1-7
まだ熱を帯びていない、澄んだ陽射しが差し込む子供部屋。
一人、人形に向けて言葉を発する少年。
かわいらしい見た目とは裏腹に、低く聴きとりづらい声でそれに答えるパーカー。
よくもわるくも、ミロは奇跡を経験している。
「ミロ―!ごはんよー、いらっしゃーい」
リビングから廊下を突き抜けてお母さんの招待がミロのいる部屋まで響き渡った。
「そうだ、朝ごはんを食べなきゃ」
はっとしたようにミロは思い出し、リビングへ向かおうとする。
しかし、動きを止める。手に握られているパーカーに視線を落とす。
このパンダのことを両親に説明する作業は、それなりに骨が折れるであろうことはわずか四歳のミロにもある程度察しがついた。
一瞬の逡巡ののち、待っててねと伝え、パーカーを床に置いたままミロは自室をあとにした。
後方からはそれを見送るような言葉が聞こえた気がした。
ミロは足の届かないイスに着くと、チョコレート味のシリアルにたっぷりと牛乳をかけ、ブルーベリーが入ったヨーグルトと交互に、きれいにそれを平らげた。
少し寝坊してしまったせいだろう。お父さんはすでにおらず、仕事とやらに行ってしまったらしい。
お母さんが鼻歌を口ずさみながら二人分の食器を洗い終えると、空になったミロの食器も手際よく下げて、ささっと片してしまった。
お母さんはそのまま洗濯へと移行するらしい。
かたちは違えどお母さんのそれもお父さんの仕事とやらと大差ないのではないかとミロは思った。
家でやるか外でやるかの違いでそれの名前が変わるのだろう。
スーツを着た男女が話し合っている朝のテレビ番組を眺めながら、そんなとりとめのないことを思い浮かべていた。
ガタッ。
突如発生したその物音でミロの空虚な時間は終わりを告げた。
遠くで物が落ちたような音だった。なにかそれなりに質量のある物が落ちた気配。
洗濯機が動いている音も聞こえることから、お母さんはきっと気づいていないのだろう。
ミロはとりあえず子供部屋へと向かった。
少しだけ開いている扉を全開にする。
あたりに落下物の形跡はない。
しかし、変化はある。
床に置いていたパンダ人形がなくなっていた。
不審に思ったミロはあたりを見回す。
首を振りながら徐々に視界を上げていく。
パーカーはタンスの上に居座っていた。
目が合うというのも人形なので気のせいだろうが、パーカーはヨウと軽い感じであいさつをしてきた。
「なにしてるの?」ミロは尋ねる。
「なにしたっていいだろう。俺らは兄弟で、俺には部屋がないんだ。だったら仲良くこの部屋を分けなきゃな」そう言いながらパーカーは立ち上がり、タンスの上をうろうろしだした。
パンダが歩いてもミロはもう気にならない。
座ってしゃべれたら、次は立って歩く、というのは至極当たり前のように思えたからだ。
人間がそうするのだ。パンダだってそうするさ。
よちよち歩きを始めた赤ちゃんのようにパーカーは不安定に歩いている。
そんなパーカーを眺めながらミロが尋ねる。
「さっきの音はパーカーが出したの?」
「あ?ああ、ありゃ俺だ。すまなかったな」
体ごと振り返ってパーカーは答えた。
「そこのそれが落ちやがったんだ」
言うと、パーカーは釣られたように腕をのそりと持ち上げて写真立てのほうを示したようだった。
家族三人で撮影した写真が入っている。ミロには記憶のない写真だった。
幸いヒビのようなものははいっていない。
「悪くねえなここも」
部屋の中央を向きながら乱暴な言葉遣いで弟はそう声を発した。
そうつぶやくパーカーは封を開けたときよりも、どこか黒ずんだような気がした。
しかし、床や家具の上を這い回ったのだ。
お母さんの掃除がたまたま行き届いていないところもあるさ。
そう思ってミロは、ベッドに座りパーカーの行動を楽しそうに観察した。