行き倒れ
「はあ……、はあ……」
ダンは歩いていた。
どこを? それは彼にもわからない。途中まではわかっていた、正しい道を歩いていたはずだ。
しかし右を見る、白い。左を見る、白い。
気づけば一面真っ白な世界、数メートル先も見通せない霧の中をかれこれ数時間は彷徨っていた。
当然、そうだとわかってすぐに引き返そうとした。だというのに方角がわからなくなってしまった。
グリア人、野山で育ったダンの方向感覚は下手な野生動物よりも優れている。それなのにも右左がわからなくなるほどの、まさしく異常事態。
一つの岩があった、それを目印に何歩か進む。そうしてすぐに引き返すと岩は気づけば後ろにあった。視覚もなにもが役に立たない。
すでに食料も水も無くなってしまっていた。喉の渇きは隠しきれず、体力の低下も著しい。
「はあっ……、くそっ」
誰にでもなく悪態をつくダン。虚しくもその言葉は空に消えていく。
九頭との出会い以降、小さくなりつつある自信を取り戻すために、再び単身旅に出たというのにこの体たらく。苛立ちと焦燥が胸を駆け巡る。
とはいうものの疲労だけが募る現状は変えられず、足取りは重くなりやがて引きずるようになんとか前に進んでいる状態だった。
だがそれも長くは続かず、結局出口の見えない浮浪は精神も削り冷や汗が頬を伝う。道もわからなければ、生命の気配すら感じられない。摩訶不思議な空間には驚嘆するしかないが、今はそれを考える余裕もなくなっていた。
頭にある言葉は一つ。
「魔術……、魔術……?」
普通ではない現状を説明できる方法はそれしか思い当たらなかった。
昔、故郷であるジュラーにいた頃であれば鼻で笑っていただろう。特にジュラーにいた人間たちは魔法というものを信じておらず、それに縋っているという話を聞けば憐憫の思いを露わにしていただろう。
ダンも例外ではなく、そんなものに頼るぐらいならば己を磨くべくだと常々考えていた。
しかし九頭と出会ってからは考えが一変してしまった。
目の当たりにした魔術というのは、想像していたものを遥かに超える業でしかなく、人体をいともたやすく塵に変える様には恐怖しか抱かない。
あれをただの人間がどうこうするなど、思い上がりにも過ぎるのではないかとすら感じる。
その感情を払拭するためにもこの旅に出たのである。伝聞をたどり、魔法に関する噂を集めていた。その一つが今目指しているところなのだが……。
「……」
遂に膝をついたダン。不満の言葉すら出てこない、諦めの思いはないが空腹はどうにもならない。視界がかすみ、体の力が抜けていく。両腕で立ち上がろうと試みるが、震える腕はなんの役にも経たず、やがて地に伏せたダン。
最後に見る景色を思うがそれすらも叶いそうにない。なにせ未だ深い霧は晴れそうにもないのだから。
虚ろな目が閉じようとする時、霧を割いて動くものが見えた気がした。幻覚としか思えなく、自分が思うよりも心が弱かったのだと感じながら、意識は途切れていった。
火がパチパチと木を燃やす音がする。遠いところから音が聞こえ、耳鳴りのように頭を揺らす。
雑音だと思っていたものは、やがて意味のある言葉だとダンは理解していく。
ここは黄泉の国か、戦場で死んでないのに行けるはずもない。ならばここはどこか、生きているのか死んでいるのか、ダンは不確かな心地を味わいながら重いまぶたを開ける。
「――だから俺はそこで言ったのさ、『それは俺がすでに通った道だ』ってな!」
男の声がする。
「どうせ偶然でしょ、よくそんなに威張れるものだね」
今度は女の声だ。
「そんなわけ無いだろ! 俺は常にだな……」
「ルッグそこまでだ、ナーサもあまりからかってやるな」
「……悪かったよ」
先ほどとは違う女が仲裁し、男が静かになる。
火を囲んで話しているのは四人の男女、その中のひとりとダンの目が合った。
「――わーお、生きてたよ。あいつ」
「……まじかよ」
「賭けはあたしの勝ちだ、あとで銀貨五枚な」
「……はあ、団内の賭けは禁止しているはずだが」
こちらに背を向けていた影が立ち上がり、ダンの方に向かってくる。気の強そうな女だ、そして話しかけてきた。
「おはようさん、気分はどうだい」
「誰……?」
「寝ぼけてんなあ」
「話せるだけましだろ」
後ろから茶化す声。ダンの前にいる女は気にするなというふうにジェスチャーして話し続ける。
「運がいいな、あたしらに出会えて」
「ここは……、お前たちが助けて?」
「そーだぞー、感謝しろー。具体的には金で!」
後ろの女がそう言う。
「もう、ほんとに黙ってろナーサ」
「はいはい」
「助け……、むう」
立ち上がろうとして手をついたダンだが、手が滑って倒れる。再度試みてなんとか立ち上がった。
「おおー、さすがはグリア人。丈夫だねえ」
「干し肉一枚で、よく動けるよ」
「俺だって……」
「張り合うところか? ルッグ」
目をこすり、改めてダンは話しかけてくる男女を見る。火の回りには三人、うるさい二人と静かな一人。眼の前の女を含む四人の集団らしい。
そして眼前の女が話し出す。
「さあ、あんた。あたしはあんたの命の恩人なわけだ」
「……そうらしいな」
女は手にパンを持ち言う。
「食いたいか?」
「……ああ」
「じゃあ決まり、これからお前は私の奴隷だ」




