第七話 後悔、失った時間の果てに
《現代》 東応大学付属病院 病室
三ヶ月前、事故が起きて数日が経った頃だ。里見昴は意識を取り戻し、状態も落ち着いていたが、以前と違う身体に憂鬱から抜け出せずにいた。
まず、視力が極端に落ちた。事故前の昴の視力は裸眼で両目1.2ほどあったが、今では両目0.01にも満たない。失明でなく眼鏡で矯正の効く範囲で済んだことは不幸中の幸いだが、彼にはもう一つ、致命的な怪我を負ってしまった。
靭帯断裂。それはインターハイ優勝の期待を背負って来た昴に、夢を諦めさせるには十分な理由だった。
「剣道部も当面は休部だな。まずは、日常生活に差し障りがなくなるまで、がんばるしかない。辛いかもしれんが……」
「大丈夫だよ、お爺さん。大した事じゃない……剣道ができなくたって文句はないさ。二度とできなくても、ね」
「昴、後ろ向きなことを口にするでない」
「いいんだよ。生きてるだけ俺は恵まれてる。話すのも問題ない、そのうち動けるようにもなる……そう、奇跡なんだよ、みんな」
ベッドの傍らで学術書を捲る祖父の手がぴたりと止まった。孫の薄幸の横顔に祖父の目頭が熱くなる。長き年月を生きた老人の経験を以ってしても、彼にかける言葉が見つからなかった。
誰だ。彼らをこんな辛い目に遭わせたのは。
彼らをはねた運転手を責めたいわけではない。もっと深層の、生まれた時から定められていたこの運命と、それを悟れなかった自分の不甲斐なさが憎いのだ。
「お爺さん……俺、言ってなかったことがある」
「……何だ?」
日が沈み、病室がオレンジ色に染まる。その情景の中で、もはや昴の目には自分の顔でさえもぼやけた色彩の一部と化しているだろう。
だが、老人の目には孫の顔に滲む悲しみの影がはっきりと映る。
「俺、登録してたんだ……例のドナーに」
「……」
「ぞっとする……もし頭の打ち所が悪かったら、今頃、魂の素粒子の臨床実験だったんじゃないかって……」
平然を保とうとしているが、昴の声は震えていた。
黙っていれば、誰もわからない。今まで通りの日常が続いていれば、彼にはその契約の重みを知ることもなかった。まったく関わりもなく、彼の人生は続いたのかもしれない。
しかし親友の変わり果てた姿に、懺悔をせざるを得なかった。
「馬鹿め……早まりおって! 死ななかったから良かったものを……!」
「ごめん……でも正直、話が来た時は嬉しかったよ……アスリートとして選ばれたような気がして。それに、何もできない身体になっても、科学に貢献できるんだから」
「あれはそんな輝かしいものではない、理論的には二度死ぬことになるのだ。例えダイブが成功したとしても、肉体はもはやない。いずれ、魂の素粒子はその形を維持できなくなる……どちらにしても、最期は失敗に辿り着くのだ」
里見は意を決して、咎めの言葉を突きつけたが、昴は影のある笑い声を上げた。
そして、
「虎次郎もさ……ドナー登録したんだって。しかも、植物状態まで含めて」
「何じゃと……!? 昴、なぜ止めてやらんかったのだ……!」
この場で心臓麻痺を起こしかねない衝撃だった。身を乗り出して孫の肩を掴むと、生気のない昴の瞳が、ゆっくりと彼の元へ向けられた。
その目には、涙が滲んでいた――
「あいつ……俺を護ったんだ」
「何……?」
「あいつが俺を護ったから……俺はここにいるんだ……!」
頬に涙が伝う。堰を切ったように抑えていた感情が溢れ出す。彼がどんな想いでこの告発をしたのか定かではない。だが悲しいことに、この後、昴は事故の記憶を誰にも話そうとはしなかった。未だに彼の言葉が何を意味していたのか知る者はいない。
そして、昴はこの日からまったく笑わなくなった――