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ミロはパンダ人形の恐怖から解放された。
しかしそれは喫緊に差し迫った身体的危険からの解放であって、必ずしも精神的な自由を意味してはいなかった。
事実、ここ数日ミロはぽっかりと心に穴があいたような感覚に囚われていた。
「ミロー。起きなさい」
お母さんのいつもの目覚ましが聞こえてくる。
しかし、ミロはすでに起きていた。
あれからというもの、ミロはどことなく、たった二人の家族との間に距離感のようなものを感じていた。
(あれというのはパーカーに窒息させられそうになったことではなく、ミロの両親との衝突を指す)
その証拠に、朝は起こされる前に目が覚めたし、ご飯も黙って食べる。行ってらっしゃいもおやすみも言わなくなった。
いままで協同で行っていた日々のそれぞれが、すべて己の裁量によって行われるようになった。
それは成長のようにも感じたし、日常を失ったような気もした。
しかし、ミロにとっては現状を現状のまま過ごす以外の選択肢がわからなかった。
彼の幼い目には、前を見ても後ろを振り返っても、どこまでも続く一本道しか広がっていなかったからだ。
ミロは朝目覚めると決まってあることをした。
それは傍らに置いてある人形を見ることだ。念のようなものを送ろうともした。
いつからそうしているかと云えば、あれ(ミロの両親との衝突ではなく、パーカーに窒息させられそうになって)からだった。
ミロは、本気で少年を殺そうとした人形を枕元にいまだ置いていた。
正直なところ、置く理由も置かない理由も本人にすら判然とはしていなかった。
ただ、そこにあるべきかな、という漠然のみがどんな玩具よりもそれをミロに近づけた。
その漠然には、ある種の期待が込められていることを、ミロ自身も気付いていない。
ミロはある日、パーカーによって心をずたずたに切り裂かれた。
そしてそれに追い打ちをかけるように、両親との確執を今もって経験している。
ミロは知らないうちに自身の傷が上塗りされていることを、知らない。
だから、むしろパーカーを失ったことによる損失だけがミロを支配しており、そこにパーカーがもたらす災厄は加味されていなかった。
加えて、ミロはパーカーという「性悪な災難」を「自らだけに起こり得た奇跡」とも捉えていた。
それは危うくも、ある種の事実を含んでいた。
人は喜びを得ることより、失うことのほうを恐れる。
それは幼いミロにとっても、例外ではなかった。
今日もパーカーは動かない人形でしかなかった。
ミロはその腕を握ってみるが、とくに反応はない。
強く潰すように握ったり、爪を立てることもできたけど、それは生き物をいじめることのような気がしてミロには憚られた。
優しい四歳児には爪の垢ほどもやり返す魂胆がなかった。
「もう起きてくれないんだね」
もはやほとんど黒に染まっている人形に声をかけてみる。
宙を舞っただけの言葉に、言ってじんわりと寂しさが募った。
ミロは孤独だった。
自分の家でありながら、居場所のなさに徐々に苛まれつつあった。
不幸なことに、純真な少年にパーカーを責める見当はつかなかったのだ。
パンダ人形が一家に残した爪痕はあまりに大きく、乱暴な嵐が通り過ぎた後みたいに、無稽な後味の悪さだけが残った。
そして、なによりそいつ自身は、不気味に静観を続けていた。