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ただまっすぐとこちらに向かってくるそれをミロは眺めていた。
そこに焦りとか不安だとか、想像され得る感情は不思議にもなかった。
包丁が危険だという認識はもちろんミロにだってある。
料理をしているときは、とくに刃物を使用しているときは危ないから来ちゃだめだ、とお母さんに注意されたことがある。
たとえそうじゃなくても、鋭利に輝く極まった形状のそれを、人の危機察知能力のようなものが危ないと告げていた。
しかし、どうだろう。
いまのミロにはその機能が抜け落ちてしまったような、正しく作用していないような節があった。
事実、それの行方を加害者とともに見守っている、第三者――そっけない言い方をすればどこか野次馬的な――のようですらあった。
いや、それどころか。
刃物が近づくにつれて、なぜかミロは泣き止んだ。
究極の当事者は傍観者となるのかもしれない。
ミロは黄色いTシャツに赤い英字がポップにプリントされた自分の小さなお腹を見た。
一定の速度で進んでくるそれを目をそらさずに待つ。
平らな水面に物が垂直落下するように、入水の瞬間を待った。
上から見下ろすそれはどこまでも薄く、見間違いかと思うように希薄だった。
でも確実にそれはミロのことを捉え、限りなく一緒になろうとしていた。
しかし、侵入までほんの数センチのところで、それは動きを止めた。
ピタリと、動かなくなった。
ミロは不思議に思い、刃物を見つめたまま待った。
流れてこない流しそうめんの先を見るように、回ってこない回転寿司のレーンを覗くように、出てこない飛行機のバゲージを待つように(いずれもミロは知らないが)。
それでも、均衡状態を保ったようにそれは動かない。
押す力と引き戻す力がせめぎ合っている風だった。
とにかく、不測の事態が人形に起こっていることは確かのようだった。
しかし、まったく解せないことに、そのことについてミロには疑いの目すらあった。
予定調和を崩されたような、少し責めるような目つきをミロはなぜか自然としていた。
せっかくの覚悟を無駄にするなよとでも言いたげな、いやまったくそんなことはあるはずがないが、おそらくミロでさえも無自覚な敵意がその眼差しには含まれていた。
その瞳をやっと刃物から離す。
そのまま人形へと向けようとして、ミロは驚いた。
刃物を握っている、添えているはずの手が真っ白になっていた。
洗いたてというよりも、毛並みの良い新品の純白なタオルのようであった。
それは手だけでなく腕から肘に該当する部分を通り過ぎ、肩口まで白くなっていた。
いや、そこまではなっていないが、なり始めている?
ミロが凝視するに、それは徐々に黒が薄くなりグレーのようになっていき、次第に漂白されたような白さへと変化していった。
それがとうとう完全に両肩にまでたどり着いたとき、刃物はゲシャャンと甲高い下品な音を響かせて、床に寝ていた。
人形の顔を見る。
変化はないが、困惑しているようにジグザクに、頭だけぐらぐら揺れる人形のようにそれは動き続けていた。
とても視点が定まっているようには思えない。
J・パッカーもやっと事態を認識したように叫ぶ。
「なんだこりゃあ、おい!!」
怒りももちろんあるのだろうが、それを上回る焦りが多分に含まれていた。
「く、くそぉぉぉお。言うことをきかねえぇ」
力のこもった声で、抵抗するように人形はそう叫ぶ。
そのころになると、ミロもいくぶん落ち着きを取り戻したのか、「白の救世主」を応援するような心持ちになっていた。
もう自分が危機に陥るような展開は訪れない、最大の山場は乗り越えた、そんな安心感に包まれてもいた。
ヒーロー戦隊ものに熱中する、いい意味で子供らしい心情だった。
白色に染まった人形の腕はぶんぶんと無尽蔵に振り回され、J・パッカーに抗っている風だった。
J・パッカーもそれを抑え込もうと必死だったが、他者ではなく自分自身、自分自体に起こっている変化に対処の仕方がわからないようだった、つまり対処のしようがなかった。
人形は腕だけでなく足の先やわき腹、耳の当たりからも白の浸色が始まっていた。
J・パッカーはみるみるうちにその黒の領域を減らしていった。
もはや彼はその場から動くこともできなくなりつつあった。
それはすでに元のパンダ人形への回帰を図ってはいなかった。
それは、シロクマ人形になろうとしていた。
身体部分のほとんどを白色に奪われたJ・パッカーはとうとう首だけをぐりぐりと動かす。
事故に遭った寝たきりの患者のようであったが、J・パッカーは威勢だけはよかった。
しかし、それも時間の問題だった。
耳を失ったはずの人形にミロがパーカー、と呼びかける。
返事はない。
ただ、うあぁっぁぁ、と呻き声をあげているだけだ。
やがて口も真っ白に染まると、それはとうとうなにも発しなくなった。
ただ無言で、サイレントで頭部だけ微動するおもちゃになった。
それは全盛期を知っているだけに、滑稽だった。
人形のほとんどを染めた白は、顔中心に残された黒色部分も取り締まるように包囲していった。
つんとした鼻も白に変わり、つぶらな瞳が残されるだけだ。
ここで、ふと、ミロに疑問が浮かぶ。
この白は、誰だ?
と。




