Chapter1 「エンカウンター」
ふと、空を見上げた。
空を灰色で塗りつぶしていた雨雲は消え、憎たらしいほどに燦々(さんさん)と輝く太陽の光が降り注いでいる。
視界の端では、七色に輝く虹が見えた。
七色の帯は、巨大なビル群に囲まれた殺風景なこの土地に、華やかな色彩を与えてくれる。それはまるで、絵画の世界に入ったかのような、幻想的な風景。
そんな光景を前に、ついスカートのポケットから携帯を取り出して、写真を撮ってしまいそうになる。
まあこれは、そんなことをする余裕があれば、の話だが。
「っはぁ、はぁ……ちょ……どーなってんのさ!」
東條悠奈は駆ける。
呼吸は荒くなり、何度も足をもつれさせ、転びそうになるところを何とか立て直しながらそれでも走り続けた。
悠奈は運動が不得手というわけではない。むしろ運動能力で言えば、同じクラスの男子に引けを取らない程に優れている。
とはいえ十分以上も全力で走り続けるのは、いくら悠奈だってさすがに辛い。
なら休めばいいと言われればそれまでだが、悠奈にはそれが出来ないだけの理由があった。
こんな状況になる前、悠奈は街角で数人の男達に呼び止められた。
道でも聞かれるのかと思ったが、男達は呼び止めたにも関わらずいきなり何かを相談し始め、それが終わると今度はゆっくりと男達の中から数人が悠奈に近づいてきた。
悠奈はその時嫌な予感を感じたが、さすがに逃げるのは失礼だしその場に留まってしまう。
そこで勘に従い逃げていれば、こんなことにはならなかったのだが――
男達は退路を塞ぐように広がると、すぐさま二人の男が悠奈を拘束。そのまま両腕を掴まれた状態で路地裏に連行される。
抵抗すると、悠奈の腕を掴んでいる男が懐からナイフを取り出し、銀色に輝く刀身をわざと悠奈の視界の前でちらつかせた。
悠奈は叫び声を上げかけるが、そうはさせまいともう一人の男が悠奈の口を手の平で覆ってしまう。
そのせいでくぐもった声しか出なかったので、恐らくこの場にいる者以外で悠奈の声を聞いた者はいないだろう。
「大人しくしてろ。妙な真似をすれば……分かるな?」
強圧的な、低い男の声が悠奈の耳元で囁かれた。
ただの脅しか、あるいは本気でそこまでしようと思っているのか。
それの真偽が分からない内は、動くこともできない。
下手に抵抗してナイフで刺されてしまってはそれこそ満足に逃げる事も出来なくなるだろうし、そうなったら本当に終わりだ。今は、男達に従う他ない。
悠奈は男達に引っ張られながら、さらに路地の奥へと連れていかれる。
徐々に景色も変わり、コンクリートで出来た灰色のジャングルから一変して、廃屋などが建ち並び辺りには浮浪者達に漁られてゴミが散乱する寂れた街並みに変わる。
ここは、本来なら悠奈のようなただの一般市民が入ってはならない場所だ。
誰も立ち寄らない、この楽園で唯一全てを見放された土地――エリアD。
「ちょちょちょ……ここはまずいですってば!」
これ以上先は、市民を守る警備部隊すら立ち入らない空間だ。さすがにこの奥へ進んでしまえば助けを呼ぶどころの話ではない。
今、こうしてこの場所に立っているだけでも、ここにいるあまり友好的ではない住人達に襲われる可能性があるのだ。
さすがに悠奈も本格的に抵抗し、掴まれたままの両腕を無理やり振り回すと、一瞬だが男達の拘束が解ける。
が、
「てめぇ! 暴れるなクソガキが!」
「あうっ!」
逃げるほどの時間稼ぎにはならず、逆に男達を怒らせてしまったようだ。
悠奈は胸ぐらをつかまれると、力任せに投げ飛ばされ背中から壁に叩きつけられる。
幸い怪我はないようだが、鈍い痛みが悠奈の体中に走った。
数秒息が出来なくなり、ずるずると立つ力を失ったように悠奈はその場に座り込んだ。
と、同時に、頬に冷たい感触。
どうやらぽつぽつと雨が降ってきたようで、空を見上げるといつの間にか灰色の雲が天を覆い尽くしていた。
「手間取らせんじゃねぇよ。この――」
そうして、激昂した一人の男が腕に持っていたナイフを悠奈に目がけて振り上げ――そのナイフが突然重力に従い地面に落下し始めたのは、ほぼ同じタイミングだった。
正確に言えば、落ちたのはナイフだけではなく、それを握っていた男の手首から先も、なのだが。
どちゃ、と柔らかい何かが地面に落ちる音が聞こえた。
その『何か』を、悠奈は実際に目で見ていたので理解するのは容易く、ゆえに不快極まりない。
「俺の! 俺の腕がああああ!」
男の手から血が噴水のように吹き出し、絶叫をあげるのと同時に雨が強く降りだした。
床にまかれた赤い血が雨水と混じり合い、悠奈の足元に広がっていく。
自然に手が取れるわけがない。何か理由はあるのだろうが、今それを考えている時間は無いし無駄なだけだ。
男達全員が動揺し、悠奈への注意が疎かになっている。
しかも、男達と悠奈の距離は一番近い者でも数メートル。悠奈を捕まえるには数秒はかかる。
呼吸も出来るようになった。今しかチャンスは無い。
悠奈は状況を把握すると、立ち上がりざま、一気に男達のいる方と逆の道に走る。
これではエリアDの奥へと進んでしまうが、あのまま男達に捕まったままよりは数倍ましだ。
とすると問題は、どうやってここを出るか、だ。あまり考え無しに進むと、方向音痴が災いして変な場所に出てしまう可能性もある。
とりあえず、遠くに見えるこの楽園の中央に位置するタワーを目指そう。
そう心の中で考えをまとめると、悠奈は濡れた地面で滑らないように注意しつつ、全力で道を走り続けた。
と、ここまでが悠奈が不休で走らなければならなくなった経緯なのだが、言った傍から袋小路に迷い込んでしまう。
「やっばい……どうしよ?」
引き返そうとも思ったが、悠奈の背後からは踏み付けられた水溜りが跳ねる音と共に、数人分の足音が確実に近づいてくる。
十中八九、先ほどの男達だろう。
どうやら、引き返すという選択肢はもう無いようだ。
数秒もしない内に男達は現れ、案の定皆が皆そうとうご立腹の様子。
特に、手首から先を真っ赤にして悠奈を睨んでいる男など、今にも殺しにかかってきそうな勢いだ。実際、捕まればただでは済まないのだろうけれど。
万事休す。一応逃げてはみたが、そうそう漫画の様にヒーローが助けに来てくれるわけでもなく、これが現実なのだと思い知らされる。
これ以上抵抗したら本当に命の危険すらあるだろうし、悠奈は大人しく降参だと両手を上げ――その時だった。
「間に合った!?」
この場に似つかわしくない、可愛らしい声が悠奈の頭上から聞こえた。
恐らく、その場にいた誰もが予想出来なかっただろう。悠奈の背後に積まれたレンガの壁。そこの上から、文字通りの小さな女の子が降ってきた。
よく言って、小学生の高学年といったところだろうか。
頭の高さは悠奈の胸ほどしかなく、頼りない程に小さな体。ブロンドの長い髪は、雲の裂け目から僅かに差し込む太陽の光を反射してきらきらと光り、とても綺麗だ。
そんな子がどうしてここに、と疑問を抱くより先に悠奈の目に飛び込んできたのは、少女の持っているものと服装。
その身に不釣り合いな大きな銃と、警備部隊の戦闘服。
それだけで、彼女が何者なのか理解するには十分な要素だ。だが、同時にこんな少女が本当にそうなのかという疑問も悠奈の心の内に生まれる。
しかし、悠奈が言うより先に少女は持っている銃を構え、その銃口を男達に向ける。
「早く逃げて! ここは私が押さえとくから!」
「に、逃げるってどこに……」
視線を男達に向けたまま、少女が逃げろと言う。が、ここは袋小路。逃げる場所なんてない。
戸惑う悠奈に少女が振り返る。と、
「なけりゃ作るのよ!」
言い切ると同時、少女は体をくるりと回転させ、勢いをつけたまま回し蹴りを放つ。
ちょうど悠奈のすぐ横の壁に少女の蹴りが炸裂し、まるで爆弾でも爆発したかのような音と共に大きな穴が出来る。レンガ造りの壁だが、少女の蹴りで穴が開くほど脆くなっていたのだろうか。
でもこれなら、人が通ることも可能だろう。
「行って! まっすぐよ!」
「え? え?」
状況が理解できず困惑する悠奈に少女はむっと顔を強張らせると、両腕を掴まれ強引に穴の方を向かせられる。
「早く!」
その状態で悠奈は背中を思い切り押される。
その衝撃に飛び込むような形で壁の穴をくぐると、振り返らずに悠奈は少女に言われた通り目の前の開けた道を真っ直ぐ進む。
何度か曲がり角は曲がったが、ほぼ一本道なのでたぶん道を外れているという事は無いだろう。
時折銃声のようなものが後ろで聞こえたのが気になるが、少女が着ていた服が本物なら問題はないとは思う。
そうしてしばらく走っていると、急に開けた場所に出た。
大通りだろうか。ならここの両端どちらかを目指せば、この場所から出られるかもしれない。
悠奈は安堵し、一旦足を止めるとその場で一息つく。
結局相当な時間走ったはずだ、そろそろ体力も限界に近いのか悠奈も息が上がっている。
ここに来るまで色々なことがあり過ぎて頭の理解が追いついてないが、助かる見込みが出てきただけでも救いだ。
と、そこまではよかったのだが、
「おっと、エデンのお嬢様がここに何の用かなぁ?」
「へへ、ここがどこだか分かってんのか? しかしこりゃあ……なかなか上物だぜ。これは久しぶりに……」
油断してしまった。
ここがまだエリアDだという事を、悠奈は失念していた。
楽園の管理から外れた場所と、外された者達。
ここにいるのは皆、楽園から追放された者達だ。当然、あまりよろしくない人格を持った者もいるだろう。恐らく、悠奈の目の前で嫌な笑みを浮かべる二人の男も、その中に入っている。
さっきの少女がまた助けに来てくれるとは限らない。悠奈はゆっくりと後ずさりしながら、男達との距離を稼ぐ。
「おいおい、つれないなぁ。観光に来たんなら俺らが案内してやるぜ?」
「ちゃあんと綺麗なホテル選んでやるからよぉ……なぁ?」
「別にそういうので来たわけじゃない……ですから」
悠奈が下がる分、男達が近づいてくる。距離は依然として変わらない。
だが先ほどの男達と違って、こいつらは悠奈を完全に舐めきっているので逃げる事は容易い。
のだが、先ほど一気に気を抜いてしまったせいか、疲労も追い打ちをかけ足に力が入らず今すぐ走り出すことは出来ないでいる。
さすがに捕まったら振りほどける自信は無いので、今はこの距離を保つことで精一杯。
しかし、いつの間にか周囲の人間がさらに増えていた。それも特に男連中が。
捕まった後の事を考えたくはない。悠奈には彼氏と呼べるような人すらいないのだ。なのに見ず知らずの、それもこんな連中に抱かれてやるほど悠奈は頭もあっちも緩くはない。つもりだ。
早く何とかしないと、と無理やりにでも足を動かそうとしたその時、背中に何か柔らかい感触が当たるのを感じた。
「……え?」
次いで、背後から両肩を掴まれる。
誰かに捕まってしまったかと悠奈は一瞬焦ってしまったが、背後にいた人物の顔を見るや、その考えが間違っていることに気づく。
「はい、捕まえた」
そう言って、優しく微笑むのは、悠奈と同じくらいの背丈をした少女。
歳も悠奈と同じくらいだろうか、短い黒髪と中性的な顔付きも相まって、可愛いというよりも美人といった感じの子。
どう見てもここ(エリアD)の人間ではない。
「もう大丈夫。あとは俺達の仕事だからね」
女性のか弱さを感じさせない凛々しい声で少女は言うと、悠奈を庇うように前に出た。
初対面だというのに、何故か妙に安心する。
理由も無く信頼してしまう程に、もっと昔から一緒に過ごしていたかのような不思議な感覚。そう、まるで――血の繋がった姉妹のように。
「ぎゃああああ!?」
突然、最初にいた二人の男の内の片方がいきなり飛んできた家のドアに吹き飛ばされた。
いったい何だと悠奈がドアが飛んできた方向を見ると、もう一人目の前にいる少女と同じ上着を着た銀髪の女性が立っていた。
女性はこちらに歩み寄ると背中に手を回し、上着の下から大きなナイフのようなものを取り出しそれを男達に向ける。
黒髪の少女は困ったような顔をしながら頬を掻いていた。反応と服装を見る限り仲間なのだろうか。
「アセリア、穏便に、穏便にね」
「……分かっている」
銀髪の女性は少女に素っ気なく返すと、一歩前に出て、
「消えろ屑共。退かねば殺す」
明らかに穏便に済ませる気が無い発言だがどうやら効果はあったようで、男達は逃げるように散り散り走り去っていった。
少女がため息をつきながら頭を抱えているのが心配だが、とりあえずこれで助かったとみていいのだろうか。
「さっさと連れていくぞ、ユー。こんな場所に長居したくない」
「はいはい、まあその意見には同意だよ。ええと、じゃあちょっと一緒に来てくれるかな? 来てくれると嬉しいんだけど」
全然助かっていなかった。
黒髪の少女はああいっているが、恐らくノーという選択肢はない。言ったところで多分後ろの女性が黙っていないだろう。さっきからずっと悠奈を睨んでいるし。
どうにもどこかへ連れていかれるらしいが、この二人、それも主に片方の機嫌を損ねるとここまでに出会った連中の中で一番大変なことになりそうだし、今度こそ下手な抵抗はできない。
救いなのは、少女の方は話が通じそうなところだろうか。
「私、どうなっちゃうんだろうなぁ……」