第参拾四話 ただ、生きていて欲しい
《隠された時代》鶴岡八幡宮 別当邸
夜叉丸と共に、虎次郎は無事に帰ってきた。
休むことなく二人を待ち続けた妃子と結崎座は、彼らの姿を見るなり境内に飛び出していくが、眠りに就いた悪意の根源に思わず足を止めた。
ただ夜叉丸は一言、
「問題ない。こいつは一生、檻の中だ」
それ以外何も語ることなく、六生をご神木の銀杏の木の中へと結界によって幽閉した。
今、妃子の目には何も映らない。貫禄ある大銀杏の木肌と注連縄以外、そこには何も見えない。本当にそこに六生がいるのかさえ、懐疑的になる。
虎次郎に詳細を聴こうとも、彼はそれどころではなかった。鶴岡八幡宮に着いて間もなくのことであった、彼が苦しそうに足元もおぼつかない状態に陥ったのは。
力の使い過ぎだと、彼は心配無用を決め込んで今も休んでいる。だが、それを真に受けられるほど妃子は単純ではない。
来るべきその瞬間が迫っているのだと、彼女は沈痛な想いで大銀杏を眺めていた。
「こんな綺麗なお天道様は久々や。それやのに暗い顔なさっとったら、もったいあらへんでっせ」
「清次……虎次郎はいかがされておりますか?」
「寝てますわ。けど、誰かと話してんちゃいますかな……」
「元の時代の方々と……ですか」
ズキッと胸が痛む。だが、それも出会った故の宿命なのだ。
「次に、目覚め時には……おそらく」
「妃子様、それ以上はいけまへん。いつものように凛として見送ってやりまへんと……辛いのは虎次郎はんでっせ」
「そうですね……強くあらねばなりますまい」
妃子は再び、大銀杏を見上げた。
「しかし、信じられへんですわ。あそこに彼の紫紺の尼が眠ってるっちゅうのも。まあ、見えへんのはやつに力があらへん証やから、正解なんやろうけど……」
「あやつも、虎次郎と同じ時代から来た魂とのことですが……未来はどのような世になっているのでございましょう」
「さあ……案外、今と変わらへんとちゃいますか」
意外な回答に、妃子は思わず問うた。
「なぜ?」
すると、清次は遠い目をして語り始めた。
「魂で時間を行き来できるなんて話、虎次郎はんが来へんかったら思いつきもせえへんですわ。それぐらい、時の流れによって世の常識は変わって行くんやろうけど……その分、わいらの時代にはない問題が増えて行くんとちゃいますか?」
「戦がない分、生きることがもっと複雑になって行く……」
「左様。ただ根本的なものは変わりまへん。そこにありつくまでの過程が、戦かそれ以外の方法かの違いだけ……実のところ、被る苦労は同じやないかと思いますわ」
「そうであれば、どの時代に生まれようと人は何かと戦い続けるのでしょうね」
「はい。己が魂を燃やしたものだけが、真の花を咲かすっちゅう話ですわ」
「真の花……私には咲きますでしょうか?」
神妙な面持ちの妃子に、清次は微笑んだ。
「恐れながら、まだ蕾ですわ」
「蕾?」
「はい。妃子様だけではありまへん、虎次郎はんも、夜叉丸様も……皆、まだ蕾ですわ。ただ、経験という糧を積めば、とんでもなく大層立派な花が咲くとわいは思います」
「買い被り過ぎです。私は自分の勝手な思い込みに、踊らされていただけでございます」
「何をおっしゃりますのや。踊らされた分、あなたの舞は鍛えられたモンとなったんとちゃいますか。出会った頃にはなかった一本の筋が、今の妃子様にはございます。若さという時分の花に自惚れず、己が過ちを学び、歩き出した証ですわ」
清次は懐から扇を取り出し、広げて光にかざした。美しく輝く金箔の入った絵に思わず妃子は見惚れた。
「苦労の分だけ、あなたは幽玄無上の境地に辿り着くはずですわ。わいは楽しみでしゃあないです」
「……まったく、そこまで言うなら、あなたも大層立派な芸を披露してくれるのですね?」
「……え?」
「私達と同じ経験をしたのです。朱雀の宮で見た演舞よりも、今のほうが余程花のあるはずです」
失言。得意げな妃子の顔に、清次はわざとらしく「あっちゃー」と扇で額をペシリと叩いた。格好つけて決めてみたものの、思わぬ期待を抱かれてしまったのは誤算だ、非常に恥ずかしい。
だが、やりがいは申し分なし――
「いやぁ……参りましたわ! ご所望とあらば、これは腕が鳴りますわ!」
「そもそも、私が呼んだ一座なのです。後日、この度の犠牲者を弔う慰霊祭を行いますから、そのつもりでいてくださいまし」
ちゃっかりと今後の日程に組み込まれていたことに、清次は苦笑した。心配せずとも、妃子はすでに歩き出している。
だが、心配なのは虎次郎だ。
ちゃんと、彼女に別れを告げに来られる力が残っているのか、それすら分からない状態であったからだ。
本宮周辺
二人が目を離した隙に、虎次郎は焼失した本宮へと場所を移していた。桜門から覗く若宮大路は、以前、修学旅行で見たものと何ら変わりもない。三つの鳥居を一列に、鎌倉市中を展望できるこの場所は、実は思い出深い場所でもあった。
「覚えてるか、昴……俺達、この十三階段のところで、『実朝の死』とか言ってふざけてたよな? あれ、小学校だったけ?」
『確かそうだった……今思うとかなり罰当たりだったな』
「だな……思えば、妃子のご先祖だもんな」
その時、彼の前を青い蛍のような光が横切った。そのバリアブルバブルの光に、これまでなら餓鬼の出現かと慌てていただろう。だが、虎次郎は微動だにせず、景色を眺めていた。この光がどこから現れたのかを知っていたからだ。
それは残念なことに、自分の身体から――
「久々だな……お前とこんな話するなんて。俺達、自分のことで一杯一杯だったな」
『ああ……』
また、光が目の前を横切った。
疑いもなく、ダイバースーツ崩壊の合図であった。だが、慌てる必要はない。すでに現代へのリターンの準備に高槻達が着手している。それまでのわずかな時間、彼らは別れを告げるこの時代への郷愁に浸っていた。
「なあ、昴……お前、部活はどうしてるんだ?」
昴は少しの沈黙の後、飲み込みかけた言葉を口にした。
無上の感謝と謝罪を込めて。
『……辞めたよ。ごめん……せっかくお前が護ってくれたのに、駄目だった』
やっぱり、と泣きそうになる自分を抑えて、虎次郎は言葉を続けた。
「謝るなよ。言っとくけど、俺、お前のせいでこうなったとか、まったく思ってないから」
『だけど……虎次郎、俺は――』
「言っただろ? 俺も一杯一杯だったって。それなのに……お前は俺を助けにきてくれたじゃんか。これで、貸し借りなしだろ?」
『……そうだな』
もう謝る必要なんてない、当に和解は済んでいたことに彼らは苦笑した。意識を共有したその瞬間、根底にあったのは紛れもない信頼。ダイブによって人生を諦めかけた虎次郎は、皮肉にもダイブによって再び立ち上がる力を得た。
苦難を乗り越えての絆、夜叉丸の言葉の意味を実感せざるを得なかった。
『……忍さんの言う通りだ』
「……」
『虎次郎、約束をしたろ? ずっと、忍さんは見守ってた……』
「……代わってくれ」
ついに、その時は来た。
昴の気配が消え、入れ違いに現れたのは懐かしい兄弟の面影。姿は見えないが、時の彼方に感じる彼女の気配に熱いものが込み上げる。
『虎次郎』
骸鬼との戦いで助けてくれた姉の声に、初めに思い浮かんだのは謝罪の言葉だった。
「ご迷惑をおかけしました……今、そっちに帰ります」
『まったくよ……! ドナー登録の話なんて聞いてなかったんだから』
「ごめん……まさか、自分がなるとは思ってなかったから」
『もういいわよ……あんた達二人が和解できたのなら、結果オーライよ。あんたが目覚めてくれる日を気兼ねなく待てるわ』
忍の朗々とした声に、虎次郎の緊張は和らいだ。その途端、一気に込み上げてきた感情を彼は抑えられなくなった。
「お願いだ……姉ちゃん……昴……! 待っててくれ……絶対、目を覚ますから……見捨てないで待っててくれ……!」
『当たり前よ。何年だって待ってやる……私の弟なんだから!』
「ありがとう……皆……」
『ほら、時間はないのよ? 寂しいけれど……お別れしなくてはならない人達がいるでしょう?』
「ああ……」
生きたい。だから、寝たきりの自分を見放さないでいてくれるのか、いつの間にか不安に胸中は支配されていた。
だが、わずかな会話が虎次郎を救った。
経済的にも、精神的にも、負担になると分かっていても生きたいと望む。その心を忍はしっかりと理解していたことが嬉しくて仕方ない。
こんな俺でも生きていて欲しいと、言ってくれている。
もう、迷うことはない。魂のままに生きよう。
嬉しくて泣いている心に、風に吹かれた鶴岡の銀杏の木々は喝采の音を上げた。
《現代》 東応大 特別医療研究室
思い立ったように忍は席を外し、加速装置の中にいる虎次郎の様子を見に行った。
そして、ガラス越しの虎次郎の寝顔はここ数日不安に苛まれ続けた忍の心に、この上ない喜びと安らぎを与えた。
「どうしたの?」
じっと虎次郎を見つめたまま動かない忍に、制御室から雪江が声をかけた。
忍はそのまま顔も動かさずに、微笑んで。
「泣いてるの……虎次郎が……!」
雪江はすぐさま立ち上がり、忍の隣に駆け寄った。
まさかと思い、彼女が虎次郎の顔を見ると、目尻から一滴の涙が伝った。
奇跡だと、喜びと驚きに戸惑う顔を忍に見せた。
彼女は涙を浮かべて頷いた。
「生きるわよ、私達……魂のままに!」




