幕間:10年前の憧憬
それが村を襲ったのはウィルベルが5歳の頃だった。
彼方かなたにそびえる岩山の遠近感を狂わせるほどに巨大な生物。
地面を穿つ鋭い爪、艶めかしい真っ黒な体毛に守られた巨躯、巨体を空へと運ぶ禍々しい翼。
目は爛々と赤く輝き、その一瞥だけで心臓の鼓動を止めることができそうなほどの殺気を放っている。
「魔獣……」
そのなかでも特に強力な黒龍と呼ばれる魔獣。
「GUOOOOO!!!」
邪悪な咆哮がウィルベルの身体を貫いて痺れさせる。
たったの一体。
だが辺境の村を襲ったそれは、村の防衛施設を蝋細工のごとく一瞬で破壊し、絶望に陥れた。
せめて村人たちが逃げるために、と立ち向かった人々は刹那のうちに消し炭にされ……
「外へ!」
村人がウィルベルの手を引っ張り、振り返らずにただ道を走る。
かくなる上はバラバラに逃げ散って、全滅することだけは避けようとしているのだ。
繋がれた手をそのままに後ろを振り返る。
「ああ……お家が……」
村が真っ赤に燃えていた。
黒龍の纏う鱗粉のような火の粉が、木造の家を発火させているのだ。
「ひっ」
――目があった。
黒龍の目にあるのは生命に対する憎悪。
その対象は人のみに非ず、生きとしいけるもの全てに対する純粋な殺意。
黒龍はウィルベルたちのほうへと、ねちゃりと唾液まみれの大きな口を開き――
グォォォォォォッ!!!
放たれたのはカッと暗い漆黒の純粋なエネルギーの球体。
重力を持ったかのように、横を通っただけの家屋をぐじゃりと捻じ曲げ、ウィルベルたちに向かってくる。
あのエネルギーの影響範囲に入ってしまえば、少女の肉体など家屋よりも遥かにたやすく捻じ曲がるだろう。
誰か助けて!
もしかしたら、後ろを振り向かなければ気づかないまま死ねたかもしれない。
死の感触に対し生存本能が働いたのか、すべてがスローモーションのように見える。
漆黒の球体が生み出す力場が、ウィルベルの肌を歪める。肌が拗じられ、骨が灼けるように痛む。
生き残るために、ありとあらゆる可能性が瞬時に試行され――全てが否定される。
それでも生を諦めることなどできない。
せめて屈することなく、最後まであがいて死んでやる!
繋がれた手を離し、この両腕で止めてやる、とばかりに手を広げ漆黒の球体に立ち向かう。
もちろん無謀だ。その瞬間、少女は狂っていたとさえ言える。
刹那のあとには、黒龍の放った黒球は少女を塵すら残さず消し去るだろう。
が、その球体はウィルベルに届かなかった。
「ぬん!」
雷光のような一筋の刃が漆黒の球体を断ち切り、球体は一瞬だけゆがんだかと思うと、霧散し消滅した。
「え?」
あまりも突然のことに、ウィルベルはぽかーんとなってその場にへたりこんだ。
いったい何が?
混乱するウィルベルの頭を誰かが撫でた。
「大丈夫か」
まだ若い男性だ。
涼やかななかにも凛とした響きのある声。素直そうな瞳がウィルベルの安否を心から心配するように覗き込む。
背は高く、細身ながら鍛え上げられた無駄のない筋肉。
手に持つ剣は黄金の輝きを放っていて、まるでおとぎ話の中に出てくる英雄そのものだ。
「GUOOOOO!!!」
対するドラゴンの動きは俊敏だった。
巨体からは想像もできないほどの速度で突進してくる。
「あ、危ない!」
「安心して。すぐに倒すから」
ウィルベルが声を上げるが、青年はウィルベルが腰を抜かしただけなことを確認すると、青を基調とした服を翻し、黒龍に向き合った。
黒龍は立ち上がり、その腕を青年に向けて振り上げ、
「はっ!」
――その瞬間、ずん、っと重い音を立ててドラゴンの腕が落ちた。
「GYAAAAAA!!!」
油に濡れたように艶めかしい毛に覆われた腕が、しばらくバタバタと暴れまわる。体液が地面を濡らして黒く変色し、腐敗したような匂いが充満する。
「残念だけど……」
青年が剣を片手に一歩踏み出すと、黒龍がひるんだように、一歩後ずさる。
おおよそ、蟻と象ほどに大きさの違う両者だけれど、少女の目には青年のほうが大きく見えた。
「お前がいるべき場所はこの世界じゃない。去れ!」
声高らかに叫んだ直後、青年の剣が唐竹割りに黒龍を切り裂いた。
「……すごい」
その瞬間、少女の胸に飛来した思いを一言で表すのであれば憧憬だ。
「すごい! すごい!」
これが、この世界を守護する英雄――勇者。
腰を抜かしていたことも忘れ、ただただ「すごい」とだけ叫んで抱き着いてくる少女に、青年は困ったような微笑みを浮かべた。
「うちも勇者になりたい!」
青年は少女の夢を肯定することも否定することもなかったが……。
憧憬はやがて夢となり、到達すべき目標となり、ひたむきな努力の糧となる。
――そして、勇者になりたいと願って10年目、少女はマグロを召喚することになる。




