3-7
ミロには三歳年上の兄がいた。
いるのではない。
いた。
ミロが一歳のときに彼はこの世を去っていた。
当時まだ歩き始めて間もないミロには、記憶と呼べるものがなかった。
なかったというよりも、それは曖昧で、はたして記憶と呼べるのかわからない、ぼやけた意識の堆積であった。
その堆積のことを、ミロが把握しているわけでもなかった。
脳の奥深く、地層のようになった一番下敷きにそれは格納されていた、かもしれない。
だから、意図的に呼び起こせるような、記憶、として認識されるレベルには程遠く達していなかったのだ。
それゆえに、人形の発言はミロにとって青天の霹靂だった。
前提が取り除かれ、唯一設けたルールもさっぱり無に帰したような、そんな意識の裏を突かれた気分だった。
当然、ミロは言葉を失った。
かろうじて成立したかに見えた会話は、すぐに糸口を見失った。
白人形はミロの反応を待つように黙っていた。
しかし、ミロはリアクションらしいリアクションを取れずにいた。
呆然と、ただ意識がなくなったように立ち尽くしていた。
それは、どちらが人形か判別しづらいほどだった。
しびれを切らすことなく待っていた人形は、急かすわけでもなく助け船を出すように、ミロ、と声をかけた。
ミロは、はっとしたように人形を見つめた。
ミロは我に返る。
そして、こう思う。
パンダだった人形は真っ黒になって動き回り、しゃべり倒し、そして暴れまわった。
それはぼくの命すら狙おうとした。
そして今、人形は白一色になって、またぼくに話しかけてきた。
人形は動き、話すことができる。
だけれども乱暴な様子はないし、見るからに前とは別人(別熊)だ。
そして、ぼくのお兄ちゃんらしい。
……。
兄弟。
その響きはいまのミロにとって一種のトラウマを含んでいた。
少年をズタボロに追い込んだ、J・パッカーが連呼していた忌まわしき呪文だったからだ。
ミロは白人形を正面から見据えた。
体の横に沿っていた小さなこぶしをグッと握る。
「お兄ちゃんだっていう、証拠はあるの?」
力強い口調でミロは訊いていた。
別に相手を責めたいなんて意志はない。
ただ、勇気を振り絞って、確かめなくてはならないことを確かめたのだ。
安易に相手の言うことに流されず、自分なりの判断を下そうとした。
彼は男の子だった。
ミロの声がこだましたあと、部屋は元どおりに静まり返った。
人形はいまだ答えない。
ミロは負けないように、まっすぐと人形の目を見つめていた。
観念したように、もしくは満足したように、人形は両腕をまっすぐに真横に伸ばした。
そして。
「ないよ。僕にはミロのお兄ちゃんだって証明するものはない。なにもない」
ミロが信じなかったら、それまでだ、とただ静かに話した。
ミロは確かに自分が訊きたいことを、訊かなくてはならないことを訊いたはずだった。
しかし、彼の胸に残ったのは、満足感なんかではなく、締め付けられるような、自責の念だけだった。
波となってそれはミロに押し寄せた。
声にも、仕草にも、それは表れていなかったが、人形が悲しそうなことが、ミロにはなぜかわかったからだ。
なぜ、悲しい思いをしているんだろう。
それは、人形の言うことが本当だったからではないか。
信じてもらえなかったことに、悲しみを覚えたからではないか。
よりによって――
ミロは気が付くと視線を床へと落としていた。
人形の気持ちが憑依したように、身体は苦しく硬直しているみたいだった。
部屋のなかで最も目立つ色彩を放つ人形に、ゆっくりと視線を戻す。
それを見た瞬間、ミロは身体をびくりと、収縮させた。
固まった感じはどこかへいってしまった。
白人形はゆっくりと、うっすらと、本来のパンダ人形に戻っているようだった。
黒色に変わりきった部分はまだない。
しかし、ぼんやりと本来の姿に向かっている兆候は、ミロの見間違えではなかった。
それは、変化する間違え探しのようにじんわりと行われていた。
目に見える病気の進行のようでもあった。
そんな変化に気付いたのか。
人形自身も身体を眺めていた。
「ああ、思ったよりも僕は短いみたいだ。残念だなあ」
人形は、本当の名残惜しそうな気持ちはどこかはぐらかすように、あっけなくそう言ってみせた。
途端、ミロの視界は、ぐしゃぐしゃになった。




