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第参拾話 反旗、絆を辿り

《現代》 東応大学 特別医療研究室地下 ブルーホール


 インストラクターを通じて前置きもなく降りかかる緊張とプレッシャーに、昴は焦りばかりを募らせていた。虎次郎と視覚を共有している今、昴の目にも六生の光沢のない黒目が迫っている。


「高槻さん! 早く!」

『まだだ! 焦ってはならない。勝負は六生が本宮に入った瞬間だ。それに君の今の精神状態では、完全ダイブしても現代に弾き返されるだけだ』

「くそッ……!」


 六生の脅威、完全シンクロのタイミングを計る高槻、両者に板ばさみにされては精神統一どころではない。


 そんな八方塞の中、オペレーションルームから彼の元へ通信が入る。それは忍からであった。未だ切り札を出しかねている高槻への催促かと思えば、彼女は落ち着いた様子で自分に語りかけた。


『昴君聞いて、あいつは諦めてない』


 自分と正反対の見解に、昴は戸惑った。


「俺にはそう思えません。あいつは六生の言葉に消沈してる。二人の命を盾にされたら、自分の命を差し出しかねないくらいに……」

『確かに……弱気かもしれない。でもあいつは考えてる、自分の命を捧げる以外の選択肢を。おそらく、そこでは感情は伝わってきても、あいつの思考そのものはわからないと思うの。だからお願い……信じてあげて』

「信じる……」

『私には何も出来ない。あなたが頼りなの……あなたしか、あいつを立ち直らせることはできない。だから、今は心を落ち着けて』


 忍は最後の激励を彼に与えた。とても切ない声に昴は彼女の心中を悟った。その心遣いに彼は深く考えることをやめ、彼女の言葉を鵜呑みにすることを決めた。


「わかりました」


 恥ずかしいことに、虎次郎を甘んじていたのは自分だ。忍は弟の強さに賭けていた。一番の理解者としてここに立っているのに、自分が彼を信じられないままでは、リードダイバー失格だ――


「俺、必ずあいつを助けます」

『……』

「言わなきゃいけないこともあるんです。だから、死なれちゃ困るんだ……生きていて欲しいんだ、これからも!」

『昴君……』


 ここにいて一番辛いのは忍だ。見ていることしか出来ない彼女の身なれば、その焦りと悔しさに胸が張り裂けそうになる。彼女のために、リードダイバーである自分が心を乱すことは許されない。


 戦うのだ。戦いに行くのだ。遥か遠い世界――魂の呼ぶ処へ。


「あいつに助けられたこの命で、借りを返します。だから、信じて見ていてください!」


 そう言って、昴は自分から回線を切った。武装として装備された刃のない機械の柄を握り締め、慨然と六生の動きに注意を払う。


 焦りを振り払った彼の精神は、眠るように隠された時代(ハイデンヒストリー)側へと飲み込まれていった。


 まるで夢を見ている心地だが、臨場感が違う。


 本宮の回廊に降り立った六生の足音に、彼は正確な距離感を以ってその位置を把握した。増して行く緊張感に、昴は虎次郎と同じ深さと回数の呼吸を繰り返す。


『六生が入った。これより完全ダイブを開始する』

『脳波、脈拍正常……インストラクターより、全神経情報をダイバーへ』


 動き出した現代の力、その気配は次第に遠退いく。昴はすでに虎次郎の精神に取り憑いたとも言える状態であった。




隠された時代(ハイデンヒストリー)》 鶴岡八幡宮 本宮


「高槻さん、見てんでしょう? あんたのせいでまた一人、死ぬわよ?」

「……」

「心配せずとも、あの二人は生かしてあげるわよ。ただ……五体満足かは知らないけどね」


 絶対的な優勢に愉悦する六生を前にして、虎次郎は一度、視線をゆっくりと祭壇の傍にかけられた小袖に向ける。そして再び、彼女に視線を戻したその時、どうしようもない笑いが込み上げてきた。


「クッ……ハハハッ……アハハハハハハッ!」


 気が違ったのか。この場を見ている誰もがそう思った。


 しかし彼の瞳には、燃え盛る闘志が宿っていた。勝機を見出したごとく、舞い戻った気概のある顔で、彼はついに突破口をこじ開けにかかった。


「そういうことかよ! これで合点がいった!」

「……何がおかしいの」

「おかしいも何も、今のお前じゃ俺を殺せない! ダイバーどころか、人一人無理だね。この結界内にいる限り!」

「何を言うの? 何なら、試しに外の二人を押し潰してやろうか」

「できないさ。お前はそのためにしかバリアブルバブルを使ってないじゃないか。俺をここから連れ出すのなんて、一発ぶち込めば済むことだろ?」


 図星か、六生の眉間がわずかに動いた。


「お前は夜叉丸の結界の中に入るために、力を制御している。ほとんど俺と変わらないくらいにな! あいつはおそらく、バリアブルバブルの発する力が大きい者ほど結界に弾かれるようにしてるはずだし、力量によって人物の特定もしてるはずだ」

「それが何? あんたの運命に変わりはない」

「変わりはないさ! この小袖の傍にいる限り、お前は俺を連れ出せない! 妃子と清次も殺せやしない、二人の動きを封じることでお前は精一杯なんだからな!」


 半分は鎌を掛けただけだったが、予想外の効果を生み出した。六生の顔が見る見るうちに歪んでゆく、無表情と残酷さに隠されたプライドが大きく傷つけられたのだ。


 挑発を繰り返す、それが唯一の攻撃手段だ。


「この……クソガキがッ!」

「どうするんだ? さっき妃子にやったみたいに刀で俺をぶっ刺すか? 物理的な手段は効かないぜ。もうダイバースーツに慣れた俺に、脳の錯覚も期待できない」


 忍の言ったとおり、虎次郎は考えることをやめてはいなかった。窮地に立たされながらも、ずっと六生への違和感について思考を巡らせていたのだ。


 形勢逆転、勝機は今――


『――』

「え……」


 その時、昴は囁いた。虎次郎は驚いたような表情を見せたが、瞬時にそれを仕舞い込んだ。自分が誰か、おそらく、まだ虎次郎はわかっていないだろう。

それどころか、すでに身体が動くことに彼は気づいていない――


「……殺してみろよ、六生。力尽くで俺を本宮の外へ出してみろ!」

「言われなくたってェェェェッ!!」


 憤怒した彼女はすかさず、虎次郎の胸倉を掴みにかかった。轟々しいバリアブルバブルの嵐に、彼は必死の抵抗で耐える。


「あんたにはわからない! あたしがどんな思いで放浪してきたのか!」

「知りたくもない! 結果論を盾に人殺しをしたヤツの話なんて!」

「憎いわ、あんたが! まだ未来のある人間が偉そうにィィッ!」


 怒りに呼応して、鋭い空気の刃が虎次郎の足場を木っ端微塵に破壊した。体勢を崩す虎次郎の首根っこを六生は容赦なく掴み、凄まじい力で屋外に連れ出そうとする。

その折、無意識に虎次郎の手が六生の手首を掴んだ(、、、)


「汚ねぇな……! この野郎――」


 起死回生の息吹。上昇するバリアブルバブルの濃度に、六生は戦慄した。建物が震え、悲鳴を上げている。


 自分の力じゃない。これは、明らかに――


「もう容赦しねぇッ!!」


 雄叫びともに、乱気流が起こった。本宮の床板は粉砕し、木片が刃物の雨のごとく六生に降りかかる。


 目も開けられない風圧と木片の勢いに、六生はついに虎次郎を手放した。


 その刹那、六生の視界から紅い衣が消えた。驚くべきことに彼は出口へ向かって飛び出していたのだ。全盛期を反映したかのような敏捷性と柔軟さに、誰もが目を疑った。


「何……で……!?」


 彼の脳の身体機能は死んでいるはず。なのに、どうして――


「何で動けるのよ!?」


 転がるように階段を下り、虎次郎は峰から折れた白鷺を拾い上げた。そのバネのような筋肉はまるで、植物状態になる前の、彼の本当の肉体の動きそのものだった。


「こ、虎次郎……殿……!」


 圧力からの解放も忘れてしまうほどの奇跡が今、目の前で起こった。虎次郎は何不自由なく立ち上がり、雄々しい背中を妃子と清次に向けた。


「そこから逃がすか……六生! 俺の命に懸けても、お前は絶対倒す! 例えヤツらの操り人形だったとしても……!」


 胸の前に突き出した白鷺の純白の柄、その折れた刃の先端に虎次郎の指が触れる。

まるでその残骸で斬り合いをするような姿勢を、六生は鼻で笑った。


「その折れた刀で戦うつもり? 呆れるわ、物理的な攻撃は効かないと口走ったくせに」

『誰がこれで戦うと言った?』

「!?」


 突如耳に飛び込んだ聞き覚えのない声に、六生は辺りの気配を探った。


「誰だ! 現代からの通信か? あり得ない……まだ私が妨害してるのに!」

『夜叉丸に気づかれないために、力を制御したのが仇になったな。ここで蹴りは着けさせてもらう!』

「虎次郎か……違う。別の誰か――」

「その通りだ。俺はもう一人で戦ってるんじゃない……昴ッ!」


 虎次郎の指を伝い、白鷺がバリアブルバブルの光に包まれる。青い閃光は勢いを増し、その光の中から目を見張る光景が現れた。


 妃子は息を呑んだ。絹が滑り落ちるかのごとく光は消え去り、虎次郎の手に握られている白鷺は、原型よりも美しさを増した、傷一つない白金の刃に生まれ変わっていたのだ。


「ど、どないなってんねん……!」

「意識の具現化の一つ、物質の増幅作用だ。お前が餓鬼を作り出すのと同じ理屈で、この太刀は修復された。峰だけでも残ってれば、バリアブルバブルは物質と化学反応を起こして、イメージ通りの形に再現してくれるからな」


 本当は意味を理解していないのか、彼は小声で「と、昴が言ってる」と付け加えた。


『全て俺に任せろ、虎次郎。剣術なら俺の独壇場だ』

「任せた。あいつを市街地に……行かせるかァァッ!」


 昴は間髪いれず六生目掛けてダッシュを切る。


 六生は境内に出ることを試みるが、待ち構えていたかのように発動した結界に本宮への後退を強いられる。だが、その隙は虎次郎に間合いを許す時間を与えた。


『もらったァッ!』


 昴の見事な剣撃が六生の喉元を突く。


 切っ先は六生の皮膚を掠めるが、六生もそれ以上のダメージを許さない。彼女は空気の弾丸で、虎次郎を牽制した。


「ちっ……!」


 間一髪でかわしたが、威力は相当なものだった。この狭い空間に、無傷の六生を囲み続けることは長期戦を意味する。戦闘経験の浅い彼らには不利だ。


 六生が無意識に喉元に手が触れた。血の代わりに青い光が漏れ出している。


「なるほど……さっきの弓矢とは比べ物にならない威力だわ。素粒子の補正だけじゃない……あの小袖と同じってことね」

「この刀には妃子の母親の想いが詰まってる。それだけ、夜叉丸の力も引き出せるってことさ!」


 初めて、六生に恐れの混じった敵意が表れた。歯を軋ませ、微かに漏れ出す青い光を塞き止めんと自らの首を握り締める。


『お前の話は全て聞いている。現代との繋がりのないお前はただの浮遊幽霊だ。意識の具現化をバリアブルバブルの供給なしで繰り返せば、いずれ燃料切れが来る。今のうちに、白旗を揚げたらどうだ』


 脳内に響く昴の言葉を彼女は鼻で笑う。


「全て知ってるのに、私のこと殺そうとしないなんて甘いわよ。私は必ず生き残ってやるわ……あんた達を踏み台にしてェッ!!」

「往生際が悪いぜッ!!」


 怒りを共有した昴の動きが、ダイバーインプラントを通じて虎次郎を走らせる。インストラクターによって、日本一剣道の強い高校生の瞬発力と反射神経が、最高感度でダイバースーツに再現される。コンマの遅れもない連携は時空を隔てて、完全なる一人の人間を作り出していた。


 だが、六生も分が悪いとわかって勝負に出るはずもない。


「うぉぉぉぉッ!」

「調子に乗るなァッ!」


 奇策。六生が右手に集めたバリアブルバブルを瞬時に水素分子に変えた。それを察知した途端、現代の研究者達は血相を抱えて叫んだ。


『罠だ! 二人ともッ!』

「――!?」


 すでに放たれた水素の塊、そして隠し持っていた白鷺の破片で、六生は虎次郎の一撃を受け止めた。

刃が激突したその瞬間、一つの火花が大爆発を引き起こした。水素爆発だ。二人の身体は、一瞬にして爆炎に飲み込まれてしまう。


 当然、妃子と清次には何が起こったのかわからずにいた。爆風で回廊の下まで飛ばされたが彼らに大した傷はない。だが、本宮に近づこうとも炎の勢いが激しく、中にいるはずの虎次郎を見つけ出すことは困難であった。


 その時、爆発で開いた穴から黒い影が外へ飛び出したのを二人は見逃さなかった。

逃げるように木々を飛び交っていく。目を凝らすと、それは袈裟を纏っていた。


「あれは六生!? では、虎次郎は……!?」

「待ちなはれ。何か来ますで……炎の中から!」


 清次の指の先、紅の炎から紅と黒の袴姿の少年が飛び出してきた。片手には、妃子にとってこの上もなく大切な、母の形見を携えて。


 その健在な姿に、泣き出しそうな声で妃子は彼の名を呼んだ。


「虎次郎! よくご無事で……!」

「やられた……! まさか、あんな方法で本宮をぶっ壊すなんて!」

『あれなら化学反応が助長して、最小限のバリアブルバブルで建物を壊せる。祭壇を傷つけることも計算された威力だったんだろう』


 自由になった身体への喜びすら忘れて、虎次郎は苦い顔をした。


 最悪だ。六生を倒す絶好を逃してしまったのだ。鶴岡八幡宮の結界内だったからこそ、この程度の損傷で済んだのだ。


 次の手を打って来る時、六生はその死力を尽くす――


「止めないとまずい。あいつの行こうとしている方角には夜叉丸がいる……しかも、なんだかわからない、とんでもないモンと戦ってる気がする。合流されたらやばい」

「な、何っでか……その、とんでもないモンって!」

「餓鬼だ。朱雀の宮の大餓鬼よりもでかいヤツ……だから夜叉丸は動けない」

「わかるのですか? 六生や夜叉丸のことが」

「同じだから……俺も六生と。だから夜叉丸のこともこの身体が教えてくれる」


 同じ、という言葉に二人は黙った。


 沈黙の狭間、大階段の下から声が聞こえた。その聞き覚えのある声に、清次は咄嗟に桜門から大階段を覗き込む。そして歓喜した。


「大夫ぅぅぅッ! ご無事でっか!」

「お前ら! 生きとったか! よう生きとったぁッ!」


 互いの存命に安堵するが、清次の前に立ち並んだ座衆達はすっかり憔悴し切った面持ちで口を開いた。


「大夫、大変でっせ! 鶴岡の結界の外を餓鬼が取り囲んどる。偉い勢いで数も増えとりますで!」

「何やて!?」


 暗雲の元凶は、本宮が燃えていることにある。


 通常なら、この本宮は放火によっても炎に焼かれたりはしない、それほど強い結界が張られているためだ。だが想定外のことに、六生がダイバーのレベルにまで力を抑えて本宮まで入り込み、徐々に結界を中和していた。加えて、彼女が最後に駆使した力はほぼ化学反応によるものであった。六生は水素を増やしただけに過ぎず、爆発の火種となったのは虎次郎との剣撃よる摩擦熱だ。物理的な攻撃が夜叉丸の設定した防御力を上回り、結界の核である祭壇を傷つけた結果、このような事態が引き起こってしまった。


 しかし、これだけでは他の結界が弱まっている理由にはならない。この効力減少の説明を着けるとするならば、考えられる可能性は一つ――


「苦戦……しているようですね、夜叉丸は。護りへの力の配当が減っている証拠です」

「配当?」

「攻撃に力を集中してるせいで、結界の力が手薄になってるってことか」


 妃子は頷く。


「それほど、余裕のない相手と言うことです。初めてです……こんなこと」


 夜叉丸が負けるとは誰も思ってもいない。


 しかし、現に彼の力の采配を乱している餓鬼の存在にその懸念を消し去ることは出来なかった。完全に力を取り戻した六生とその餓鬼に挟み撃ちにされた時、果たして彼は息災でいられるのだろうか。


 不安ばかりが募る中、虎次郎は一人、口を開いた。


「俺が行く」


 一同は一斉に顔を上げた。


「行くって……どこに?」

「夜叉丸の元へ。俺は六生を止めなきゃならない……ケジメなんだ」


 話を知らない座衆を置き去りに、妃子と清次は考えるよりも早く首を横に振った。


「駄目や! それこそヤツの思う壺や……行ったらあきまへん!」

「もう十分でございます。あなたは私達のためにボロボロになりながらも立ち上がってくれた。これ以上戦う必要はありませんよ、虎次郎」

「聞いただろ……あいつの話。あいつは俺の生まれた時代が作り出してしまった鬼だ。俺達(、、)には責任がある!」


 彼らの優しさを切り捨てて、虎次郎は言い放った。


 本当にやらなきゃならないことに目覚めた今、自分の命を惜しむなんてナンセンスだ。護りに入った途端に待っているのは、六生による現代への脅威だけじゃない、オーバースピリットダイバーに纏わる忌まわしい過去が永遠の闇に葬り去られることだ。


 彼女と戦うことは自分に課された使命――オーバースピリットダイブという夢の終幕。素性を明かして一戦交えたからこそ、魂はその責務を抱いた。


 元々関係のない妃子達がこれ以上、苦しむのは見たくない――


『時間がないぞ、虎次郎。六生はすでに鎌倉の市街地に入った』

『わかってる……』


 虎次郎は炎の中から救い出した敦子の小袖と白鷺を、妃子にそっと差し出した。


「妃子、清次、みんな……ありがとう。ごめん。俺の時代が起こした不祥事に巻き込んで」

「……」

「妃子、この着物がなかったら俺……あの爆発で身体吹っ飛んでた。お前のおかげで俺はこうして生きてられる」

「私は何も……あなたを護ったのは母上でございます。母上と夜叉丸が……」


 小袖と白鷺を受け取ることを、妃子は拒んでいた。それを受け取った瞬間、虎次郎と二度と会えなくなる気がしてならなかった。


 彼が死すとも、元の時代へ帰すとも、それは永遠の別れ。


 だから、どうしても――


「妃子様……」

「……戦に行く人間が、丸腰でどうするのです。小袖は受け取りますが、その刀は持って行きなさい」

「いや、でも、これはお前の宝だろ? 無事に返す保証なんかないぜ……」

「何をおっしゃいますの。すでに私が壊してしまったものを、あなたは直してくださったではありませんか。それにその刀は夜叉丸の助けにもなるはずです……持って行けぬ理由など、何一つございませぬ」


 すると妃子は小袖だけを受け取り、それを羽織った。


「これだけあれば、心配無用。御魂入りの魂が我らを護ってくださいます。あなたはその刀であなたの戦をなされば良い。ただし……終わった暁には、必ず私達の元へそれを返しにきなさい……!」

「妃子……」

「代理は受け付けませぬ。あなたご自身で返しにいらして……約束です」


 心の底までを覗き込むような瞳で、妃子は虎次郎の返事を待った。


「わかった」 


 しかし、その返事は彼女の不安を拭い去ることもなく、向けられた彼の背中に妃子は不安を募らせた。「本当に?」と、彼女は問い迫ろうとするが、清次にそれを止められた。


 信じていないわけではない。だが、引っかかるのだ。


 彼は何のために戦うのだ。本当に負い目がある故なのか。


 その時、虎次郎がこちらを振り向いた。


「妃子!」


 驚くべきことに、その表情は晴れやかなものであった。


「俺、お前のお母さんに二度も助けられた!」

「え……」

「それで気づいた! お母さんは今もお前を護ってる。お前を護るために夜叉丸と生きる道を選んだ! 自分にできる最大のことをするために!」


 突拍子もない話。だけどそれは、長らく暗雲に苦しんでいた妃子の真髄に光を射した。


「だから、夜叉丸はそんなに性悪じゃないかもしれないぜ! 恩返しのついでに、あのクソガキのこと確かめてきてやるよ!」


 そう残して、虎次郎はさっさと大階段を下り、参道を一直線に駆けて行ってしまった。


 呆気に取られる一同。だが妃子は彼の真意を全て理解し、泣いた。


「……母上、馬鹿な娘ですね、私は。考え方一つで世界が変わるのに……ずっとあなたが見守っていてくれたことに気づかないなんて!」


 母の形見に包まってその場に泣き伏す彼女に、清次は言った。


「虎次郎はんに出会えたのも……敦子様の呼んだご縁かもしれまへんな」


 桜色の小袖は他のどんな着物よりも温かかった。


 その温かさに妃子はしばし、心を癒した。


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