を見た時。そのまま桂介と目が合った鷹月は、そのまま固まってしまった。それから、笑っていた目がゆっくりと大きく見開かれて行き、口は何か言いたげに動き出した。
「け、け、桂介!なんだ、なにが、・・いや、なんでここに居るんだ!?」
桂介はいたって落ち着いて、鷹月を冷やかに見た。内心ホッと胸を撫で下ろしている事は悟られないでいる。
「凛さんのお供に市原へ行ったハズの伊助が、殿・・・いえ、若様の棟の方から出て来るのが見えたんで、捕まえて問いただしたんですよ」
桂介の後ろで、小さくなって上目使いで鷹月に詫びをしている伊助。
「まったく、凛さんがお里帰りをしたので、少しは平穏な日々が送れるかと思っていたのに」
「よ、呼び出したのは凛だぜ!」
「出て来たのは鷹月でしょ!」
「どっちもどっちです!」
言い合いになりそうだったが、桂介の一喝にまたシュンと萎れる。
「事の旨は、我が母上にお伝えしてますから、きっと今頃中村様が何とかしている頃でしょうね・・・」
そのままそっぽを向く。そんな態度に鷹月はおっかなびっくり凛に寄った。
「桂介・・・怒ってる?」
「そうとう怒ってるわよ。だっていつも見たいに小言を言わないもの」
二人は遠巻きに桂介に寄りながら、引きつった笑顔で迫った。
「桂介、ごめんなさい。怒んないでー」
「ごめんなぁ。・・この埋め合わせはさ。帰ったら必ずやろう・・・と思ってるから。ね?」
ツンと無視している桂介と、そのまわりで一生懸命機嫌を直して貰おうと取り繕う鷹月と凛。そんな様子を傍らで、九郎が静かに見ていた。思わず目を細めている。鷹月は城主、凛はその正室、桂介は側近。たとえ幼少の頃は仲が良くても、大人になれば、殿は威厳を重んじ、家来は平伏して神のように扱う。そんな格式を重んじていた時代である。
それなのに、この三人にはまったくそういう物を感じなかった。本当に気心の知れた、友達である。
「少し前までは・・・・私達も・・・」
何気ない呟きだったが、鷹月の耳に届いたようだ。ふと、真面目な顔に戻って九郎を見た。
「この人か?」
「そう、滝川九郎さんよ」
「くろう?そりゃ苦労しそうな名前だな」
自分で言っておいて、自分でうける鷹月であった。みんなの顔に疲れた色が登る中、九郎だけが鷹月の前に片膝をついた。
「北原の若殿様には御機嫌麗しく。恐悦至極に存じ奉ります。拙者直参旗本江戸城大目付の-----」
何やら行々しい挨拶が始まると、鷹月は慌てて手を振った。
「おいおい、今は北原の殿様じゃない。ただの浪人の鷹月。鷹月って呼んでくれればいいさ」
当惑している九郎の横から、ヒョイと伊助が顔を出す。
「そうですよ。オレだってお忍びの三人様は、鷹月様、桂介さん、凛さんって呼んでるんだぜ」
「お前は城内でもそう呼んでるじゃないか」
「それ言っちゃお終いですよ」
鷹月にすがるように見る。横を向く鷹月に笑顔が漏れた。つられるように皆が笑う。寺の庭に一時平穏な時が流れた。
通りの家々に臼ら明かりが灯り始めた。先程まで家先で遊んでいた子供も、母親の呼び声で、おのおのの家に飛び込んでいく。そんな様子を見ながら、鷹月達は凛の案内で、寺よりももっと城寄りの道を進んでいた。ついた所は一軒の小じんまりとしたお屋敷だった。ささやかな門の奥には白い壁を基調にした質素なつくりだがやさしい感じの屋敷がある。どうも武家の屋敷ではないらしい。
「ここは?」
鷹月が聞くと、凛がニッコリ笑って答えた。
「私の本当の実家。生まれてお城に迎えられるまで、ずっとお母様と二人で住んでいた家なの」
多少古ぼけてはいるものの、庭には手入れの後が見られる。
「小春」
足音を聞きつけて、中から小春が顔を出した。掃除をしていたらしく、姉さん被りの姿である。
鷹月を見ると、すぐにそれを取り、頭を下げた。
「おかえりなさいませ。たった今掃除がすんだ所でございます」
「さすが小春。お母様が城に上がってからは、何だか寂れた感じだったけど、また生き返ったようだわ」
感心しながら見回す凛に、にっこり笑って『恐れ要ります』と頭を下げた。そして頭を上げた時に、目の前に桂介の姿を見つけると、小春はちょっとびっくりして凛の方に目をやった。心配する小春に、桂介自身が和やかに頷く。小春はほっと息をついた。小春は桂介の事が好きであった。その事は、鷹月も凛も知っていたが、二人共その仲を取り持とうとはしなかった。桂介には短い間ではあるが、愛する者がいた。しかし桂介は大した事も出来ない間に、その妻を無くしてしまったのだ。その事で一度は北原を捨てようとした桂介である。まだ記憶は生々しい。たとえ鷹月であっても言うに耐えない分野なのである。その中でも小春の事も桂介の事も良く知っている凛は、鷹月以上に心を傷めていた。そんな二人に小春は申し訳なく思いながらも、気にしないように振る舞っていた。それでも小春は、鷹月の後ろを歩く桂介の広い背中を見つめながら、思わず微笑んでしまうのであった。
「九郎さんの話は分かったが・・・・。その前に、いくら政略の縁談であっても、二人共乗り気じゃないってのは、どういう事なんだよ」
鷹月も事の事情と成り行きを、ここへ来る道のりの間に聞いた。庭に向いた居間に、ドカリと座り込むと同時に、九郎に聞いた。
「九郎さんの言う通りなら、二人共企て事には関係ないんだろ?結構いい縁談だと思うぜ。姫君にしてみれば小さくても安定した城下を持つ市村の正室だし、凛の兄君だって、徳川の直参、旗本でも格式ある家柄の姫君をもらうんだぜ」
全員が最もだと頷く。
「何か他に事情があるのかも知れませんね・・・」
桂介がそう言う。暫く考えてから、伊助が顔を上げたと同時に鷹月も顔を上げた。
「姫がブスだとか?」
「もしくは市村の兄が不細工だとか?」
いい閃きだといわんばかりに、ハッキリと言うと、今度は九郎と凛がキッと顔を上げた。
「我が姫様はどこに出しても惜しくない器量良しでございます!」
「兄上は、鷹月なんかよりずっといい男よ!」
そうですか、と二人はシュンとした。一向に考えても、適切な答えが出そうにもない。そんな時は、いつも決まっている。皆の視線が桂介に集まった。
「九郎さん」
「はい」
桂介の目がしっかりと九郎に向けられ、声も公務の時のような張りのあるものに変わった。
「縁談の方はもう本決まりな訳ですね」
「はい、なかった事にするには、すでに遅すぎます」
確認したように頷く。
「よく考えて見れば、私達の知っている情報は何一つありません。憶測の段階であるか、事がどれだけのものなのか。そこで九郎さんに頼みたいのですが」
「はい、なんなりと」
「敵の手に落ちてくれませんか」
一瞬、九郎の動きが止まった。凛と鷹月が思わず腰を浮かせて桂介の方を見る。
「おい桂介。それはちょっと大胆過ぎるんじゃないか」「大丈夫です。九郎さんの身の安全は、私と若様と伊助で守るんです」
それには鷹月も伊助も異論なく頷いた。ただ鷹月は慎重さを重視する桂介にしては、大胆な発想だな、と思ったのである。きっと桂介の事だから、計算しつくした結果なのだろうが。
そして九郎の方はと言うと、すぐに言われた事を理解し快く頷いた。
「分かりました。・・・でもあの。その代わりと言っては何ですが・・・」
穏やかだった表情に、何か思い詰めたように眉の間にシワを寄せる。鷹月はそれに気がついて、少し九郎の顔を覗き込んだ。
「できれば、市村側の一味に捕まらせていただきたいのです」
桂介が何も気にせずすんなり認めると、九郎はホッとした、と言うより、余計に表情を固くした。何か事情がありそうだな、と鷹月は九郎の様子を密かに読んでいた。
「鷹月?」
いきなり凛の突き刺さるような声が飛んで来て、鷹月の目の焦点が部屋に戻った。
「ん?」
「さっきから桂介が鷹月の事呼んでるのよ。何ボーッとしてんのよ」
見ると、凛や伊助、桂介と小春が自分の方に意味ありげに見ていた。どうしたものかと、動揺した鷹月だったが、ポンッと口を突いて出てきたのは、
「いや、ちょっと・・さぁ。・・・今日市村の外れで出会った娘さんが、かわいかったなぁって・・」
しまった、と思って口を押さえる鷹月。凛はキョトンとしている。
「ほ、他の女の人の事を・・・。どういう事ですか!」
「わっ、どうして伊助が怒るんだよ!」
凛が怒るのは仕方がないと思っていた鷹月だったが、実際に顔を真っ赤にして叫んでいるのは、伊助である。
「凛さんと言う美人な妻がいながら、それでも他の女性がいいんですかい!」
「ちょっと待て!伊助、オレはただかわいい娘さんがいたって言っているだけでなぁ・・・」
「これだから、権力者は嫌なんでえ。これじゃ、凛さんがかわいそうだよ」
鷹月の言い訳には耳も傾けないで、伊助は一人悲しみに浸りながら凛を見た。が、凛は信じられないというような表情を、だんだん笑顔に変えて行った。
「へえー、鷹月が女に見惚れるなんて。私鷹月って豪傑一本野奴だと思ってたけど、そういう方にも興味があったのね。それとも、その娘さん、そんなにかわいい子だったの?」
「凛さん!」
ムキになる伊助なんか無視して、凛は鷹月にその女性の事を興味深々で聞き始めた。鷹月の方も別に言い訳がましくなく、日常会話のように話始めた。
「凛さんは、そんな自分の亭主が自分以外の人に目を向けても平気なんですかい?」
凛ちゃん命の伊助は、悲痛に裏返った声で聞く。冷静に桂介が答えた。
「凛さんを甘く見てはいけませんよ。ああやって若様とその女性がどういう仲なのか、どういう人なのか聞いちゃってるんですよ。でも、凛さん本当に気にしてないみたいですね」
鷹月だって別に凛にのせられているつもりはない。後ろめたい事じゃないのだから、話しても害がないのは当然だ。こんな事で凛が怒るはずはない事も分かっていた だんだん冷静になってきた伊助も、二人の様子にしょうがないかな、と溜め息をついてしまった。いい加減に割って話を止めさせた桂介は、この様子を気にもとめようとしないで、ずっと考え込んでいる九郎に気付いた。
「九郎さん?どうかしましたか?」
「えっ・・・?いえ、大した事ではございませんから。では、私は早々にも・・・」
あたふたと立ち上がる九郎。
「お、おい。はやる気持ちは分かるけどさ、奴らだって人気がなくならなきゃ動けないと思うぜ」
「私もそう思うわ」
九郎はそう言われて、中途半端に立ち上がった体を一瞬止めてから、ちょっと俯いてまた座り直した。
「私、明日お結さんの所に行ってこようかな」
そう呟いた凛に、桂介も頷く。
「そうですね、やはり念のため二人にも乗り気でない理由を聞いた方がいいでしょう」
「兄上の方は簡単に済むわ」
あっさりと言ってくれるので、全員が一瞬呆気に取られた。どうして、と鷹月が聞こうと口を開きかけた時。
「御免!」
玄関の戸が速やかに開く音がして、家の中に大きく張りのある声が響いた。それを聞くなり、凛が嬉しそうに手を口許へ持って行き、立ち上がる。玄関へ向かう凛を目で追ってから、男達は自然と互いの顔を見合わせてしまっていた。
「おお凛。遅くなって済まん。近頃決め事が多くてな。藩内の仕事だけでも次から次へと・・・」
廊下に大きな足音と、凛との会話が響く。障子が勢い良く開くと、鷹月達は『アー』と納得の言葉を洩らした。正絹の着物に身を包み、シワ一つない袴。乱れない髷姿で、目元に知性が溢れている若い男であった。
「市村の嫡男で私の兄上の馮眞様」
凛の紹介がなくても、全員が分かっていた。
ただの若侍にも見える姿だが、やはり何か一筋光る物を持っている。馮眞は鷹月にもそんな光り輝く物を見たのか、初対面のはずであるのに四人の中に即座に鷹月を見つけ出し、その前に座った。
「凛から鷹月殿が参られておると聞いて、ぜひ拝見いたしたいと思い参上つかまつった。いやはや、政の噂はさる事ながら、さすが凛が自慢の殿ですな」
「どうも・・」
しわしわの木綿の着物と袴で、髪も無造作に束ねただけの姿の鷹月は、さすがに褒められているのか厭味なのか困惑してしまった。しかし、馮眞の本当に嬉しそうな笑顔に、悪意はありそうにないと感じ取ると、鷹月の顔も笑顔になった。
「私も市村の若殿に会いたいと思っていた所。しかし馮眞殿もさすが凛の兄君。城を抜け出してくるなど、大胆不敵な事で」
「ちょっと鷹月。自分と一緒にしないでよ。ここは母上の住居だって言ったでしょ?お城とこの屋敷は裏から繋がってるの。もちろん父上が母上に会いにくる為に作らせた道だけど。兄上はその道を通ってここへ来たのよ。鷹月みたいにお城の壁をよじ登って、脱出するような下品な兄上じゃないんですからね!」
下品まで言われてしまった鷹月。ツンと口を尖らしている凛に呆気に取られながら、鷹月と馮眞は互いに顔を付き合わせて、それから笑ってしまった。
「まったく、昔から遠慮と謙遜をしない妹です。鷹月殿の苦労、察しまする」
「こっちも今までの苦労、察します」
今までの笑顔には、どこか藩を背負う同士の社交的な笑顔であった。しかしその言葉の後、突然馮眞は手にした酒樽をちょっとかざして、いたずらっぽく笑った。
「近づきの印にいかがです?藩特産の美酒を持って参ったのです」
その顔は、ただの若者の顔であった。やはり凛の兄君だな、と心の中で苦笑して、鷹月はその申し出をあり難く承知した。
「これからも、仲良うお付き合いいたす」
「こちらこそ」
こうして、鷹月と馮眞は一気に打ち解けてしまったのである。飲み出してすぐ、馮眞は鷹月の隣で静かに座っている桂介に話かけた。
「たしか鷹月殿とは幼馴染みとか」
「はい。御縁があったのか、一度北原から遠ざかったのですが、またこうして殿の片腕を任されております」
馮眞の差し出す酒を丁寧に受け取りながら、にこやかに言う。
「凛が申すに、桂介殿には鷹月殿も勝てぬそうですな」
「勝てないんじゃなくて、頭が上がらないんです」
横から口を挟んだのは凛。ちょっと鷹月が睨むが、一向に気にしないように笑い返す凛であった。
「確かに、他の誰に怒られても気にしないが、どうも兄上と桂介には、怒られると堪えるんだよな。あ、兄上の場合は途中で泣くからかなぁ・・・」
鷹月様!、と桂介が諌めた。桂介の視線が鷹月に刺さると、鷹月はあわてて口を止めた。
「うらやましい限り。私には幼い頃から気心の知れた家臣などいませんからな」
少し寂しそうに言う馮眞。側で見ていた凛は小さく言葉を洩らして、馮眞を気づかうように見た。馮眞は、市村の殿の一人息子であった。その為か、生まれてすぐに嫡男と決まり、初めての子と言う事もあって丁重に扱われ、育てられた。まず物心ついた時の相手は、もっぱら大人だけであった。時々家臣の子供達も来るが、恐縮するばかりで馮眞と遊ぶ事はなかったのである。そんな事が原因で、馮眞には幼友達などいなかったのである。そんな馮眞にもある時無邪気にキキョウの花を手渡した少女がいた。馮眞十四才の時、母と共に城へあがった凛である。
それから毎日のように自分の所へお菓子や花や本などを持ってくる凛に、少しずつ馮眞の心は子供らしさを取り戻して行った。つまり馮眞には、凛の存在は忘れる事の出来ないものであった。しかし、今は凛も馮眞の側には居られない身である。
「兄上・・・」
急にしんみりしてしまった。鷹月も桂介もなんと言っていいものかと、口を開けなかった。
「わ、我が殿のお結様は、必ずあなた様の支えになるお方でございます!」
突然隅で黙っていた九郎が、そう早口で捲くし立てた全員が九郎を見る。しばらくして馮眞がおだやかに言った。
「ではあなたは酒松の?」
「はい、お目に掛かれて恐悦至極に存じます。拙者は酒松の家来で、滝川九郎と申します」
静かに頷く。
「なるほど、何となく分かりかけてきたな。凛、お前昨日の縁談の話の折り、煮え切らない態度の私を気にしていたのだな?」
今日ここに鷹月がいると言う事を馮眞に告げ、ここへ来るように仕掛けた事がバレたようだ。凛はちょっと舌を出して上目使いで馮眞を見た。核心を切り出したのは、桂介だった。
「ではやはり。この縁談には乗り気ではないと?」
本当に困った顔で馮眞は答えた。
「乗り気ではない、と言うか・・・。自信がないと言うか・・・・」
「はっ?」
ちょっと俯いて、顔を指で掻いた後、思い切って鷹月を見た。
「実は、私が人を好きになれるのか・・・不安なのだ」
今までの知的で機敏な雰囲気だった馮眞が、一転して自信なくシドロモドロになった。その変わり様に、ポカンと見ていた鷹月と凛は、当惑して顔を見合わせた。
「この縁談がそんな次元で取り行われる物ではない事はよく承知しているが、私は今まで・・その、人を愛する・・・というか・・・好き?になる事と言う事は・・・・・経験のない事で・・・」
つまり馮眞は、嫁にくるのは結構だが、その人を好きになれるか不安だと言うのである。納得した鷹月は頷きながら答える。
「そんな事ないんじゃないか?オレだって凛なんか全然好きじゃなかったしさ」
「そうよ、私だってこんなのと一緒になるなんて絶対思わなかったわ」
夫婦の会話とも思えない会話に、伊助も小春も笑うのを堪えるのが精一杯だ。しかし、四人はいたって真剣だ。
「凛はどんな人間の心も開かせる、不思議な娘だ。凛の様な姫であるのなら私だって心配はしない」
弱り切ったように馮眞が言うと、桂介がニコリと笑った。
「馮眞様。大丈夫ですよ」
「えっ?」
桂介は穏やかに笑いながら凛を見た。
「馮眞様は今までだれも好きになった事はないと言っておられましたが、あなたは人を愛した事がありますよ」
「・・凛、ですか?」
確かに馮眞は、凛には心を開いている。
「別に凛さんが特別って訳ではありません。凛さんも他の女性も同じのはずです。大丈夫ですよ」
馮眞は桂介の以前の経験の事は知らない筈だ。だが、桂介の自信に満ちた温かい言葉に、馮眞は不安をふっ切ったようだった。
「そうかも知れん。・・いや、そうなのだろう」
それから凛に向き直る。
「お前・・・本当によい所に腰入れしたものだ。お結殿にも、そのように感じてもらえるような男になろう」
「はい、兄上なら絶対になれます。いいえ、なれなくても、そのままで大丈夫です」
凛があの最高の笑顔で、馮眞に頷いて見せると、馮眞も凛を見ながら笑顔で頷いた。鷹月も桂介も頷き合い、それから全員は夜がふけるまで話合い、飲み合ったのだった。
とっぷりと闇に静まり返った丑巳時。藩士達の住む武家屋敷の広小路は両側を高い塀で囲われ、少々のいざこざなどは、屋敷に影響のないように作られていた。その通りを数人の浪人者が一つの駕籠を囲んで静かに進んでいた。滝川九郎はその駕籠の中で、隙間から漏れる月明かりを見上げていた。口は布で縛られ、手足もきつく縄で縛り上げられている。ムシロで覆ってある駕籠なので外の様子は見えなかったが、そのまわりには何人もの腕の立つ輩が取り囲んでいる事は、その研ぎ澄まされた空気で感じ取れた。
「籐吾・・・」
物言えない口を微かに動かして、呼び掛けてみた。自分のすぐ横に着いて歩く、その指の長い大きな手は、かつて自分の刀を預けた事もある手であった。隙間から見ている内に、今頃になって背中を一撃された傷みが頭に伝わって来た。昨日ならば身の上を案じて神経を尖らせていたが、今日の自分の後ろには仲間がついている。そんな気持ちが安心感を導いたのか、そのまま意識はゆっくりと駕籠の揺れに紛れて行った。
前方に駕籠を追いながら、鷹月と桂介はほろ酔い気分で歩いていた。と、言っても本当に酔ってはいない。馮眞の御陰で多少は酒気を帯びてはいたが、この時間帯に武士の酔っぱらいなら、怪しまれる確立は低いだろうという二人の読みの芝居である。
「多分、九郎さんは、ああなる事を予想していたんですね」
桂介の言葉に、鷹月も静かに頷く。この武家屋敷の通りを、城に向かって走り抜けようとした途端、九郎はまた怪しげな武士達に取り囲まれた。不信がられないように少し逃げて抵抗すると、一人の浪人が見事な身のこなしで、九郎の背中を一撃にした。武士達がその崩れ落ちた九郎に刀を突こうとすると、その浪人が鋭い声で『殺すな!』と、一喝し、そのまま身動きの取れないように縛り上げて駕籠に入れてしまったのだ。
「あの浪人、ただの浪人じゃないようですね」
「うん、しかしあのまわりの武士達も、なんだか怪しいぜ。雰囲気がオレたちとは違う。本当に武士なんだろうな」
様子を伺いながら言うと、桂介も静かに頷いた。駕籠は十字路を抜ける所だ。二人はまだ手前の石燈籠の影で見守っている。
十字路には不気味なほどの静けさが充満している。
「桂介・・・」
「はい、これはもしかして」
二人は頷き合うと、ゆっくり十字路を渡り出した。中央に入った時、二人の肩ごしに小さな刃物が飛び交って来た。瞬時に身をひるがえして、それぞれ物陰に飛び込む。鷹月は近くに刺さったその刃物を抜いて、それが小刀風の両刃の手裏剣である事を確認した。対角の角に隠れている桂介に頷いて合図を送り、刀の柄に手を掛ける呼吸を合わせて、二人は同時に物陰から飛び出し、路地の中央で背中合わせに構えた。しかしそれっきり襲って来る気配は無くなっていた。
「無駄な戦いはしない。出来た忍びどもだぜ」
「若様、それより。やられたようですよ」
駕籠の行った方向には、既に暗闇のみが支配していた次の角まで二人は走って見たが、駕籠の姿はどこにもない。
「ちっきしょう!」
「困りましたね。これじゃ九郎さんの命が・・・」
あせる二人が、望みを繋ぐ様に辺りを見回していると、
「鷹月様、栗原様?」
今まで人気のなかった所で、それも真夜中に女の声で呼び止められたら、誰だってびっくりするだろう。二人も思わず叫びそうになったが、振り向いてそこに小春がキョトンとして立っている姿を見つけてまた驚いた。
「小春!?何やってんだ。こんな夜中に」
「はい、お方様の御用で。何でも早急に反物を十本程用意したいとの事で。馴染みの反物屋からお借りして来た帰りでございます」
そういう小春の手には、大きめの風呂敷包みが収まっている。
「凛の奴何考えてるんだ。こんな物騒な時に小春の一人で遣いに出すなんて。それに何で反物がいるんだ?」
「さぁ、何かお考えがあっての事と思いますが」
「反物屋も反物屋だ。どうして送って行かないんだ。まったく」
そう怒っていた鷹月だが、その怒りはどうやら駕籠の行方に向けられているらしい。それに気付いて小春は、自分の背後を見た。
「もしかしたら、さっきの-----」
即座に桂介が小春を覗き込む。
「さっきのって、駕籠を見たんですか?」
「はい。こちらへ歩いて来る時、その路地を曲がって右の方のお屋敷に入って行きました。・・・あの、それって九郎さんの乗った----」
不用心に普通の声の大きさで話す小春に、桂介がシッと言って、その小柄な体を自分の方に引き寄せた。小声でも声が届くほどの近さだ。思わず真っ赤になって俯く小春。
「あの屋敷に入ったんですね?間違いありませんね?」
「は、はい」
返事が上擦っている。それに風呂敷包みを握る手にも力が入っている。と言う小春の事など一向に気付かない桂介は、小春を引き寄せたまま鷹月を見た。
「あの屋敷ですね・・・」
鷹月は頷いて、屋敷の門を見た。
「オレ少し調べてみるよ。小春が偶然に駕籠を見たとしても、忍びなら口封じに殺すかもしれない。桂介、お前一緒に帰ってやれ」
「しかし」
「大丈夫だよ、オレは自分の身ぐらいは責任が持てる」
それを聞いて少し苦笑した後、アッサリと承知した。
「分かりました。充分お気をつけて」
と言う訳で、小春にとって幸運と言おうか恐縮と言おうか、突然桂介と二人だけになる事になった。鷹月の方は、もうサッサと屋敷の方に向かっている。どうしていいのか分からない小春は、必死に事を整理しようと考え込んでいた。
「では行きましょうか」
桂介がニッコリ笑って、小春を覗き込んだ。ギクシャクした態度で首を縦に振り、桂介の斜め後ろを着いて行く。実は小春はただの娘ではなかった。ある山の奥深い里の忍びの村に生まれた女である。幼少の頃よりそれなりの修行を積み、それから父の仕事を手伝う為、江戸に出てきたのであった。しかしその父も、敵の手に落ち、自ら命を絶った。他の仲間も苦戦に強いられ、結局ほとんど手を汚す事はなかった小春は、潜伏先の大名屋敷でそのまま奉公を続けたのである。その裏で江戸の仲間達と一緒に悪に溺れる者の抹殺などに腕を使っていたのであった。そしてある日、北原の正室から自分に侍女の依頼が来た。当の屋敷の家老が、信頼できると言う事で北原に推薦したのだ。それを知った小春は、北原へ上がる時には、自分の身に染み付いた忍びの技は一切捨てる決心をしたのである。ところが、北原の殿も正室も、すぐに危ない事に首を突っ込みたがる性分の人達である。そして家来の桂介までそれに引っ張り回されている。そういう理由でどうしてもの時には、小春も身を削るしかないのだ。今回も、駕籠を偶然見つけたと言うのは嘘で、鷹月達が見失うのを心配して、こっそり見張っていたのである。小春は言おうか迷ったが、やはり言えそうにもない。
「小春さん?」
桂介は北原の家臣の中でも名門の家柄。なのにこの人はただの侍女の小春にまで丁寧な口を聞いてくれる。今も、緊張した面持ちの小春をどうにか和ませようと、いろいろと話題を投げ掛けてきている。小春は、思い切って桂介の顔を見上げた。
「小春さんって、元々江戸の人なんですか?」
穏やかな目で小春を見る。やっぱり赤くなってしまう江戸の屋敷から、凛の側へ来る為北原の城に入った時であった。鷹月に挨拶をした時、その傍らに桂介がいた。ただ鷹月の言う事に笑顔で頷いているだけだったが、そのなにもかも安心させるような雰囲気に、つい意識してしまった事を覚えている。
「小春さん?」
「え?は、はい。そうです」
「江戸からこのような田舎へ来たのでは、何かと退屈でしょう?」
その問いに、本気で首を振る。
「いいえ、殿も奥方様も本当に私如きをよくして戴いて身に余る思いでございます」
「そうですか?私にはどーも家臣など眼中に入れていないようにしか思わないんですがね」
小春の顔が少し綻ぶ。
「ま。そんな事ございません。ただ少し形に外れている所があるといいましょうか・・・」
「ははは、物はいいようですね」
本当に面白そうに笑う桂介に、あわてて言い返した。
「いえ、そういう意味じゃありません。栗原様いじわるです」
「いやいや、別に小春さんをからかった訳じゃないんですよ」
それから桂介は、またいつもの和やかな笑顔をたたえると、本当に嬉しそうに言った。
「褒めて戴いて、嬉しいんです」
桂介の笑顔は、まるで自分を褒められたかのような満足そうなものだった。やはり桂介の中では、鷹月が一番のようだ。一度だけその座を女に譲った事があるが、その後は鷹月へ完全忠誠である。この先、鷹月以外の者が一番になる為には、鷹月が死んだ時だろうが、多分桂介も後を追うだろうから殆ど回ってこないだろう。結局小春には見込みがないと言えようか。どこかで諦めの溜め息を尽きながら、それでもそんな桂介だから、いいんだろうな。と、思ってしまう小春であった。
鷹月はその大きな構えの門を見上げた。その回りの屋敷は、どれも格式のある構えの屋敷ばかりだ。他の通りに建つ屋敷と比べると、建て方の様式が若干違う。どうやら、この屋敷の通りには戦国からのゆかりの家臣達が住んでいるようである。
「『吉田』と言う者の屋敷か。どうやら歴代の家臣の屋敷らしいが。まさかここの者が企んでいるなんてなぁ」
なかなか大きい声の呟きである。それにこんな夜中に見知らぬ屋敷の門を見上げて言うことではない。只でさえ、よからぬ噂の中、どの屋敷も警戒網を敷いている時である。鷹月がじっと考え込んでいると、吉田の屋敷の真後ろにある屋敷の門が開いた。
「貴様!その屋敷の前で何をしておる!」
振り返ると、警戒した顔の門番がいる。始め鷹月は自分の事だとは分からずに、ボーッと門番の顔を見ていたが、その攻撃的な視線が自分に向けられている事に気がつき、ゆっくりと自分の方に指を持って行った。
「オレ?」
「お前以外に何者もおるまい!怪しい奴め、観念しろ」
「?え?ちょ、ちょっと待てよ。オレは別に・・・」
と、言っている間に後ろ手に捕まれ、強引に背中を押されながら、門の中に連れて行かれてしまった。
ガチャン・・・と、南京錠を閉められた音である。狭い部屋に、やたらと大きく響く。鷹月の身柄は、その狭く暗い、病的な牢屋に入れられていた。
「おい、本当に怪しいもんじゃないんだってば」
格子にしがみつくように顔を出して、怖い顔で睨んでいる侍を見上げた。
「こんな夜更けに屋敷の門前をうろつきおって、怪しくないという方が変であろう。ここは赤井様の屋敷。騒動があったとあれば、藩中の笑い者になるからな」
「・・・赤井って誰?」
「呼び捨てにするな!御家老、赤井道時様だ!」
牢屋じゅうに響く大声で怒鳴る。思わず身を竦める鷹月に、もう一度睨んでから、荒々しく足を踏みならして去って行く。
「悪かったよ。じゃ、さ、馮眞殿にでも聞いてくれ。市村馮眞殿・・・おい、聞けよ。おい!」
足音も完全に聞こえなくなった。ムッとしながら顔を歪めて、大きく溜め息をつく。それからドカリと寝っ転がって天井を見上げると、その隅の天井板が動いた。
「何やってるんですか、鷹月様」
「遅いんだよ、伊助。あれよあれよと言う間に、ここへぶち込まれたんだ。帰ったら馮眞殿に伝えてくれよ」
文句たらたらの顔で伊助に言う。しかし伊助は面白そうに笑っている。
「そんな事言って、逃げようと思えば逃げれたんじゃないんですかい?」
「まぁな」
また少し笑ってから、伊助は一通の手紙を下に落とした。
「さすが、お前は仕事が早い。凛の小間使いじゃなかったんだ」
「今はそれが本業になりつつありますがね」
その手紙を受け取って、鷹月は手を振った。
「どうせ暇そうな所だしな。今日中に目を通しておく。いいか、絶対馮眞殿に伝えるんだぞ」
「分かりました」
天井板が閉まると、もう人の気配も感じなかった。鷹月は明かりの取れる所を探し、所望の場所に落ち着くと、伊助の落とした手紙を開いた。それは九郎の様子を見届けるために吉田の屋敷へ潜入した伊助の報告書だ。それには、事は予定通りに進んでおり、九郎は奥の牢屋に入っていると書かれていた。襲った者の中に、籐吾と呼ばれる浪人がいて、九郎が殺されずにいるのは、その浪人がいるからだそうである。鷹月は遠目ではあったが、突き上げられた刀を押さえた浪人がいた事を思い出した。
「九郎さんが、市村の方に捕まりたいと言った理由は、これか?」
宙を見てつぶやいてから、また目を落とす。しかし後には、比較的落ち着いているとだけで、めぼしい情報はなかった。しばらくじっと考えていた鷹月であったが、再び格子から顔を出すと、大声で怒鳴った。
「おーい!さっきの男、おーい」
暗闇としか言い様がない。どんなに目を凝らしても、何も見えない。九郎はどのくらい暗闇を見つめていたかただ背中に格子の角と、そこから流れ込む風の動きは感じ取れていた。それともう一つ。格子を挟んで向こう側に、同じようにもたれている籐吾の気配もあった。どのくらい時間が立ったか、初めに沈黙を破ったのは籐吾であった。
「お前、なぜ自分から飛び込んで来た」
低く静かな声で、九郎だけ届く。
「一度あんな目になったのなら、同じ時刻に出歩けばまた同じ目に会うとは思わなかったか?」
「それはオレのセリフだ。どうしてお前がここにいるのだ。あれから、お前はこのような輩になり下がっていたのか」
悲痛な声である。籐吾がこれに答える気配はない。
「分かっているのか?お前のやっている事は、大罪である前に結様を悲しませる事であるんだぞ!」
また沈黙が流れる。しばらく黙っていた九郎だが、ある事に気がついて、今度はゆっくりと聞いた。
「まさか、お前奴らの中に飛び込んで、探っているとでも言うのか?」
「まさか・・・」
即座にくぐもった笑いと共に、籐吾が答えた。目には見えないが、二人の神経はお互いの肩を嘗めるような感覚で、研ぎ澄まされた探り合いが繰り広げられている。九郎だけではない。籐吾もまた、九郎の腹の内が分からないでいるのだ。ただ一つ、九郎は何となく感じ取れたのは、『結』の名が出てきた時、確かに籐吾は動揺したそれが分かった九郎は、さらなる質問をする。
「それじゃ、どうしてオレを殺さなかった。前の時もそうだ。オレは一線でお前達の動きをさぐる者。生かしておいてもどうしようもないハズだ。しかし、オレを殺そうとしなかった」
「・・・一つだけ言っておく。お前のような奴ではオレ達の邪魔立てはできん。屁さな手出しは今度こそ命取りだぞ。・・・分かったか、もう二度と近づくな」
シュッと床に布の滑る音が走った。その後は完全に籐吾の気配も消えた。九郎はしばらく闇に視線を落としていた。
ほどよく湿気の混ざった朝の空気は、どことなく爽やかさを増幅させる。大きく息を吸い込んだ凛は、楽しそうにニッコリと笑った。
「凛さぁーん」
その後ろから、情け無い声が冴え渡った空に響いた。大きな風呂敷包みを背負った伊助だが、慣れてないせいか、さっきから右に左に揺れながら進んでいる。
「こら伊助、凛って呼ぶんじゃないって言ってるでょ、もう」
どこかの大店の若女将風のいでたちの凛は、そう言って伊助を叱った。
「はい、奥様」
「ちがう!」
「はい、お嬢様!」
今にも倒れそうな伊助など省みず、カランカランと軽快な下駄裁きで城下を抜ける道を進んで行く。町外れに出ると、一線を引かれたような感じで建てられている屋敷が見えた。それが酒松の知行地の屋敷である。
凛は玄関へ入ると、御機嫌な声を響かせた。
「御免くださいませ!」
しばらくしていつかのおみつが、凛の顔を見てちょっと戸惑ったように対応した。
「はい・・・・あの」
「この度は、お腰入れの儀まことにおめでとうございます。私市村の凛姫様の所に出入りしている者でございます。姫様がお祝いに着物を送りたいという事で、お嬢様にお気に召されるような生地を持ってまいりましたのでぜひお目通りを」
そう言って、自分で書いた紹介状を差し出す。もちろんまぎれもない本物だ。
「まあ、確かに。凛姫様からの婚礼のお祝いとは・・。お心づかいあり難くお受けします。さ、こちらへ」
にっこり笑って後ろの伊助に片目をつぶってみせる。お返しに顔の下半分で笑って見せる伊助であった。
「まあ、素敵なお柄の物ばかり。本当にうれしいわ、凛様がお祝いを下さるなんて。私、向こうで嫌われてしまったらどうしようって思っていたもの」
本当に嬉しそうに笑って、凛の顔を見る。慌てて笑い返した凛だが、べつにただボーッとしていた訳ではないこのお結と言う女性、同性の目から見ても本当にかわいい人であった。ちょっと見とれてしまったのである。と、言うことは・・・と伊助の方を見て見ると・・・よく鼻の下が伸びていると言うが、顔全体が伸びてしまっているとは極めて珍しい。凛はそのみっともない連れの顔を見られない様に、伊助の足を思いっきりたたきのめした。
「あら?どうかしました?」
「いえ、いえ。この伊助は、このような所に出入りした事がないので、ちょっと作法を」
慌てて手を振る。お結はそれを見て、零れ落ちそうな笑みを伊助に向けた。
「そんな固くならなくても。どうぞ楽にしてくださいませ。私は一向に構いませんわ」
「・・・」
はい、と言いたかったのだが、声にならずただ頷くだけの伊助であった。
「それにしてもこの度は、本当におめでとうございます私時々奥の御用でお城へ参りますと、馮眞様にお会いする事もございます。なかなか知的な雰囲気をお持ちで、御立派なお優しい方でございますよ」
鷹月だって凛にこんなに褒められた事はない。実はここに来る目的には、大好きな兄上と一緒になる女性をしっかり見てやろうというのもなかったではない。やはり妹にはそれなりの兄上のお嫁さん像という物がある。なかなか厳しい目で見ようと心に決めていたが、お結を見た途端、もう笑顔になっていた。この人なら兄上絶対好きになれる!と感じたのである。
そう言った凛の異様に輝いた笑顔に、ちょっと俯き加減で頷く。笑っているが、どこか心あらずだと言うことに凛も伊助も気付いていた。
「ええ、お噂には聞いております。我が父も一度馮眞様にお会いしたと言って、そのような事を言っていました うんうんと頷く凛と伊助。
「それでは誠によい縁談でございますね」
笑っているのか、脅しているのか分からないすごい笑顔だ。後ろで見てた伊助は、恐ろしさを感じていたが、口が裂けても言えない、とひたすら黙って耐えていた。
「ええ、本当に良いお話ね・・・。でも・・・」
「でも?」
お結は開けてある障子の外に目をやった。
「でも、このままでの私では、馮眞様に申し訳がなくって・・・」
「結様!」
即座におみつが言葉を止めた。凛が小さく呼び掛けると、お結は視線を凛に戻した。おみつが必死でたしなめたが、そう言ってしまった言葉は、もう止める事が出来なくなっていた。
「私は江戸の屋敷にいた時は、ひどく体が弱かったのです。そんな私を見て父上は私を母上と一緒にこの陣屋へ行くように勧めたのです。しかし母は江戸を離れる事を許されてはいなかったので、私を置いてすぐに帰りました。今ではここの空気に慣れて、病気の一つもしなくなてますわ。でもやはり家臣達は、何かあってはと、一人で出歩く事は許してくれませんでした。ですから行く所や、お会いする人も限られました。そのような生活を送っていた私が縁談の話を聞いた時、なぜか不安を覚えてしまったのです」
「このまま、世間知らずのままでお城に上がって良いものかと?」
率直に言う凛に、おつみが少し怖い顔をした。凛はすっかり商人にばけている事を忘れていた。しかしお結は気にした様子もなく、ゆっくりと頷いた。
「その通り。このままお城に上がっても、世間知らずな私では馮眞様をお支えする事もできないのではないかと思ったのです。そこで先日少しでも人々の暮らしを知ろうと、市村の城下におみつと二人で出掛けました。そして帰りがけに、何者かに襲われた時、通りがかりのお侍様にお助けいただいたのです」
始めは納得しながら頷いていた凛だったが、だんだん話が妙な方向に行くのに気がついて、中途半端な頷きになって行った。
「で?」
「ええ・・・そのう・・・」
これまた鋭いつっこみに、しどろもどろになるお結。
「今まで私のまわりにいた男の方でも、お強い方は大勢いたんですが、その方はお強いだけではなく、見るからにまっすぐで、自由な心の持ち主だと一目で分かりました」
やっぱり、と顔を歪める凛。その後も嬉しそうで楽しそうなお結の話は続いたが、凛にはどうしたものかと言う考えで頭が一杯になった。つまり、お結はその人が好きだという事である。
「ともあれ、馮眞殿の婚儀の準備は着実に進んでおるのだな?」
「はっ、今の所こちらの予定通りに」
武士姿の男がそう報告する。そしてその報告を受けた上座に座っている男は、いつか舟宿にいた男であった。あの時は易者姿だったが、肩程の髪を一束にし、動きやすさを優先した袖の短い着物と、幅を押さえた袴という姿であった。一定の速度で発せられる言葉は、その青白い顔の冷たさと同じように、聞くものの体を凍らせるような緊張を呼ぶ。
「同志はどのぐらい集まった?」
「我らの一族が百人程。あと二日までにここに四百人近くの豊臣恩恵の武士、浪人が集まる事になっております 聞いている男はニコリとも笑わず、ただ頷くだけである。
「当日城内の警護は、普段以下に手薄になりましょう。万一の時は----」
男は武士姿の男の話を片手で制して、素早く立ち上がった。廊下に面した障子を一気に開ける。
「頭領?」
武士姿の男に少し頷き、廊下に足を進めた。誰もいない廊下を奥へ奥へと進んで行く。それに伴って、男の方も早足になる。そして、突き当たった部屋の木戸に手をかけた。
「ここは、屋敷牢ですが」
暗い部屋に光りが流れ込む。空気と一緒に埃が舞う姿が、光りの道を浮き彫りにした。それを伝って、牢屋の中にも光りが入る。丁度光りの通り道上に九郎が座っていた。男はじっと九郎の様子を見ていたが、突然差し込んで来た光りに眩しそうに振り向く九郎に、フンと鼻であしらった。
そのまままた背を向けて廊下を戻ってゆく。その遠ざかる足音を聞きながら、九郎はふぅっと大きく溜め息をついた。それから牢の入口に顔を向けて、南京鍵を見た確かに鍵棒は刺さっている。九郎は自分の手にあるものを明かりにかざした。長細い、その錠前の鍵であった。
庭の池の側で、籐吾はじっと水面を見つめていた。無造作に紐で纏めた髪、骨ばった顔、獣のような光りをおびた目。人に見せれる姿ではないな、と籐吾は薄く笑った。自分の姿など何年ぶりに見たか、とにかく何年か前に見た自分の姿とは別人である。変わったのは九郎達から離れた時、確立されたのはあの男に会ってからだろう。水面を見つめながら、ふとあの時の事を思い出していた。
あの時の籐吾は、人間世界に紛れ込んだ野性の動物のようで、人を信用せず右も左も分からなくなっていた。ある藩の町中を歩いていた時。道に町のごろつきが目をむいて死んでいた。籐吾は冷静に周りの様子を見てから、その死体をまたいで、道の先に進んだ。すぐ先には血糊が絡みついた刀を紙でゆっくり拭き取る男がいた。肩程まである髪に切れ上がった目、人の色とは思えない青白い肌。着物そのものは清潔感が漂うが余りにも多い返り血が、全体の風貌を山から下りて来た鬼か天狗に見せていた。
『いかがした』
いつの間にか立ち止まってその男を見ていた。男は伏し目だった顔をゆっくりと籐吾に向けて、そう言った。地面から響く錯覚に陥った程、人の声とは思えない無機質な声だ。男は顔に跳ねた血を着物で拭った。
『死にたいのなら、今ここで死なせてやるが?』
まだ微かに赤みを残した冷めた曲線を、ピタリと籐吾の喉に向ける。ただの脅しではない事は分かっていた。しかし籐吾は怯みもせず、口を開いた。
『あいにくだが、オレはただこの道を通りたいだけなのだ』
男の顔から視線を外し、その横を通ろうとした。風が掠める。とっさに肩ごしで避け、自分の首を狙う刃を抜きざまの刀で受け止めた。間近で二人の視線が合った。相手の感情を読み取る内に、籐吾は男の中に自分と同じ感情を見つけたような気がした。どうやら男の方もそう感じたらしい。押し合っていた二人は、ほとんど同時に肩から力を抜いて離れた。
『お主、どこへ参るつもりだ』
『さあな』
男の問いに、刀を鞘へ戻しながら答えた。男は振り返りもせず、籐吾に言う。
『寝る所ぐらいはある』
その時にすでにあの計画があったのか定かではないが、男が籐吾の腕を認め、仲間に認めた事はこの言葉だけで分かった。勝手に行ってしまう男、自然と籐吾の足は男を追っていた。
『オレは籐吾と申す。貴様は?』
男は振り返りもせずに道を進む。その問いにも意識して聞き取らないと聞こえない程の呟きで、一度だけ言った。
『曳善・・・』
「お待ち申し上げてございました。突然のお越しゆえあいにく何も御用意してございません。平にお許しを」
市村の藩の家老・赤井史堂は、市村の家臣の中でも一番長く仕える家臣であった。戦国の世を殿と共に生き抜き、誰よりも市村の内情に詳しい人物である。
「許すも何も、こっちが突然押しかけたのだ。申し訳ないのはこちらの方だ」
馮眞が明るく手を振る。馮眞と凛は、ごく軽装で家老の屋敷を訪れた。供も小春一人である。赤井の方もお忍びと聞いていたので、大々的な迎えはしなかった。家主自ら二人を中へ案内する。白髪で小柄な老人の赤井は、歩きながら懐かしそうに凛を見た後、満足そうに頷いた。
「姫様。しばらく見ぬ間に本当に御立派になられましたなぁ。それに北原の評判は聞いておりますぞ。先代の月影様に負けぬ器量とか」
一応笑顔で返したが、馮眞に向けた途端それが苦笑いに変わる。馮眞も複雑な顔で凛を見た。
「ところで、お越しになった御用向きはどのような?」
うん、と返事をした馮眞は、何とも言いにくそうにそれに答えた。
「実は前の夜に、屋敷の前をうろつく怪しい浪人を捕らえたそうだな?」
「は、はい。詳しい事は聞いておりませんが、どうしてそのような事を?」
また馮眞が、言いにくそうにうんと言う。その後を引き継ぎ、今度は凛が答える。
「私の供で見ていた者がいてね。ちょっと、その人私の知っている人じゃないかと思って」
そこまで言うと、赤井の顔が青くなった。
「姫様の!? そ、それは。さっそく連れて参りますので、どうぞ奥でお待ち下さい」
「いや、会えばすぐに分かる人だ。直接牢へ参る」
混乱する頭で赤井は承知すると、二人を牢へ案内したそれらしき建物に近づくと、あの聞きなれた声が聞こえて来た。
「あーっ、お主卑怯だぞ!」
「何を言う、頭の回らぬお主が悪い」
かなり緊迫した言い争い・・・という訳でもなさそうだ。馮眞と凛はびっくりした顔をつき合わせながら、建物の中へ入って見た。
「ちょっと待った!」
「お?どうした。さっき待ったなしと言ったのは、宮城殿ではないか」
一つの牢の前で、一人の武士が座り込んで頭を抱えていた。一方牢の中からは、格子の間から手と頭を突き出して余裕しゃくしゃくの鷹月が武士を見ていた。二人の間には将棋盤がある。
「ほーら、王手!」
「あーっ!」
最高潮に盛り上がっている。呆れていた凛だが、何だかだんだん腹ただしくなってきた。
「鷹月っ!」
空気が止まった。凛の怒鳴り声に、全員がびっくりして注目した。相手の武士などは、『あーっ』
と言ったままの顔で振り返っていた。
「りっ・・・凛かぁ。びっくりしたなぁ」
「たか・・・つき・・・殿・・・様・・って」
将棋の相手が真っ青になっている。赤井はそう言ったまま固まっている。
「済まぬが、牢から出して差し上げてくれ」
笑い出したくてしょうがない馮眞が、押し殺した声で言うと、蒼白になった赤井の震える声が二人の横を駆け抜けた。
「み、宮城!はやく!」
「は・・・ははっ!」
「そのような御事情でございましたか」
立派な床の間のある部屋に通された鷹月は、廊下に下がって頭をこすりつける二人を笑いながら気にしないように説得しなければならなかった。そして落ち着いた所で事情を説明すると、赤井はすぐに老中の顔に戻った。
「近頃屋敷のまわりに怪しい身なりの者どもが目に付くようになりましたので、見張りを厳重にしておったのでございます。手違いとは申せ、誠申し訳ございません」
「それはもういいと言ったろ。それにこちらはこちらで隣の様子を探るのには便利だったしな。うちの供が報告に出入りして来たし、宮城殿からは城の噂やこの当たりの状況を聞く事も出来たしな」
おどけたように宮城を見る。一瞬ではあるが赤井がじろりと宮城を睨んだ。多分後で説教を受けるのだろう。 宮城は複雑な表情で愛想笑いをした。
「それでだな。実はこれからもいろいろ力を貸して戴きたいと思うんだ」
「ははっ、なんなりとお申しつけを」
鷹月は馮眞と凛を見て、二人も承知している事を確認する。
「いや大した事じゃないんだが、ただ向かいの屋敷の状況を充分注意して見張っていてくれればいい。何か妙な動きがあった場合は、馮眞殿の所に知らせてほしい」
「承知致しました。さっそくこの宮城をその役目につけましょう」
鷹月は満足そうに頷くと、ちらりと宮城を見た。宮城も少し目を上げると、二人はいたずらをした子供のように目だけで笑い合った。凛がもう一度鷹月の事で謝り、馮眞が礼を述べ、鷹月が念を押した後、三人は玄関で待っていた小春を連れて裏口にまわり、細い道を町へ向かって歩き出した。
「しかしなぁ、凛が城下へ繰り出す事は予想していたがまさか馮眞殿まで普段着で城下に来るとは思わなかったな」
鷹月は軽装の馮眞を見ながら、少し意地悪く言った。
「凛に言わせる所、オレみたいに行儀作法を知らないお人ではないと言うことだったが」
「なに、行儀作法は時と場合によって変わる物でござる」
軽く笑って言ってのける。鷹月はますます馮眞が気に入った。
「おお、さすが凛の兄殿だ」
「ちょっとー、兄上も鷹月もそんな呑気に笑ってていいの?」
あまりの呑気な雰囲気に痺れを切らした凛が、怒ったように言った。
「こうしてる間も九郎さんはあの屋敷に閉じ込められたままなのよ。伊助がついてても、いつなにが起こるか分かったもんじゃないでしょ?」
自分が一度救った者を、今度はわざわざ敵地に送り込んだのだ。どんな事があっても死なせる訳にはいかない、と凛は強い責任感を抱いているのである。
「そりゃそうだけど・・・・おい、そういえば桂介はどうしたんだ?」
気付けば凛の供に小春がついているだけである。馮眞がいたので頭数に錯覚を覚えたのだろう。その答えを求めに鷹月は迷わず小春を見た。
「だからどうして私を見るんですか。お屋敷で策を考えておられるのでしょう」
そうか、と頷く。と、その時馮眞が叫んだ。
「凛っ!」
「!・・・びっくりした。何です?」
振り向くと、馮眞は口を開けたまま手も中で止まったまま、しばらく一点をじっと見つめていた。凛は不信げに覗き込む。
「兄上?」
「お前、北原に向かう時何人の家臣を供にした?」
「家臣?・・・さあ、取り決めたのは私じゃないから、でも五十人ぐらいいたような」
「それで、北原領内に入った時の迎えの方は?」
馮眞の詰問口調に圧倒されながら、凛は一生懸命思い出しながら答えていく。
「中村さんとかが三十人ぐらい。こちらの家臣は半分ぐらい国境で戻って行ったけど・・・」
それから黙って考え込む馮眞。凛も鷹月も小春も、訳が分からず顔を見合わせながら首をかしげた。
「鷹月殿」
「は、はい」
「もしやこういう事は考えられませぬか。城への出入りは日頃厳しく取り締まれており、城内へはほとんど顔の知らぬ者は入れぬ物。しかし婚儀の時ばかりは、あちらの家臣の者も調べずして門を通る事ができ、城の中にも見知らぬ者が進入して来る事はできますぞ」
馮眞が何を言いたいのか分かった鷹月は、ゆっくり頷きながら言葉を返した。
「・・・そうか・・・。江戸よりの家臣が参ったと言えば当の姫君にも分かるはずがないし、凛だって正確な供の数を知らなかったんだ。たとえ謀叛の者が混ざろうとしても・・・・分かりっこないな」
「ねえ、どういう事よ」
結局凛は分かっていなかったようだ。深刻に頷き合う二人の姿を見て、話を急き立てる。
「これは・・・もしかしたら、とんでもない企てじゃないか?」
「悪くすれば、藩内の荒れ事だけには収まりますまい」
「ちょ、ちょっと。ねえ・・・」
馮眞と鷹月は、凛の問い掛けなど完全に無視して、自分達の早さで話を進めていた。完全にヘソを曲げてしまった凛は、頬を軽く膨らませプイッと横を向いてしまった。
「凛様、まぁまぁ」
「もう、だから男って嫌よねっ!」
小春が精一杯慰めるが、調子の悪い事にそこに馮眞の公務的な言い方の命令口調が、凛に降りかかった。
「凛、お前も一度私と一緒に城へ参れ。少し藩内の事を調べよう」
「はーい・・・」
「?・・何を不機嫌な声を出しておるのだ?」
「別に・・・行きましょ」
女ごころが分からないのは、何も鷹月や桂介だけではなかったようである。
その日の午後。屋敷に戻った鷹月は働いていない人間が自分一人である事を知った。馮眞と凛は城へ行くためすぐ手前で別れたし、小春も凛の供で城へ向かった。伊助はずっと九郎に張りついている。しかし意外だったのは家にいるだろうと思っていた桂介が見当たらない事だ。桂介の事だから、こんな時に私事で出掛けるような事はしないだろう。
鷹月は静かな部屋でごろりと横になり、庭を眺めながら晩の疲れが出たのか一眠りした。どのくらい眠ったか分からないが、鳥の声で目を覚ました時、ふとあの寺へ行ってみようか、と思った。この城下に入ってすぐに出会ったあの可愛い娘さんに会えるかもしれないと言う期待もあったのだろうが、確か酒松の知行地はあの辺りだと凛に聞いていた。一度、九郎の父上に会っておきたいと思ったのである。改めて寺まで歩くと、それほど遠いようには感じられなかった。あの時はよっぽど不調だったのだなと思いながら、あの石段を登った。
門をくぐって緩い階段を数段のぼる。すると広い境内の本殿の前に、あの二人の姿があったのだ。小紋の淡い色の着物が、また外見とよく合って可愛らしかった。
「そちらはこの前お目にかかったお方では?」
鷹月が声を掛けると、まずおみつが振り返った。前と同じように緊張と殺気を帯びた目で鷹月を見たが、誰だか分かると、ホッと息をついて頭を下げた。
「まぁ、あなた様は」
その声で振り返った結は、嬉しそうな口調で鷹月に話かけた。
「これは・・・あれからお連れの方とはお会いになれましたか?」
「療輪寺に着いたら痺れを切らして待っていました。あなたもそれから変な侍に襲われたりしてはおりませんか?」
答える代わりに、ニッコリと笑って頷く。なんだかこの前会った時よりも、随分キレイになったような気がした。そんな事を思いながらつられて鷹月も笑っているとそれとなくおみつが言葉を挟んで来た。
「お侍様、今日はまたどのような御用でこちらの方へ」
「ん?ああ・・・。実は滝川と言う人を訪ねようと思ってな」
「滝・・・川?」
結とおみつはそっと顔を見合わせた。
「もしかして、知っておられるか?酒松の陣屋を預かっておられる滝川殿なのだが」
「あの・・・失礼ですが、一体どのような用向きで」
「実はあれから、連れの者が滝川殿の子息の九郎さんをある者達から助けたんだ・・・」
「九郎を!?・・九郎がどうしたのです!」
「お嬢様!」
止めたが遅かった。改めて言動に気付いた結は、アッと口許をおさえて鷹月を見た。
「知っておられるのですか?九郎さんの事を。九郎さんは市村の城下で襲われ怪我をしていた。偶然通りかかった連れが九郎さんを助けて、身分を聞いたんだ。無事を報告しようとお父上を訪ねた次第だが」
鷹月が話をし終わってから、しばらく二人共黙っていた。鷹月は気長に二人が口を開くのを待っている。そして結が決心したように鷹月の方に顔を向けた。
「こちらです」
「結様、また屋敷外へ出られておったのでございますか?」
重い響きを持つ声が、鷹月と二人の方へ届いた。結はちょっと笑って滝川に謝った。
「ごめんなさい。でもあの時以来何もないですし、あと少しで町に出られなくなると思ったら名残惜しくて」
鷹月が目を見張って結を見て、それから滝川を見た。
「あー、結・・って。・・・じゃ、あなたが酒松の・・・・あー、そういう事か」
やっと素性の分かった事ですっきりした気分と、馮眞の顔を思い出しながらもったいないような気分が入り混じって、複雑な気分の鷹月であった。
「結様?こちらのお武家様は?」
「ほらこの前襲われた時に、私を助けてくださったお方です」
気迫のこもった態度で鷹月を見ていた滝川であったが結の言葉で態度を緩め礼儀正しく礼を述べた。それから結は楽しげな口調を抑えて鷹月の用向きを伝える。
「今日は滝川に御用があるそうよ。九郎の事で・・・」
それを聞くと、また滝川は態度を固めた。
「何ですと。どういう事なのだ」
睨みつける滝川の近くへ進むと、彼だけに聞こえるように言った。
「安心を。私は市村馮眞様の元より参った者です」
「そうですか、九郎はあなた方の所へ・・・。御迷惑をおかけ致します。して、あなた様は?」
「あ、ああ。実は私は馮眞様の妹君凛様の側に仕えております・・・・北村桂介と申します」
桂介は今頃どこかでくしゃみをしているだろう。滝川は了承すると、さっそく本題へ入った。
「九郎に命じた仕事はすでに御存知だと思います。事は進展しないばかりか、九郎も姿を消して連絡もなく。そちらの方面でのお役には立てそうにもござらん」
今度は鷹月の方が了承しているというように頷いた。
「では近頃この付近で見掛けない浪人や、武士などの姿に気が付きませんでしたか。例えば・・・江戸表より酒松の殿の命令で来た者だとか」
しばらく片手を顎に当てて考えていたが、思い出したように大きく頷いた。
「確かに来ております。殿の御墨付を持っておったが。それが何か・・・?」
そして鷹月は先程馮眞が立てた仮説を滝川に話した。これにも、しばらく考えてから、緊迫した表情で畳に手をついた。
「もしそれが本当なら、幕府始まって以来の危機でございますぞ。分かりました、早急に江戸に使者を送りますもう日がない・・・答えが間に合ってくれればいいが」
「お願いします」
ホッと一息ついた鷹月は、その拍子にある事を思い出した。
「そうだ滝川殿。籐吾・・・と申す浪人を御存知ですか?」
「籐吾・・・関谷籐吾ですか!」
なにやら滝川は、驚きというより喜びの叫びでそう聞き返した。
「その人だと思います。九郎さんとは何か関係が?どういう人物なのですか?」
鷹月もかなり立ち入った質問だとは思った。滝川の顔が曇る。籐吾という人物、何か訳がありそうだ。
「その辺りの事は、結様にお聞きになるといい。あの方の方が私よりよく知っているはずでござる」
鷹月が黙って滝川を見ていると、滝川も黙ったままだった。そのまま切り上げてもよい雰囲気だったが、何か隠している気がする。多分とても重要な事だ。じっと待っている鷹月に観念したか、それとも話しておかなければならないと判断したのか、重々しい口調で、しかし懐かしそうに語り始めた。
「関谷籐吾と、息子の九郎、そして結様は幼い頃よりの仲でござった。この地へ来たばかりの結様の遊び役としてあの二人が付いて、子供であった故に身分も何もなく本当に仲良く育って行った親友のようでした」
鷹月はちょっと笑顔で頷く。自分の子供時代に桂介や兄がそうだった事を思い出したのだ。
「籐吾は・・・・いや、正式には籐吾様とお呼びしなければならない方だが・・・」
「どういう事です?」
滝川はまた口を噤む。また迷っているのだ。
「籐吾は、結様の異母の兄に当たるのだ。殿が陣屋にお戻りになられた時に、家臣の娘を妾て出来た子なのです」
よくある話だ・・・と鷹月は思った。勿論鷹月だって異母の兄弟は多くいるが、それ以外にだっていてもおかしくはないと思っている。
「しかしその娘にはすでに夫がおりまして。夫も事実を知って娘に離縁を言い渡し江戸の方へ勤めを移し、娘は離縁を恥じて自害を。そんな訳で籐吾は事情を知らない家臣の元に預けられたのでございます」
そう言った滝川の表情は後悔と無念に溢れていた。固く結んだ拳我震えている。鷹月はもう何も聞けなくなった。
「籐吾・・・さんの事、ですか」
砂利道をゆっくりと歩く。思い出すように上を見ながら結の足はだんだんとゆっくりになって行った。鷹月も並んで歩調を合わせた。
「籐吾さんは・・・自分の出生を知っています」
結の足が止まった。鷹月の後ろにおみつも付いていたが、存在はほとんど感じ取れない程の付き添いである。
「どうして籐吾さんは自分の出生を知ったのかな?」
結の目は懐かしそうに空を見上げていた。
「関谷籐吾・・・・事情を知らなくてもあの人は私の兄でした。幼い時から九郎と私と籐吾さんはいつも一緒でした。ある時、はしゃいで古い石段のてっぺんから足を踏み外して落ちた事があるんです。籐吾さんはすぐに飛んで来て私を受け止め、庇ったまま下まで転がり落ちたのです。そう、あなた様と出会った時みたいにです」
綺麗に笑う。鷹月も笑って頷いた。
「その御陰で私は大した怪我はありませんでした。籐吾さんは額を切ってしばらく倒れてしまいましたが、気がついた時に無事な私を見て、本当に嬉しそうに喜んでました。まだ籐吾さんもあの時は十五ぐらいでしたか、それでも転がり落ちている時、あの広く大きな胸で私は何の不安も感じていなかったんです。この人と一緒なら何の心配もないんだ、と。籐吾さんは兄の温かさと、大きな安心と、包み込むような優しさに溢れた人でした」
そこまで話した結は、次に一転した辛そうな顔で下を向く。
「あれは私が十六の時です。市村の藩の道場に誰か腕の良い武士を紹介してほしいとの要請が来まして、すぐに籐吾さんの名前が上がったのです。籐吾さんの剣の腕前は、父上も江戸でもそうそう勝てる者はいないだろうという程の物でしたので、試験試合でもなんなく合格をしました。私も九郎と一緒によく道場に差し入れに行きましたが、やはりあの性格が道場の人達にも慕われて仲間も集まり、籐吾さんは本当に楽しそうでした。ところが・・・それをよく思っていなかったんでしょうか。道場師範の若い方が・・・・どこでどう知ったのか、籐吾さんの素性を・・・父の妾の子と言う事を籐吾さんに話してしまったのです」
結目の前にその時の状況が思い浮かんだ。
-やっと自分の力を発揮出来る仕事を見つけた籐吾。結と九郎はいつものように籐吾の師範ぶりを見ようと、お弁当を作って道場に出掛けたのである。
『何を申す!』
道場の裏の方から籐吾の怒鳴り声が聞こえた。結と九郎はちょっと顔を見合わせて、その声の方へ入って行くすると、籐吾以外に何人かの男の声が聞こえてきた。
『ほう、お前本当に知らなかったのか。こりゃおどろいたぜ』
『妾の子供。それも捨てられた子供だ。つまり酒松では厄介者だから市村へ追い出したのだな』
木陰から覗くと、籐吾の前に三人の稽古着の男が馬鹿にした笑いを浴びせていた。
『嘘だ・・・でたらめを言うな!』
『嘘ではない。こちらにも密偵の仲間がいるのだからな・・何度でも言ってやる。お前は酒松の隠し子なのだ。厄介者だ』
そう言い放って木刀で籐吾の胸を思いっきり突いた。胴着の胸がはだけ、血の筋が走っている。俯いたままの籐吾の体が震えていた。籐吾だけではない。木陰でそれを聞いていた結も、その言葉に目の前が真っ暗になっていた。
『籐吾・・・さんが・・・父の隠し子・・・』
男達の侮辱が続く。
『いつもお前を慕ってる酒松の姫が、これを知ったらどう思うかな』
『あのかわいい結殿か。父も父なら娘も娘だ。もしかしたら、結構いけるかもな?』
『オレ一度言うことを聞かせてやりたいと思っておったとたろだ』
『ははっ、いいなぁ』
真っ赤になって結は九郎に抱きついた。九郎もしっかりと肩を抱きながら、その手から怒りに燃えている事を感じ取れた。しかし九郎の体が前へ出るよりも早く、男の一人が悲鳴を上げるのが先だった。
『お嬢様を・・・・お嬢様をそんなふうに言うな!』
二人が振り向くと、籐吾が血がついた木刀を片手に構え、その下に頭の骨を砕かれた男が力尽きる所であった まわりの奴らも脅えて引きつっている。籐吾の顔には先程までの怒りは見られなかった。その代わり、何とも言えないむせ返るような気迫が、落ち着いた籐吾の周りに満ちていた。
『こ・・・殺した・・・・殺したぁぁぁっ』
悲鳴を上げて逃げてゆく男達、籐吾はその場でゆっくりと木刀を落とす。その直後、結は持っていた弁当箱を落とした。その音で籐吾が振り返る。
『結様・・・九郎』
籐吾は二人の方に近寄る。そこには先程の気迫はもう感じ取れなかった。籐吾は落ちた弁当を取り上げる。
『籐吾・・・』
掠れた声で九郎が声を掛けた。
『責めはオレが取る。屋敷の方には迷惑はかけないようにするさ・・。結様、お元気で。九郎、結様を頼むぞ』
それが最後の笑顔であった。籐吾は二人の横に風を残して去って行ったのである。
「この事件では私達以外にも見た人がいて、若い師範達は武士道に恥ずべき行為と見なされ破門になり、籐吾さんにはお咎めはなしと言う事になりました。でもそれっきり、籐吾さんは私達の前に姿を見せなくなってしまいました」
声を掛けるのもためらってしまう。鷹月は籐吾と言う人物が日の当たる世界を捨てた気持ちが分かったような気がした。そして彼をそこまで追い詰めてしまったのは恥ずべきも自分と同じ殿様と、藩士達なのだ。
「でもどうして籐吾さんの事をお聞きに?」
そう聞いた直後、結は自分で結論を導き出したらしく形の整った目を大きく開いた。
「いるのですね?この藩のどこかにいるのですね?」
それからぽろぽろと涙を流しながら、何も言わない鷹月に間近まで寄った。
「お願いします。私にも会わせて下さい。市村に上がる前に会いたいんです。そして、兄上とお呼びしたい」
「心情察する。でもオレも会った訳ではないのだ。九郎さんが話の最中に何度か口にした名前だったから、気になっていて」
結はしばらく鷹月を見つめて今の言葉を理解していたが、何も言わずに下を向いてしまった。かわいそうだが今はそうとしか言えない。この人のやさしいままの籐吾の姿を崩す事は、数々の不安に押されている今、致命的な衝撃を与える程の事と分かり切っているからだ。
「ところで・・・。結殿は数日後に馮眞様との婚礼を控えていると聞いてるが?」
「はい、でも不安で・・・。それに九郎や籐吾さんの事も気になるばかり。こんな気持ちでは、馮眞様に申し訳なくて・・・」
「もしかして、九郎さんと籐吾さんに?」
びっくりして顔を上げる。そしてその質問を笑顔で否定した。
「いえ、九郎と籐吾さんにはそんな。あの二人もそう思っているはずです。二人共大好きですけど違います。あの二人は私にとって兄と弟のようなものです。ただやはり忘れられないというか・・・。気になってしまうんです」
籐吾の事を思い出させてしまったのは自分の責任だ。鷹月はなんとかして慰めたい気になった。
「オレは数回馮眞殿と会っているが、実に素晴らしいお方だ。知力ばかりではなく人を安心させるすべも知っている。大丈夫、きっと結殿のその不安も馮眞殿なら消し去ってくれるハズだ。その籐吾殿と同じぐらいにな」
鷹月だって殿様であるから、いつも家来の前で自分の政治方針などを簡潔に言えているハズだ。しかしどうも女の人を慰める事はそれとは別の物のようである。自分で何を言っているのか分からなくなった鷹月であった。
「・・・馮眞様は・・・あなたに良く似ておられるのですね」
「んー、そうだって言ったらあいつに殴られそうだが・・・基本は同じだと思うな」
じっと鷹月を見たあと、結はあの綺麗な笑顔を作った。
「それならきっと、すばらしい方ですね。きっとよい方だと思います」
鷹月はほっと肩を撫で下ろした。やはりこの人は純粋でかわいい人だ。改めて馮眞に持っていかれるのが悔しくて仕方がない鷹月であった。
「私もうこれで城下には出ません。婚儀まであと少しなのですから身を落ち着かせなければ」
鷹月も笑顔で頷いた。
「良かったわ。最後の日にあなたにお会い出来て。それでは失礼します」
結は深々と頭を下げると、そのまま振り返りもせずに陣屋の方へ歩いて行った。その後におみつも続く。その二人を見送りながら、鷹月は婚儀までにこの陰謀をかたづけなくてはいけない、と固く誓った。そしてできれば九郎と籐吾の方も・・・・。
吉田の屋敷の門前は、いつもと変わらぬ緊張を隠した夜に包まれていた。しんと静まり返った表とは裏腹に、奥では着々と集まり始めた浪人達が、部屋で威勢良く酒盛りの最中であった。
「いよいよ明後日、城へ攻め込むか」
「ここなら事を起こしても、江戸に知れるまでには随分と時間がかかる。その隙に全国へ散らばっている豊臣の同志達がここを拠点に江戸へ攻め込めば、他の大名が腰を上げる前に、徳川を滅ぼす事が出来ると言うことか」
「いやぁ、曳善殿もよう考えた物よ」
そんな会話が廊下まで響いている。戸は固く閉められ極力外に漏れるのを防いでいたので、早足で廊下を進む九郎の足音が響く恐れはなかった。しかしその反対に誰かが廊下を歩いたとしても、九郎は気付けないかもしれない。隙なく辺りを見回しながら、曳善の配下が出入りを頻繁にしていた、外向きの部屋へ滑り込んだ。その部屋はほんのり小さな油の明かりが気持ち程度に灯っているだけで、中にある物の字を読む事は少し困難であった。九郎は障子の外に人がいないか神経を尖らせながら、明かりの片方に紙を巻き、明かりを紙の束が積んである卓の方へ移動させた。紙を開くとそれは長い紙に幾人もの名前に拇印が押してある連判状であった。
「これだ」
三束の連判状を懐に入れておいた布でくるんで脇に抱え、障子を開けた時。
「お、お前!」
酔っぱらった浪人が、部屋から出てきた九郎と鉢合わせになったのだ。相手がびっくりしている隙に、九郎は廊下を突っ切って、中庭に走り出た。
「おい、曲者だ!」
浪人の声に酒盛りをしていた浪人達も、声の方に飛び出して来た。九郎の持っている包みが、自分達に不利な証拠になるものだと悟ると、浪人達は自慢の刀を抜いて九郎へ飛び掛かっていった。
刀を持っていない九郎は、始めに飛び掛かってきた浪人を投げ倒すと、その刀を奪って構えた。とうてい籐吾には勝てないが、並みの武士であれば九郎にも相手になるぐらいの自信はあった。一人が倒れると、浪人達は刀の先を九郎に向けたまま、じりじりと足を進めた。浪人達はそれぞれにニヤリと顔を歪ませていた。九郎が曲者だから切らなければならないなどと、誰も思っていなかった。ただ人を切れる機会が巡って来た事を楽しんでいるのだ。もし九郎が切られる事があっても、一太刀で殺しはしないだろう。
「九郎さんっ!」
突然の騒ぎで様子を見にきた伊助が、切り合い寸前の現場にびっくりして、屋根から下りるなり、九郎の背中にピタリとついた。その時屋敷の奥から、九郎の聞き覚えのある声が静かに響く。
「なんの騒ぎだ・・・・。お前は」
白い顔の中の細い眉が九郎を見るなり中央に寄った。釣り上がった目は九郎が抱えている包みを見ていたが、表情は一向に変わらない。
「貴様が、曳善か・・・」
確かめるような口調で伊助は言った。曳善はジリジリと追い込まれている二人を見ながら、その引き締まった腕をゆっくりと袖の中に入れた。
「いかにも」
一人の浪人が緊張を破って襲いかかって来た。九郎が刀で払いのけてから打つ。それを合図に、浪人達は次々に飛び込んで行く。そんな様子を、少しも表情を変えず柱にもたれて曳善は見ていた。彼の目には、殺気に満ちたこの場もまるで能舞台を見ているように写っているのだろう。その時、気配に廊下の奥に視線を移すと、そこに籐吾がいた。籐吾は血を求める浪人達の姿をじっと見つめていた。いや、違う。曳善は籐吾の視線を辿って庭を見た。籐吾が見ているのは九郎の姿である。いつものように刀の上に腕を乗せ、やや眉の間に力を入れて見ているのである。
「いいですか九郎さん。私がここを抑えていますから、九郎さんはそのまま向かいの屋敷へ飛び込んで下さい。丁度皆さんお集まりですから」
次々と浪人達を気絶させながら、伊助は九郎に言った。
「しかしそれでは、伊助殿がこの人数を一人で・・」
「大丈夫ですよ。オレは凛さんがいるかぎり、死にたくはありませんからね」
一瞬こちらに見せた笑顔を目に焼きつけると、九郎はしっかり頷いて、方向を門の方へ定めた。
「気をつけて」
「ええ!」
そう言葉を交わした次の瞬間、九郎は門へ走った。横から何本もの刀が飛び掛かって来る。避けながらそれでも走る。背中の方でも刀と刀の擦れ合う音が響いているが九郎は伊助の援護を無駄にしないように、振り向く事なく突き進んだ。門を開けるのに手間どっていると、何人かが切りかかって来た。九郎はそれを切り倒して、体当たりをするように門を開けて道へ転がり出た。そして伊助に言われた通り、向かいの門を力一杯叩いた。
「滝川九郎殿でございますな?」
戸口が開いて一人の武士が九郎に駆け寄った。武士は鉢巻きをし、捕り物の井出たちである。
「門を開け!」
古い門がさっと開いた。そこにはその武士と同じに武装した役人と武士がすぐに飛び出せる体制を取っていた九郎はホッとしてその武士に、連判状の包みを渡す。武士はそれを受け取ると開いて改め、指揮を取っている役人に渡した。
「皆のもの、行け!」
役人はそう言って指揮棒を振る。それを合図に役人達は向かいの屋敷へ飛び込んで行った。大きく息をしながら地面に座り込んでいると、聞き慣れた声が九郎を呼んだ。
「九郎さん、大丈夫だった?」
「凛さん・・・ええ、私の方は。しかし伊助殿が」
向かいの屋敷から大勢の怒鳴り声と、刀の交わる音が聞こえてくる。
「大丈夫、伊助はこんな事で命を落とすような人じゃないわ。ああ見えてもかしこいのよ」
にっこりと笑う。その笑顔には戸惑いも不安も感じられなかった。思わず凛を見つめてしまっていると、次に馮眞の声が聞こえた。
「九郎殿、勤めすぐで悪いが、中の様子を詳しく教えてくれ」
この屋敷に集まっているのは元豊臣側の配下の者達で親玉は曳善と呼ばれる者である事。それらを使ってこの藩を乗っ取り、幕府滅亡への足掛かりにする策略だ、と手早く説明した。
「曳善・・・。聞いたことがない者だな。それにこの屋敷は吉田清五郎と申す江戸留守居役の者の屋敷だ。その曳善なるものと吉田。さて、どういう繋がりがあるのだろうか・・・」
やがて騒ぎ声と共に、大勢の浪人達が縄に掛けられて出てきた。捨て台詞を吐きながら押されるように出てゆく者もいれば、堂々と自分から歩いて行く者もいる。
「これほどの浪人共が集まっていたとは・・・」
赤井が唖然とした顔でその列を見ている。九郎はちらりとそちらを見ながら、籐吾の姿を探した。しかし籐吾の姿はそこにはなく、ついでに自分が捕まった時にいた本性の分からない男達の姿もなかった。九郎は自分でも気がつかない内にホッと表情を緩ませていた。
「申し上げます。謀叛人どもを全員取り押さえました」
指揮を取っていた役人は、そう馮眞に報告して最後尾を追って行った。
「いたたたたっ・・・・。あっ、凛さん」
その列を見送るように伊助が吉田の屋敷から出てきたちょっと肩口を見ながら顔を顰めていたが、凛を見つけるなりニッコリと笑った。
「伊助!どうしたのよ。切られちゃったの?」
心配そうに駆け寄る凛。
「いえ、ちょっと掠っただけですよ。こんなの剃刀負けしちまったより浅いですから」
「何言ってるの。こんなに血が出てるじゃない。傷口が腐っちゃったら大変よ。早く手当てしましょ」
「凛さん、怖い事言わないでください」
恐縮しながら照れている伊助だったが、馮眞の姿をとらえると、報告用の口調に戻った。
「町方に捕らえられた浪人は、呼び掛けに集まった同志達だけで、曳善やその配下などはどこかに姿をくらませました」
「そうか・・・。わかった、その内鷹月殿も来るはずだその時にじっくり話し合おう。いや我が藩の為にあいすまぬ。凛、伊助殿の傷の手当てを頼む」
馮眞は凛に頷いてみせ、それから九郎に言った。
「九郎殿も御苦労であった。さ、奥で休まれるといい」
「は。かたじけなく存じます」
馮眞は笑顔で頷いて、側にいた家臣を促し、吉田の屋敷に入って行こうとした。
「あ、馮眞様。私がお供します」
慌てて九郎が近づくが馮眞はそれを断った。
「いえ馮眞様。私は牢にいながら屋敷の探索をしておりました。内部事情はよく存じております。ですからぜひわたくしをお連れください」
馮眞は渋い顔をしていたが、その申し出を聞くと素直に頷いて改めて案内を頼んだ。よいお人だ、と思った。鷹月や凛も気持ちのよい程いい人だと感じていたが、この馮眞に対する信頼感の深さは、自分の殿にも劣らないものである。このお人なら結様も安心して暮らしてゆけるだろう。九郎は心の中で、そう確信したのだった。
「情け無い・・・ひっじょーに情け無い」
鷹月が神妙な顔でそう言った。そのまわりには桂介も馮眞も凛もいた。そして小春が伊助の体に着物を掛けた所である。怪我の手当てが終わったばかりの伊助がシュンとしている。そして鷹月と桂介はたった今赤井の屋敷に入ったばかりでもあった。
「へい・・・」
「『へい』じゃない!北原の密偵がこんな事で怪我をするとは何事だ!」
「お言葉ですがね。部下が一生懸命仕事して怪我したのにその言い方はあんまりじゃないですかい!」
「おー、お前口ごたえするのか?分かった、よーく分かった。お前なんか一生凛の使い走りやってろ」
殿様と密偵の間らしからぬ低俗な口論に、まわりの人は呆れ顔だ。
「まあま、鷹月。いいじゃないの。別に伊助のせいで失敗した訳じゃないんだから、ね?」
まだ言いたげな鷹月と伊助だったが、ブスッとしたまましぶしぶ位置に座り直した。
「そにかく早々にもあの者達がどこへ行ったのか突き止めなければ・・・。婚儀まで後三日。このまま何もしなくなるとは思えぬ」 v
馮眞の意見に全員が頷く。次いで桂介が一冊の覚書帳を出してきた。
「あの後私は北原の方に戻って、この付近の豊臣勢力について調べて来たのですが---」
全員が桂介の方に身を乗り出す。桂介は覚書帳を静かに捲りながら説明を始めた。
「関白の時代は北原も市村も今と同じく外様であった為に、関白からの監視人がこの近郊を見守る為に市村に入ったのです。今で言う密偵ですが、最終的には市村の家臣となっています」
隅で感心して頷いている赤井。そしてその通りと言いたげに頷いたのが馮眞であった。
「確かに。その武士と言うのは平岡と申す。しかし平岡は今は隠居の身だが・・・」
「それにもう一人。吉田清五郎もです」
覚書帳からふっと顔を上げ穏やかに言うと、馮眞と赤井だけでなく、鷹月達も驚きで言葉を失った。
「・・・何だって?」
やっと始めにこれだけ言えたのが鷹月。それから馮眞と赤井が慌ただしく言葉を交わし、凛は小春と驚いた表情で顔を合わした。
「しかし桂介殿。吉田清五郎は代々市村に仕えていた家臣で・・・」
「確かに。しかしだからと言って関白に忠誠を誓わないとは言えないでしょう。関白は統制の為の充分な資金を用意していたでしょうからね。この記録は市村には絶対にない物でしょう。見破られれば市村から家を潰され切腹を迫られるのは目に見えていますからね。吉田は金と京生まれの奥方を貰い、豊臣に買われたのです。そして彼の役割は平岡殿がおおやけに見張っていたとすれば、吉田殿は家臣の名をかりて内部から見張っていたのですね。北原がこの記録を集めた時はもう江戸の幕府を開いた後だったので当時市村に漏れる事はなかった訳です」
北原がここまで知っているのは、桂介の家系の者が極秘にこの辺りの資料を集められるだけ集めさせたさせたのである。つまり北原以上の資料はそうそうないと言える。
「そうだったのですか・・・・。いや、それで吉田の屋敷に豊臣の者が集まった訳が分かりましたな」
赤井が難しい顔で馮眞を見た。馮眞は俯いたまましばらく考えていたが、一つ溜め息をつくと鷹月の方に目を向けた。
「いやしかしさすがは北原。この文では私と凛が市村で調べた事など到底役に立ちますまい」
その後同意を求めるようにちらりと凛を見たが、凛は正反対にとても嬉しそうな顔をしていた。
「いいえ、兄上、これでとても重要な事がはっきりしたではありませんか」
「何だって?」
「市村の中の豊臣派の者は平岡殿と吉田殿でしょう?しかし平岡殿はすでに隠居をされて父上とも仲がよろしい方ですし、吉田殿は江戸詰めでこの地に関与する事は難しいわ。だからこのお二人が直接この事に関与しているとはないでしょう」
まだわからないと言う顔で馮眞が凛に答える。
「そう信じたいが、ならばどうして曳善なる者は吉田の屋敷を占めていたのだ?」
「兄上!もしかして鷹月がうつったのではないでしょうね・・・」
「おい凛そりゃどういう意味だ!」
今日はやたらと怒りんぼの鷹月である。凛はそれを無視すると急き立てるように後を続けた。
「分かりませんか?忍びですよ。その昔平岡殿から関白へ報告をする為の者で、記録は一切ありませんでしたがたった一つ平岡殿が隠居をする前日に藩に納めた関白時代の記録書に名前があったじゃありませんか」
「ああ・・・確か笹垣定衆と申した者か。・・・そうか、平岡の抱えておった忍びは関白の手の者。まして隠密だった吉田ならもっと優れた忍びがついていてもおかしくはない」
桂介も頷きながら、馮眞の後を続けた。
「吉田殿の留守に入り込もうと思ったら、いつでも入り込めると言う訳ですね」
桂介は言い終わると鷹月を見た。鷹月も納得をしていた。確かに九郎を連れ去った後自分達を襲って来たのは手裏剣であった。そして武士にしては異様な目の光り方をしていたと思ったのも、忍びと聞けば納得できる。
「そう言う事ならオレに任せて下さい」
けろりとした元気な声で伊助が名乗る。
「伊助、お前さっきまで働き詰めだったんだぞ。それに怪我してるだろう、いいから少し安め」
喧嘩ごしの物の言い方で鷹月が止めた。なんだかんだ言っててもやっぱりいい御主人だ、と伊助は心の中で微笑んだ。
「そうですよ。この事については後でよく計画を立てますから、伊助さんはやすんでいて下さい」
穏やかに桂介が言う。まわりの人達もそうだそうだと頷いた。
「その気持ちでオレは一気に元気になりましたよ。しかし忍びの事は忍びに任せて下さい。なんてったって時間がないんでございましょう?無茶はしません、その曳善って奴の事、聞けるだけ日鷹の仲間に聞いてみるだけです」
頼もしく笑って皆を安心させるように見回す。桂介が一つ決断の溜め息をつき、頷いた。
「分かりました。奴らの行き先や何者かと言う事を調べて下さい」
「分かりました。では早急に・・・」
「伊助!」
すぐに立ち上がり障子を開けた時、鷹月の短い声で振り返った。鷹月が鋭い視線を浴びせて、短刀を手に持っている。そしてなんと、それを自分の方へ思いっきりなげたのだ。
「おわぁ!」
短刀は伊助の肩ごしを抜け、庭の木の方へ飛んで行った。びっくりして伊助がその場に尻餅をついた後、その短刀の行った先で短い呻き声が聞こえてきた。
「相手も抜かりないようですね」
「ああ」
桂介が立ち上がってその場に向かう。木を分けるとそこには額を短刀で貫かれた、黒い服に身を包んだ男が動かずにいた。
「いいか、充分気をつけるんだぞ」
「はいっ」
裏から出ていく伊助を見送った凛は、曲者の方向へ目をやった。鷹月と馮眞と桂介が死体を探っているので見えはしないが、凛は改めてこの策略の重大さを感じた気がした。そして考えながら視線を部屋に戻すと・・・。
「鷹月」
「ん?」
凛が手招きをする。鷹月は部屋に上がった。
「九郎さんが・・・」
そう言われて見ると、九郎はじっと畳を見つめたまま動こうとしなかった。先程の騒ぎの時も曲者を仕留めた時にそちらを見る程度に動いただけである。
「九郎さん・・・。関谷籐吾の事だな?」
「鷹月様・・・」
別段九郎は驚きはしなかった。弱々しく答えると、また下を向いてしまった。
「九郎さん。関谷籐吾も奴らと一緒に姿を消したとなると、やはり曳善の仲間に、陰謀の仲間になったんだろうか」
「違います!」
突然叫んで顔を上げた。その顔は目が血走り顔色が蝋のようなり、まさに必死という言葉がふさわしい形相だった。
「籐吾はあいつらの仲間になどなり下がってはおりません!」
呼吸が乱れる。興奮のあまりひきつけのようなそぶりが見えた。即座に桂介が九郎の体に手を掛け、ゆっくりと宥めた。小春がすぐに水を酌みに部屋を出る。九郎が落ち着きを取り戻した所で、鷹月はいつもより穏やかに籐吾の事を九郎の父から聞いてきた事を話した。
「確かに私も初めてあの者達の中に籐吾の姿を見つけた時は、気が遠くなるような気分でした。桂介さんからおとりの命を受けた際に、市村側に捕まりたいと申し入れしたのも、籐吾が本当に奴らの仲間だったのか探る為でした。確かに籐吾は奴らと一緒にいましたが、私がその場で切り殺されそうになるのを助け、牢に入れられた時には牢の鍵を渡してくれたのです。・・・何か理由があるのです。あいつの中で何かあるんです」
幼い頃からずっと仲の良かった結と籐吾と九郎。二人より少し年上の籐吾は、九郎にとっても兄のような存在であり、そして無二の親友であったはずだ。籐吾が消え、二人になった今、結も嫁いでしまう。結の別れはけっして辛いものではないが、結の晴れの日を地獄に陥れようとしている仲間に籐吾がいる事が、九郎には耐えられない事実なのだ。容貌は変わり果ててはいたが、自分を庇う籐吾は昔のままの籐吾だった。籐吾の意図が分からない分、信じたい気持ち、それでも結を泣かせるような仕打ちに怒る気持ちが、押したり引いたり、九郎を余計錯乱させているのだ。
「どうしてこんな事に・・・。結様の晴れの日は、必ず籐吾を見つけ出して・・・心からの祝福を・・・言ってほしかったのに・・・」
九郎は悔しさに、涙がこぼれそうになった。
「九郎さん・・・」
誰もが何も言えずに九郎を見つめていた。その中で小春が九郎にそっと水を渡した。もうこの人は心も体もぼろぼろだ、と小春は思った。その丸まった背中に手を掛けて、ちらりと凛の方を見た。凛も九郎を痛ましく思ったらしく小春に、頼むわ、と頷いて見せた。小春は優しく声をかけて九郎を立たせると、背中に手を添えたまま奥の部屋へ連れて行った。残った者達も、しばらくは口を聞かなかった。それぞれ思う事があるのだ。その根底は皆同じ、事件が核心に迫れば迫るほど、ただ悪人を憎むだけと言う気にはなれないのである。どうすれば良いか考えるが、今のままではどうする事もできない。とにかく、すべては伊助が帰って来るのを待つしかない、みなそう思ったのであった。
曳善は目を細めて空を見上げていた。つい先程、多数の同志を失い、ここへ逃れてきた男だと言うことが嘘のように、穏やかな顔をしている。
「頭領。これからいかに致しますか。この分では酒松の方でも潜り込んだ浪人達は改められているでしょう」
少し若い忍びの者が、まだ空を見ている曳善に問い掛けた。
「頭領?」
「計画は・・・実行する。あと二日で集まる者を集めておけ。それと、あの件も・・な」
「・・・分かりました」
忍びの者が去ると、今度は家の中の方へ目を向ける。暗い部屋の奥に、柱にもたれ掛かるようにして座っている籐吾を見つけた。役人達の手から逃れた時、いつの間にか籐吾もついて来ていたのだ。曳善は少し眉を寄せて籐吾に近づいた。
「・・・なぜだ?」
ゆっくりと見上げる籐吾。
「貴様、なぜさっき刀を抜かなかった」
けっして問い詰めてはいない口調だった。
「あんな蚊一匹、お前の腕ならすぐに切れたはずだ。なぜ戦わなかったのだ」
しばらく見合っていた。籐吾の肩が、あしらいの声と共に揺れた。籐吾は体を起こし、刀の鞘を床に立てた。そしてそれを支えにゆっくりと立ち上がると、曳善の視線を間近に捕らえた。
「なぜそんな事を聞く・・・、曳善殿らしくもない。お前は自分以外の人間はどうでもよいのではなかったのか?」
曳善の眉がキュッと寄り、目が少しだけ細められた。しかし籐吾の視線から逃れようとはしない。静かに見ている。
「そなたはあの忍びどもさえ信じておらん。仲間の誰かが裏切ったとしても、そなたは一向に構わないのだと聞いたことがある。オレはそんなお前だからここまでついて来たのだぞ」
籐吾は気付いていた。豊臣勢力の再興などは曳善にしてみればただの口実でしかない。上手く行けばその先に進むし、失敗すれば潔く散るだけだ。もちろん何の意図があるのかは分からない。しかし、気する事ではないのだ。曳善と同様、また籐吾も自分以外の人間を信じていないからだ。曳善は籐吾に対して一度も仲間になれとか命令をした事がない。そして彼の仕事に一度も手を貸さなくても、何も言わなかった。しかし逆に、籐吾が曳善の進む道を塞ぐ存在になれば、何のためらいもなく切り捨てられるのであろう。
この男といる限りは、仲間とか、裏切るとか、つるむとか、そういう事に一切気を使う必要がないのだ。籐吾にとってはそれが選んだ道である。だから、忍び共が気を使いながら接している男であっても、籐吾は気づかいなしに接する事が出来たのである。
「すまぬ・・・」
それはまるで鶴が水面を蹴り、羽を開き、首を伸ばす瞬間の美しさに似ていた。曳善はそう言って、目を細め両口端を上げて笑ったのだ。思わず籐吾は眉を顰めた。曳善の感情のある顔、まして笑顔など、今の今まで見た事はなかったのだ。しかしそれは瞬間と言う言葉も長い程のものだった。次の瞬間には曳善は籐吾の存在も無視し、また足を奥へ進めた。籐吾もまた、その姿を目で追う事はせず、何事もなかったように、庭へ向かった。庭を通るまとわりつくような風に当たった時。ふと先程、曳善の感情のある顔を見た事がないと思ったのが、間違いだと気付いた。
あの夜。まだ曳善の本拠地をねぐらにしていた頃である。籐吾が酒をあおりながら、縁側で月を見ていると、ふらりと曳善が目の前に現れた。どこかに出掛けていた様子である。きちんと結ばれた髪だが、二筋顔に掛かってる髪の毛が、何かあった事を籐吾に知らせていた。曳善は少し籐吾に目を向けただけで、さらりと空に向かって呟いた。
『明日、吉田の屋敷へ入る』
その後、ゆっくりと籐吾の側へ来て、傍らに置いておいた、籐吾の酒を徳利のまま口へ持って行った。半ばヤケになってあおる。それを見上げた籐吾は、曳善の体から血の臭いがしている事に気がついた。後で聞いた話だが、この時曳善は吉田の殿から用があると、奥方に呼び出された。しかしそれは、この度の婚儀を境に吉田を藩に戻らせ、家老職につかせようと考える奥方の策略があり、その為には豊臣の密偵だった事を完全に隠さねばならない。そこで今となっては吉田の過去を知っているただ一人の人物、曳善という存在が邪魔になったのだ。奥方は曳善を呼び出し、色を仕掛けた後薬入りの酒を振る舞い、亡きものにしようと企んだが、途中で策略に気付いた曳善が切りかかった側近を切り捨て、奥方も手にかけた。その後も吉田の屋敷の者の殆どを切り捨てたそうである。
酒を飲み干した後、大きく溜め息をついた。それを見た時、籐吾は今回の事に曳善は命を掛けて挑む気なのだと悟った。企てはとてつもない物だ。うまく行く筈がないと感じていたが、この時初めて曳善の人間性に引かれたのだ。『手伝おう』と一言言ってしまった。
それがこんなに自分に深く係わる事態になろうとは。
「やはり悪い事はできないもの・・・か」
聞こえない程の声でつぶやくと、籐吾はまた奥の方へ戻って行った。
市村の町中は、すでに馮眞と結の婚儀の事で持ちきりだった。歳ごろの娘達は、それにあやかろうと神社へ縁結びの札を買いにゆく。この間まで静かだった療輪寺の方でも、行商人や屋台が集まり、お祭のような賑やかさである。
「どうです?少しは落ち着きましたか?」
桂介が落ち着いた口調で九郎を見た。うつ病になりそうだった九郎を、桂介が町に引っ張り出したのである。付き添いに小春がいるのは、凛に勧められたからだ。笑顔で頷く九郎は、昨日より顔色も良くなり、その言葉に頭を下げた。
「はい。自分でもよく分かっていたのですが、どうにもおさまらなくて。申し訳ございませんでした」
「いいんですよ。あの九郎さんの姿を見て、私達もその籐吾さんと言う人を信じて見ようと言う気になったのですから」
もう一度、軽く頭を下げた。そしてまた、籐吾の事を思い出したのか、桂介は九郎が肩を落としたのを見た。
「できる事なら、籐吾を救ってやりたいと思ってます。でも、皆様にこれ以上迷惑を掛けるわけにはいきませんから。なるようにしか・・・」
何と言っていいか分からなくなって、しばらく黙っていた桂介だったが、とにかく慰めようと口を開いた時。
「栗原様!」
小春が鋭く言って、桂介を袂を引っ張った。途端に数人の武士の姿をした男達が三人を囲む。はっきりと分かった、奴らは忍びだ。所は大通りは過ぎたものの、境内の横だ。人通りは多い。
「お前達、神仏の前で騒動を起こす気か!」
刀を抜く。桂介と九郎も刀に手を掛けたが、すぐそばで子供が立ちすくんでいたり、まだ気付かぬ人もいたりと、とても乱闘に持ち込める状況ではなかった。しかし男達はすでに闘士をむきだしにしている。相手も手段を選んでいられなくなったのだ。そう思っている間に奴らは襲いかかってきた。
「さては、お主ら・・・曳善の手の者か」
そう言って桂介は刀を抜き、二人を相手にした。刃と刃が鈍い音を立てる。桂介が一人の刀を捩じ伏せて、真下に叩き落とした。するともう一人が横から飛び込んで来た。体だけで避けて腕を掴む。しかし、奴らも相当の使い手で、腕に力を入れて桂介と力で勝負を挑んだ。もう一人の方は九郎に向かって行ったが、九郎が刀で競り合っている。
まわりの被害を考えながら動くので、致命的な衝撃を与える事が出来ない。男達はまた体制を整えて、三人に向かって来る。その時、桂介はこの男達の意図が見えた気がした。
『誰かを狙っている』
桂介は応戦しながら見渡した。誰だ、誰を狙っている九郎を見る、必死で戦っている九郎を見て、奴らを見て気がついた。三人いるのに一人だけには完全に手を出していない。一番狙いやすいだろうに。
「小春さん、逃げろ!」
その時九郎が弾き飛ばされた。手から離れた刀が宙を飛び、人通りの多い方へ飛んで行った。
「危ない!」
刀は、丁度走って来た男の子の真上で弧を下げた。桂介が自分の刀を放り出して男の子の方へ走り、抱き抱えて避けた。
二人から刀が離れた瞬間、三人の男は小春を取り囲んで捕まえた。小春も必死で小太刀をふるが、相手が悪すぎた。二、三回は怯んだが、一人が小春を押さえつけ小太刀を取り上げた。そしてもう一人がそれで小春の右腕を刺したのである。
「きゃぁっ!」
すぐに立ち上がって向かって行った九郎だったが、一人が小春の首に刀の刃を当てるのを見て、動けなくなった。桂介も立ち上がって三人を睨み付けた。忍びの一人が桂介を真顔で睨んだ後、ゆっくりと口を歪めた。口は開かないが、明らかにこれ以上手を出すなと言っている目だ。そして小春は人質だ。青い小袖がみるみる赤くなって行く。
「栗原様・・・」
小春は桂介だけに分かるように目で頷いた。しかしさすがの桂介も、その意味だけは分からなかったのだろう少し不思議そうに目を細める。やっと状況に慣れた町民達が、野次を飛ばし始めた。かなりの騒ぎになりそうな雰囲気だったが、男の一人が全員に睨みを効かせて黙らせ、そのまま境内の裏の方へ小春を連れて逃げて行った。すぐに九郎が後を追う。しかし境内の裏に入った所でもう奴らの姿は見えなくなっていた。
「しまった」
そう言って九郎は地面を叩き、頭を押しつけた。刀を鞘に納めた桂介は、出来るかぎりの手を尽くしたが、無駄だった。
「一体・・・一体どうして。何の目的で小春さんを」
錯乱している九郎に、慰めようと近づいた。顔を上げた九郎に、桂介は舌打ちをした。
「完全にやられましたね」
「えっ?」
桂介は、九郎の襟に指を入れた。そして引っ張り出された指には、一枚の紙切れが挟んであった。
『女を無事返して欲しくば、動くべからず』
「で?小春は?最後に見た時は無事だったのか?」
「いえ、右の腕を刃物で・・・。しかし殺しはしないと思われます。明日が終わるまでは・・・」
重い空気が部屋を包んでいる。鷹月と桂介が悔しそうな顔で思案を練っていた。九郎は前と同じように畳に視線を落としたままじっとしていた。凛は目を真っ赤にして、しゃっくりを上げている。
「たっかつき様ー。ただいま戻りました」
突然障子が開き、笑顔の伊助が入ってきた。が、ゆっくりと深刻な顔が伊助の方を見て、畳を凝視している九郎を見て、真っ赤な目で見上げた凛を見た時、これは何かあったな、と直観した。
「えっ!小春さんが奴らに連れていかれたですって!」
と、さすがにびっくりして伊助が叫ぶと、凛が声を上げて泣いた。
「私がいけないのよー。こんな時に外に出したから」
「いや、誰が悪いなんて言ってられないぜ。とにかく急がないと小春の命がかかってるんだ」
これに伊助と桂介が頷く。
「で、伊助。何か分かったのか?」
「はい、やつらは吉田出入りの忍びで、元は関西の忍びだそうです。曳善は豊臣が大阪城で滅ぶ時に頭領となった男で、その時の潜伏先は永明寺の裏にあるそうです」
もう逃げ場所のなくなった曳善達は、おそらくそこにいるのだろう、と鷹月は思った。鷹月は桂介を見た。
「どうする桂介?」
桂介は、冷静になろうとゆっくりと口を開いた。
「相手の言う通り動かなかったら、この藩はおろか幕府まで影響を及ぼし、また戦乱の世になりかねません。しかしこちらから動けば、奴らは必ず迎え打つでしょう。奴らは戦いの術を知り尽くしている忍び達ばかりです。無事に戻れると言う確信はありません」
馮眞は婚儀を明後日に控え、準備などで城から出られずにいる。だからこの事に巻き込まれる事はない。しかし鷹月は北原の藩を背負っている身、桂介としてはそんな場所に鷹月を行かせる訳には行かなかった。
「元はと言えば私が持ち込んだ騒動です。これ以上北原様に御迷惑を掛ける訳には行きません」
九郎が神妙に言う。鷹月はじっと考えていた。
「鷹月・・・」
凛の何とも微妙な呟きである。鷹月はちょっと凛を見て笑った。
「オレがそんな事で引き下がる、気弱な奴とでも思ってるのか?」
そして桂介を見る。キュッと眉が釣り上がり、口端も釣りあがった。いつもの挑戦的な顔つきである。こうなってしまうと、いくら言っても聞かないのが鷹月だ。
「若様」
やれやれと言うように桂介が言った。そこにたまらず割り込む九郎。
「お願いですから、私に任せていただけないでしょうか小春殿は私が命に代えてもお助けいたします。もう皆様を----」
九郎の言葉を、鷹月が片手を上げて止めた。
「よし、分かった」
落ち着いた声でそう言う。九郎はホッとした表情になった。
「籐吾殿は九郎さんに任せよう。しかし曳善はオレがやる」
「それは・・・」
反論しようと口を開くと、鷹月がサッと立ち上がっておもむろに刀を抜いた。そしてその先をピタリと九郎の顔に向けたのだ。
「確かにこんな事態になったのは九郎さんのせいだ。あんたには償う義務がある」
「はい」
「しかし小春は、オレ達の大事な仲間だ。こんな卑劣な事をした奴を許す訳にはいかない、オレがやる。九郎さん、それでも曳善に手を出すと言うなら、まずお前を切る」
九郎がじっと鷹月を見ていた。だんだん顔が歪み、目が潤んで来た。そしてゆっくりその目をそらし、桂介と凛の方を見た。二人が九郎に頷く。伊助も力強く拳を構えた。
「ありがとう・・・ございます」
鷹月が笑顔になって刀を納めた。
「凛さん」
「はい」
桂介も鷹月の横に立った。刀を脇に差す。
「凛さんにお願いがあります。すぐに赤井様の所へ行って、これまでの事を説明して来て下さい。もちろん馮眞様にはご内密に」
「わかったわ」
凛も立ち上がる。そして伊助も立ち上がった。
「それじゃ、オレは一足お先に」
伊助が出て行った後、桂介は鷹月を見た。
「それでは鷹月様」
「うん」
鷹月は九郎を見た。九郎は頷くと、固く拳を作って決心したように立ち上がった。
小春はそっと目を開けた。暗かった。少しの間何も見えなかったが、目が慣れてくると壁に何百本もの刀と槍が立て掛けられているのが浮き出て来た。
『武器・・・庫?』
そう呟いたが、口に布を噛まされていたので、実際には呻き声にしか聞こえなかった。小春は一生懸命回りを見渡す。するとその他にも木箱が積まれており、自分に一番近い箱まで動いて、顔を近づけて臭いを嗅いだ。
『火薬ね』
自分が捕まっている事などすっかり忘れてしまっていた。しかし右腕を動かした瞬間激痛が走り、境内の事を思い出した。気絶する前に見たのは、桂介の無念そうな顔だった。私が大丈夫と頷いた事に気がついてくれたか 私を助ける為に無茶をして、命を落とす事だけはないように。小春は固く目を閉じて、そう祈った。その時。ガラガラと言う戸の開く音がして、光りが差し込んできた。小春がたまず目を細める。誰かが近づいて来る。そして小春の前で止まった。
「目を開けろ」
身に響くような声に、小春はゆっくりと目を開ける。真っ白な着物に身を包んだ髪の長い男が、切れ長の目で小春を見下げていた。すぐにこれが曳善だと分かる。 小春はその威圧感のある視線に負けまいと、体全体に力を入れてその目を見続けていた。
「大した女だ」
小さく喉を鳴らすように笑う。そしてそのまま小春の顔の高さにしゃがみ込んだ。顔がすぐ近くにある。綺麗な顔であったが、その奥に血の臭いを感じさせる不気味さがあった。
曳善の手が小春の頭の後ろに回り、口にはめられた布を取った。そして縛られた体も解いた。自由の身になった小春だったが、曳善が余りにも近くにいるので、身動き出来ずにいた。しかし警戒心を向き出しじっと曳善を睨みつけている。曳善は無表情のまま、その手を小春の体の方へ伸ばして来る。小春も負けずにその手を払いのける。曳善は別に痛くもなかったように、また手を伸ばして、小春の怪我をしている右腕を掴み上げた。
「離して・・・」
睨み合いながら小春は振り絞るように言った。ドクンと傷が疼いた。曳善の手に力が入るのと比例して小春の体から力が抜けて行く。ついに小春の体が曳善のもう一つの腕の中に落ちて行った。小春はついに曳善から、目を逸らし、体を預けたまま目を固く閉じてしまった。ふいに、桂介の顔と声が蘇る。
「この腕。もう使い物にはなるまい」
「えっ・・・」
意外な言葉に曳善を見る。やや俯き加減の曳善の、鋭利でくっきりとした顎の線が、小春の目に飛び込んで来た。その曳善の視線の先には、小春の右腕があった。
「刃物を振り回す仕事は、もうできまい」
冷めた言い方である。小春は思わずゴクリと唾を飲み込んだ。曳善は小春に自分と同じ属の血が流れている事に気付いたのだ。小春は改めて曳善の表情を眺めた。色のない薄い唇は、言葉を言わない時はきつく引き結ばれている。その間に曳善は小春の腕に布を巻いて、簡単な止血を施していた。そんな様子を見て、小春が戸惑ったのも無理はない。冷酷で卑劣な手を使う極悪人と思っていたし、曳善の腕に落ちた時は、この手で自分はひどいめに合うだろうと、覚悟した矢先でもある。
「あなたは・・・」
そう問い掛けると、曳善は小春の体を引き離し、近くの壁に凭れ掛けさせた。
「本当は抱くつもりでここへ来た。それを・・・・不思議な女だ。私の忘れていた感触を・・・この冷め切った心の中を、少しずつ・・・少しずつ溶かし出している」
固く結ばれた口端がフッと緩む。そしてそのまま小春の体に倒れ込むと、小春の肩に頭を預けた。
「今までいろいろな女を抱いた。そしていろいろな輩を殺した。一度でも痛ましいと思った事はない、いとおしいと思った事もない。おのれが生きていると言うことさえ感じた事もないのに・・・な」
そう呟くように言うと、曳善はゆっくりと体から力を抜いた。それはまるで、子供が母親の胸で眠るように。
「鼓動がこんなに心地好いものだったか・・・人の体はこんなに温かいものだったのか・・・。ふんっ、母の温もりも知らぬ私がまさかお前に・・。頼む、しばらく・・・このままで居てくれぬか」
小春の体からも緊張が解けて行く。先程まで見上げていた顔が、今は自分の下にある。伏せられた目にはあの威圧は感じられず、なぜか自分より小さく感じられた。 思わず目に涙が溢れた。
『可哀相そうな人』
涙の原因はこれだった。曳善はずっと一人だったのだ。この人はずっと、振り返ればどこにでもありそうな温かい安心感を、小春から感じ取ったのである。小春はいつのまにか、曳善の体に手を回していた。
「頭領、頭領」
それからしばらく立った時。武器庫の外で慌ただしい足音と、緊迫した声が聞こえて来た。その声を聞いた瞬間、曳善は小春から素早く身を起こしあの冷たい響きの声で、それに答えた。
「どうした」
「は、ここにおられましたか」
忍びらしい男がちらりと小春の方へ視線を送った。
「この女の仲間が、ここへ向かっております」
「そうか・・・」
曳善もチラリと小春を見た。その目はいつもの曳善のものであった。その時、なんとなく小春は気付いた気がした。この無表情は、何か決心しているからなのではないかと。それは自分自身の事で、この件の事ではなく。 いきなり曳善が持っていた刀の鞘で、小春のみぞおちを突いた。一瞬息が出来なくなり、意識が遠のき始めた その中で、この妙な閃きが現実にならないように祈っていた。
『皆様・・・どうか、御無事で』
永明寺の裏手の雑木林には、軽い霧がかかっていた。辺りを注意深く見回しながら、鷹月は一人で歩いている。静かだ。物音一つしない。鷹月はこの不自然な程の静けさに、息が詰まるような緊張感を覚えた。
「大丈夫なんだろうな・・・」
しばらく何も起こらずに、寺の裏に回り切った。まるで深い山奥に入ってしまったようである。木はだんだん大きく太くなり、道も狭くなる。狙うには恰好の場所だった。
「木が・・・騒ぎ出したな」
そう思った瞬間。ヒュンと言う音が鷹月の横を掠めた体を逸らしてそれをかわすと、それは木に刺さった。手裏剣である事は分かったが、確かめる時間はない。今度は木の上から人が飛び込んで来る。刀を素早く抜いて、鷹月は何人かを地面に叩きつけた。
「桂介!」
後ろを振り返って叫ぶ。桂介が九郎を連れて、鷹月の方へ走って来た。鷹月だけに狙いを定めていた忍び達がふいを突かれて、飛び出してきた二人にやられた。地面からの戦いは、刃の長い三人の方が有利である。あっというまに片がついた。
「気をつけろ。奴らは津波の一波だ」
林の向こうから、黒い姿の忍び達がこちらに向かって走って来た。
「九郎さん、早く」
桂介が九郎の背中を押した。九郎は二人に頭を下げる。
「鷹月様、無理をなさらないように」
鷹月が片目を閉じて答えた。
「まかせとけ」
鷹月と桂介が、二波目の忍びも片づけた時。最後に残った一人の忍びが、苦々しげに二人を睨んで言った。
「お前達。ただの侍ではないな」
桂介はその男の顔と声に覚えがあった。
「お前は、小春さんをさらった奴!」
「何!おい、小春は無事なんだろうな!」
男は意地悪そうに、口の端で笑った。
「頭領にお任せしてある」
「何だと!」
男が飛び上がるのと、鷹月が脇差しを投げたのが同時だった。男は大きな鳥のような奇声を上げた後、どさりと地面に叩きつけられ、そのまま動かなくなった。
「若様・・・」
鷹月は大きく息をしながらしばらく落ちた男を見つめていた。
「オレたちも、ぐずぐずしてられないぞ」
「はい」
「あ、九郎さんこっちこっち」
触ったら崩れ落ちそうな門の影から、伊助が九郎を呼んだ。門もさることながら、中の方は朽ち果てた屋敷跡と言う感じだった。とうてい人が住んでいるとは思えない。
「鷹月様達は?」
「ええ、雑木林の方でまだ・・・」
心配そうにそちらの方を見て、伊助は頷いた。
「取り合えず九郎さんを先に。こっちです」
注意深く中に入る。中に入って見て、外見のあばら屋は見せ掛けだと分かった。黒っぽい造りの狭い廊下は、戦いの時、敵が進入しにくいように計算されたものだ。
「気をつけて、オレが歩いた後についてきて。じゃないと床が鳴りますからね」
ゆっくりと奥に進む。九郎は自分が徐々に籐吾に近づいている事を実感した。複雑な気持ちだった。しかし覚悟は出来ている。籐吾は野望とも言える企てに手を貸し市村と妹のように可愛がっていた結を陥れようとした。そして何より、自分を助けてくれた北原にまで迷惑をかけているのだ。昔の友情などという甘い関係を叩き返して、まっすぐ籐吾と勝負する。九郎は改めてそう心に決めた後、指を刀の柄に滑らせた。いつ出会ってもいいように。
先程伊助達が通った廊下で、盛大な足音が響いている鷹月が真正面を睨んだまま、大股で進んでいるのである。
「わ、若様!もう少し警戒しながら・・・」
「大丈夫だ。曳善と籐吾以外はさっき全部切った!」
鷹月だってこの忍者屋敷を無謀備に進んでいるつもりはなかった。伊助が残してくれた目印を信じて、そこを進んでいるのである。警戒したってしょうがないではないか。相手は自分達が来る事を知っているはずだ。だったら早く見つけ出して、決着をつけける事だけを考えればいいのだ。
どんどん奥へ入って行く、そして鷹月はある部屋の戸口でピタリと足を止めた。
「ここだな・・」
鷹月が刀の柄に手を掛ける。桂介も構えの姿勢を取った。二人で頷き合うと、勢いよく戸を開けた。暗い部屋の中に、ぼうっと白い影が立っている。鷹月はすぐにこの屋の不気味さを感じ取った。この部屋には外に面した戸が一つもない。部屋の空気は流れ一つなく淀んだ重苦しい雰囲気に、この部屋で起きた過去の惨事を思い浮かべてしまった。
「なかなか威勢のよい奴だな」
一瞬壁から声が聞こえた気がした。その一言で鷹月と桂介に言われのない悪寒が走る。曳善はゆっくりと、鷹月達の方へ向き直った。
「お前が・・・曳善か」
「いかにも」
しばらく睨み合っている。曳善の様子は二人を見据えていると言う言葉の方が合っているだろう。感情的な部分は何もない。そしてそのまま口を開いた。
「その方、いい気を持っている。・・・時が時なら、天下取りの大名の中に名を連ねただろうに」
「何!」
曳善は鷹月の身分に気付いたのだ。
「どうだ、この私と手を組まぬか?この世を我が手中に納めたら、行政権をお前にやろう」
鷹月の顔が真っ赤になった。
「戦がなくなり、やっと人々が平和に安心して暮らせる世になったんだぞ。それをお前は、また荒ら
そうと言うのか!馬鹿にするのも程がある!」
曳善はその様子を冷静に見ながら、微かに微笑んだ。それを見た桂介は、いいようのない悪寒に息を飲んだ。
「若様・・気をつけて下さい」
「そんなに無駄な血を流させたいのか。オレは許さないぞ。何が何でもお前をここで叩き切ってやる!」
聞こえているのか、聞こえていないのか。とにかく鷹月は目の前の鬼に、飲み込まれつつあったのだ。勢いよく刀を抜き、部屋へ足を踏み入れる鷹月。桂介もその後に続く。
「若様、落ち着いて下さい!」
そのまま向かって行こうとする鷹月の肩を掴んで、桂介が叫んだ。
「飲み込まれてはいけません。落ち着いて」
「ほう、なかなか冷静な家臣をお持ちのようだな」
曳善の腕が、ゆっくりと刀に伸びた。鷹月が構える。桂介も緊張しながら刀を抜いた。曳善は片手で持ちながら、鷹月を見据えて、足を進めた。一部の隙もない。曳善の心を読もうと目を見るが、見れば見るほど、その体に染みついた血をの臭いを嗅ぎ取ってしまう。聞こえるはずのない、いくつもの刀の交わる音、人の叫び声が、敏感になっていた鷹月の神経に響いて来る。呼吸が乱れたその一瞬をついて、曳善の刃が鷹月に襲いかかった。それは今まで封じ込められていた曳善の殺気が一気に放出されたような鋭いものだった。
「くっ!」
何度も交わる刀。素早い切り返しに、鷹月は防備を強いられた。この細身の体からは想像できない程の力で振り下ろしてくるので、鷹月はだんだん上体が上向きになって来て、とうとう鍔を引っ掛けられて後ろへ飛ばされた。
「若様!」
すぐに横から桂介が曳善に向かって行く。しかし曳善はそれを見破って、刀を宙に流した。辛ろうじて避けたが、もう一度切りかかろうと構えた時。振り返った曳善が素手で桂介の刀を握った。桂介を睨み上げる目は蛇のような光りを帯びていた。桂介はとっさに刀から手を放すと、短剣の方を抜いた。しかし行動の早い曳善の気迫に押されて、桂介も弱腰になる。
「このっ!」
鷹月が曳善の腕を後ろから掴んだ。そして、振り向いた曳善の体はのけ反って呻いた。鷹月が脇差しで腹を刺したのである。曳善は力を振り絞って離れると、刀を振り上げた。今度はそこを桂介が横から切った。
「見事だ・・・」
よろよろっと立ち上がって、鷹月の方へ二、三歩進んだ後、曳善は崩れ落ちるように床に伏した。
「・・・若様」
大きく息をしている鷹月の横に桂介は寄った。曳善の体の下からゆっくりと赤い血が広がってゆく。
「恐ろしい奴だ。・・・この男の気に飲み込まれていたら、負けだったな」
二人は何となく殺気の中に、寂しさみたいな物を感じたのだ。それが迷いを作った原因かもしれない。なのにに相手は、人を切る事になんの抵抗も感じない鬼なのだ 二人は顔を見合わす。どちらも青ざめていた。
「桂介、顔色悪いぞ」
「若様こそ」
そんな会話で安心したのか、二人は少し微笑んだ。曳善の血は、いつの間にかその白い顔を染めていた。目は開いたまま、宙を見つめているが、その目には何やら安心した色が伺えた。もちろん鷹月達は知るよしもない。
眩しそうに光りの先を見つめている。籐吾はゆっくりと左手を刀に掛けた。光りの向こうには大きく息をしながらこちらを睨んでいる九郎がいる。
「すごい顔だぞ。一度鏡を覗いてみろ」
穏やかな口調だった。いつか自分が捕まった時、闇の牢屋ごしに離した時より穏やかだった。
「もう一度聞きたい。なぜお前はオレを殺さなかったのだ?それどころか、牢屋の鍵を置いて行ったりして、はじめはお前が何か探る為に、潜り込んでいたのではないかと思った事もあったんだぞ」
「まさか・・・」
籐吾が九郎の方へ向き直った事によって、二人はお互いの顔を見る事ができた。
前の時より少し痩せた・・・二人ともそう思った。
「しかし今はお前にどんな理由があろうとも、オレはお前を斬る!・・・御世話になった北原様や、結様の為にも・・・・覚悟しろ」
九郎が柄と鍔に手をかける。いろいろな出来事が飛び出して来た。あの夜に自分を切ったのが籐吾だったという衝撃。牢屋ごしに話した戸惑い。小春が目の前で連れ去られた悔しさ。無意識の内に刀がゆっくりと引き出されて行く。その様子を目で追いながら、籐吾はつぶやくように言った。
「オレはあの日から無を楽しみ生きて来た。自分を捨てたも同然だった。あの時お前を助けた事なども・・・無意識にやってしまった事だったんだな」
悲しそうに笑うと、籐吾も刀を抜いた。その言葉を聞いた瞬間、今度はあの三人で楽しくやっていた時の思い出が頭の中を駆け巡って行く。九郎は思い出の籐吾と今の籐吾を比べてた。顔つきは変わった。今の籐吾にはあのやさしかった笑顔さえ見られない。しかし、籐吾は籐吾なのだ。
「遅い・・・遅いんだ、籐吾」
どうしてこんな事になってしまったのか。九郎の目に涙が溢れてきた。籐吾の刀先は、九郎の喉に定められている。戸口に立っていた九郎は気力を振り絞った一歩を、暗い部屋の中に溶け込ませた。頭痛を起こしそうな金属のぶつかり合う音。籐吾の余裕に満ちた刀さばきを身を持って体験した九郎は、やはり籐吾には勝てない事を実感した。九郎は振り切って飛び退く。カチッと目の前の鋭利な刃が威嚇の早さに変わる。気をつけながら刃の様子を見て、円を描くように向きを変えて行った。今まで戸口の方を見つめていて、目が光りに慣れていた籐吾は、戸口に背を向けた事で、急な闇にまた目を凝らした。九郎は逆に闇から急に明るくなった。しかし九郎は、籐吾の刀を見つめていた御陰で、その動揺を見逃さなかった。甲高い金属音は開け放たれた外まで響いたに違いない九郎は夢中の内に大きく手を振り下ろしていた。確かな手応えが腕を伝い、九郎の意識を無にした。気がつくと戸口にペタリと座り込んでいる。自分の目の前に籐吾の刀が突き刺さっており、外ではその体がぐったりと横たわっていた。
「・・・籐吾」
再会した夜と同じように呟いて、九郎は這って外に出た。
「籐吾・・・籐吾!」
その肩を掴む。ぴくりとも動かない籐吾の傍らに跪き後悔とやり切れない気持ちを込めて叫ぶ。フッとその胸が大きく動いた。
「大声を出すな・・・・・。傷に響く」
ぱっと目を開け、倒れた姿勢のまま籐吾は笑った。その笑顔はあのやさしかった籐吾の笑顔である。
「お前は・・・正直な奴だ。本気で切ろうとはしなかったな」
微かに頷く。
「オレは死にはしない・・・刀を振り下ろした時のお前の顔、あの夜お前を切ったオレの顔と同じだった」
「情け・・・ない」
涙声でやっとそれだけ言うと、九郎は籐吾から目を逸らせた。
「九郎さん」
そこへ鷹月と桂介が駆けつけて来た。心配そうに鷹月が声を掛けると、九郎は二人に力強く頭を下げた。そして籐吾に肩を貸して立ち上がらせる。鷹月と桂介はホッとした顔で頷き合った。
「これであの二人が救われなかったら、もうドン底だったな」
「そうですね」
「鷹月様ー」
伊助の声で振り返ると、伊助に抱き抱えられるようにして小春が歩いて来ていた。
「小春!」
「小春さん!」
少し髪が乱れていたが、二人の顔を見ると、嬉しそうに頭を下げた。伊助はニコリと笑うと、小春の体を桂介の方に渡した。
「大丈夫でしたか?」
「はい」
桂介は片手を小春の体に回して、やさしく聞いた。小春もすこし俯いたが、笑顔でそう答えた。しかし口を開いた途端、小春はぽろぽろと泣き出してしまった。
「あ・・・。す、すいません」
涙声に気付いた桂介は、はじめ少しびっくりしたが、すぐに笑顔に戻ると、その体をギュッと抱き締めてあげた。
「いいんですよ。小春さんが無事で本当によかった」
その温かい胸に抱かれながら、小春はやっと安心していいと言うことに気付いた。そしてふと、曳善の事を思い出してしまった。あの時は自分が曳善を抱き締めていた。きっと曳善は私から安心感を読み取ったのではなく私の回りの優しい人々からもらった安心感に気がついたのだろう。小春は改めて、自分な幸せな者であると確信し、そして、桂介の胸で思いっきり泣いたのだった。
腰入の当日。市村の城の中は、いつもの倍程人々が忙しそうに動いていた。あれから酒松の方は江戸から来た家来衆を改めさせ、ぎりぎりの所で陰謀を食い止める事に成功したのだった。凛は、みんなが何も知らずに働いている姿を見て、苦笑した。
「本当に良かったわね。私達の苦労もむくわれたってものよ。ね、鷹月・・・・あら?」
さっきまで部屋にいたはずの鷹月が見当たらない。馮眞のたっての希望で、凛と一緒に鷹月も婚儀に参列することになったのだ。着替えも済んで、後は行くだけなのに。
「どこ行ったのかしら、もう!」
その頃鷹月は、厠へ行って戻れなくなっていた。
「なーんか。自分の家じゃないから・・・迷ったなぁ」
どうやら鷹月にとって今回は迷いに始まって、迷いで終わるらしい。始めの迷いであの結に出会ったわけだが 気がついて見ると、先程まで慌ただしかった廊下には人一人居なくなっている。もうすぐ始まるらしい。
「凛怒ってるだろうな」
取り合えず行ける方向に足を進め、角を曲がった時。見覚えのあるおみつが、真っ白な着物を着た結の手を引いて来た。ゆっくりと渡り廊下を進むその雅びさに見惚れていると、おみつが鷹月に気がついた。
「あっ・・・」
めずらしく、おみつが大きな声で驚きの声を洩らす。その時鷹月は初めて、自分があの浪人姿ではなく、北原の殿様姿だと言う事を思い出したのだ。しまったと思ったが、見られてしまったものは仕方がない。鷹月は覚悟を決めた。
白無垢の結の顔が鷹月の方に上がってきた。その綺麗に白粉を塗った顔は、また一段と美しかった。
「・・・・北村・・様?」
掠れた呟きだったが、しっかり鷹月にも聞こえた。 語尾が戸惑いぎみだったのも無理はないだろう。結にはただの馮眞の家臣と名乗っていたのである。髷を高く結っている姿は、どうも違う。鷹月は恥ずかしそうに下を向いたが、せっかくのめでたい日である。もう一度結を見ると、笑顔で頷いた。その時、市村の家臣が鷹月を見つけて声を掛けてきた。
「北原様、このような所でいかがなされましたか」
「北原・・・では、北原鷹月様とは・・・」
おみつがまた驚いた声を出した。鷹月は申し訳なさそうに家臣の方へ笑いかける。
「うん、厠へ行っていたら、迷ってしまった。案内を頼む」
「は、さようで」
最後にもう一度結の方を見た。すると結は、あのかわいい笑顔で鷹月に頭を下げていた。
「結様。ようございましたね」
「おみつ」
いつもとは逆に、結がたしなめるように言った。その後、鷹月が結を見た時は馮眞と並んだ、お似合いの夫婦になった時であった。
それから数日後。市村の方でこの事件の記録の手伝いをしていた九郎は、忙しい合間をぬって籐吾に会いに来た。
「傷はどうだ」
籐吾はさらしで固められた体をぎこちなく動かすと、九郎の方に向き直った。
「オレのいない間に、そうとう腕が落ちたようだな。オレがお前を切った時の方が、まだましだったぞ」
「よく言うよ」
ふと、九郎は籐吾の傍らにある刀を見た。それはいつも籐吾が持ち歩いていたものに違いないが。
「籐吾、その刀」
「ん?ああ、そう。飛び出して行った時、唯一身に付けていた刀だ。後で気がついた。この鍔の彫り物の中に、酒松の紋がついていたんだな」
これは籐吾が本当に酒松の殿のご烙印だと言う証拠である。何もしなかった父がたった一つだけ残した絆の刀と言うわけだ。
「殿を・・・恨んでいるのかと思っていた」
びっくりしたようなホッとしたようないいまわしだった。
「恨んではいない。ただ、結様を悲しませる事が嫌だったのだ。あの方のまっすぐな心に傷をつけるのが、しのびなかったのだ」
それを聞いた九郎は、もう籐吾は曳善の仲間だった籐吾ではなく、昔の籐吾なのだと確信した。もし結がいたならば、どれほど喜んだものか。
「結様は心配ない。市村馮眞様は立派なお方だ。きっとお幸せになる」
そうか、と満足そうに頷く。
「籐吾」
「ん?」
「お前も・・・幸せになれるさ」
しばらく九郎をじっと見ていた籐吾だったが、苦笑いをすると、空を見上げた。
「そうだと、いいがな」
それから数日後。九郎が市村の仕事を終了して、酒松へ帰って来た時には、陣屋から籐吾の姿はなかった。しかし今度は、誰も慌てた様子を見せない。聞けば籐吾は江戸へ行ったそうである。今回の騒動を殿に報告する役目を命じたと言うが、どうやらそれは滝川の計らいで、籐吾と殿を親子として対面させる為らしかった。
いつか籐吾が兄として、結と対面出来る日も近いかもしれない。
旅姿の伊助が大きく欠伸をした。
「あーあ、とんだお里帰りでしたね。凛さん」
同じく旅姿の凛がそれに答えた。
「そうねー。でも、その御陰で兄上にかわいいお嫁さんが来た訳だし。めでたしってトコかしらね」
「おい凛、お前行きに使った家臣と駕籠はどうしたんだよ」
「ああ駕籠にはね、小春を乗せておいたわ。だって怪我してたし、大変な目に合わせちゃったからね」
まったく、と言うように鷹月は桂介を見た。桂介は笑いながら言う。
「いいんじゃないんですか。それが凛さんの優しさなんですから」
「うーん、桂介よく分かってる!」
「あのー、オレも怪我したんですけどー」
凛に甘えるように伊助が言うと、後ろから鷹月がその頭を叩いた。
「たかが肩掠っただけでなんだ。情け無い!」
「ってえー。鷹月様、なんか今回オレを叩いてばっかりいませんか」
ぷっと頬を膨らまして歩く。たまらず桂介が声を出して笑うと、全員が笑った。
この山を抜けたら、海が見える。いろいろ考えさせられる凛の里帰りだったが、最後は馮眞と結の幸ある笑顔に見送られた。いつかまた馮眞に会う時、今度は息子でも連れて、ゆっくりと飲み明かしたい。また市村へ来る事を夢見ていたら、桂介が脇をつついて来た。
「さあ、これからしばらくは、忙しい日が続きますよ」
うんざりしたような顔で溜め息をついた時。全員の耳に懐かしい波の音が聞こえてきた。