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3-4

動いてもしゃべっても、ミロはたいして驚くことがなかった。

幼さゆえか、はたまたミロの肝が据わっていたからか。

そのどちらかはわからないし、どちらでもないのかもしれなかった。


しかし、この時はじめて、ミロは戦慄を覚えた。

恐怖という感情を鮮烈に植え付けられた。

それはもう、兄弟なんて呼んでいた頃を、遠い過去のものにさせるには十分だった。


J・パッカーが走り出すのと、ミロが反転して駆け出すのと、それはほぼ同時だった。

まるで共通のスタートの合図が存在したようだった。

しかし、そうさせた感情は――彼らをそれぞれ支配し衝き動かした感情は――まったくの別物だった。


それはまさしく、J・パッカーが云うところの「追いかけっこ」だった。

追う物と追われる者。

ミロの慣れ親しんだ「追いかけっこ」ではない。

そこには、命のやり取りが潜んでいた。


振り向きながら、足をもつれさせながら逃げ出したミロは、すぐに入ったばかりの扉からリビングを飛び出した。

そのまま目の前に伸びた一本道を元来た道をたどるように全速力で駆け抜けた。

生まれ育った家を、室内を、ここまで風を浴びながら走ったことはなかった。


大きな音を立てながら息を荒げながら走るミロ。

それにかき消されてか、意識を常に後方に向けてはいたが気配も音も感じられなかった。

そもそも、それは無生物の定義に収まることから息づかいなんてものはないだろうし、質量と材質から云って、音が立つようなものとも思えなかった。


ミロの頭の中にサイレントキラーというタイトルの、最近公開されているらしい映画の告知映像が流れた。

泣き叫ぶかわいそうな女の人と自分が重なっていくことになるのかな、なんてことをパッ、パッ、とザッピングするようにミロは考えた。


もう子供部屋はすぐそこだった。

一度だけ、ミロは走ったまま首をねじった。

跡をつける物を窺う魂胆だった。


どこまでも長く見える廊下には不審なものはなかった。

ただ、振り向くという行為に合わせて、なぜか声が反射してきた。


「いま向かっているからな、ミロ」


進捗を知らせるように、予定通り調和のとれた結果に向かうように、それは安心を捧げるような言い草だった。

ミロは瞬間、沸き立つような恐怖から飛び込むように子供部屋になだれ込んだ。


入ってからミロは静かに、息を殺すように部屋奥のベッドにもたれ、素早く身体を落ち着かせようとした。

静けさに包まれた室内に速く同化するように努めた。


あれが近づいているのかはもちろんわからない。

しかし、それはミロにとって動かしがたい事実のように思えた。

都合よく変わることなんてあり得ない。

電車の時刻表のようにきっちりと、それは子供部屋に入ってくるだろう。


身体を預けて一瞬ののち、ミロは抑えこんでいた感情の発露に驚いた。

何が起こっているのか自分でもわからなくなった。


「パパ……ママ……」

それは体外へとつと出ていた。

音を発してはいけないと知りながらも、それはじんわりと滲み、こぼれるように溢れてきた。

口元がひしゃげ、目は細まり、視界はぼやける。

ミロは堰を切ったように泣き出してしまった。


それは憚ることなく、自分の意志では止めることができなかった。

そんな音が部屋から聞こえてきたからだろう、J・パッカーは嬉しそうに姿を見せた。


彼は鼻歌を歌いながら、ゆっくりと入り口に立っていた。

それは最近流行っている若い女性シンガーの、アップテンポなポップミュージックだった。

歌詞だけでなく音楽自体も奏でるように、それは明らかにノッていた。


子供部屋、真っ黒の人形、子供、ポップミュージック、包丁。

その場に相応しくないのはおそらく、J・パッカーの手にしていた包丁一つだけだった。


頭を軽く振りながらひたひたとJ・パッカーが歩く。

子供部屋に入ってきた。

じりじりと互いのスペースはなくなっていく。


ミロはJ・パッカーを見据えながらも、泣き止むことができずにいた。


人形とミロの距離は二メートルほどにまで迫っていた。

押し出すかたちになっている刃物を含めると、その概算はもっと近かった。


「男の子が泣くなんてみっともないぞ、兄弟」

J・パッカーはだらしないものでも見るようにミロにそう告げた。


それは刃物の先を見るように手首を返しながら包丁を掲げる。


「わからない子にはわかるようになるまで、あきらめずにきちんと教えてあげるのが、正しい教育ってもんだよな」

刃物からミロに視線を移して、それは、もっともらしいことをどこかで聞いた風に言った。


「お前は俺のことを兄弟、それも弟と呼んだけど。俺のほうが早くに生まれて長く生きてんだよ。だからな、ミロ。お兄ちゃんが教えてやる」

それはひっきりなしに、脈絡なく適当に適当なことを言いたいようにただ並べているだけだった。


「お前にも資格があるかもしれない。俺は一回死んで人形になったんだ、こうして」

それは自分の、人形の身体を見る。

「だからお前もそうしよう。魂だかなんだか知らねえが、こっちに来いよ。友達は多いほうがいいに決まってる。持つべきものは友さ」


J・パッカーはうん、そうだそうだ、と頷きながら包丁をちょうどミロの身体に刺さる延長線上に固定して、そのまま近づいてきた。


ミロは動くことができない。

抵抗する術も、力も残っていなかった。

弱い生き物がただ肉となる瞬間にそれは似ていた。


刃物はミロの眼下にまで迫った。

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