大きな震の災い
今回は、地震についての話題です。
苦手な方は、注意してください。
MASAと、”覚悟”の話をしてから、一ヶ月ほどが経った頃。
悦ちゃんが、俺に言うてくれた。『特別なことは無くっても、こうやって会えるだけでいい』って。俺の部屋でキャベツを刻んどった手を止めて、そう言うた彼女はいつものように目を細めて、幸せそうに笑ってた。
感極まった俺は、包丁を持ったままの悦ちゃんに抱きついて、『危ない』って怒られたけど。
俺、がんばるから。そう言うてくれる悦ちゃんに、釣り合えるように。少しでも、幸せにできるように。
空前の好景気に加えてバンドブームの波に乗った俺たちは、年単位の時間をかけて、じわじわと売れるようになった。
デビューから五年目を迎える頃には、フリーターとミュージシャンの境目よりは少しミュージシャンよりの身分になってきた。活動の拠点を東京に移さなかったことが功を奏して、生活に余裕もでてきた。
卒業してから帰省したのは、三年前の下の姉貴の結婚式のときの一度きりやったから、この正月に一度くらい、親元に顔を出してもよかったのやけど。五月の連休ごろには、その姉貴に初めての子供が産まれると聞いて、『帰るのは今度の夏、チビの顔を見るついででええわ』って帰らんかった。
『今年、なんで俺は帰らんかったんや』って悔やみながらニュース番組を見たのが、それから一ヶ月も経ってない三連休明け。火曜日の朝やった。
その日の未明、
俺の生まれ故郷が
壊 れ た
テレビの映像が映し出す被害の様子は、市の中心部から大阪にかけてと、震源になった淡路島の光景ばっかりやった。
俺の実家のある市の西部は被害が小さかったのか、それとも……どうでもええ住宅地やからと映らへんだけなのか。
崩れ落ちた街並みにいても立っても居れんで実家にかけた電話は不通で。電話線、切れたのやろか。いや、もしかしたら家自体が無くなったのやろか、と悪い想像ばかりが沸き起こる。
それでも被害のないこっちの街はいつもどおりの日常があるから。
バイトの時間になった俺は、後ろ髪を引かれながら部屋を出た。
バイトの休憩時間に、何度も電話した。兄貴のところも、姉貴のところも、実家にも。
辛うじて繋がったのが、結婚して大阪に住んどる兄貴の所だけやった。
兄貴は、仕事に行ってしもて留守やった。自分のところの片付けの合間に、義姉さんも何度か電話をかけてくれたらしいけど、繋がらへんって言われた。
バイト先と事務所に頼んで、しばらくの休みを貰った。
明日、はさすがに急すぎて無理やったけど。分秒を惜しんで仕事をするような人気でないことを、これほど”ありがたい”と思ったことはなかった。
『いざ、というときのために、片道分でもいいから実家に戻れるだけの貯えだけは常に残しておきなさい』
そんなことを言うとったのは、大学時代のゼミの助教授やった。その日の夕方、銀行へと走った俺は、実家まで往復するだけの余裕が残高に有るのを見て、先生のその言葉が骨身に沁みた。
正月に帰省せんかったから。その分だけ、ささやかな救援物資も買って帰れる。
ATMから吐き出された紙幣を握り締めて、部屋へと戻った。
もう一度だけ、のつもりでかけた電話が奇跡のように繋がったのは翌日の昼間。一仕事を終えてからのことやった。
〔ユキか。心配せんでも、家もお母ちゃんも大丈夫や〕
〔俺だけが心配しとるんと違うで? 兄ちゃんかって……〕
〔こっちからもかけようとしとってんで? そやけど全然繋がらへんから〕
『オミの所には、ユキからかけといて』って、オヤジから言われて姉貴たちはどうするんや、って聞きかえしたら、
〔朱美は、自分で来とる。今、お母ちゃんと二階の片付けをしとるで?〕
〔自分でって、歩いてかいな? チビどもは?〕
〔あっちのお義母さんに見てもらっとう、って〕
上の姉貴は、そうやって自分の目で確認した両親の無事を、昼から下の姉貴のところにも伝えに行ってくるらしい。さすがは、元ワンゲル部だけあるやん。
〔好美姉ちゃんは? 大丈夫なん?〕
〔大丈夫みたいやで? 昨日のうちに朱美が見て来とるし〕
『なんとか電気は復旧したから、テレビも見れとる』って言いながら、オヤジが笑う。
あ、そうか。停電しとったから。電話繋がらへんかったんや。
『別に帰って来んでもええ』って、オヤジは言うてたけど。
それでも、気になるやん。
俺は翌朝の始発電車に、思いつく限りの救援物資を担いで乗った。
悦ちゃんには、前の晩に『心配要らんから、戻ったら電話する』て連絡を入れて。
電車で行けるところまで、近づいて。後はひたすら歩いた。
歩いとるうちに、倒壊した建物を見ても何も思わんようになってきて。ひたすら機械的に足を動かした。
市内を三分割しとる公立高校の校区のうち、俺の出身校が含まれる一番西端の校区に入った辺りで、何気なく眺めた電柱。そこに貼り付けられた町名に見覚えがあった。
確か……年末。年賀状に書いた住所やんな?
卒業以来、律儀に毎年年賀状のやり取りが続いとった高校の仲間の一人。アイツの住所が確かこの町名やった。
そのことに気づいて足が止まる。
詳しい所番地までは、記憶に無いし。もっと言えば、あまりなじみの無い町やから、どこが一丁目でどこが三丁目やら、皆目見当がつかへんかった。
ただ……呆然と辺りを見渡す。
櫛の歯が抜けるように家が倒れとるこっちの方やろか。
所々に残っとる家、のどれかがアイツの家やったらええのやけど。
焼け跡が広がる、あっちの方やったりせぇへんやんな?
足元に落ちとる汚れた枕に気づいた。
俺の立つ横、今にも倒れそうになっとる文化住宅の壁が割れて、部屋の中が見えとる。あそこから、落ちて来たんや、って思って。
それまで俺自身を守るかのように、スイッチの切れとった”心”が、一気に戻ってきてしもた。
目の前で崩れた壁の向こうに。
地面に力なく横たわっとる屋根の下に。
そして、焼け跡のそこここに。
ほんの三日前まで、普通の暮らしがあったんやって……気づいてしもた。
『ユキ。お前、”あの瞬間”、どこに居ったん?』
アイツの声が聞こえた気がした。
その声から逃げるように、西に向かって足を動かす。
実家の最寄り駅についた時には、”声”と、疲れで、涙が出てきてしもた。
半べそをかきながら、実家へと向かった。
玄関をいつものように開けようとして、戸がスムーズに開かへんことに、またショックを受ける。
『家は大丈夫』とは違うやん。オヤジの嘘つき。
「誰や?」
引き戸をガタガタ言わせとる音に気づいたオヤジが、玄関に出てきた。
「ホンマに帰って来たんか。帰ってこんでもええ、って言うたやろが」
顔を覗かせる程度に開いた戸から目が合った俺にそう言いながら、オヤジが三和土に降りてきた。
「戸、歪んだんと違うん?」
「いや、去年か、ら。ここでっ、引っ掛かるから」
開けるのにコツが要ると解説しながら、戸が開かれる。
「なんや、泣いとるんかいな」
玄関入って、一言目に言わんとって。我慢しとったのに。零れてきてしもたやん。
オヤジのでっかい手が頭に乗った。
「お帰り。ようがんばったな」
実家の辺りは電気は復旧したものの、水道とガスがまだやった。ガスは安全確認に時間がかかるらしいし、水道はいわゆる激震地区を水道管が通ってきとるかららしい。
それから実家に居る数日間、俺は年取った両親の代わりに給水車まで水を貰いに行くのが、日に数回の日課になった。
通り抜けてきた町と比べて、俺の実家の辺りは瓦の落ちた家が数軒ある程度で、同じ市内やとは信じられへん位やったけど。
それでも両親は微小な余震にも敏感に反応した。ちょっと大き目の揺れになると、オフクロの顔が強ばるし、オヤジはそんなオフクロを守ろうと手を伸ばす。
これが、震度七を経験した人の反応なんや。
『あ、揺れとる』って座ったままの自分が、あまりにもお気楽すぎて……嫌になる。
そして両親だけやなしに、給水車で並んどる近所の人にも変化があった。
「あら、ユキちゃん。帰ってきとったん?」
「あー。こんにちは」
「そうなんよ。帰ってこんでも、ええ、って言うとるのに。三日目に」
俺が持っとるのより一回り小さいバケツを持ったオフクロが、幼馴染の母親と世間話を始める。
「うちのアホは、電話だけやで。それも四日目」
「電話してくるだけええやない。うちの兄ちゃん、電話もしてこんかったわ」
「朱美ちゃんたちは? どないしとるん?」
「朱美は、二日目に顔出しにきたわ。好美はほら、アレやから」
オフクロがそう言いながら、妊婦のお腹を表すように手を動かす。
「あ、ホンマや。大丈夫やったん? 検診とかどないするん?」
「地震の前の週に検診行ったところやから、次の検診まで間があるねんけど。それまでに病院とか戻るんかなぁ」
「いくらなんでも、大丈夫なんと違う? 当日かって、お産あったやろ?」
際限なく続くおばちゃんの立ち話の中に、『昨日』『明日』そして『何月何日』といった日付や曜日を表す言葉が出てくることは、無かった。
この二人だけやない。隣のおっちゃんも、オヤジも。風呂を貰いに行った時に話をした下の姉貴夫婦も。
皆が口を揃えたように言う。『あの日から、何日目』と。
ポッカリと開いた時空の隙間に、この街が落ち込んで。
時間の流れがおかしくなっとるような気分がする。
実家の水道が出るようになった、週明け。俺は、アパートへそろそろ戻ることにした。
これ以上出来ることもないのに親元でただ飯を食うとるわけにはいかんし、そろそろバイト先からもらっとる休みも切れる。
断片的に運行を始めた電車と、その合間を埋める代替バスを乗り継いで大阪を目指した。
途中、乗り換えのために壊れた街中を歩く。倒壊した建物の横で渋滞に巻き込まれたバスが停まる。
瓦礫を片付ける人々の姿を目にする度に、”音にならない声”が聞こえた。先週とは違って、麻痺していない俺の心に刺さる声が。
『ユキ。お前、”あの瞬間”、どこおったん?』
高校時代を一緒に過ごしたアイツの声がする。それに重なるように、無数の声が聞こえる。
『何しに帰ってきたんや』『お前、居らんかったやろ? あの朝』って。
あの揺れに命を落とした、数千人の。
彼らに繋がる数百万人の。
声が、俺を責める。
ごめんなさい。
一人、何も知らんとあの日の朝を迎えて。
ごめんなさい。
この街の痛みも、恐怖も。俺は共有できなくって。
ごめんなさい。ごめんなさい。ごめんなさい。
『お前、この街の子と違うと思っとったのやろ? どこでも行ったらええねん』
『あの瞬間、居らんかったようなやつ、うちの子と違うわ』
必死で謝る俺に、声が追い討ちをかけてくる。
あぁ。そうか。
神戸の街を
大事に思ってこなかったから。
伝わってしもたんや。
謝ったかて、
彼女みたいには、許して貰えへんのや。
ごめんなさい。
ここは、俺の居場所やないなんて思ってて。
俺は、”神戸の子”やったのに。
自分で、それを捨ててしもた。




