最初の異変
俺の部屋に泊まった翌朝。
簡単に冷蔵庫にあるもので朝飯を作ってくれた悦ちゃんと、差し向かいで食事をした。
今までも飯くらい何度も、っていうか。初対面が新歓コンパやったわけやけど。
それでも、夜明けのコーヒーやないけど、なんかこそばゆくって……照れる。
その空気を破るようにして悦ちゃんが、話しかけてきた。
「ねぇ、ユキちゃん」
「うん? どないしたん?」
「クリスマスプレゼント、なんだけど」
過ぎてしまったけど、まだ、何も準備出来てなくて……と、トーストをちぎりながら、悦ちゃんが俺の顔を見る。
あー。おねだりしとったファーストキス、強奪してしもた……。
「ファーストキスどころか、昨日の晩、それ以上のモン貰ったから、クリスマスプレゼントはいらん」
「それ以上って?」
「悦ちゃんの”初めて”」
これ以上何か貰ったら、もらい過ぎやん。
そう言いながら紅茶に口をつける俺の顔をチラリと見て、目を逸らすようにしばらく考え込んだ悦ちゃんは、
「ユキちゃん。それはプレゼントじゃない。私は、”それ”をプレゼントにはしたくない」
と言って、まっすぐ俺の目を見てきた。
おお。なんやこれ。
一気に大人の階段、登ったのと違うか?
「今の『嫌や』が、プレゼントでええ」
今までで、最高のプレゼントと、違うか?
家に帰ったら坂口さんに電話して、スキーを欠席にする、と言いながら悦ちゃんが帰っていった。
悦ちゃんが”ソレ”に気づかないようにと、彼女が食事の支度をする間に片付けておいた布団からシーツを剥がして洗濯をする。
多分、落ちないだろう、俺の罪のあとを。
それから、実家へと帰省する準備をして。
翌日、俺は新幹線に乗った。
「ユキちゃん、ピアス」
新年明けて最初の悦ちゃんの言葉は、ソレ、やった。
年明け最初の講義は、昼から。この日、俺たちはいつものように昼飯を食べる約束で、学食デートやった。
「うん。まだ、ファーストやねんけどな」
年末、地元に帰省したその日に近所の耳鼻科で開けてもらった。幼稚園から世話になっとる爺ちゃん先生は、『なんや、えらい色気づいとるやないか』って言いながら、遠慮なーく開けてくれた。『色気づくのはええけどな。刺青だけはアカンぞ』とか言いながら、正月休みを挟む分、大事をとって化膿止めの薬もくれた。
悦ちゃんが気にしてた髪の色も、かなり明るめの茶色にしたし。見た目だけは、俺も織音籠の一員になった。後は、初ステージを待つだけや。
そんな俺の顔をなにやら考えながら眺めた悦ちゃんは、
「ユキちゃん、遅くなったけど。クリスマスプレゼントにピアスを買ってもいい?」
「俺の?」
「はい」
「ピアス、なぁ」
「はい」
軽く頷いた悦ちゃんの耳元には、クリスマスにやったイヤリングの蒼い石が光っている。これ買おうとして、店に入るの、俺も緊張したけど。
ジンのペンダントや、サクとかマサのピアスのイメージを考えると……悦ちゃん、一人で店に入れるか? 結構、”強面のニイさん御用達”ってところになりそうやねんけど。
「それやったら、今度の休みに一緒に店、行こか」
「はい?」
「アレルギーを起こさんために、最初のうちは材質とか、気を付けたほうがええらしいから、俺も一緒に行って選ばして?」
「はい!」
箸できつねうどんを挟んだまま、悦ちゃんがにっこり笑う。弾んだ声で返事をして。
久しぶりの外でのデートやな。
約束した日曜日。
雪には、ならんやろけど、空はどんよりと曇っていた。
いつものように三十分早く、待ち合わせ場所の”西のターミナル”駅で悦ちゃんを待ってたら、これまた、いつものように十五分前に現れた悦ちゃん。
俺の前に立つと、いたずらっぽく笑いながら、
「明日は、お天気?」
なんて、聞いてくる。
ああ、バレとるな。と思いながら、
「ええ天気になるで。絶好のマラソン日和」
と、ボケて見せる。明日、一般教養の体育、やもんな。必須教科の。
「雨、降ってくれないかなぁ」
改札を抜けて構内から出たところで、運動が苦手な悦ちゃんが恨めしそうに空を見上げる。
そう言いながらも、悦ちゃんはサボらんと授業に出るんや。きっと明日も。
そんな彼女の手をとって、駅前のショッピングセンターへと歩き始めた。
「ユキ」
低い声に呼ばれたのは、ショッピングセンターへの信号の手前。コンビニの前でやった。
振り向かんでもわかるわ。
ジン、の声や。
そう思いながら足を止めた俺の顔を、悦ちゃんが覗き込んだ。近くで見たら、びっくりするで?
悦ちゃんの肩を軽く押すように促しながら振り向くと、思ったとおりジンが軽く手を上げながら近づいてきた。
「ジン。どないしたん?」
「ん、本屋」
ああ、なるほど。こいつもサクも、意外と本の虫やねんから。
目の前で立ち止まったジンが、首をかしげて俺たちを見比べる。
「ユキ、彼女?」
「そ。悦ちゃん、いうねん。悦ちゃん、うちのヴォーカルのジン」
ええ加減な紹介やな。我ながら。
「はじめまして。今田 仁です。Call me ”ジン”.」
百九十センチ近い長身を軽く屈めて、ジンが自己紹介をした。
二人を見守っとる俺の前で、悦ちゃんの白い顔がひときわ白くなった。唇まで白い錯覚を覚えるほど。
そして、ヒューヒューと苦しそうな息をしだした。
咽喉元を押さえた悦ちゃんの体が傾ぐ。
慌てて、抱え込んで。
「ジン、近寄りすぎ。悦ちゃんの半径一メートルは、俺以外立ち入り禁止」
「なんだ? それ」
俺にも、わけ分からへんけどな。
本能みたいなモンが、『近づくな』って、ジンを威嚇しとるねん。
「悦ちゃんの周りには、男入れたないの。ジンかて例外ちゃうで」
「おまえなぁ」
呆れたような顔で笑いながら、ジンが一歩悦ちゃんから遠ざかった。
悦ちゃんが、肩を使うようにして全身で息をしている。
「ジン」
小声で呼んだ俺に、ナイショ話をする距離までジンが近づく。話しやすいように、彼女を抱えているのとは、逆のほうから。
「ごめん、ちょっと体調悪かったみたいやから」
「ん、大丈夫か?」
「多分……」
大丈夫かどうかは、分からへんけど。
「とりあえず、灰島 悦子、いうねん。また、仲良うしたって」
悦ちゃんの代わりに名乗った俺を、じっとアーモンドみたいな目で見たジンは
「OK」
と言って、微笑んだ。
「そろそろ、行くな」
腕時計で時間を確認したジンが言う。気ぃ遣わして、ごめんな。
「また、明日な」
「ん。じゃぁな」
いつものように別れの挨拶をしたところで、悦ちゃんが顔を上げた。
血の気、は戻ったかな。まだ、肩で息しとるけど。
「悦子さん。近いうちにユキも出るようになるから。良かったら、ライブ聞きに来てやって」
そう言い残したジンは、曲がり角で軽く振り向いてヒラヒラと手を振ると、大きな歩幅で歩いていった。
通行の邪魔にならんようにと、まだしんどそうな悦ちゃんを抱えたまま、俺はすぐ横のコンビニの駐輪スペースへと移動した。
どうにか息が整うのを待って、事情を訊いた。
「なんだか、怖くって」
「怖い? ジンが?」
コクン、と悦ちゃんがうなずく。
よーく見たら、大型犬みたいでかわいいのに。ハイジが連れとる山岳救助犬みたいやと、思うけどなぁ。
「大きい、って思ったら。体が動かなくなって……」
小さな声で搾り出すようにそう言うと、俯いてしまった。
そんな彼女の様子をしばらく眺めてて。
妙なしぐさをしとるのに気づいた。
左手でぎゅーっと握った右手首。力試しをするように、右手が自分の左手の拘束を逃れようと、もがくように動く。
何、しとるんや?
「悦ちゃん。手首どないした?」
「はい?」
俺の言葉に、はっとしたように自分の手を見て。慌てた様に、両手が離れて……。
そこで、悦ちゃんの表情も行動も。時間が止まったように凍り付いてしもた。
「悦ちゃん?」
大丈夫か?
さっきのジンみたいに、体を屈めた。
悦ちゃん?
覗き込んだ俺から、視線をそらした、やんな? 今。
「何か隠してるやろ?」
彼女が、黙って首を振る。
「『違う』と、違う」
言い募る俺に逆らうように、一段と激しく首を振る。
「アカン。話して。何、隠しとる?」
唇をかみ締めた悦ちゃんは、全身で『言いたくない』と叫んどる。
俺が、ムキになったらアカン。貝の口が閉じるようなもんや。
作戦変更、やな。
シルバーリングのはまった彼女の右手をとって、口調を変える。
「な、悦ちゃん。俺、これ以上の傷は増やさせへん、て言うたやん? 守るために、知っとかなアカンこともあるのと違うかな?」
懐柔策、やったら……。
頑なに口を閉ざす彼女を、じっと待つ。
と、緊張をぶち破る自転車のベルの音が響いた。
誰やねん。もう一息で、悦ちゃんの口が開きそうやったのに。
睨んだ俺に、気の弱そうな高校生くらいの男が情けない声で訴える。
「あのー、そこ、自転車止めてもいいですか?」
あー。そうや。ここ、駐輪スペースやったな。
「あ、ごめんな。すぐ退くわ」
気もそがれたし。また、仕切りなおし、や。
高校生に謝って、悦ちゃんの手を引くように交差点へと向かう。
「悦ちゃん。今日は、がんばって『嫌や』って言い続けたから俺も退くけど。そのうちに、ちゃんと話してな?」
『はい』も『いいえ』も返事の無い悦ちゃんの手を引くように、青になった信号を渡る。
すっきりせぇへん気持ちみたいに。
灰色の空から、ポツリ、ポツリと落ちてくるものがあった。