第参話 潜行、オーバースピリットダイブ
《現代》 東応大 特別医療研究室
虎次郎の肉体は現代にある。東京の東応大学医学部特別医療研究室は、ひっそりと広い敷地の地下深くに位置し、関係者以外の立ち入りをことごとく遮断した独立空間であった。この研究室の中で日夜、オーバースピリットダイブの研究は進められ、素粒子物理学を始めとする医師以外の研究者達が中心となり虎次郎のダイブの進行状況を見守っていた。
日本においての〈オーバースピリットダイブ〉、つまり、脳死と重度植物状態患者に対してのみ行われる最終意思確認処方はこの大学の傘下にある医療機関にのみ許され、毎年選ばれた数人の患者がこの施設に運び込まれる。その実験に成功した何名かの患者が、魂と呼ばれる物質を特殊な素粒子に定着させ、人工的な霊体となり、自分のその後の判断を自ら親族に告げることができるのだ。
十中八九、この試みが別れの儀式になることは言うまでもない。幽霊化した人間〈ダイバー〉の肉体はこの儀式のあと、臓器提供を行い命の灯火を繋ぐか、そのまま火葬され先祖とともに眠りにつくかのどちらかである。
だが、虎次郎が運び込まれたのは一般的なものとは違う部屋であった。
半球の天井が群青色照明に染まる研究室。虎次郎が眠る素粒子の加速装置を取り囲むように配置されたモニターの光が研究者達の顔を不気味に浮かび上がらせる。
虎次郎の魂が活動するリアルタイムの映像を見ても彼らは眉一つ動かさず、作業に没頭していた。それは精密な技術を扱う以上正しい判断ではあるが、虎次郎の姉、秋宮忍は苛立たしさを抑えることができずにいた。弟が彼らにとって「ドナー」でしかないことが何よりも腹立たしい。彼女は正面に設けられた巨大スクリーンで虎次郎の行く先を、固唾を呑んで今も見守る。
「脳波、脈拍ともに異常なし。ダイバーとしてはかつていない安定を保っているわ」
「どこが? 体は動かなくなったのに? これであの化け物がまた襲ってきたらどうするつもりよ!?
そもそもあの蜘蛛みたいなヤツは何!? あのお面のヤツも! オーバースピリットダイブってのは人工的に幽霊を作り出して、脳を経由せずに意識を実体化する技術じゃないの? あんな化け物のいるところに放り込まれるなんて聞いてないわよ!」
「まあまあ、聞きたいことは山積みだろうけど、まずは一つずついきましょうよ。かっかするだけ、自分の役目を見失うわよ」
「何を呑気に! 人の弟を何だと思ってるの!?」
「大切なドナーよ。それ以上でもそれ以下でもない」
「――っ!? あんた達って!」
真面目に人の話を聞いているのか疑わしくなるほど、白衣姿の黒髪の研究員、黒田雪江は憤る忍の隣で淡々と作業にこなしていた。
茶髪のミドルヘアが与えるガーリーな印象をぶち壊す忍の怒りは、彼女との温度差をさらに広げるばかりで治まることを知らない。
そんな彼女を横目に、雪江は呆れたようにため息をつく。
「そんなに怒るのは筋違いじゃないの? 虎次郎君はちゃんと自分の意志でドナー登録をしてるのに。しかも親族の同意も得てるはずよ? あなた何も聞いてなかったの?」
「……あの子に一杯食わされたのよ! オーバースピリットダイブのドナー登録は優れた運動神経を持つ人間しか申請できない……そんな一部の人間として選ばれて虎次郎は少々誇らしげだったわよ。だから! 私は本当に『もしも』のつもりで登録を同意した……だけど、それは虎次郎がもしも脳死に陥った場合に限ってだった!」
「彼が勝手に植物状態も含めたドナー登録をしてしまった……ってところかしら?」
「そうよ。だから同意書には私の署名ではなく、他の親族の名前で署名されているの。この契約は私に隠れて行われたことなのよ! あいつ、まさか自分が植物状態になるなんて思ってなかったから、
軽い気持ちでやったに違いない……!」
「……本当にそうかしらね?」
「何よ」
「……いや、何でもない」
感情の浮き沈みが激しくなっている忍をまともに相手にしては、仕事が思うように進まない。作業効率を重んじた雪江はそれ以上彼女に話を振る様子を見せず、パソコンに映るデータとの真剣勝負に集中する。
そんな時、様子を窺っていたか、制御室の扉が開き、白衣の中年男性が入ってきた。
「お待たせいたしました、秋宮さん。わざわざお仕事をお休みいただきまして――」
「どうでもいいわよッ! そんなこと……! 説明してくれますね? これがただの医療実験ではないことは一目瞭然よ。重度の植物状態の患者の最終意思を確認する技術視しては、目的が外れているわ! オーバースピリットダイブの正体ってそもそも何なの!?」
感情を制御しようと努めても、忍の怒りは頂点に達しようとしていた。だが、そんな彼女の反応はこのプロジェクトの最高責任者、高槻幸之助にとっては想定内のことのようで、眉一つ動かさずに口を開いた。
「簡単なことです。人間を質量のある幽霊として生かす方法です」
「虎次郎は違う! あのモニターの映像は何!? 今の私には何が現実で嘘なのかまったく識別できないわよ……だけどそんな私にもはっきり言える。あんた達がやってるのはただの処方じゃない、もっと特別な何かだわ! 教えなさい! 虎次郎の魂で一体何をしているのかを!」
「あれは現実です。そして彼を追い詰めたあの化け物は〈餓鬼〉と言います。あれこそが、オーバースピリットダイブを生み出した素粒子物理学の先にあった真実ですよ」
「真実……?」
「はい」
予想外に、彼はすんなりと応じる構えを見せ、忍の怒りのボルテージ急速に下がっていった。だが、それでも油断ならない。彼らが嘘でごまかす気でないかと忍は探るようにして次の言葉を待つ。
「オーバースピリットダイブを可能にした神の素粒子〈バリアブルバブル〉のことはご存知ですね?」
「人間の魂に集まる習性を持つって言う可変素粒子のことでしょ?発見時、世間は大騒ぎだったわね。ヒッグス粒子の発見をも凌ぐ快挙だって」
「良くご存知で。〈バリアブルバブル〉は驚くべきポテンシャルを秘めた素粒子でした。人の魂と結合し、生前の肉体を再現する性質を持っています。それこそ、科学的に説明がつかなかった幽霊の仕組みそのものだったのです。それと同時に、従来〈魂〉と呼ばれてきた人間の生命エネルギーには、その人物のあらゆる経験の記憶を蓄積するシステムがあり、脳はそれを出力するハードウェアでしかないことを実証した」
「幽霊が人の形をしているのは、バリアブルバブルが人の記憶を可視化したからだって、そのくらいのことならドナー登録の説明で聞いてるわよ。問題はそっから先よ!」
前置きの長さに忍はガラスの向こう、実験室の加速器に視線を移す。CTスキャンのような白い機械の中心に、棺に納められるかのように虎次郎は眠っていた。ここを訪れてすぐに忍は、あの装置の中で眠る虎次郎と対面させられたのだった。
あの時の妙な感覚が脳から離れない。虎次郎の心臓は動いているのに、目の前にした彼の肉体は幼いころに亡くなった両親の死を連想させるものであった。事故の直後、深い昏睡状態に陥った虎次郎と初めて対面したときの方が命の鼓動をまだ感じた。不思議なことにここに眠る虎次郎は忍にとって霊安室に横たわる遺体に等しい、「抜け殻」だった。
生きている人間にあるはずのものが今の虎次郎に欠けている。この漠然とした感覚が、魂がないということなのだろうか。
「あなたの言うとおり、ここまでなら脳死患者に自分の肉体をどうするか確認するだけの技術に過ぎない。しかし、バリアブルバブルはもう一つ、面倒な性質を持っていた」
「……面倒な性質?」
「極めて四次元的な物質だということです」
「四次元的? それって……つまり……」
「あの素粒子は時間を移動できるのよ」
先に口を挟んだのは雪江だった。彼女は片手で虎次郎のデータを処理しながらも、もう一つの手で忍のために用意していたCG映像のファイルを開いて見せた。
「何これ」
「政府関係者用に製作したプレゼン用CG。今の虎次郎君は確かに『幽霊』と同じ状態だけど、明らかに違うのは普通の肉体と同じ質量を保っているということ。私達はこの状態を〈ダイバースーツ〉と呼んでいるわ。それを実現するにはご覧のように、通常の何倍ものバリアブルバブルが必要となる。現代にはそれを可能にする量のバリアブルバブルが宇宙から飛来してくることはない。周期から外れているからね」
「周期?」
「バリアブルバブルが地球に数多く飛来する時期のことです。大体、数百年から千年のスパンでやってきますが、普通に生活する分には何の変化もありません。しかし、この周期の中であることが起こると、バリアブルバブルは爆発的にその力を発揮します。何かわかりますか?」
高槻の問に、忍の額から冷たいものが一筋伝う。
「……戦争か。死人が多く出れば、それだけ人の魂に素粒子は集まってくる」
「その通りです。虎次郎君が今いる時代はまさに高濃度のバリアブルバブルが飛び交う最高期になるのです。だから、彼の体は元の肉体と変わらない質量を持つ〈ダイバースーツ〉に魂を定着させることができている」
「……虎次郎君がいる時代ってどういうこと?」
これが本題か。
一枚の同意書が虎次郎にもたらしたのは、忍の想像を遥かに超えた禁断の領域。人間に科学と言う詭弁さえ許さない神のみぞ知る領域に、彼は無理やり潜らされた。
「彼の魂は定着したバリアブルバブルによって、約六百年前へと移動した。時間軸上を自由に移動できるはずのバリアブルバブルが、こぞって同じポイントに辿り着く……そこには〈餓鬼〉と呼ばれる生物と〈神〉の存在があったのです。彼のダイバースーツは、あの時代が持つ強い力に引きつけられてしまった」
「引き付けられてしまったって……じゃあ、あの映像は本当に虎次郎が――」
瞬きも忘れて、忍は正面の巨大スクリーンへと視線を向ける。肢体の機能を失った虎次郎が馬に乗った侍の背中にくくりつけられ、周りを大勢の武士に囲まれて市中を進んでいる。その隣には彼を助けてくれた少女と青年の姿があった。
つまり、これは現実だ。
「オーバースピリットダイブの本性とは、バリアブルバブルの性質を最大限に利用し、質量のある幽霊をあの時代に送り込ませる、融通の利かないタイムスリップのことなのです。そしてその目的は、〈餓鬼〉と〈神〉呼ばれる存在の解明とバリアブルバブルが成せる可能性を模索するためにあります」
「……要するに、虎次郎は実験台にされたのね?」
「一つ訂正をします。これは実験ではありません、『実戦』です。この先、この技術にあやかる人々の未来のために彼は選ばれた」
「どっちだって同じことよッ!!」
怒りが再び忍を支配した。涙ぐんだ瞳で彼らを睨み、息を荒げて歯を食いしばる。嫌な予感は的中していた。
「……あの子はまた……あんな怖い思いしたのに……また死にかけた。ううん……今度こそ本当に死ぬかもしれない! 病院のベッドで眠っていればこんな思いせずに済んだのに! その方が幸せだったのに……帰してよ! 虎次郎を今すぐ肉体へ戻して!」
ドナー登録なんて許さなければ、こんな過ちは起こらなかった。植物状態で返事さえも返してくれなくても、自分にとっては生きているだけで救いだった。いつまでも、目覚める日を待ち続ける決意があった。
生きていてくれればいいのに、どうして弟は姉の意に反した契約をしたのか。弟を自制できなかった悔恨と、彼の好奇心を刺激した彼らへの恨みで胸が苦しい。今、吠えるしかできない自分が惨めで仕方なかった。
「ずいぶん、視野が狭いお姉さんだこと」
頭の血管が切れたような衝動が、不安定な精神状態の忍に走る。待ち構えていたのは、パソコン画面を見たまま、こちらを見ようともしない雪江の嘲笑であった。
「あんた今、何て言ったの?」
「視野が狭いって言ったの。本当に眠ってるだけがマシだったのか、本人に聞いてみなさいよ」
「黒田君、言葉を慎みたまえ」
淡々と受け流しているだけのように見えた雪江がやや苛立っていた。それは忍の様子を目にしたせいなのか、高槻の咎めを受けても素直に従う気配がない。
「さっきは言わなかったけど、ダイバーとの通信は可能になってるわ。彼の脳に埋め込まれた〈ダイバーインプラント〉のおかげで、魂と肉体は糸のように繋がってる。バリアブルバブルの循環機能を経れば直接やり取りができるのよ」
「何ですって……!」
「そんな喚いてる暇があったら、弟の望みを叶えてやりなさいよ。直接さ」
「――ッ! うるさいわねッ! あんたに言われなくてもわかってるわッ!」
挑発に乗ってしまっていることにも気づかず、忍は雪江に差し出されたヘッドホンマイクを奪い取り、装着した。
「コンタクトしても問題ありませんね? 教授」
「……タイミングがある。彼が一人になったところで通信開始だ。次の指令も与えなくてはならないからな」
その時、すでに虎次郎は朱雀の宮の敷地内に通され、小さな屋敷の上に上がろうとしているところだった。