第弐話 神、その名は夜叉丸
《隠された時代》由比ヶ浜
心を何かが食い荒らす。背中に突き刺さった餓鬼の爪が与える苦痛は物理的なものではなく、自分の精神を乗っ取られるような、自我を揺さぶるものであった。頭の中で木霊する聞き覚えの無い声と見覚えのない景色、それが秒速を超えて彼の記憶を侵食し、かき乱す。混乱した脳は同時に、事故の瞬間をフラッシュバックさせた。
「う、うあぁぁぁぁぁッ!」
負の感情の塊は失いかけた彼の意識を引き戻す。それはまだ、彼が生きていることを思い知らせる皮肉な現実であった。だが、不幸中の幸いにも、苦痛に暴れる肉体の勢いが、背中で爪を立てていた餓鬼を振り落とした。
爪が抜けた瞬間、彼は本能が赴くまま逃げ出すが、餓鬼の追撃は衰えを知らなかった。
「嫌だ、嫌だ、嫌だ……! もうごめんだ……あんなの!」
無意識に背後を振り向く。迫りくる赤茶色の化け物の姿に、彼は求めていた「死」に恐怖した。
「死にたくないッ! こんな知らない時代で、一人で……独りで死んでたまるか! 誰か、誰か! 助けて! 助け――」
静まり返る松林の中、彼は命を求めて叫んだ。だが突如、鋭い痛みが彼の動きを奪い、彼は板のようにその場に倒れこむ。
すぐ後ろに餓鬼が迫る。必死に立ち上がろうと、もがいたその時、自分の身に起こった真実を知覚した。
「あ……れ? 何で……何でなんだ……!」
何故だ。必死に手足を動かそうとするが、それができない。
彼はパニックに陥った。自分の脳からとんでもないものが消えていたのだ。
「わからない……手足の動かし方がわからない……あれ……」
真っ白な地図を持たされて佇むに等しく、彼の意識は神経という道筋を見失った。ゲシュタルト崩壊を起こした身体は立ち上がることすら、指を動かすこともできない。凍りついた彼の瞳に、よだれを垂らしゆっくりと近づく餓鬼の姿が映った。
「来るな……! 何なんだよお前らは……こんなの聞いてないッ!」
肢体がただの飾りと化した今、彼にはその悲痛な運命への恨めしさを口にすることしかできなかった。
「やめろ……来るなよ……! 俺にはまだ、やらなくちゃいけないことが……伝えないといけないことがあるんだ……だから……!」
彼が動けないことを悟った餓鬼は再びあの鋭い爪を大地に突き刺す。後ろ足を力ませ、間接を折り曲げる。赤茶色の禿げ上がった顔はただ一点、彼の震える瞳を見据え、嘲笑うかのようによだれの滴った口元を上げた。
死ぬ。今度こそ。
「嫌だ……死にたくないんだァァァァァッ!!」
その魂の叫びと餓鬼の奇声が不協和音と化す。ついに餓鬼は凄まじい脚力で彼に向かって飛び掛った。
だがその時、どこからか鈴の音が一つ鳴り響く。
波紋のように心に染渡るその音は、彼の魂を現世に留めた。そして、誰かの衣が風を切る。目の前に舞い降りたそれは、目にも留まらぬ抜身で飛び掛った餓鬼を弾き返した。
突如上がる、苦痛に満ちた絶叫に彼は目を開けた。同じ目線の高さ、餓鬼が顔面から青い光を放ち悶える姿が真っ先に飛び込んできた。
だが、彼はすぐに別のものに視線を引かれる。それは朱色に金刺繍の羽織と烏帽子。突如現れた派手な衣の主は、たった一撃で、あれほどの恐怖をもたらした餓鬼を撃退してしまったらしい。青い光が漂う中で、彼は後姿に不思議な懐かしさを覚えた。
「誰だ……お前……」
彼の問に答えるように、朱色の衣の主は静かに振り向いた。そして、その顔を目の当たりにした瞬間、彼はあの事故の記憶を鮮明に思い出す。
「お前は……!」
忘れもしない。意識が朦朧とする中、この白い女の面が確かにこちらを覗き込んだ。
あれが幻でなかったことに、ないはずの心臓が高鳴る気がした。
「後の世の人間がここで何をしている。魂があの世への道筋を見失ったか?」
「違う! 俺は死んでない! ……たぶん。それはお前が知ってるはずだろ!?」
「意味がわからないな。俺は人の魂を喰らいし神、後の世のことなどどうして知れるか」
「何だって……!?」
淡々とした態度に、少年は一瞬にして熱を奪われた。まるで初めて出会ったように、その態度は素っ気ない。
納得いくはすのない結果に少年は顔を歪ませた。そして、小面の主もその様子をじっと伺うように面を傾ける。
「動けないのか?」
「見てわかんだろ……!」
「……悲しいな、お前」
「何?」
「生きているのに魂と体が別々だ。気に入らない事実だ。後の世では人の手で肉体から魂を引き剥がせるのか?」
常識の範疇を越えた出来事に、翻弄されるばかりだ。小面の主は自分のことを知らないというのに、彼は自分の正体とも言える体の仕組みに気づいている。
死神ではない、おそらく。だが、それ以外の仮定を導き出せる知識量はなかった。
小面の主は刀を鞘に仕舞うと、少年のすぐ傍で片膝をつき、動作を忘れた彼の体を起こしてやった。その行動に彼は理解の方向を見失いながらも、口を開いた。
「誰なんだ、お前は……お前が俺をここに呼んだんじゃないのか?」
「言った通り、俺はお前のことなど知らない。どうやら餓鬼のことも知らされず、後世の者達にこんなところに送り込まれたようだな」
「あ、当たり前だ! 知ってたら来るかよ……!」
ふと一層近くなった面から放たれる険しい雰囲気に気づくと、少年の顔は強張った。
「お前――」
小面の主が何かを口にしようとした矢先、背後から耳を塞ぎたくなる奇声が上がる。二人が一斉に注意を向けると、顔を裂かれた餓鬼が最後の抵抗を見せようとしているのが目に入った。
「しぶといな……今、楽にしてやる」
小面の主は少年に背を向け、餓鬼を見た。その背中から伝わってくる冷徹さに背筋がゾクゾクと反応する。彼にとっては何気ない一言だったのだろうが、言葉にできない威圧感がこの動かない体を脅かす。
朱色の衣をまとった腕がゆっくりと上がる。次の瞬間、突然強い風が吹き出し、あの蛍のような青い光が現れた。光は小面の主の手元と死に掛けた餓鬼の体を照らす。
「何だ……これ……!?」
生まれて初めて見る光景にそれ以上の言葉が見つからなかった。それだけではない、何やら心が落ち着かない。魂が体から引き離されるかのごとく、自分の入れ物が何かによって物理的な圧力を加えられている感じがする。
息苦しさに少年が喘ぐ最中、小面の主がかざした手の指一本一本に力をこめ、それを一気に握り潰した。そして、
――グチャ。
嫌な音が耳を突いた。骨や内臓的なものが潰れる音。そんなもの聞いたことあるはずないが、視界に入った餓鬼の姿が直感を肯定した。
何tもの重石に押し潰されたような骸、その周囲から大量の青い光が飛び立っている。
「餓鬼の形を繕っている光だ。同時に俺の力の源でもある。稀に死んだ人間の魂と結びつきその形を現す。憎しみや悲しみ、人の想いが強ければ強いほど人は餓鬼になりやすい」
主の言ったとおり、光が徐々に弱まるにつれ半透明の老婆の姿が見える。その姿は餓鬼の面影を残しつつ、凶悪な顔つきであった。老婆の霊は無念と苦痛に苛まれながらも、次第に青い光とともに消滅していった。
「……元に戻してやれなかったのか? 成仏させたりとかできただろ……!?」
「俺は仏じゃない。それにあの老婆は幕府に息子を殺され、強い恨みを抱いたまま病床で果てた。元凶は人間同士の諍いだ。俺の知ったことじゃない」
「知ったことじゃない? 目の前に死に掛けた人間がいたら、放っておけないのが神様なんじゃないのか? この世に未練を残して死んでいく人間を見過ごさずに、最後のチャンスを与えてやるのがお前の仕事じゃないのか!?」
「よくもそんな都合の良いことを口にできるな。未練を抱えているのはお前と見える」
「だって! だから俺をここに連れてきてくれたんだろ!? 俺がダイバーとして無事にお前のもとに辿り着けるように、俺を迎えに来てくれたんじゃないのか!?」
「迎えに来る? そんなことがあったら、お前の魂はすでに存在しない。俺はお前の魂を喰っているに違いないからな」
「何だって……!?」
「生きたいと叫んだ割には、まだお前の心は迷っているじゃないか。そんな状態で己の肉体に執着がないのなら、いっそ我が身に取り込まれて千年を超える糧となればいい……その方が、誰にも迷惑をかけることなく死ねるぞ?」
最後の言葉が深く少年の心に突き刺さる。幻が見せた神に与えられたのは、生きる希望ではなく、心の深層に潜む闇を掘り起こす仕打ち。
「じょ、冗談だろ? 俺の魂を食らうって……! お前、そんな……!」
主の無言の圧力が冗談でないことを一瞬でわからせた。
追いかけてきたのは絶望だったのか。肢体は動かず、期待は幻に終わり、自分の最期をこの場で言い渡される。何と惨めな運命か。
「そんな揺らいだ魂で生きる意味などどこにもない」
痛烈な言葉を言い放ち、小面の主は木にもたれかかる彼の額にかざす。その動作があの餓鬼を潰した力を発動させるものだと少年はすぐに理解した。
朱色の衣から覗く白い手が、彼の額に触れようとしたその矢先――
「待ちなさいッ! 夜叉丸!」
その凛と通る声に、彼は手を止めた。ゆっくりとその声を振り向けば、松の木下で険しい表情で息を切らている、妃子の姿があった。
「止めなさい……! その方の魂を喰らっては駄目!」
「……」
「あなたが欲しがっているのは私の一族の魂のはず! その方は関係ないでしょう!?」
声色に憎悪が滲む。気迫の篭った彼女の叫びに何を思ったのだろうか、突然、主が笑い出した。
「冗談だ。こんな弱い魂取り込むなど、俺は御免だ」
彼女の言葉に失笑し、主は少年から身を離した。それでも恐怖を拭い去れない少年を、主はしばし見下ろして徐に口を開いた。
「ただ餓鬼はそうではない、お前の都合など考えずにお前を消しにくる。されば、他の人間も巻き添えだ。だから言っておく、死にたいならさっさと死ね」
「夜叉丸ッ!」
「その方が、遥か彼方でお前の動向を観察している連中に好き勝手されずに済む。何よりも、身内の肩の荷が下りるぞ?」
聞くに堪えない煽りを受けても少年は放心したまま、何も発することなく目を伏せた。
そして小面の主も、彼に背を向けその場を離れる。
「逃げるの!? 夜叉丸ッ!」
一度も、主は妃子を真正面から捉えることはなかった。彼は無言のまま天高く舞い上がり、あっという間に彼らの視界から消えた。
妃子は飛び出し、彼が消えた空を見上げるが、もはやそこには風に揺らぐ松の木しかいない。遠くから鳴った鈴の音が風の音に掻き消されると、夢から覚めたように彼を追うことを止めた。
「……夜叉丸……あいつの名前……」
少年のかすかな呟きに妃子は耳を向けた。
「……はい。この鎌倉を餓鬼から護る神にございます。ご存知ありませんか?」
「……知らない。俺、そんなの知らないでここに来たから……」
「……あなたはどちらからいらしたのですか?」
その問に、少年は残された機能の一つである首の筋肉をゆっくりと動かし、妃子の姿を視界に映す。そして虚ろな眼差しで答えた。
「……遠い未来……何百年も先の未来から」
「……何のために?」
「……オーバースピリットダイブ。人が肉体を離れて存在できるのか、実験するために」
「……あなたは誰?」
「俺は――」
その時、彼の体にまたも異変が起こった。だが、異変といってもネガティブなものではなく、彼にとって吉兆と言える出来事。
元の時代にいる研究者達からのコンタクトが来たのだ。
すると彼は妃子の目の前で目に見えない誰かと会話し始め、後ろ盾を得た安心感からか少年の顔つきが徐々に回復していくように見えた。
その後、少年は彼自身について教えてくれたが、結局、妃子が理解できたのはただ二つだけで、後は何となく推測で補完したに過ぎない。
彼が未来から来たという事実には驚きよりも「やはり」という思いが強かった。侍らしからぬ短髪も、まだ幼さの残る面影も、全ては遠い未来に生きる人々の姿。彼の存在はこの時代の誰かが餓鬼に負けずに命を繋いだ証だと、妃子は少々嬉しい気持ちに満たされる。
そしてもう一つは、彼の名前が秋宮虎次郎ということ。
虎次郎はその後、清次によって呼ばれた守護の侍達に警護されながら鶴岡八幡宮へと向かった。
彼らが松林から抜けていく姿を、木の上から眺めていた影があった。
「……死ねばよかったのに」
半透明であった姿は紫紺の帽子に藤色と萌黄の装束の尼の姿をはっきりと映し出す。
尼は薄っすらと笑みを浮べると、空に溶け込むように姿を消した。