第四話 運命の同意書
《現代》
約半年前。
「特に難しく考える必要はありません。通常の脳死患者の臓器移植の際にも、生命維持装置を外す瞬間は必ず来ます。今回のドナー登録はその一瞬でさえも、あなたの生きた証として最後の力を発揮してほしい、ただそれだけのことなのです」
「……それは、普通に生きる以上のことができるかもしれないってこと?」
「そう考えていただいて結構です。魂と呼ばれる人の意識を構成する素粒子の提供は、他の移植と違い、あなた自身に第二の人生を与える余地があります」
「第二の人生……」
虎次郎の言葉に特別医療法人の職員は頷いた。
「先ほども話しましたが、このオーバースピリットダイブの場合、幽体化したあなたの肉体は時間を移動することができるようになるかもしれません。強いて言うなら、タイムスリップして、日本の過去の歴史を調査する役目を、我々は将来的に魂を持て余した人々に請け負ってもらいたいと考えています」
「まるでSF映画じゃん……でも、いつか死ぬんなら悪くないか」
たった一枚の登録書から導き出される壮大な計画に、虎次郎はため息をつかざるを得なかった。いくら科学が進んでも時を遡る術だけは夢物語のようにしか聞こえない。意識の実体化ができるようになったことでさえも信じがたいことであったのに、それより先を夢見ることは一般人にはとても早過ぎる。
だが、最期の一瞬にとんでもない大輪を咲かせられるのは本望だ。
「このドナー登録の対象が誰でもいいわけではありません。幽霊化した後はこちらの指示に従って行動していただきます。そのために我々は優れた運動能力を持つアスリートにドナー登録を必要としているのです」
「アスリートって……俺は甲子園にも出てないし」
「業績は関係ありません。あなた個人は高校球児として目を見張る才能をお持ちでいらっしゃいました。特に十代のドナー登録は我々にとっても重宝すべきものです。多少、縁起の悪い話ではありますが……もしもの場合、ダイバーとして活躍できる可能性を大いに秘めていると言えます」
「もしもの場合……ね」
その「もしも」が起こらなければ、この先の人生に何の関わりもない契約になるのだろう。だから本当に難しく考える必要は正直ないのだ。
だが、何か虎次郎の心に引っかかるものがあった。
彼は契約書に書かれたある一文に目を留める。
「……『なお、重度の植物状態と判定された者にもこの資格得る余地はある』って、植物人間って脳死と違うんでしたっけ?」
「はい。植物状態の場合、脳の一部が機能を失っただけで回復の余地があります。ただ重度の場合、後遺症を配慮して特別にドナー登録できる処置をいたしました。その場合、別のドナー登録となるのですが……私は正直、勧めたくありませんね」
「どうして?」
「どんなに回復の見込みが薄くても……その人の最後の力を信じたいからです。脳死の場合はそれがゼロと断定できてしまいますからね……」
この人はおそらく、そういった何人もの患者達と関わってきたのだろう。その言葉の重みをしっかりと受け止めると、虎次郎は少し考え込んだ。
そして、
「……ドナー登録すると、入院費もチャラなんですよね?」
「はい。入院から肉体の最後の瞬間まですべてこちらで保障いたします」
「植物状態でも?」
「同じことです」
「じゃあ……すみません。俺、植物状態込みの方で登録したいんですけど」
そう言うと職員は目を丸くした。もう一度、よく考えろと虎次郎を説得しにかかったが、虎次郎の意見は変わらなかった。彼が何を思ったのか、結局、この職員にはわからなかったが、安易な考えでドナー登録を申し出たわけではないことはしっかりと伝わっていた。
その後、虎次郎は姉に内緒で植物状態を含んだドナー登録をした。未成年だったため、後見人の許可が必要だったが、それは保護者である叔父を旨く口説き落として片付けることができた。
半年後、誰もこの契約が彼の過酷な運命の伏線だったとは知る由もなかった。