第弐拾六話 夜に紛れて
《現代》 東応大学 特別医療研究室
第一級の緊急事態を知らせるアラームがオペレーションルームに鳴り響く。スタッフは瞬時にダイバーに起こった異常事態への対処に追われていた。
「ダイバースーツ質量低下! 体外圧が急激に下がってます!」
「再構築急いで! 原因は?」
「わかりません。ですが、ダイバーの半径10m圏内のバリアブルバブルが対生成を起こしています。システムの異常ではなく、外部からの攻撃と見て違いありません!」
「なるほど……奇襲ってわけね」
スタッフの報告により、紫紺の尼の存在を疑うのは容易かった。雪江も自らデスクに着き、状況確認を行う。
弟の危機再来に忍ができたのは、やはり成り行きを見守ることだけだった。
「教授、六生が動き出しました。再構築で対抗していますが、向こうの速度の方が一枚上手です。攻撃圏内から逃れるしか対処はありません、リードダイバーの投入を!」
『駄目だ。神経系の接続が間に合わない。再構築で堪えてもらうしかない』
「そんな……! なら、彼の意識の回復を優先します!」
『頼む。意識が戻れば、補助で動かしてやれるかもしれん。準備が整い次第、リードダイバーを投入する』
交信はそこで途切れた。頼みの切り札が肝心な時に機能しないのは考え物だと、彼女は舌を打った。
「安心して、こちらでなんとかしてみせる」
不安げに見守る忍に、彼女はそう言った。
「案はあるわけ?」
「ある。神頼みだけど」
「神頼みって……! ふざけないでよ! それでもあんた研究者――」
声を荒げる忍に、雪江はわざとらしく人差し指を横に振り発言を打ち切らせた。そして、彼女は真剣な顔で、そのままモニターに映るレーダーに指を刺す。
「神頼みって、そのままの意味よ。情報は泡でばら撒いてある」
モニターに映るのはただの記号と数列。しかし虎次郎のいる地点へ高速で近づく赤い点に、忍は啓発された。
「夜叉丸か……!」
《隠された時代》 鶴岡八幡宮 別当邸
鶴岡八幡宮に向かうに連れて、異常な冷気が牙を向いた。最も守りの厚い八幡宮周辺を、このような不穏な空気が侵食しているのは前代未聞の出来事であった。
それ故、夜叉丸は焦った。
最速を以ってして彼は境内の別当宅へと急ぐが、悪い予感は的中だ。どこの誰がばら撒いたのか、現時点で起こっている非常事態を細かに映した蒼雪が進行方向から流れてくる。自分に助けを請う程、向こうは手も足も出ない状況らしい。
案の定、光を辿って木々を駆け抜ければ、虎次郎の身体を抱え、どうしてよいかわからずにいる妃子の姿が飛び込んだ。
「夜叉丸ッ!」
「遅かったか……!」
妃子の求めに従い、彼は二人の元へと舞い降りた。そして、人形のように硬直し、半透明化が進んでゆく虎次郎の身体に、尼の狂気を悟ったのである。
「夜叉丸! 夜叉丸! これは一体……!?」
「離れてろ、妃子! 汚染された思念を取り除く!」
夜叉丸は妃子を下がらせ、虎次郎の胸の上に手を置いた。そして、間髪入れずにダイバースーツ内部の再構築は行われる。六生の悪意のあるバリアブルバブルを感知した夜叉丸の力は、即座に洗浄を図った。
「死んではなりませんよ、虎次郎殿!」
光の量が増し、虎次郎の身体がくっきりと輪郭を取り戻して行く。吉兆だと、妃子が緊張を解きかけたその瞬間、虎次郎の身体から光の龍が飛び出した。
「い、今の……!?」
肉眼で一瞬の出来事だった。理解が追いつかぬまま、無意識に視線を虎次郎に戻すと、彼は安らいだように眠っていた。
「俺の思念だ。ヤツの悪意を辿ってった……案外、近くにいるようだな」
「や、夜叉丸! ど、どちらへ行くのです!」
何も語らずに、屋敷の屋根の上に飛び乗った彼に妃子は問うた。
「決まっている。因縁に蹴りを着けに、だ」
「尼と戦うのですか!?」
「すぐに虎次郎を本宮へと運べ。あそこは結界の核だからな」
そう言い残して、彼は去った。いつもよりも冷たく、殺気立った声に妃子は何も言えずに彼を見送った。
必死だった。彼を助けるために。
そのわずかな間によって、夜叉丸への怨念が鎮まって行くのを妃子は自覚していた。
「夜叉丸……あなたは本当に――」
――戦っているのですか。誰かのために。
彼と入れ違いに雑踏が耳に届く。誰かが自分の名を呼んでいる。複数の家臣達が血相を抱えてこちらに飛び込んできた。
「妃子様! どうなされました!?」
そこには清次の姿もあった。
妃子は気を取り直して、
「六生です。虎次郎殿が狙われました。夜叉丸のおかげで何を逃れましたが……」
「こ、虎次郎はん!? ま、またやられたんでっか!?」
清次は慌てて彼の元に駆け寄った。
「詳しいことは後で。結崎の太夫、すぐに虎次郎殿を本宮にお連れします! 皆の者は戦支度を。幕府に報告し、鎌倉の警備を固めるのです。紫紺の尼は、すぐ近くにいます!」
人が変わったような、毅然とした妃子の姿に一同は感嘆とした。
自分の身は自分で護る。
立ち直った彼女の脳裏に描かれていたのは、防衛と民衆の避難の段取り。叔父、南野永常の名に恥じない器量を、妃子は発揮しつつあった。
光の龍が飛び出して数秒後。
それは小高い丘で、見物していた六生の手元を噛みついた。
「――ッ!」
稲妻が落ちたに等しい衝撃に、彼女の手が消し炭と化す。
致命傷を与えるものではないが、六生の顔色は急変する。彼女は焦がされた手の甲を見つめて、しゃくりあげながら炭化した箇所を引っ掻き始めた。
「……嫌だ。嫌だ……嫌だァァァァ! 嫌、嫌、嫌! 消えて、消えて、消えて、消えて! 消えろ! 消えろって……!」
狂気の沙汰、爪を立てそれを削り取ろうとするが、彼女の右手は芯まで真っ黒だ。それどころか血すら出ないその手は、物理的なもので壊れるはずもなかった。
やっとそれに気づいたのか、彼女は虚脱状態に陥った。だが、すぐに感情をころりと変え、病み切った笑顔で空を眺めた。
気違い染みた高笑が、曇天の闇夜に木霊する。
「あーあ。違う、違う。こうしなきゃ! こうしなきゃ、治るわけないじゃない!」
気を込めた手の甲が青く光る。消し炭が美しい女の手へと変化していた。
六生は愛おしそうに元に戻った手の甲をなでる。
「酷い神様。もうじき私を殺しに来る……でも、サシで勝負するほど私は馬鹿じゃないわ。あなたの相手はあれがやってくれる……私の魂の一部を分け与えた作品が」
足元から響く獣のような唸り声に彼女の自信は鉄壁だった。岩場を崩しかねない振動が轟き、それは次第に鎌倉市中へと向かう。
鼻から上の顔半分を隠す甲冑、その下に覗くただれた口。生き返った死人を思わせる不気味な巨人に、人々は絶望の淵に叩き落されることになろう。
「あれを倒さない限り、あなたは何も救えない。でも、私の魂は救われる」
六生は顔を隠していた紫紺の帽子を取り、足元に投げ捨てた。
「もうすぐで、夢を見なくて済む」
帽子が地に落ちる前に、彼女は姿を消した。




