第四回 スポーツ中継と日本人の物語消費について
前回随分とっちらかってしまったので、少し整理をしつつ発展させてみようと思います。今回何かの感想とかじゃありません。たまにはそういう回もあるよってことで。むしろ今後そういう方が増えると思うよってことで。
と言いつつ、考察の材料に上げるのはスポーツ中継。今回はかなり偏見込めちゃいますけどね、と予告。てへ。
前回の考察は、最近の小説では「一人称、かつ様々なキャラの視点で同じイベントを語る表現法」が増えてきている。それはつまり、一人称文体であるにも関わらず主人公への感情移入よりも全体が把握できる神様視点で物語を表現したい、読みたい、という作者、読者の心理の変化が生じているのではないか。そんな感じでした。
ただ、単純に神様視点に立ちたい、と言うだけであれば、上述のような表現技法が増える土台にはならない。それだけの話であれば、そもそも一人称ではなく三人称の小説が増えるというだけの話ではないかなと思うのです。
ではなぜそうならないのか。単純に考えれば、「一人称の利点である感情移入がしやすくなる」点への需要も減っているわけではないから、でしょう。基本的には主人公の心情や思考に従って物語を読み進め、気になったイベント、重要なポイントでのみ、他のキャラの考えていることも描いて鳥瞰的に把握できる。まさしくいいとこ取りですねー。
そもそも日本人は、感情移入が大好きです。少なくとも私はそう思っています。
そう思っているのは、私自身がサッカーを見るのが大好きなのですが、スポーツ中継の報道などを見るたびに「番組の作り方が下手だなぁ」と偉そうなことを考えてしまうからでしてはい。うん、わかりづらいですね。上から目線で恐縮しない。
そもそも私は、スポーツ中継と言うのはそのものをそのまま映せば十分だと思っているんです。サッカーの日本代表の試合。バレーボールの世界大会。少し前に評判になったラグビー。昨今人気が出ている相撲。時事ネタとしては冬季五輪がまさに今行われているところですね。実況と解説がそこにあれば、スポーツの試合の中継というのはそれだけで十分。選手のプライベート情報とか、応援席のご家族の顔とか、応援しに来てるアイドルグループの新曲の宣伝とか、スタジオのタレントの応援メッセージとか、そういうものは全部雑味だと思ってます。
たとえば、今季この選手が注目です!と取り上げて、盛んに「この選手の今までの苦労」や、「周囲の人たちの言葉」などを織り交ぜてくる演出。直近だと羽生結弦選手の復活報道はここ二三日止むことがないですね。怪我で苦労した羽生選手の大復活劇! フィギュアに興味のない人たちの耳にも届いてくる勢いです。
はい、随分バイアスの強い意見を書きました。スポーツ中継を見る上ではそういうものは必要ないと思っているのが私の持論なわけですが、ここで語るべきは物語の書き方。てわけで、ここまでの話をそれにつなげます。
私自身は、スポーツ中継は雑味なく単純に試合だけを俯瞰して楽しみたいのです。つまりそれは、スポーツの試合の三人称表現。
一方で、耳目を集めたい試合の盛り上げ方として、選手のドキュメンタリィや過去の苦労話を盛り込むのが、スポーツの試合の一人称表現。
私から言わせれば、日本人はスポーツを三人称で楽しむのが下手、とも言えるのですが、逆に言えば日本人は一人称で楽しむのが得意、ということ。恐らくこれはスポーツに限らず、あらゆるものを見て考える上での日本人の根本的な見地なのではないかと、私は勝手に思っています。
とりあえず日本人って、知らない人とかテレビの向こうの出来事とかに感情移入するの、結構日常的にやってる作業だと思うんですよ。本読まない人であっても。
で、日常的にやってるあまり意識してない人でも結構慣れてきちゃって、メタ的な読み方もどんどんしちゃってる。桃太郎悪者説、が流行ったのはいつの頃だったかもうだいぶ昔だろうとは思うが、これは勧善懲悪の主人公である桃太郎への感情移入に倦んだ人たちが、鬼側を主人公にしたときに、「あれ? おかしくない?」と思い始めた……、わけではないかなぁ別に。まぁでも、いろんなストーリーの「○○サイド編」みたいな脇役、悪役視点でもすんなり読める、物語に入っていけるのは、日本人が今まで物語をそうやって読んできた、物語消費をしてきた素地があるからなんじゃないかなぁ、って思うんですよね。
ああ、そう考えると、一人称ストーリーだけど、同じイベントについて別のキャラ視点でも描いてほしい、読みたいっていう最上述の今回のテーマは、当然の流れなのかもしれないって気がしてきたり? 基本的には主人公視点で物語を楽しみつつ、「面白かった、次はこのキャラ視点で考えてみたい」っていう、二次創作的な神様視点でNewGame的な。それを二周目じゃなくて一周目でさっさと織り交ぜちゃおう的な。そうか。こういうのって小説の亜種みたいな感じで出てきたのかなぁって思ってたけど、当然出てくるような流れがあったのかなぁ。と一人納得。
異論反論、逆に私はこう思います、などなどあったら募集します。
余談として、一人称だ三人称だ考えてたら当然二人称小説の話って出てくると思うんですけど、有名なところだとミシェル・ピュトールの『心変わり』? はい、当然読んだことはありません。
でも違和感なんですよね。一人称小説が「主人公を一人称(俺、僕、私)で呼ぶ」もの、三人称小説が「主人公を三人称(彼、彼女、名前)で呼ぶ」もの。に対して、二人称小説は「読者に二人称(君、あなた)で語りかける」ものだとか? 違和感しかない!
人称って、要は地の文と主人公の関係性だよなーとかぼんやり思いながら、なんとなく書き始めている魔法少女モノ。ええ、魔法少女モノ! 短編だろうと思いますが、完成の予定は皆無です。ええ余談なので。戯言と聞き流しておいてください。