第伍話 契約、忌まわしき因縁
《隠された時代》 朱雀の宮
朱雀の宮は由比ヶ浜に面して造られた小さな社である。そのすぐ傍には鶴岡八幡宮の宮司である南野永常の別邸があり、虎次郎の身柄はそこへ運ばれることとなった。
夕刻を過ぎ、庭には篝火が焚かれ何やら人気が多い。多くの女中達が大量の料理や酒やらを慌しく抱えて行きかい、遠くから笛の音が風に乗って虎次郎の耳に届く。
何やら祭りの気配だ。先ほど、あんな化け物が現れて人が死んでいるというのに、それがなかったかのように人々は仕事に夢中だ。
虎次郎は庭に面した書斎に一人、丸められた布団を背もたれにして人々が動き回る様子を徐に眺めていた。
『ダイバースーツのシステムには何の異常もない。バリアブルバブルの再現率は完璧よ。完璧ゆえに……あなたの今の脳を再現してしまったの。言語機能だけは私達のフォローによって維持できているから、身体機能も、もう少し時間をもらえれば少しだけマシにすることもできるわ』
「気を使わなくていいよ。つまり今の身体機能が現代で俺が目覚めた場合、待ってる現実なんだろう?」
『……そうよ。残念だけど』
現代の雪江から聞かされた悲しい現実に彼は抗う様子もなく、ただ「やっぱり」と自らの運命を諦観せざるを得なかった。
雪江の声は現代にある虎次郎の脳に埋め込まれたダイバーインプラントを介し、バリアブルバブルの循環に乗って彼に届く。バリアブルバブルに音声情報を持たせ、特定の魂へと飛ばすという技術が、このオーバースピリットダイブのために開発されており、虎次郎の魂はこのような循環機能があるために現代と繋がったままでいられるのだ。
だが、それ故に彼の体は不完全なものとなった。虎次郎の脳は身体機能をほとんど失ってしまったらしい。それどころか、本当の肉体であったら話すこともままならないだろう。
いつの間にか虎次郎は、餓鬼よりも待っている現実の方が恐ろしく感じていた。
「なぁ、雪江さん。俺はここでどうすんの? つーか、ここ一体何時代? 鶴岡八幡宮って言ってたから鎌倉時代か?」
『教科書で言う鎌倉後期に当たるわ。だけどね、君の思っているような時代じゃないの』
「そりゃそうだろ! あの餓鬼とかいう化け物がいるし……何なんだよ、あいつら」
『あれはおそらく、人の魂が実体化したものよ。君のいるその時代は、四次元座標の中で最もバリアブルバブルの濃度が濃い周期に当たる。それ故にダイバースーツと同じ原理で人の魂が質量のある肉体を持ってしまっているみたい』
「ダイバースーツと同じ……!?」
『ええ。君と私達がいるこの空間を四次元座標で表した時、バリアブルバブルはその時代に集中しているの。原因はわからない……だけど、あの素粒子を引きつけるだけの強い生命エネルギーが存在すると私達は仮定してる』
「強い生命エネルギー……まさか!」
思い当たるのは一つだ。つい先ほど再会を果たしたあの夜叉丸と言う面を掛けた人物の姿が、虎次郎の脳裏を過ぎる。
妃子は夜叉丸を神と呼んでいた。餓鬼が存在するこの信じられない世界で、その言葉が嘘だと思うことのほうが難しかった。
全てを素直に信じるとすれば、夜叉丸は神であり、バリアブルバブルが時空を超えて集まってしまうほどの力を秘めているのは間違いないだろう。だからこそ、自分のダイバースーツも迷うことなくこの時代に降り立った。
「……雪江さん。あの夜叉丸ってのは一体……」
『付喪神ね。要するに人の魂が物に取り付いた神様。唐傘お化けとか塗壁みたいに、民俗学で数多くの伝承に残ってる妖怪みたいなもんよ。鎌倉時代の土蜘蛛草子に始まり、その呼び名は室町時代に定着したの』
「妖怪……そっちの方が似合ってら」
『はっきり言って、伝承に残っている鬼や神が実在していた時代なのよ、そこは。それもバリアブルバブルの濃度の濃さが影響している故に人の魂が実体化しやすいため、あなたの身体とまったく同じ理屈で彼らは存在しているわ』
「妖怪と身体が同じって……まるで御伽話じゃねぇか。笑えねぇ冗談だっての!」
『あら、冗談では済まないわ。数時間のダイブでも十分理解できたはずよ。その時代には何百年も先の未来でやっと発見できた未知の素粒子の力を解明する手がかりが眠っている。時代に抹消されていた日本史の隠された時代の姿を観察し、現代に伝えるのがあなたの使命……あなたがまだ生きている理由よ』
「生きる理由……ね。まともに動けないってのによく言ってくれるぜ」
どんな角度でこの言葉を理解しようとしても渇いた笑いしか出てこない。この身体で目覚めた瞬間から息もつけない出来事に翻弄され、ようやく彼は物事を整理する時間を与えられた。だが改めて、自分に背負わされた重荷に気づく。
彼女は遠まわしに、あの餓鬼や神と呼ばれた夜叉丸にもっと接触しろと言っている。
その指示に待っているのは餓鬼の恐怖か、夜叉丸に魂を食われる恐怖か、二つに一つ。どちらにせよ、避けて通れないことは言わなくてもわかる。
『ダイバースーツの件はこちらで何とかする。ただその前に、あなたと話したがってる人がいるの。さっきからあなたを見守ってくれている大事な人よ』
「まさか……いや、いい! やめてくれ。俺は話したくない!」
『虎次郎!』
「雪江さん、姉ちゃんを追い出してくれ! 頼むから……!」
彼方から姉の声が反響した。雪江との会話、それ以前の誰かとの会話、独り言、すべて姉に聞かれていたかと思うとひやりとする。それと同時に、何の相談もなく、このような姿になる道を選んでしまった自分に、姉に合わせる顔などなかった。
『虎次郎……! 待って、お願い、話を――』
「俺に構うな! 早く、雪江さん! 姉ちゃんを俺から引き離して!」
不意に感情が高ぶったせいか、現代との通信が遠退き、ダイバーインプラントからの波動を感じなくなってしまった。
これもバリアブルバブルが通信を「切りたい」と強く望んだ虎次郎の意思を実現させたためなのだろうか。意識を支配していた聴覚は再び、瞳に映る世界の音を拾い集めた。
その中に、祭りの賑わいに紛れて、こちらに向かってくる一つの足音があった。虎次郎が音の方向へ首を傾けると、廊下の奥から妃子の姿が見えた。
「どうされましたか? 何やら声が聞こえたものですから」
「……いや、別に」
「そうですか。もうじき結崎の太夫が舞います故、お知らせに参りました」
「結崎の太夫?」
「あなたを助けたあの芸人のことです。大和の猿楽の一座だそうで、腕試しのためにわざわざ鎌倉に足を運んだとのことです。このような繊細な面をつけて舞うらしいですよ」
妃子は澄まして袖から一面の面を取り出し、自分の顔をそれで隠してみせた。
「能面じゃねぇか、それ」
「能面? これは『能』面と言うものなのですか?」
「あ……」
教科書で誰でも見たことのある小面に彼ははっとした。そうだ、まだなのだ。あまり日本史の得意ではない虎次郎の記憶に残る能の大成者「世阿弥」、その登場は確か、室町時代で足利義満が将軍だったはず。ここは鎌倉後期と雪江が言っていたが――
「ち、ちなみに……今の幕府の将軍って誰? あ、将軍じゃない、執権か」
「執権は北条守時公にございます」
「北条守時……え、えっと、げ、元寇は、蒙古襲来はいつごろに?」
「『元寇』? 蒙古の襲来ならば59年ほど前に起こりましてございます」
その反応に、「元寇」と言う呼称が江戸時代に定着したものであると、すっぽ抜けていた日本史の先生の言葉を思い出す。
「59年前……あ、そ、そっか……元、じゃない、蒙古の襲撃を退いたんだよな? 幕府は」
「少し違います。あれは夜叉丸が起こした神風によって、蒙古の船が嵐に飲まれたためにございます」
「あのお面野郎が嵐を!?」
「はい」
妃子はそう返事をすると立ち上がり、書斎の奥から絵巻を一つ取り出した。紐を解いてそれを虎次郎の前に転がすと、彼の目は一瞬にして絵巻に描かれた世界に釘付けにされた。
「これは……?」
「蒙古襲来の記録にございます。鎮西が攻め込まれた時のものでありましょう」
教科書で見たような、戦の絵。それも嵐の海で元の船が沈む様に、浜で武士が勇猛果敢に戦う姿が雄々しく描かれたもの。だが明らかに違うのは、絵巻の中心にあの能面を掛けた神の姿があったことだ。
「これが夜叉丸です。元々夜叉丸は幕府誕生のきっかけとなりました、治承・寿永の乱により命を落とした者達の魂の集まりなのでございます」
「治承・寿永……え、えっと……」
『頼朝が平家を倒した戦いのことよ』
「! あ、ああ、そっか……」
突然蘇った現代の声に、かつてない監視の目を感じた。研究者達はこの会話に多大な関心を抱いていることだろう。それは他でもない、神と餓鬼という存在の解明へと踏み込んだ者達にとって、大切な情報を収集する好機なのだ。
虎次郎の反応を見届けて、妃子は再び口を開く。
「あの戦にて、数多の人々の命が犠牲になりました。幕府誕生後も、反旗を翻すものを少なくなかった……夜叉丸はそう言った人間の魂が、あの面に宿った神なのでございます。故に北条一門を始め、幕府へただならぬ憎しみを抱いているのです」
「憎しみ? でも、あいつは嵐を起こして幕府を助けたんじゃ……」
「話はその後からでございます。蒙古の襲来まで、夜叉丸のような神は地方の伝承でしかありませんでした。ところが突如、神は我々の前に現れ、力を貸す代わりに自分の願いを一つ聞いて欲しいと幕府に条件を突きつけてきたのです。ですが、これも窮地に陥った侍達には救いの手にしか見えませんでした。当時の執権時宗公はこれを容認、そして夜叉丸は約束通り嵐を起こして蒙古を海の藻屑としたのです」
「そして問題が起こった……」
「はい。お力添えの御礼をする番になり、夜叉丸は時宗公へその『願い』とやらを伝えたのです。その内容は、幕府の権威を揺るがすものになりました……」
無意識か、妃子の両手は袴の裾をぎゅっと握り締めていた。
「……その願いって?」
「……執権一代ごとに、得宗家で最も強い魂をよこせ、と」
「……それって、生贄ってこと……?」
「左様でございます」
あの神が自分に言い放ったことは本当だった。夜叉丸は魂を喰らい、己の糧とするために餓鬼を蹴散らしその恩を人間に売っている。
そして虎次郎の胸に一つの懸念が生まれた。それはつまり、あの神が自分の魂を喰らうがために、この時代へ呼び寄せたのではないかという戦慄。五体不満足の今、自分は罠にかかった獲物に過ぎない――
「その生贄のことを私達は〈御魂入り〉とお呼びしております。人々は夜叉丸を恐れるがあまり、御魂入りに関して異議を唱えるものは誰もおりません。ご察しの通り……餓鬼を退治できるのは夜叉丸だけです。鎌倉を護る結界も、夜叉丸の身体から流れ出す力にございます。我々の誰が、あの神に背くことができましょうか」
「あいつは……誰を喰うつもりなんだ?」
「……もう喰らってしまったのです」
「もう喰らった?」
「はい」
妃子は小さく呼吸して、喉元から出掛かった負の感情を自らの体内に抑え込んだ。
そして、
「私の母が御魂入りをいたしましてございます。私が五つの時に」
これだ。初めてあった時から感じていた彼女に潜む暗い面影の正体は、あの神に抱いていた幻想を打ち砕き、虎次郎の目を覚まさせた。だがその先に広がっていたのは、茨に覆い尽くされた険しい道程。狂った運命は虎次郎の足枷を重くするばかり。
酷だ。あまりにも荷が重過ぎる。
自分はこの先、とても悲しい物語につき合わされるのかもしれない――