3-2
あんなことがあってからもミロはパンダ人形を手放さなかった。
少年は常に枕元にそれを置き続けることで、植物状態のそれが目を覚ますのを待った。
再び意思の疎通がとれたときは、両者にわだかまりなんてなかったかのように、無邪気な子ども同士のように接することができるとミロは考えていた。信じ込んでいた。
すでにJ・パッカーの目覚めは少年にとって必然のイベントであり、それが起こらないはずはないと思い込んでいた。
いつヒナが孵るかと待ち焦がれるように、人形を意識しない日はなかった。
首を長くして待ち続けたミロに朗報が舞い込んだのは、両親が外出して家を空けた土曜日の昼下がりだった。
両親にそれとなく、一緒に外出するかを尋ねられたミロは、頑なな姿勢でそれを拒んだ。
そう、と母親は少し寂しそうにミロに背を向けた。
両親は無言で家を出た。
途端、家の中の空気がしん、と静まり返る。
それがこの家にはミロしかいないことを強調させる。
ミロは広くなった家の中をうろつくことはなかった。
彼はあくまで自室で過ごした。
その空間だけ、家から切り離されて宙に浮かんでいるような、出入り口がそもそもない箱のようであった。
静かに一人で遊び始めるミロ。
幸いJ・パッカー以外のおもちゃもふんだんにある。
とっかえっこをしながらミロはただ時間をつぶした。
ミロは遊びながらも不意に意識が途切れたように、パンダ人形のほうを見ることがあった。
淡い期待のようなものがその瞳には滲んでいた。
ミロが幾度視線を送ったかはわからない。
頻繁なそれに身を焦がされたのか、はたまた、ただ来るべき時が来ただけなのかはわからない。
J・パッカーはおもむろに立ち上がっていた。
ミロがそれに気付いたのは、人形が立ち上がってからすでに数十分が経ったあとだった。
突然のことにミロは驚くと同時に声を挙げた。
「パーカー!」
そこには隠し切れない嬉しさがこもっていた。
やっと目を覚ました友人に接するように、音信不通だった旧友に遭遇したように、ミロは降って湧いた幸運に胸を弾ませた。
一瞬にして注目の的となったパンダ人形であったが、それが動く気配はなく、ただただそこに自立しているだけだった。
天井から吊られたように、それは重さがないように不思議な立ち方をしているようにミロには見えた。
驚いたことに、次の瞬間、それは一瞬にして黒に包まれた人形となった。
脈絡なんてものはなかった。
目にも止まらぬ速さで全身の毛が生え変わったようだった。
正確さを失うがより的を射た表現をするなら、それは瞬時の電気信号によって0と1が切り替わったかのようであった。
とにかく、それは最早さきほどまでのパンダという形容がまったく使えないほどに、使うのを憚らずにはいられないほどに、ただ一色へと染まった。
それは部位の境界もまったく曖昧なほど、黒と化していた。
目も鼻も口も一緒くたの黒となって判別できないそれは、やっとしゃべれることを思い出したかのように、久方ぶりに懐かしい声を発した。
待ち焦がれていたその一声を、ミロはうまく聞き取ることができない。
それはJ・パッカーがどもったような声でしゃべったからでもなく。
数日間にわたって発声を控えていたことによるブランクによるものでもない。
むしろ今までにないくらいはっきりと聞き取れる、聞き取りやすい声でJ・パッカーはこう言った。
「ミロ、そろそろ死ぬ時間だよ」
それがさも当たり前のように、日常のルーチンで使われる言葉のように、J・パッカーは自然と口にした。まだその状態でないことをやんわりと責めるような雰囲気がそれにはあった。
それはミロのお父さんがミロによく言う就寝を迫るものに似ていたため、ミロのなかでは余計に不思議な違和感をもった。
いまいち理解できない、消化できない、飲み込めない。
ミロはリアクションを取ることもできなかった。
そのことを咎める風もなく、J・パッカーは一言言ったきり、ミロを無視したまま子供部屋をあとにした。
音もなく歩く人形が向かった先はわからない。
子供部屋に取り残されたミロはただ呆けたように立ち尽くしていた。
言葉の意味はわかっても、それがこの場合どう作用するのかが幼いミロには想像がつかなかった。
ミロの五感もあらゆる面において経験が足りなかった。
しかる後、沸き立つように出現する緩急が己を脅かそうとは、ミロのもつ動物的本能では察知できなかった。
彼はいまだ静かな子供部屋で、つかの間の静音に溶け込んでいた。




