第弐拾五話 雨、降り止んだ夜
《隠された時代》 朱雀の宮
夜叉丸は、変わり果てた鳥居の姿に愕然とした。
「あの尼……どれほどの力を秘めている!」
粉砕された朱色の残骸が、兵どもの骸から流れた血液に浸かる。風の前の塵に、夜叉丸の自信は初めて揺らいだ。
判断を間違った。尼の力量は未知数だ。もう何百年も自分の目を忍んで本来の力を隠してきたのだ。
「まずい……今頃は市中で息を潜めているに違いない」
『鎌倉を覆う気の流れが良うございません。餓鬼の気配がします。時間が経てば経つほど、こちらが不利になるのは必須』
『夜叉丸、我らが知る限りもっとも危うい事態やもしれませぬ』
「向こうは勝負に出たということだ。だけど、何百年も俺の追撃をかわしてきた六生の判断にしては、些か思い切りが良過ぎる」
彼は鶴岡八幡宮の方角を睨んだ。
「直接、虎次郎を狙うつもりだとしても」
『夜叉丸、私情に駆られてはなりません。あの方が命を落とすようなことがあれば、それこそ六生の思う壺……二度と尼の正体を知る機会はございませぬ』
女達の言葉に彼は頷き、再び天を駆けた。
鶴岡八幡宮 別当邸
憂いに沈んだ虎次郎に、妃子は同情することを拒んだ。愚かなことと知りながら、自分を孤独にした責任が彼にもあると、彼女は恨めしさに隙を許してしまっていたのだ。
柱の陰で妃子は虎次郎の話を一部始終耳にしていた。
細かいことは良くわからない。だが、彼は紫紺の尼を殺すためにこの時代やってきた。その事実は妃子に衝撃を与えたが、虎次郎の嘆き苦しむこの姿から、大方の事情を把握することなど容易かった。
何も知らされずに、利用されていたのだ。
「生きる希望が……消えたのは私も同じ……」
今はとても、人と話す余裕などないであろう。声をかけたところで、邪険に突っ放されるのがオチだ。
長居は無用。そう判断し、妃子は自分の部屋へと向かおうとした。
しかし、
「……誰だ」
虎次郎が彼女の気配に気づいたのが先だった。妃子は仕方なしに足を止め、潔く柱の陰から姿を現す。
意外な人間の姿に虎次郎も些か驚いたような顔つきを見せた。
「失礼いたしました。人の声が聞こえたものですから……」
「そう……」
「はい」
妙な間に、妃子はあくせくと言葉を続けた。
「そ、その……清次があなたのことを心配しておりました。お一人でいらっしゃるものではございません。鶴岡八幡宮の内部とは言え、紫紺の尼があなたを狙っているのですから……私もそう思います」
すると、虎次郎は自嘲気味に笑った。
「一人ね……別にいいさ、どうだって。それを言うならお前も気をつけな。どこほっつき歩いてたんだか知らねぇけど……みんな心配してたぜ」
心配されることが神経を逆なでたのか、彼は明らかに苛立っていた。挑発的な口調に妃子も眉をひそめるが、ぐっとこらえた。
「……そうですね。一人の方が色々と気が紛れますから……どうぞ、気が済むまでゆるりとなさい。私は休みます」
「そうするよ。じゃあな」
煙たそうに、彼は妃子をあしらった。甘えるにも程があると腹立たしく思いながら、彼女は今度こそ去ろうとするが、大事なことを一つ思い出す。
まだ、命を救ってくれた礼を述べていない――
「……それと、もう一つだけ」
「何だよ」
「その……」
言葉に詰まる。だが、言うのだ。自分の気持ちに反しているとしても礼を言うのだ。
心を偽っても、高くあれ。それが得宗の精神だと妃子は自分を戒めた。
「……昨夜は助けてくださり、真にありがとうございました」
彼女は虎次郎の前に座し、深々と頭を下げた。
「この命あるのは紛れもなくあなたが救ってくださった故、礼を言わずに横柄な態度をいたしましたこと、深くお詫び申し上げます」
「…………別に。俺も一杯一杯だったから……」
「いいえ、命の恩人を無下にいたしましたのと同じこと。この妃子、恥ずべき行いをしたのでございます。どうぞ、お諌めくださいませ」
育ちの良さが染み出る振る舞いであった。プライドの高い彼女がこのように頭を下げることが何を意味しているのか、虎次郎は嫌でも理解しただろう。
だが、妃子は墓穴を掘った。馬鹿正直な彼女が自分の本心を隠し切れるほど、器用であるはずはなかった――
「何でそうやって……無理してんだ」
「はい?」
「その顔、嫌味かよ」
「顔……?」
「とぼけんなよ。言えばいいじゃねぇか……何で助けたんだって、責めればいいだろ! いつまでもそんな、型にはまったような台詞吐いて……!」
彼の哀しい瞳に、妃子は一気に青ざめた。
「そんなこと……!」
「頼むよ! そうやって嘘つかれるのが一番辛いんだ! 本当のこと言えよ……言ってくれ……!」
知らぬ間に、自分の傲慢さは顔に恨みつらみを綴っていたらしい。謝罪どころか、こんな顔で彼の前に立つことは皮肉でしかなかった。
「……申し訳……ございません」
全身から力が抜け落ち、彼女はそう零した。
酷い話だ。彼の態度に立腹するなど筋違いだったのだ。そうさせていたのは、他ならぬ自分だった。自分の傲慢さが面に表れていたゆえだ。
――一番弱いのは、自分。
そうと認めても、自分の弱さは本心を留めておくことができなかった。みっともない、成らず者のすることだと蔑んでも、心は恐ろしいほど正直だった。
「あなたは……余計なことをしました……」
「……」
「死んだほうがマシだったと……何度も思った……!」
袴を握り締めるその手元をぽつぽつと涙が濡らした。
泣き出したいのは虎次郎も同じだった。明かされた本心に彼の緊張は解かれ、ただ一言「そうか」と頷いた。
「俺が悪かった……ダイバーなんて夢を見て、人の人生を引っ掻き回しただけだった。本当に、ごめん……」
悟ったように彼の表情は穏やかに戻る。その様子に妃子は、首を大きく横に振った。
「違う……! まだ話を聞いて……!」
「いいんだよ。これで帰ればことは済む……全部元通りだ」
「私は! あなたに言われて初めて気づきました……!」
「……何を」
「……人の力に頼ってばかりだったこと」
もう、彼に何を言っても遅いかもしれない。
だけど、妃子に劇的な変化をもたらしたのは彼だ。
寿福寺からの夜道、ずっと泣いていた訳じゃない。
聞いて欲しい。一瞬でも考えた、自分なりの答えを――
「独りになるのは辛い。だけど、理解しました。私は独りになったとたん、道がわからず右往左往しているのです。それで苛立って……自分のことしか考えられなかった」
彼女は悲しげな背中に向かって続けた。
「だけど今、少しでも前に進みたいと思う自分がいます。それは他でもない……あなたが私の弱さをはっきり言ったから、あなたの叱咤が私を変えたのです。あなたがいなかったら、私はいつまでも甘えたままだったでしょう」
「……俺がいなくてもそうなってたよ。元々俺と関わりのない人間なんだから」
「でも、私はあなたに出会った。これは事実です。私の心にはしっかりとあなたの生きた時間が刻まれています。例え、あなたが否定しても」
妃子は胸に手を当てた。
「無駄に思えることも考え方一つだそうです。些細な価値を見出せれば……あなたの得るものは大きくなる」
「価値ね……」
「受け売りの言葉ですが、私自身に必要な力だと肝に銘じました。この石頭をやわらかくするためにも」
「……なんだそりゃ」
力なくであるが、虎次郎は笑った。
「……不思議です。さっきまで明日のことさえ考える余裕などなかったというのに、何かできるような気がしてきました」
「何かって?」
「わかりません。ですが、死んだほうがマシだという気持ちはいつの間にか消え失せました。生きたかったのかもしれません、私は……」
柱にもたれた頭を虎次郎はゆっくりと上げた。
「死にたいと思っていたのは……自分に課せられた現実の酷さ故だったのかもしれません。生きたいから、今とても苦しいだけ……」
「生きたいから、苦しい?」
虎次郎の小さな問いかけに妃子は頷いた。
「生きた証を残そうとすればするほど辛い……特にあなたは、前に進もうと誰よりも試行錯誤しているから辛いのかもしれません」
「……人に利用されていたとしても?」
「あなたも利用すればいいのです。彼らを、ご自身が生きるために――」
そう言い切った後、妃子ははっとして、少し慎んだ。
「私としたことが……! 出過ぎたことを」
調子が狂ったのか、いつもの彼女では考えられないようなことばかりが頭に浮かぶ。石頭が早速会得したはずの柔軟性に戸惑いを見せていた。
だが、虎次郎はふと考え込むような素振りを見せて、
「あいつの中の魂は……何かをするために利用してるのか……?」
「え……」
彼は突然、妃子を振り向いた。
「ずっと考えてた……夜叉丸のことを。俺の敵なのか、紫紺の尼を滅ぼすために俺を利用しているだけなのか、疑問だった。だけど、あいつが取り込んだ魂の声を聞いてるってわかった途端、あいつが単純に脅威と思えなくなったんだ。今、お前の言葉で思いついた」
「何を……?」
「夜叉丸は魂達の願いを叶えようとしているじゃないかって……そんな気がする」
唐突な言葉がもたらした衝撃は、妃子の固定観念を灰塵とした。
――何で考えようともしなかったのだろう。
「あいつ、中の魂と対話してるの……知らなかったのか?」
込み上げるものを飲み込んで、妃子は首を横に振った。
「見せぬのです……左様なところを。それが本当だとしたら、夜叉丸は――」
治まったはずの涙が、堰を切ったように流れ出した。
「もしかしたら……あいつは誰よりも人の魂を尊重してるのかもしれない」
「それは……命を受け継ぐ礼と言う訳ですか?」
「たぶん。それを知ってて、お前のお母さんは御魂入りを決意したんじゃないのか?」
彼の話をもっと早くに聞くべきであった。それ以前に、僅かな可能性に気づけなかったこの石頭が悔しくて仕方ない。
夜叉丸は、こういうことを言っていたのだ。
見方一つで、世界が変わる――
「あなたにもっと早く出会いたかった……」
「え?」
「黙って魂を差し出す方ではありませぬ……だって、この妃子の母なのですから!」
涙でぐしゃぐしゃになったその顔が、月夜にも劣らぬ笑顔を見せた。
「そうだよな……きっと、そう――」
彼は突然、言葉を切った。
「虎次郎殿……?」
何やら急変した虎次郎の様子を不可解に思い、妃子は近寄った。途端、絶句する。
「虎次郎殿!」
焦点の定まらない瞳、尋常ではない呼吸の乱れ。記憶に新しい、朱雀の宮で虎次郎に降りかかった悪夢が蘇る。
「だ、誰か! 誰か、人を! 虎次郎殿が――」
彼女は屋敷の内部に向かって力の限り叫んだ。しかし、背後から彼女の頬を掠めるように飛んできた青い光に全身の血が凍る。恐る恐る振り返ると、虎次郎の身体が青く光り輝いていた。
そして、虎次郎の意識はこの時、世にも奇妙な女の声と苦闘していた。
『無駄よ、あいつらはあなたを帰してくれない。あなたはここで死んだ方が幸せよ?』
妃子の声も、廊下をかける足音も彼には届かない。
真っ暗な暗闇の中で、彼に問いかける声だけが彼の生を自覚させる。
『誰だ? お前は誰だ……!?』
この上なく不愉快で、耳障りな笑い声。
忘れもしない、あの女だった。




