Chapter7「幕はゆっくりと開かれる」
「――ちゃん!」
誰かに、名前を呼ばれた気がした。
その声を聞いただけで心が安らぐような、優しい声。
どこか聞き覚えのある懐かしい声音は、徐々に焦りを含んだものとなり――
「悠奈ちゃんってば!」
「うにゅ……」
そこで、悠奈は意識を覚醒させる。
目を開くと、視界には悠奈の起床に安堵するユーの顔。
どうやら彼は悠奈を起こしに来てくれていたようだ。
携帯のアラームはセットしておいたはずだが、それに気づかず悠奈は眠り続けていたらしい。
昨日いろいろあったせいか、自分が考えている以上に疲れていたのだろうか。
普段ならこんなことはないのだが、どうやら予定していた起床時間を少々オーバーしてしまったようだ。
いつも使っているバスには乗り遅れてしまう時間だが、今日からはユー達が乗ってきたハンヴィーという車で登校することになっているのでその辺で時間を気にすることはない。
「……やっぱり、疲れてるのかい?」
ユーは前かがみになり、ベッドに腰掛ける悠奈に視線を合わせる。
と、彼のまるで海を思わせるコバルトブルーの瞳が静かに揺れた。
困り顔で覗き込むユーは、どこか心配そうに悠奈を見つめる。
しかし、悠奈はそれに笑顔で答える。
「んにゃ、大丈夫だよ。まあいろいろあったのはほんとだけど、悪いことだけじゃないから」
言って、ベッドから跳ねるように起きると、悠奈は着替えるために着ていた寝巻きに手をかける。
「うん……大丈夫ならいいんだ。じゃあ、リビングで待ってるから」
そう言い残して、ユーは急いで身体を反転させると、悠奈に背を向け部屋を出ていく。
そこで気付いたが、今悠奈は自然とユーの前で着替えようとしていた。
理解はしていたはずだが、どうしても異性というよりは同性と同じような感覚で接してしまいそうになるので、彼の為にももう少し注意した方がいいかもしれない。
悠奈は手早く学校の制服に着替えると、顔を洗い皆が待つダイニングへと向かう。
皆はもう身支度を終えているようで、仕事着に着替えていた。悠奈以外は時間通りに起きているのだろうし、当然と言えば当然だが。
「どうする? 簡単なものでいいなら、何か作ろうか?」
悠奈に気づいたユーが、操作していた携帯端末から目を離して言う。
容姿や性格至る所が完璧なユーは、どうやら料理も出来るらしい。
が、さすがに今から作ってそれを食べるとなると、いかに公道を自由に走れる足を持っていたとしても時間に遅れてしまうだろう。
悠奈は申し訳なさそうに顔の前で両手を合わせる。
「うん、気持ちはすっごく嬉しいんだけどさすがに時間がねぇ。いやぁ、私のせいで申し訳ないっす」
悠奈が腰を九十度に曲げ頭を下げると、ボブが背中をぽんぽんと叩く。
それに悠奈が顔を上げると、ボブは自分を親指で指差しながら、
「気にすんなよ。実は俺もさっきまで寝てて、ユーに起こされたんだ。お相子だぜ」
「いや、ボブは私の護衛で来てるんでしょ。だったらもうちょっと緊張感持とうよ、何やってんの」
「なんで俺は駄目なんだよ! あとこういう時だけ口調が真面目っぽくなるのやめろよ! すげぇ傷つくだろ!」
涙目になりながら抗議するボブを差し置いて、アリスが満面の笑みで悠奈の傍まで駆け寄ってくる。
「はいユーナ、これどーぞ」
差し出されたアリスの小さな手には、カイロが乗せられていた。
もう十一月も終わろうとしている。外はさすがに制服だけでは寒いと、気を利かせてくれたのだろう。
昨日一緒に風呂に入ってからというもの、アリスは妙に悠奈に懐いてしまった。
ユーにも出来ればこのまま妹のように扱ってほしいとお願いされてしまったので、その通りに可愛がってやろうと思っている。
悠奈自身アリスの事は気に入っているし、せっかく一緒にいられるのだからこういったのも悪くはないだろう。
悠奈はアリスからカイロを受け取ると制服のポケットにしまい、壁にかけられた時計を見る。時間の余裕はもうさほど残されてもいないようだ。
朝食を食べられないのは痛いが、そろそろ登校しなければならない。
「それじゃあみんな、いこっか」
皆を先導するように悠奈が歩き出すと、その後をユー達がついていく。
そしてエレベーターを使い、ロビーへ。
いつものように雪風が眠たそうな顔で受付に座っているのを見ると悠奈は、
「おっはよー雪風さん」
「おー、今日は遅いな。ほれ、今日の分。私、久しぶりにお肉食べたいぞー悠奈」
「買ってきてあげてるんだから贅沢言わないの」
「そんなー」
悠奈に弁当代を手渡すと、あまり残念そうには聞こえない声で雪風がそう呟きカウンターを両手で何度も叩く。
一応不満なのだろうか。コンビニにもステーキ弁当くらいは置いてあったと思うので、それでも買ってきてやれば喜ぶかもしれない。
そこでボブが雪風の前まで来ると、呆れた様子で溜息をついた。
「綾音……お前一般市民、しかも女子高生パシッて何やってんだ」
「えー、だって外出たくないし。めんどくさいじゃん」
むくれながら、雪風はカウンターからボブを見上げる。
それにボブはぼそ、と、
「自堕落ババアか……」
「あ?」
露骨に怒りを込めた声で雪風が言うと、彼女はカウンターから出てきてボブの前へ。
どうやら、聞こえていたらしい。
「ふんっ!」
「ぐおぅ!?」
次いで、雪風の膝蹴りがボブの腹部に直撃。
百キロ以上はありそうなボブの身体が数センチ浮き、そのまま床に身を縮めて倒れる。更に追撃と言わんばかりに、雪風はボブの頭を足で踏みつけた。
「あぁ? もう一回言ってみろ筋肉ダルマ」
「ぐ……このやろ、本気でやりやがったな!」
ボブも起き上がろうとはしているのだが、雪風は余程力を込めて頭を踏み付けているのかなかなか起き上がれない。
それどころか、どんどんボブの顔が床に近づいている。
「私はまだ二十七だ。お前と一緒にすんなっての」
そう吐き捨てるように言うと、雪風は最後にボブの頭をつま先で軽く小突いたあと彼から足を離す。
やっと解放されたボブは頭を擦りながらゆっくりと立ち上がる。
「あーあー、わかったよ。お若いお若い。じゃあ俺らは急いでっから行くぜ」
言って、ボブは雪風から逃げるよう足早に駐車場に降りるエレベーターの前に移動する。
悠奈も雪風からもらったお金を鞄に入れると、エレベーターのボタンを押してボブの横で待つ。
と、そこで、
「あー、隊長さん? ちょっといい?」
雪風がユーを手招きしながら呼び止めた。
こちらに来かけていたユーは一度足を止め、雪風の方を向いた。
「昨日から妙にDの連中がざわついてるらしい。なんか私もやな予感すんだよね。なんつーか、その……悠奈の事、頼むな」
ユーに悠奈の事を丸投げするのが嫌なのか雪風はばつが悪そうに頭を掻きながらも、ユーに頭を下げる。
ユーはユーで、いつもの事務的な笑みを作ると、
「ええ、大丈夫ですよ。悠奈ちゃんは任せておいてください。それでは」
ユーも一礼して、その場を離れる。
しかし、それでも心配なのか、エレベーターの扉が閉まる直前まで雪風は悠奈をずっと見つめていた。
相変わらず閑散とした地下駐車場に降りると、悠奈は目当ての車である装甲車ハンヴィーに駆け寄る。
車自体が少ないのもあるが、ハンヴィーは一般車よりも二回りほど大きく、目立つので探すのは容易い。
ボブが昨晩熱心に語ってくれたので、悠奈も何とか名前だけは覚える事が出来た。
のだが、それ以外は元々の知識があまりないためまだまだ完全に理解するのには程遠い。
ボブが言うには、警備部隊所有の証である白色の塗装はされているが、このハンヴィー自体は警備部隊の物ではなく管理局本局の部隊の物らしい。
となれば、恐らくこれはユーが手配した物だろう。本局所属らしいユーなら、出来てもおかしい話ではない。
ただ、今回彼らは警備部隊という名目で行動するようなので、塗装を変えたり武装に制限がかかったりするようだ。
とはいえハンヴィーのルーフに乗っている大きな銃を見る限り、とても制限されているようには見えない。
というか、このままこれ見よがしに銃を付けた車で学校に突入するのは色々とまずいのではないだろうか。
などと悠奈が訝しげに顔をひそめていると、ユーが隣に並び困り顔で苦笑する。
「さすがにあのままは困るよね……どうにかしようか。ボブ、確か荷台にシートがあったと思うから、あれをM240に被せてくれるかな?」
「マジかよ!? これがあるからかっこいいんだぜ? せっかく付けたのに隠すのかよぉ」
「いやいや、さすがに武装した車両が学校に入っていったら生徒もみんなドン引きだよ。ただでさえ軍用車なんだ、我慢してくれないかな」
ユーに諭され、ボブはしぶしぶハンヴィーの後部ハッチを開き白いシートを取り出すとそれをM240と呼ばれた銃に被せていく。
シートを被せたせいか、不自然に天井から飛び出した何か大きなものとして余計に目を引いてしまうような気がする。それでも、銃と分からなくなっただけましなのかもしれないが。
悠奈は一足先にハンヴィーの後部座席のドアを開けると鞄を開け、部屋から持ってきたクッションを取り出し自分が座る場所に配置する。
さすがに何か敷かないと悠奈はまたお尻を痛めそうなので、その対策だ。ユーにも許可はもらっているし、問題はないだろう。
悠奈が乗り込むと、みな昨日と同じ配置で次々にハンヴィーに乗り込む。
別に運転するのはボブでなくてもいいらしいのだが彼が一番運転技術が高いらしく、また彼自身も運転が好きなようなのでユーも特に理由が無い限りはボブに一任するとのことだ。
ボブは全員が乗り込んだのを確認すると、ハンヴィーのエンジンをかけた。
すると、鋭く響く轟音と共に車体が振動し、ゆっくりと周りの景色が移動し始める。
普段のバスとはルートも違い、見える景色が違うせいか新鮮味を感じた。
とは言っても、エリアJはどこへ行こうがビルばかりの灰色の世界なのでそこまで大差があるものでもないが。
確か世界がこうなる前の東京とかいう場所がモデルらしいが、随分と殺風景な場所で昔の人は暮していたんだなと改めて悠奈は思う。
しかも今ほどナノマシン技術も発展していなかったのだろうし、こんな場所に詰め込まれたら病気にでもなりそうだ。
そこだけは、この時代に生まれて良かったと思えるところだろう。
流れていく景色を数分間眺めつづけていると、いつの間にか車は学校へと到着していた。
ボブが飛ばしたからというのもあるが、普段と違う景色を見れて悠奈自身も予想以上に楽しんでしまったので時間が経つのが早く感じられたせいもある。
これのおかげで想定していた時間よりも大分早く着いてしまい、割と時間に余裕ができた。教室まで走る必要が無くなったのは素直に嬉しい。
三階建て校舎の一番上の階、しかもその最奥に悠奈の教室はある。
そんなところまで走るのは運動にはなるが、さすがに朝からは遠慮したいものだ。汗をかくなんてもってのほかだし。
ボブはハンドルを切り、校門から入ってすぐの場所でハンヴィーを止める。
「到着だぜ」
「ん、お疲れ様ボブ。じゃあ俺と悠奈ちゃん、アセリアはここで降りるからその辺に止めておいてね」
「了解だ、ボス」
自家用車を持つ者が少ないので、この学校も例にもれず申し訳程度の大きさの駐車場しか設置されていない。
しかも校舎から少し離れた場所にあるせいか、駐車場で止めてから車を降りると移動だけで数分時間を取られてしまう。
だからここで降ろしてくれるのだろうが、なぜユーとアセリアも一緒なのだろうか。
「あれ? ユーちゃん達も降りるの?」
「一応学校側に報告しておかないとね。まあ、この学校には他にもリストに乗った人の子供がいるから、たぶんもう何人かが学校に説明はしてくれてるはずだけど」
なるほど、と頷きながら悠奈は一足先に降りたアセリアに続くようにハンヴィーから飛び降りる。
ユーもボブに何かを伝えた後、車を降りて悠奈の隣に並んだ。
こうして並ぶと、ユーは少しだけ男性にしては背が小さいのが分かる。
悠奈が155センチほどなのに対して、ユーとは僅差しか変わらない。たぶん、160センチ程度だろうか。
体格も小柄で細身だし、そういうところもあって女性と間違われるのかもしれない。昨日の風呂場で見た限りじゃ、裸の状態だと女性と見分けがつかないだろう。
まあ、一番の原因は顔だろう。やや女性寄りの中性的な顔立ち。いや、髪型のせいでそう見えるだけで、悠奈くらい髪を伸ばせばもう完全に女性じゃないだろうか。それもかなり美人の。
「それじゃ、行ってくるね。あ、せんせー達の教室の場所分かる?」
「ああ、大丈夫だよ。行ってらっしゃい、悠奈ちゃん」
悠奈達三年生の教室は三階だが、教員室は一階にある。
昇降口までたどり着くと、悠奈はそこでユーと別れた。
さすがというべきか、しっかりと悠奈の通う学校の構造は把握済みらしい。
主にボブのせいで忘れがちだが、彼らは紛れもなくプロなのだという事を改めて認識させられた。
「んー、ユー君たちと別れると。なんか、いつも通りって感じだよねー……」
彼らの存在こそが、悠奈の日常を非日常たらしめるもののようだ。
こうして一人になると、目の前に差し迫る問題は授業だの課題だのと普段と何ら変わらない。
むろん、こうしている間にも悠奈は狙われるかもしれないという可能性があるのは承知しているが、こんな大勢の人間がいる中で、しかもユー達の護衛付きでそんな大事は起こらないだろう。
とすれば、やはり悠奈に直接かかわってくる問題は学業という問題のみであって――
などと悠奈もまた、平和な世界の中でしか生きてこなかった者の視点でしか物事を図れなかった。
仕方ないと言えば、そうなのかもしれない。
恐らく、このようなことになるなどとはたとえユー達でも――いや、管理局でさえも予見などできなかったはずなのだから。




