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第三回 『白ゆき姫殺人事件』から考えた「なろう系」作品の特徴

小説感想込。ネタばれあったような気もしたがそんなことはかったかも!

 

 はい、映画レビュー記事を二本も載せてしまいました。


 別に映画をいっぱい見たいわけではないので今日は本筋に戻って小説の感想。湊かなえさんの『白ゆき姫殺人事件』の感想をまとめる……ふりをしつつ、「はっきり言ってこれってラノベだよね」っていう自説をぶちまけていこうと考えております。



 

 私は、彼女の作品は『白ゆき姫殺人事件』しか読んだことないんですが、読んでいる知人の話だと他の話も手法は同じものが多いようですね。


 このお話は、ある殺人事件について、章ごとに「同僚」、「過去の同級生」、「地元住民」と話し手を変えて情報が開示されていきます。彼らへのインタビュー内容として事件にまつわる人々の様々な視点からの手がかりが寄せられる。各章をまとめているのはそのインタビューを取り、事件の真相を追う雑誌記者。付属資料として、その記者のまとめた記事やSNSの記録などが付けられている。


 はい、私がこの作品について言えるのは以上です。実はうろ覚えなんですよねー、前に一回読んだだけなので。間違ってたらすみません。てわけで今回はネタばれなしで行きますよ。何せばらせるほどのネタ覚えてないですからね!



 

 この話を例に挙げつつ今回いろいろ考えてみたいのは、「一人称」と「三人称」について。作品を書く上で重要な、かつ基本的な表現技法なわけですが、昨今のラノベやネット小説には一つ顕著な特徴があるのではないか?ということ。そしてそれと同じような特徴が湊さんの作品にもあるのではないか、ってことを今回考えていきたいと思うのです。

 

 元来、一人称の特徴は主観的で感情的。主人公に感情移入がしやすく、主人公に見えないところを描かないことで物語に立体感を与えることができます。


 一方の三人称は客観的で冷静。キャラクターの心情よりも出来事など物語をより強調して描きたいときにその特長を発揮します。

 

 湊さんの『白ゆき姫殺人事件』は全編一人称で語られていきます。それも特殊な文体、特殊な語り口での一人称。第一章は同僚同士の電話のシーンですが、その書き出しは「もしもし、起きてた? 寝てた? じゃあ、今すぐ起きて」でした。その後も章ごとにいろいろなシチュエーションが出てきますが、その全ては章ごと別々の登場人物の一人称。そうして様々な人物の持つ手がかりを元に、最終的に犯人がわかるという仕組みです。


 ひとつの推理モノとして読んだときに、犯人はこの人だったのか、というような楽しみはありました。ただ、個人的には残念ながら「小説を読んだ」という満足度は得られなかった作品でした。というのは、一人称であるにもかかわらずキャラクターが描かれていなくて感情移入ができず、では物事や出来事に魅力があるかと言えば「殺人事件」と「犯人究明」以上の何もない。オリジナルのSNSサイトや、雑誌の特集記事と言った工夫は見られましたが、それらは結局「読者が推理を楽しむ」ための工夫であって「読者が小説を楽しむ」ための工夫ではなかった。別の言い方をすれば、推理ゲームを楽しむ本であって、読者を満足させることを目的とした推理小説、ではなかったように感じたのです。


 こういう技法の本が、様々ある中で一つくらいはあってもいいと思います。でも、この技法をメインウェポンにするのはちょっと弱いところがあるんじゃないかな、と思うのですが、まぁ、私ごときが湊かなえ先生ほど実績のある方の批判などしても始まりません。そういうのはチラ裏だと思うので……、最近裏が白紙のチラシ減りましたよねー。メモ紙に使えないんですよねー。


 


 さて。そんな感じの白ゆき姫でしたが、ある意味でこの、「感情移入できない一人称」表現というのは昨今のラノベ、特にこのなろうサイトに寄せられる多くの小説にも散見される特徴ではないかなと考えています。


 あ、こっからは批判じゃないですよ。考察と思索です。と逃げ道逃げ道。

 

 いわゆる物語の基本に従えば、


 主人公A「信じていたのに……、どうしてお前はあんなことをしたんだ」

 B「違うんだ。本当はこんな理由があるんだけど、お前には言えないんだ」


 この場合のBの抱える事情は、読者にもその場では明かされません。Aと一緒にその後の物語を進め、程良いところで全てが明かされ、「やっぱりBは裏切り者じゃなかったんだ! 信じてたよ。抱いて!」となります(ただしイケメry)。


 なので、出来事時点でのBへの不信感、ヘイトの上がり方も、真相がわかったときのBへの高感度の上がり方も、Aに共感して抱くことができるわけです。これが主人公A固定視点の利点。


 ところが、「なろうサイトに多く寄せられている沢山の作品」を読んでいると、主人公A視点を基本的に取っていながら、固定ではなくときどきふらふらする、っていうタイプの視点作品が相当数あるように感じます。


 一人称なのに他のキャラの視点を描く。そのこと自体は小説の技法としても珍しいことではありません。一番オーソドックスなのは「主人公に見えないシーンを描くため。たとえば敵の幹部の会話シーンを入れておきたい」ですね。あくまで「仕方なく」主人公以外の視点を置くパターンです。


 それに対して、たとえば「○○視点」なんて章の頭に書いていらっしゃる作品は、特徴が顕著のような気がします。あくまで気がするだけですが。たとえば会話のシーンで、主人公Aはこれこれこう考えてこう言った。さて、Bはこれに対してどう答えるか。そして次のシーンはBの視点で描かれ、BがAのセリフをどう受け取ったか、何を考えてどう答えるか、全部を表現してしまうパターン。これは、特にネット小説の1話分が数千字という短い単位だからこそできる技なのかもしれません。

 

 主人公A「信じていたのに……、どうしてお前はあんなことをしたんだ」


 B「違うんだ。本当はこんな理由があるんだけど、お前には言えないんだ」


 

 B視点


 B「A、お前には言えないけれど、こうするしかなかったんだ。敵のあれをどうにかするには……」

 

 こういう感じですかね。


 個人的にはこれは、一人称の武器である感情移入を斬り捨てたような書き方だと思います。他のキャラの心情が見えちゃうっていう段階で、エスパー人称か妖怪サトリ人称か!と言ったところ。はい意味がわかりません。


 では、なぜそれがメジャーになってきたのか。愚考するに、ひょっとすると読者の側が「主人公への感情移入」よりも「神様視点」をより好んで選ぶようになってきているのではないかとおもったのです。


 ストーリーの全貌を最初から把握できるのは作者の特権。さらに言ってしまえば、その特権を作者と共有したい読者、読者と共有したい作者が増えたのかなぁと。それが、こういう書き方が、たとえ「なろう系」という狭い世界だとしても、メジャーになりつつある理由なのかな、なんて考えたりしました。



 

 まぁ私は、「物語の基本」に拘ってしまうのですが、「小説にルールなどない、面白ければ問題ない」という意見もまた真実だと思います。


 そして、「○○視点」という表現を多用されてる作品、先生方が、数多くランキング上位に入っているという事実(統計はとってない)が、その作品を「面白い」と思う読者さんがそれだけの数いらっしゃるという証拠だっていうのも事実なのかなぁ、とも思うのです。


 特に私みたいな弱小書き手はどんどんこういうの吸収していかないといけないですよね! 先人の知恵は偉大です(揉み手揉み手)。


  

 書き手として、読み手にこびるつもりはないにしても、全く読み手を意識しないのもまたよいことではないんだろうなぁ、といろいろぐるぐる考えつつ。かと言って考えてることが全部作品に反映できるかって言ったらそんなこともないんですよね!

 

 ところで私も、なろう系の末席に名を連ねさせて頂きましたので、せっかくなので「異世界転生」モノを書いてみようかなぁと考えているところでございます。当然文体は一人称! 先人の成功例には全力であやからせてただきますよえへへ(揉み手揉み手)。というわけで、掲載の折りにはどうぞ読んでやってくださいませ。


 と湊さん全く関係なくなった辺りで本日はおしまい。





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