わたしと卵とイグアナと
おりゃ、おりゃっ。
わたしは壁に生卵を投げつける。卵は壁にぶつかるとぱきゃっと音をたてて割れ、白い壁にねとねとした黄色い染みを広げる。静寂に包まれたマンションの一室に、ぱきゃ、ぱきゃ、と卵が破裂する音がリズミカルに響く。綺麗な壁が卵で汚れていく様は、なんだか背徳的で変な興奮を覚える。しかもこの部屋はわたしの部屋ではない。わたしはいま、他人様の(ひとさま)部屋の壁に卵を思いっきり叩きつけているのだ。
ああ、なんていい気分だろう!
*
半年付き合った彼に、三日前、突然別れを告げられた。
ただの一度も喧嘩などしたことはなく、同じサークルで趣味も合う。なぜ急にこんなことになったのか皆目見当もつかなかった。どうしてなのかと彼に訊くと、君を傷つけたくないから言えないとはぐらかされた。
なんなんだ、いったい。別れるなら、せめてはっきり理由を言うのが筋じゃないのか。振られてからというもの、わたしは苦悶の日々を送った。しかし、日曜の夕方、砂時計がすべて溜まる直前に引っくり返す遊びを続けている途中、出し抜けに気づいた。
彼は誠実な人だ。そんな彼がはっきり理由を言えないとなると、よっぽどのことにちがいない。例えば、彼は重い病気に侵されており、余命がもう一年しかないことが発覚、いずれ訪れる死別の悲しみからわたしを守るために一方的に別れを告げた、とか。うん、ぜったいそうだ。そうにちがいない。
考えただけで涙が出てきた。なんて悲しくいじらしく、優しい人だろう。どうしてすぐに気づいてあげられなかったんだろう。彼の性格を考えると、一方的に別れを告げるなんて、こういう理由しかありえないのに。
ひとしきり泣いたあと、わたしは彼に電話をかけた。一分近く鳴らしたあと、ようやく彼の、はい、という低い声が聞こえてきた。
これから家に行っていいかと尋ねると渋られたので、合鍵を返すのと、あなたの部屋に置いてある私物を取りたいからとその場で思いついた理由を付け加えた。それならまあ、と納得してくれたので、わたしはさっと身支度を整え、彼の住むマンションに向かった。
チャイムを鳴らすと、気まずそうな表情を浮かべた彼がドアを開けてくれた。わたしははにかみながら軽く会釈して、
「ごめんね、急に来ちゃって」
「いや……べつにいいよ」
そう言って、彼は部屋に入れてくれた。
わたしは黙々と部屋にある私物を集め、トートバッグに収める。彼はそのあいだ、わたしを手伝うでもなく、終始無言でソファに座ってニュースを観ていた。
ころあいを見計らって、わたしは尋ねた。
「ねえ、なんでわたしと別れようと思ったの?」
こういう質問がくるのを予想していたのかもしれない。彼は少し表情を強張らせものの、テレビから視線を逸らさず淡々と答えた。
「それは言えない」
「なんで? 大丈夫だよ、わたし、覚悟はしてきた。なに言われても平気だよ」
ソファに近づきながら、そう告げる。それでも彼は煮え切らない表情を浮かべていた。わたしが言葉を続けようとしたとき、テーブルに置いてある彼の携帯電話が鳴った。近くにいたわたしがそれを取り、彼に渡す。
ちらりと見えたディスプレイには、彼のバイト先のレンタルビデオ店の名前が表示されていた。彼が携帯に向かって喋る言葉から、急病でバイトに欠員が出たので、これから出勤してくれないかとお願いされたようだとわかった。
わかりました、すぐ行きますと答えて通話を終えた彼に、わたしは訊いた。
「行くの?」
「うん。どうしても人手が足りないみたいだから」
「そっか、わかった。でも、行くならわたしにちゃんと理由を答えてからにして」
彼は困ったような表情を浮かべる。わたしはソファの正面に移動し、腰掛ける彼を見下ろした。
「答えてくれないと、わたし、バイト先にまでついていって問い詰めるから」
欠員が出たので補充で来てくれないかと頼まれるということは、彼はバイト先の人たちにも病気のことを伏せているんだろう。わたしに問い詰められ、職場の人たちの前で病気のことを話さざるを得ない事態になるのは、彼だって嫌なはずだ。
狙い通り、彼はとうとう観念した。
「わかった。本当のことを話すよ。でも、お願いだから落ちついて聞いてね」
「うん。ぜったい、大丈夫だから」
あなたのこと、そばで支えるから。
彼はソファに座ったまま、視線を床に落としながらゆっくりと口を開いた。
「先週気づいたんだけど、きみ、顔がイグアナに似てるんだ」
「イグッ……え、なに。イグアナ?」
「そう。イグアナ」
彼は伏せていた視線を上げて、わたしとまともに眼を合わせた。
「きみの性格は好きだよ。できればこれからも、友だちとして関わっていきたいと思ってる。でも、イグアナとはキスできない」
凍りつくわたしに、彼は申し訳なさと冷酷さが混ざった瞳を向けて、ソファから立ち上がった。テーブルに置かれていた鞄を手にとって、部屋から出て行く。去り際、帰るときは合鍵で鍵をかけて、郵便受けから鍵を返してくれと頼んだ。
しばらく立ち尽くしていたわたしは、ふらふらと宛てもなく足を動かした。不思議なことに、無意識にテーブルのほうにむかい、椅子を引いて腰掛ける。わたしはそこに肘をつき、文字通り頭を抱えた。
え、なに、イグアナって。それに似てるからわたしを振ったってこと。意味わかんない。まずイグアナってなに? なんだっけ?
ポケットから携帯を取り出し、「イグアナ」で画像検索する。先月変えたばかりの、大きなディスプレイが自慢のわたしのスマートフォン。その画面に、ところ狭しと爬虫類の顔が表示された。
吐きたくなった。なんだこれは気持ち悪い。中には、かなりアップでイグアナの顔を映した写真もあって、モザイクかけろやと抗議したい気分になった。それと同時に泣きたくなった。こんなのに似てるのか、わたしは。なにが悲しいって、自分でも、あ、ちょっと似てるかも、と思ってしまったところだ。わたしはこれまでの人生で、美人だねと言われたことはないけど、不細工だと笑われたこともない。だからたぶん、ブスではない。ブスではないけど、高校の担任教師から、どちらかといえば爬虫類顔だねと言われたことはあった。なんて失礼な人だと内心で憤ったけど、いま、それがはっきりわかった。爬虫類顔だ、わたし。というより、イグアナ顔だ。そりゃあキスできないわ。一方的に別れを告げるわ。
泣きたくなったついでに、そういえばイグアノドンっていう恐竜がいたなと思いだし、「イグアノドン」で画像検索した。すると、イグアナをモデルにしたのか、緑色の体の、爬虫類っぽい顔をした恐竜の画像が表示された。だけどこれ、イグアナっぽいけど、どことなくイグアナより可愛い顔になってる。調べると、イグアノドンの体躯はイグアナをモデルとして作られたらしい。けど、恐竜なんて化石の情報しかないだろうから、はっきりした顔立ちなんかは人間の想像でしかないと思う。そのイグアノドンの顔がイグアナより微妙に可愛くなっているということは、恐竜を研究していた人たちもイグアナの顔は気持ち悪いと感じ、せめてイグアノドンの顔はもう少しまともにしようと温情措置を施したのではないかと推測できる。そしてわたしはイグアナに似ている。
眼からぽろぽろっと涙が数滴こぼれ、ティッシュを求めてテーブルに手を伸ばすと、別のものに手が触れた。Lサイズの卵、十二個入りパック。彼がスーパーで買って、そのまま冷蔵庫に入れずテーブルに放置していたのだろう。
わたしの正面には白い壁がある。伸ばした手のすぐそばには卵がある。
朝起きたら伸びをするような自然さで、わたしはプラスチックのパックの封を開け、卵を取り出していた。おりゃ、っと心の中で叫び、目の前の壁に卵を投げつける。
ぱきゃ、と音を立てて、壁に叩きつけられた卵は割れる。
白い壁に広がる卵の黄身。ねばねばの白身と混ざって、ゆっくりゆっくり、壁からずり落ちていく。まるで、負傷して壁に手をつき、耐え切れなくなって荒い息を吐きながらずるずると座り込む、満身創痍の兵士のよう。
わたしはもう一個、卵を壁に投げつけた。広がる液体。負傷した兵士はまたも、ずるずると座り込む。
おもしろい。
また、卵を叩きつける。そのたびに傷を負った兵士が倒れる。その映像が脳内に鮮明に再生される。いつしか、苦しげなうめき声を上げる兵士の顔は、わたしを振った彼の顔で再生されるようになった。
重傷を負った彼が、傷口を押さえながら、もうどうにもならないといった顔でへなへなと座り込む。わたしが卵を投げるたび、負傷した彼が増えていく。いまの彼は肩を怪我している。次の彼は太ももから血がどくどく流れている。その次はお腹。その次は頭。
「……あはっ」
知らず、笑い声が口から漏れた。眼からは涙が溢れてきた。椅子から立ち上がり、卵を両腕に抱え、全力で壁に投げつける。投げ続ける。
最後の一個を投げ終えると、わたしは息を切らしながら壁を見やった。
卵を叩きつけられた部分に、ぬるりとした黄色い液体が飛び散っている。その下には、めちゃくちゃな割られ方をした卵の殻が散乱している。
すぐ隣に真っ白な壁や清潔なフローリングの床が広がっているのに、ある一帯だけが汚されている。
どうしてだかわからない。どうしてだかわからないけど、この光景は一種の芸術のように思えた。
でも、スマホのカメラで写真を撮るなんて無粋な真似はしない。この光景はわたしの心の中にだけ残しておくものだ。だからこそ美しい。
わたしは目の前の光景を胸の奥にしっかりと刻みつけ、彼の部屋を後にした。合鍵を、郵便受けからドアの向こう側に入れる。
彼に対する未練は、少しもなかった。