3-8
「ミロ。泣かなくてもいいじゃないか」
笑顔がそこに見えるように、にんぎょうは言った。
ミロは黒人形に泣かされたように、白人形にも泣かされた。
しかし、それは黒人形と対峙したときのものとは違う、熱のこもった、いまにも蒸発しそうな涙だった。
それは悔しさや不平やわがままを訴えるための「手段」としての涙ではない。
それは、幼いミロが初めて経験する、だれかを想っての涙だった。
ぐずっ、ぐじゅ。
みっともない音が部屋に広がる。
熱を帯びた息が口から漏れ出た。
体中が熱くなるのを感じる。
そんな身体の変化とは対照的にミロの頭は冷静だった。
まるで誰かに身体を明け渡したかのような自分の状態を、宙から俯瞰したように冷静に観察していた。
しかし、頭身の分離はそのまま指揮系統の分断を意味した。
ミロはなぜ自分がこれほどまでに号泣しているのかを理解できず、また流れるままに止めどなく発生する分泌物もそんなことはつゆ知らず、やりたい放題に自分勝手に溢れた。
両者の溝は広がるばかりと思われたが、歯止めをかけたのはやっぱりあのにんぎょうだった。
気付くと人形はミロの目の前に立っており、ミロの肩に手をかけていた。
言葉は発しないが、ミロの味方であることはわかった。
それをきっかけにミロは嘘みたいに泣き止むことができた。
赤らんだ目で人形を見つめる。
人形も徐々に黒に染まりつつある小さな目でミロを見ていた。
両者は触れたまま、ただ見つめ合っていた。
互いに残された時間が少ないことを察していたせいもたしかにあるだろう。
しかしそれよりも、接触によって確証のない確信が芽生えたことのほうがはるかに大きい。
それはテレパシーなんて怪しいものではないし、それは読唇術のようなスキルフルなものでもない。
世界にたった一組しか存在しない「兄弟」という絆を、肌を通して感じ取ったからだ。
それは電気信号となってミロの身体を駆け巡り、脳のニューロンを光の速さで火花させた。
一人と一体は互いを見ているようで視ていなかった。
それぞれの輪郭はぼやけ、にゅるにゅるした白い液体でもあり気体でもあるような、ぐねぐねしたかろうじて人間と認識できそうな形をしている互いを見ていたのだ。
首から頭部にかけてがとくに人間のそれらしかった。
だからといって、そこに互いを区別できそうな特徴はひとつもなかった。
しかし、だからこそ、互いが特別なものだと認識することができた。
対をなす存在だと自明することができた。
通常人間に、とくに成人にそれを見ることはできないが、白を始めありとあらゆる色で構成されたぐねぐねぐにゃぐにゃどろどろふわふわぱさぱさぬるぬるごつごつとろとろしゃきしゃきかちかちぽてぽてもちもちじゅくじゅくべとべと…………という形状たちを人間一人一人がもっているのだ。
それは単一の形状のものもあるし、それらが曖昧な比率でブレンドされたものの場合もある。
そこに同じように、さまざまな配合で色がのっかってくる。
自然千差万別になる。
そして他人同士は、互いに異なるそれをもっており、迷うことなく自他を認識できる。
しかし普段生活しているときには、欠片も感じ取ることができない代物であるし、そんなものを使わずとも外見や関係性でそれぞれを判別することは容易にできる。
しかし、血の通った、とくに近しい関係の者同士のそれは、ほぼその違いを指摘することができないくらい難しい。
それゆえに、それこそが、互いを組する証のようなものであると云えた。
ミロの部屋。
白いぐねぐねはなにをするでもなく、一向にただぐねぐねしていた。
しかし、にんぎょう自体は違った。
腕や足は買われてきたときの黒色に戻っていたし、顔を中心としたほかの部分も終着点に近づいていた。
ミロ自身はそれをわかっていない。気付いていない。
彼は前述の精神世界(大げさに云えば)に入っていたからだ。
ミロは目を閉じて、リラックスしていた。
その肩に人形の腕が伸びており、にんぎょうも静止していた。
二つの個体は時が止まったように、微動だにしていなかった。
かたや白いぐねぐねは人間と判別できた形状すら捨てて、互いに混じわりあっていた。
どろどろのスライムがうねるようにして絡まり合い、包んで、抱きしめ合っているようだった。
それはなにものにもかえがたい幸福のひとときだった。
完全に混じるようにして、二つが一つに合体したように丸く大きくなっていた白いぐねぐねは、その半分ほどがうっすらと薄らいできた。
それは溶けるでも霧散するでもなく、ただ、消失という言葉が似つかわしかった。
ないまぜになった半分を失い、白いぐねぐねは元の白いぐねぐねになった。
ミロはゆっくりと目を開ける。
目を閉ざす前と同じく、人形が眼前に立っていた。
それはミロの肩に力なく腕を置いていた。
しかし、ミロが少し姿勢を変えると、それはぶらりと重力に素直に従って落ちてしまった。
と同時に、人形はぽとりと地面に倒れてしまった。
人形はすでにパンダ色をした人形に戻っていた。
ミロは手を伸ばしてそれに触れるが、とくに違和感はない。
ただ、人形を握っているという事実だけがあるようだった。
人形から顔を上げたミロは、それをベッドに置こうとして向き直る。
そのちょうど正面には、タンスの上の写真立てが飾ってあった。
かつて黒人形が落としたそれだ。
ミロの視線はその枠の中の一枚に止まる。
笑顔のお父さんとお母さん。
そして、その間には知らない男の子が笑顔で映っていた。
ミロは手にした人形を離した。
それを顔と両腕で挟み込むようにして強く抱きしめる。
ミロは静かに泣いた。
どれくらいそうしていたかはわからない。
遠くでドアの開く音がした。
気が付くと、ミロは人形を握りしめ、玄関へと駆けだしていた。
人形はミロの手のなかで、ただぶらぶらとしていた。
お読みいただきありがとうございました。
4万字を超す中編は初めてで、良く言えばとにかく課題を多く発見できた執筆となりましたし、正直に言えば支離滅裂とした文章が散見される作品となりました。
とはいえ、連載の難しさを痛感できたことは自分にとって得難い経験であり、そのほかにも数多の気づき・課題を得られたことは今後の執筆に間違いなくプラスになるでしょう。
もっとも、それをここで列挙することは作品と最も関係ないことと思われるため、筆汚しはこのあたりにしたいと思います。
もし最後まで読んでくださった方がいらっしゃいましたら、本当にありがとうございました。




