第弐拾三話 予感
12年前、彼女はこう言った。
「夜叉丸、私は妃子が五つになるまで生きられないかもしれませぬ。だから、お願いがございます」
「何だ?」
「私を御魂入りさせてくださいませ」
薄々気づいていたことだった。突然の敦子の申し出に夜叉丸は驚いた様子もなく、静かに言葉を続けた。
「先に死ぬことを選ぶのか?」
「違う。あなたの中で生き続けるのでございます。あなたの中で、妃子が大人になるまで見守り続けるのです」
「残酷な母親だ。お前は娘を置き去りにするのだから」
「そうかもしれません……しかし、今のままでは母として妃子に何一つ残してやれませぬ。それは何もせずに死ぬのと同じ……残るのは未練だけ」
月明かりを浴びた夜桜が、敦子の儚さを嘆くように桜の雨を降らす。夜叉丸はその桜の木の下で敦子と対峙した。
木の上から見下ろすことを無礼と神に思わせる、そう言う芯の強さがこの儚い女人にはあった。だからこそ夜叉丸は、回廊に立つ彼女を見上げた。そして、一人のこの世に生まれ出でたものとして、彼女の言葉に耳を傾けていた。
「だからこそ、私は自分の魂に最後の花を咲かせとうございます。どんな姿でも、私の命であのこのために出来る最大限のことをしたい。それが私の生きた証」
「怖くないのか? そうなったらお前は死ぬ。魂となり自我を維持できても、いつか消える……二度死ぬんだ」
「申し上げた通り、何もせぬことこそ私の罪。私は最後の一瞬まで、生き抜くことを諦めません」
そう言い切った心の強さと反比例して、敦子の身体はこの時すでに限界を迎えようとしていた。
そして、この夜から七日後。
夜叉丸はこの桜の木下で、敦子の魂をその身に迎えた。
その直後、彼女の言った言葉を今でも忘れることはなかった。
「夜叉丸、私は嬉しゅうございます。たった一つだけ、人生において叶えたかった願いが実現いたしました。どんな姿だっていい、みっともなくたっていい……私は妃子の成長を見届けてみせます。この中の誰にも負けませぬ……私は自分の人生をここで勝ち取ります」
敦子は今でも健在だ。まだ肉体を失っていなかった頃よりもずっと、たくましい生き様を自分達に見せつけてきた。
人とは何だ?
心身ともに満足であることか?
否。むしろ不完全であることだ。
肉体を失っても生きようとする魂がここにいる。生まれつき恵まれなかったが、逆行から数多を得ようとする魂がここにいる。
不完全だからこそ、何かを得ようと運命に挑む。
その姿が羨ましいほど、美しい――
《隠された時代》 鶴岡八幡宮
「……そうか」
――だから俺は、気に食わないんだ。
神とあがめられることの退屈さ、完成されてしまった存在があまりにもくだらなく思えてしまう。先の見えている自分ほど、面白くない存在であるのは間違いない。
だから、不完全な存在が羨ましいのだ。
気がつけば、辺りは闇に飲み込まれた。途切れ途切れに雲間から射す月光が唯一、夜道の道標だ。鶴岡八幡宮の大銀杏から見下ろす市街地は、昨夜の朱雀の宮での騒動を警戒してか、静まり返っていた。
だが、夜風に紛れて不穏な匂いが彼の鼻を突く。
「……何だ」
微かな気配、それもかなりの数だ。そして妙な音が朱雀の宮方面から聞こえる。
「まさか――!?」
彼が警戒して立ち上がった矢先、その気配がぷつりと途切れた。肌から消えた触感に、彼は予期せぬ事態に気づく。
「馬鹿な……破られたのか、結界が!」
別当邸
夜叉丸がどこかへ飛び立ったのを目にしたが、妃子は特に気にするつもりもなかった。それも寿福寺で彼に言われたことがかなり応え、このような日暮れまで呆然と時を過ごしてしまったためだ。
精神的に疲弊しきった妃子は、ついに自分が主となってしまった住まいへと赴く。いつもより人気が多いことが、何やら違和感でしかなかった。
「お帰りなさいませ、妃子様」
自室への廊下の途中で、彼女は清次に出くわした。
「中々お戻りにならへんから、夕食をどないしようって、家臣の方々が騒いでらっしゃいましたで」
彼はいたって普通に接してくれた。その方が今の妃子にはありがたかった。
「そうですか……折角ですが、私の分はよろしいとお伝えください」
「何言うてますの! 昨日からろくに食事もとってへんのでしょう!?」
「問題ありません。私は部屋に戻ります」
清次の気遣いに甘え過ぎだとわかっていながらも、妃子は突き放すように再び独りの時間を過ごすつもりでいた。
「ほんなら……部屋に行く途中、虎次郎はんを呼んできてくれまへんか」
「……あの方を?」
「はい。いつ紫紺の尼が現れるかもわからへんのです。あまり、一人にしておくっちゅうのも心配やし……」
思えば、昨夜の宴の席での口論以来、妃子は虎次郎とろくに口も利いていなかった。不本意ではあったが、彼は命の恩人――
「かしこまりました。どこにいらっしゃるのですか?」
「源平池が見える回廊です。その辺りに腰掛けてますわ」
それだけ聞くと、彼女は一人で虎次郎を探しに向かった。




