成人式
大学の前の銀杏もすっかり葉を落として、冬が近づいてくる。
俺たちは、今年のスキーも欠席することに決めた。俺は、まぁ、織音籠の活動を優先して、ってことやねんけど。
学園祭の打ち上げには、悦ちゃん一人でも参加しとったから、俺はてっきり悦ちゃんはスキーに行くもんやと思ってた。
その予想に反して、幹事の亜紀ちゃんに『行かない』と、あっさりと言うた悦ちゃん。
確か、夏の合宿も俺と同じで行ってへんやんな?
飲み会、はなんとかなっても、やっぱり泊りがけで酒が入るのは、怖いのやろか。
最初に”潰されそう”になったん、夏合宿やし。
「俺が行く、言うたら参加にする?」
立ち去る亜紀ちゃんを見送っとる悦ちゃんに尋ねてみた。
「上の弟が受験生だから、あまり”滑る”のはって……」
ああ、なるほど。
「やっぱり、お姉ちゃんやな」
「そう?」
「うん。そこで我慢してまうところが。うちの姉貴なんか、遠慮なく俺の受験の年にスケートしまくってたで」
ネタ的に話した俺に、悦ちゃんは目を細めて笑う。
そして、
「それでも、ユキちゃんは、ちゃんと合格したのだから」
って。
そうやな。ここに来れたし、皆と会えたのやから。ええやんな。
『かわいいユキの身代わりに、私が滑ってきたるのやから、ありがたいと思い』
そんなことをえらそうに言うた下の姉貴に、『なんやねん、それ』って、噛み付いた覚えがあるけど。
そうか、好美姉ちゃんのおかげ、かもしれへんな。
ここに、俺が居るのは。
『かわいい弟の身代わりにスケート行かへん?』って、誘ったら。ちょっとの間、考えた悦ちゃんがにこっと笑った。
そして。
「ユキちゃん。スケート、行こう」
やって。
いつもの『はい』とは違う返事に心が浮き立つ。
家族には、『嫌や、スキー行く』って言えへんかったのかもしれへんけど。『スケートに行きたい』のやんな? 悦ちゃんの意志、やと思うで?
せっかくの悦ちゃんの意思や。
弟が志望校に合格できるように、思いっきり滑ってこよな?
その約束どおり、冬休みには鵜宮市に去年新しくできたらしいスケートリンクへ行った。
「悦ちゃん、したことあるん?」
テニスに比べたら、めっちゃ上手やん。
「少しだけ、ね?」
どうやら市内の小学生を対象にした二日間のスケート教室、なんてものに参加したことがあるらしい。
「上の弟が行きたい、って言うから。私も付き添いで……」
「やっぱり、お姉ちゃんや」
「でも、本当にちょっとだけ、だけど」
そう言いながら、ほとんど初心者の俺に、立ち方とか体重のかけ方とかを説明してくれる。
「ユキちゃん、お尻が痛いとは思うけど。転ぶときはあまり手を突かないほうがいいみたい」
『怪我、しちゃうから』て言うて、俺の腕を心配してくれる悦ちゃんが、もう愛おしくって。
抱きしめたい、って、思って伸ばした手を、すり抜けるようにスイっと滑って行く悦ちゃん。それを追いかけるように俺も一歩、また一歩と滑る。
「さすが。ユキちゃん、上手」
「当たり前やん。教えてくれる先生が上手やもん」
俺の言葉に目を細めるように笑った悦ちゃんの頬が、リンクの寒さのせいか上気している。
その頬に手を伸ばすと、今度は逃げんと猫の子みたいに擦り寄ってきた。
「腹減ったな。飯、行かへん?」
「うん。何、食べようか?」
『温かいものが良いかなぁ』なんて言いながら、再び俺の手からすり抜けて行く。
待ってぇな。
今度捕まえたら、離さへんからな。
冬休みにはスケートのほかに、去年同様、サークルの忘年会もあった。一年生相手に、営業もして。
その翌日から、俺は実家へと戻った。
今年、俺らは成人式やった。
住民票は楠姫城に移しとるけど。お盆に帰省した時『せっかくやから』と友人に誘われて、地元で成人式に参加することにした。ちょっとした手続きは要ったけど、それは、オフクロに代わりにやってもろた。
正月の帰省から実家に居座って。前の晩も、同窓会という名の飲み会やった。そのまま『翌日の式典の後も』って、飲みに誘われたけど。
「式、午前中やん。昼から飲む気なん?」
半ば呆れて言うた俺に、程よく酔いが回った様子の同級生が言う。
「今日は、中学の同窓会やろ? 明日は、小学校の……」
「アホか。メンバー変わらへんやん」
「いや、明日やったら来れるって奴も居るねんし」
「俺は、帰るで。昼から、彼女の成人式が向こうであるから、終わったら振袖の彼女とデートするねん」
ズルイやなんやと騒ぐ周りの声をスルーして、刺身に手を伸ばす。
明石の魚、やったりするんかなぁ。刺身は、こっちのほうが旨いなぁ。
悦ちゃんにもいつか、そのうち。
食べさせたりたいなぁ。
翌日、駅のロッカーに荷物を預けてから、成人式の会場へと向かった。数年前から成人式が行われるようになったホールへと正装の人の波に流されるように駅から歩く。
こんなに、同い年のヤツが居るのに。
一番、そばに居りたい”同い年”の彼女は、遠い街で。今頃、振袖を着せてもらっとるんやろか。
『さすがに大振袖は、自分では着れないから。朝から美容院で着付けてもらうの』スケートのあと、昼飯のラーメンを待ちながら、そう言って目を細めていた悦ちゃん。
この式典、終わったら。寄り道なんかせんと、まっすぐ新幹線の駅に。
海の上の人工島から、山の麓の新幹線の駅を思う。
誰やねん。海からターミナルへの路線と、ターミナルから山への路線を別組織にしたやつ。どっちも市営交通やねんから、一緒にしたらええのに。
乗り換えのたびに切符を買い換えなアカンから、要らん時間がかかるやん。一本でも早い新幹線に乗って、悦ちゃんのもとへと帰りたいのに。
そんな文句を一人、心に呟きながら、俺は市長の祝辞を聞いた。
スーツのまま、新幹線に乗って。
駅弁で昼飯を済ませて。
時速二百五十キロの新幹線よりも早く、心だけは悦ちゃんのもとへと飛んで行く。
在来線に乗り換えて、鵜宮市のホールへと向かう。
ここでも、最寄り駅でロッカーに荷物を預けて。
地元の市営交通のアホぉ。やっぱり約束の時間、ぎりぎりになってしもたやん。
悦ちゃん、待たせたくないのに。
式が終わったところらしく、ここでも俺の地元同様、駅へと向かう正装の人がメダカの群れのように流れている。今度はそれを遡るようにホールを目指す。
ホールの正面玄関のガラス越しに、振袖姿の悦ちゃんが目に入った。その正面に、彼女を覗きこんどる男が一人。
ナンパ、やろか?
足を速めた俺をあざ笑うかのように、男が悦ちゃんの両手を掴んだ。
悦ちゃんの俯いた横顔が、一段と白くなる。あの顔は……しばらく見んかった、具合の悪くなるときの顔色や。
腹の底を黒い怒りが炙るのを感じた。
ドアをくぐって、数段の段差を一息に悦ちゃんの背後まで詰めよる。
「ワレェ、何しとんどいや」
ほんの数時間前まで居った、生まれ故郷でのケンカ台詞が口をつく。
それと同時に、悦ちゃんを左腕で抱え込んだ。
「嫌ぁ!」
両手を正面の男に、体を俺に捕まえられた不自由な状態で、悦ちゃんが身を捩る。忘年会のあの夜以来になる悦ちゃんの『嫌』に、絆創膏の香りが漂う。
その幻覚に、一瞬たじろいでしもて、腕から力が抜けそうになる。
そんな俺の目を覚ますように、悦ちゃんの叫び声がした。
「ユキちゃん! ユキちゃん! ユキちゃん!」
大人しい彼女が今までに見せたことのないような、半狂乱の声。
こんなにも悦ちゃんが、俺を呼んでくれとる。俺を求めてくれとる。
その”喜び”としか言いようのない感情に、こんな時やのに唇が笑む。
息を切らせた悦ちゃんの、叫び声が途切れる。
「悦ちゃん、俺や。大丈夫。落ち着き、な?」
錯乱しとる悦ちゃんをなだめるように、そっと声をかけた。
脅かさんように、けれどもちゃんと彼女の耳に届く声の大きさで。さっきのケンカ台詞とは声のトーンを変えて、『大丈夫、大丈夫』と何度も繰り返す。
少し息が整った頃、悦ちゃんが確かめるように俺を呼ぶ。
「ユキちゃん……?」
「うん。俺やで?」
俺の返事に、悦ちゃんの腰が砕けた。カクッと力の抜けたような彼女の体を支えるために、左手を腋の下へと回して、彼女の体重を自分にもたれかけさせる。
姿勢が崩れた悦ちゃんの、不自然に持ち上がった両手に、新たな怒りが湧く。
「この手、どないして欲しい? 離さんかったら、折ってまうで?」
彼女の手をつかんだままの男の手を掴んで、軽く凄んでみせる。
武道の心得なんかない俺は、『やってみ?』って言われたら、折れるわけないのやけど。
それでも。もしも、”怒り”がヒトの骨を折るのなら。
この時の俺は、相手の腕といわず、全身の骨を砕いとったやろう。
そんな俺の心情が伝わったのか、それとも、『ドラマでしか見たことない』と言われた方言交じりの恫喝が効いたのか。慌てたように悦ちゃんから男の手が離れた。
「俺の女に手ぇ出すなや。このダボが」
「知らなかった、から……」
ボソボソと言い訳がましく言いながら、自分の手首を摩っている男の背後に、見たことのある顔が居った。
その存在に気付いて初めて、俺は自分の視野が、怒りで狭まってたことを知った。
これは……悦ちゃんに対するイジメの一環か。俺が中学校の同級生と顔を会わせたんと同じように、悦ちゃんもここで……。
俺の左斜め向こう。二メートルも離れてないあたりで、数人の男を侍らせた洋子さんが引きつった顔で俺を見とった。
彼女の目を見たまま、見せ付けるように悦ちゃんのこめかみにキスを落とす。
「知らんかったわけ、ないやろが。なぁ? 洋子さん?」
「……」
「それとも、あの遣り手婆ぁから、頼まれたんか」
「遣り手婆ぁ、って……」
「女、世話してまわっとるヤツのことや。知らん、言わせへんで」
登美さんに頼まれたんか、って言うねん。
心当たりがあるのか、洋子さんの目が泳いだ。助けを求めるように、周りの取り巻き連中の顔を見渡しては、目を反らされとる。その様子を眺めながら、悦ちゃんを支えるのに使ってへん右手を、彼女の帯のあたりで軽く弾ませる。
心拍のリズム。一分間に七十拍で。
『覚えとけ』なんて捨て台詞はさすがに吐かんと、悦ちゃんの手を掴んどった男が周りを促すようにして立ち去った。
その背中が、見えんようになるまで睨み付けといてから、悦ちゃんの正面へと回りこむ。
今日はじめて顔を合わせた悦ちゃんは、俺と目が合うなり大粒の涙をこぼした。
「ユキちゃん、ユキちゃん」
「うん、ここに居るから。悦ちゃんと居るの、俺やから」
涙の流れる白い頬に顔を擦り寄せる。俺の耳元で、ほーっと彼女が大きく息をついたのが感じられた。
「遅くなってしもて……ホンマにごめんな」
交通網が悪い。いや、成人式に出た俺がそもそも悪いんか。正月済んだらこっちに戻ってきとけばよかった。
そう言った俺に、腕の中で悦ちゃんが頭を振る。
「怖かったんやろ? 我慢、せんとき」
俺より背が低かったとはいえ、男に両手を掴まれてんから。ジンが挨拶した時とは、比べられへんほど怖かったのと違うか? 追い討ちみたいに俺が背後、取ったのも悪かったし。
ごめんな。俺、怖がらせるようなことばっかりしとるな。
せめて少しでも、彼女を労わりとうて。額、こめかみ、まぶたと順に軽く啄ばむ。
いつやったかの、悦ちゃんの言葉を思い出して真似をする。
「魔よけ、っちゅうか……厄落としのおまじない、な」
新しい涙がもう一粒。俺のスーツの胸元に小さな染みを作ったのが見えた。
市民ホールのスタッフらしい女性に、『いちゃついとらんと、はよ帰れ』みたいなことを言われたりしながら、ホールを後にする。
そのまま、晩飯を食いに行ったのがこの日のデートやった。
食事を終えて駅に着いたのは、いつもやったら一人で帰らせるような時間やけど。
今日のあの男を含めた洋子さんを取り巻いとった連中が、中学の同級生やったと聞いた俺は、メチャメチャ不安になってしもうて家まで送って行くことにした。
最後に『二度とちょっかい、かけんな』と、アイツらに釘は刺したけど。中学が一緒やったってことは、家、近所やろ? 帰り道に、また逢うたら何されるやろ、って。
その道々、悦ちゃんが『遣り手婆』云々の意味を尋ねてきた。
具体例を口に出すのは憚られたから、要点だけかいつまんで説明した、のやけど。悦ちゃんは、足元を見るようにして、顔を上げてくれへん。
怒った、かなぁ。他の女にちょっかい、かけられとるって。
怒ってくれるかなぁ。『嫌や。他の女、見んとって』って。
不安に揺れた俺の手を握った悦ちゃんの手に、ぎゅっと力が篭った。『ユキちゃん!』と叫んだ、さっきの悦ちゃんの声が耳に蘇る。
この手の力は。離れたない、って意味でええのやんな?
「悦ちゃんから、俺を奪えると思っとるなんてな。”身の程知らず”も、ええところや」
「はい?」
やっと顔を上げた悦ちゃんが、首をかしげる。
「俺が他の女に乗り換えるわけ無いやん。こんなに悦ちゃんのこと、好きやのに」
冗談紛れにそう言うて同意を求めた俺に、困ったような表情をして。『はい』とは言うてくれへんかった悦ちゃんやけど。
悦ちゃんの頬が真っ赤になったのが、外灯の明かりでもはっきりと見えた。
思わぬハプニングもあった俺たちの成人式。
俺たちが生まれたときの元号で行われた成人式は、この年が最後やった。




