桜
少女はまだ産まれて間もない時、父親を失った。
母の出産に立ち会おうと会社を早退し、車で病院へ行く途中での事故死。
桜が散った季節だった。
母親はそのショックで少女を虐待し始めた。
少女は母親から受ける暴力に、ただ黙って耐えるしかなかった。
少女が10歳になった頃。
母親からの虐待は比較的緩いものになった。
暴力はまだ続くけど、その程度。
散々言われてきた暴言は無くなったし、少女が何をしようとしても否定されなくなった。
その日から、少女は母親の観察日記を書き始めた。
翌年、桜が舞う季節。少女は母にピクニックに行こうと誘ってみた。
当然母親は拒否したが少女は何度も誘った。
一日、三日、五日経った頃、母親はとうとう折れた。
一度だけ行ってあげる。少女はその言葉がたまらなく嬉しかった。
明日は晴れ模様、絶好のピクニック日和になるとテレビから聞こえた。
少女は食い入るようにテレビを見つめ、何度も頷いた。
「お母さん、明日行こう。お弁当を持って」
「はいはい」
何気ない返事に少女は驚きながら喜んだ。
母親は少女の笑顔を見ながら複雑な表情を、彼女に見られないように浮かべた。
翌日、天気は予報の通り晴天だった。雲一つない、絶好のピクニック日和。
少女は汚れのない笑みを浮かべながら母親の隣を歩く。
所々に生えている桜が、まるで二人を歓迎するかのように花弁を散らす。
場所を決め、ビニールの床をその場に作り上げる。
風で飛ばされないよう、二人はその場に座る。
お弁当の中身は全て少女が作った物で、タコさんウインナーや兎の形に切り取った林檎、甘い玉子焼きや焼きそばと、美味しそうなものだ。
少女は笑顔で、母は複雑な笑みで、会話は一切無い変なピクニックが始まった。
「ねえ、お母さん」
少女は空になったお弁当を風呂敷に包みながらこう言った。
「今日は私のお願い、聞いてくれてありがとう」
母親は驚き、すぐにまたあの複雑な笑みを浮かべる。
「気にしなくていいわ、これが最期なんだから」
母は初めて、少女を抱きしめた。ごめんなさい、と言葉を添えながら。
「お母さん、謝らないで。私も悪い子だから、謝らないで」
少女は赤く染まった自分の手を見てから、強く母を抱きしめた。