第十一回 ラノベの矜持。ラノベだって小説だ!
『まんが道』というマンガ。――の、ネタばれになるようなことは一言も引用していない。ていうか引用していない。
お、今回はどうやら「この作品は~期間更新されていません」って表示される前に更新できたようですね。たまにしか書かないエッセイですが、なるべくあの表示は付かないように頑張りたいと思います。
まぁでも、エッセイ集ですから。エタるとか完結とか関係ないですからね。基本的には全ての作品を完結済にするつもりの筆者ですが、こちらの随想集だけは連載中のまま終わるんじゃないかなぁって思います。完結印付けることあるかなぁ?
はい、そんなお話を枕に、さっそく本題に入ってまいりましょう。今回のお話は、「地の文」についてです。今回ちょっとだけ真面目なお話。できたら、ラノベ作家を目指すような、書き始めたばかりなような中高生の方々に読んで頂きたいな。
最近「まんが道」っていうマンガを読んでおりまして。こういうの読むとつくづく影響を受けてしまうなあと。
ああ、まんが道ってのは、藤子Aさんが書かれた自伝的なお話なんですけどね。主人公の満賀道雄が、才野茂と出会って、二人でコンビを組んで漫画家を目指すっていう。ドラマ化もしてるらしいですしご存じの方は多いですかね。私は知りませんでした。最近図書館で見かけるまでは。
で、まぁまだ半ばまでしか読んでないんですけど、今まで聞きかじった知識も含めて、トキワ荘の方々の情熱ってやっぱりものすごいなぁって思うんです。手塚治虫をはじめ、藤子不二雄、石森章太郎、赤塚不二夫らそうそうたるメンバーによる「マンガの執筆活動」。彼らは自分たちが漫画家として大成するだけじゃない、マンガというものの価値を床下から作り上げたメンバーだと思うのです。聞きかじった知識程度だけど!
中高生呼んでおいて何の話してるんだって。下手したら今の中学生、石森章太郎知らないぞ。いやそれはそれで問題だから知っとけ? ってそんな話でもなく。
先日、ツイッターでどこかで流し読みしたどなたかのツイートに、「地の文を減らす工夫をしている」みたいな話があって、ちょっとゾッとしました。ライトノベルとしては当たり前の工夫なのでしょうか。けれど、同じ物書きとして、小説書きとして、思うところが沢山ありました。
その方の普段のツイートや、実際の著作をゆっくり読んだわけではありません。使った文脈もあるでしょう。……いや文脈はないかツイッターだし。まぁ、文字どおりに使ったわけではないかもしれませんし、私の杞憂なのかもしれません。けれどそこら辺は一度棚上げして、今回私がこの文章を書くただのきっかけってことで横に置かせて頂いて。
私見として結論を申しますと、小説の面白さは地の文の面白さです。地の文を軽視するうちは、その人の書いた作品はどんなに面白くても、小説ではありません。
珍しく過激なことを言いますが、私自身、ライトノベルと正調ファンタジーの隙間辺りで揺らぐような作品を書いている手前、よく考えるんですよね。「ライトノベルってなんなのか」と。小説の中で、何をもってしてこの作品はライトノベルだと定義するのか。自分の書いているものは果たしてラノベの範疇なのか、外なのか。別にジャンルを拘って書くわけではないので、「いやラノベじゃないでしょう」って言われれば「あ、そうなんだ」っていうそれだけの話なんですが、さりとて自作がラノベと無縁でいられる作風だとも思っていません。であれば、「ラノベとはなんなのか」っていうのは、自作のアイデンティティにもかかわる大きな問題だと思っているのですここまで前置き!
で。もしもキャラクターの魅力、会話文の軽妙さやセンスがラノベの真髄で、地の文はむしろ短い方がいい、というような評価がライトノベルの根幹を成すものであるなら、ライトノベルに未来はない、というのが私の考えです。
自分の書いた作品が、例えばコミカライズされる。アニメ化する。ドラマ化する。夢だと思います。最早メディアミックスが当たり前のこの時代。ましてやラノベは当たれば必ずアニメ化につながるような時代です。目標としてそこを目指すのはひとつ当然の価値観だと思います。
ただ、ラノベであろうが何であろうが小説を書いてらっしゃる皆さんには、ぜひ忘れないでほしい。どれだけ成功して、どれだけ沢山の媒体にリメイクされても、その作品その物語の原点は小説、文章なんだっていうことを。どんな素晴らしいアニメ作品を作ってもらえたとしても、「このストーリーを、このキャラクターを一番魅力的に表しているのは、絵ではなく文字なんだ」ということを。
逆に「小説に誇りはない。アニメなんか作れないし絵も描けない。作文ならできるから小説にしてるだけで、ストーリーを表現できれば何でもよかった」という方には、小説を名乗らないで頂きたい。台本でも脚本でも、原案でも設定集でもなんでもいい。とにかくそれは小説じゃない。ライト「ノベル」ではありえない。
小説の魅力は当然ながら文章です。挿絵で飾っても、イメージPVを作ってみても、そこは揺らいではいけない。そして、その魅力が一番表せるのが、地の文だと私は思います。キャラのセリフは漫画にも描けます。素敵な声の声優さんに読んでもらった方がきっと魅力的に聞こえます。かわいいキャラの顔や容姿を見せたければ、最初からマンガやアニメを作る方がきっと手っ取り早いです。
かわいいキャラの容姿も、そのキャラが佇む風景も、抱いている心情も、言葉で表せるのが小説の魅力です。「絵にも描けない美しさ」をたった10文字で表せるのが小説の強みです。
もちろんセリフを軽視はしません。会話文も重要です。会話文でしか表せないものもたくさんあります。会話文の重要さを落とせということではない。ただそれ以上に、地の文に魅力のない文章では小説は名乗れない。マンガやアニメの表現技法には勝てない。文章で表現することこそが小説を書く楽しさであり、文章から受け取った世界を頭の中でイメージすることが小説を読む楽しさです。
言いたいことをがあーっと書き殴りました。
これをもし読んで下さる方が、「コイツ何熱くなってるんだ? そんなの当たり前だろ。文章しか書けないから小説で表現してるだろとか、人をバカにしてんのか?」と思って頂けたら本望です。お願いだから、「マンガ描けたら描けてるわ! 描けないから仕方なく小説書いてんだろお前に言われる筋合いないわ」とかクレーム付けてこないでね。情けなくて泣くよ?
トキワ荘の面々は、面白い物語を思いつくこともさることながら、それを表現する手段として一番最適なのがマンガという技法なのだということをこれでもかと見せつけた。だからこそ、彼ら自身だけでなくマンガというジャンル自体が成功したんだと思います。
小説という大きな枠組みが少しずつ陰りつつある昨今。
ライトノベルがマンガのようにジャンルとして花開く要素はたくさんあると思います。そのために、まず、ラノベを書いている人たちに自分の武器とラノベの武器とを見詰めて欲しい。「このキャラクターを一番魅力的に見せる表現はこれだ!」っていうものを見つけて欲しい。
小説という表現技法を、文章という媒体を、大切にしていきましょう。