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第弐拾話 慟哭、地図なき道の上に

隠された時代(ハイデンヒストリー)》 鎌倉 寿福寺

 

 北条氏に縁の深い臨済宗のこの寺は、妃子の生きた1333年と推定される当時でも、鎌倉五山の一角として幕府との結びつきは堅固なものであった。もちらん妃子、そして南野一門もこの寺に厚い信仰を抱き、亡き妃子の母、敦子の菩提を弔ってもらっていた。


 四半刻前、すでに妃子は寝床から抜け出し、鶴岡八幡宮からさほど離れていないとこの寺へと身を引きずって歩いた。門前に姿を見せた妃子の姿に尼達は仰天し、すぐに彼女を鶴岡八幡宮へと送り返そうと彼女に説得に走るが、大勢が諭しにかかったところで芯を曲げる妃子ではない。彼女は頑なに尼達を振り解き、墓地へと叔父から預かった宝刀〈白鷺〉を携え、黙々と墓地を突き進んだ。


 得宗家の先祖が眠る区画の片隅に、ひっそりと小さな墓石がある。その墓石の前に彼女は立つなり、彼女は声を震わせて呟いた。


「母上……」


 誰が供えているのか、未だに多くの花と線香が絶えないその墓石は、紛れもなく現執権が就任した際に夜叉丸に御魂入りした母、敦子のものであった。


 昨夜の雨のせいか、岩に掘られた洞窟の天井から水が滴り落ちていた。水の音に聞き耳を立てたまま、妃子は溢れ出る悲しみに心を浸す以外、魂をなだめる術はなかった。


「そこにお前の母親はいないぞ」


 来た。


 予測はしていた。そのために、わざわざ鶴岡の本殿から見下ろせる道を選んでここまで来たのだ。眉一つ動かさぬまま、妃子は背後を見た。


「何をするのかと思えば、そんなもの所詮ただの石だ」


 何度もこの場で聞かされた台詞。案の定、夜叉丸が立っていた。


「……よくここに来られますこと。ここはあなたに魂を奪われた人々の安息の地です」

「言ったはずだ。俺には石の群れにしか見えない」

「相も変わらず、無礼なお言葉ですこと。どなたのおかげで、その命が長らえているとお思いですか。その骨がこの土に埋っているのです……敬うこともできないのですか」

「さあな。肉体なんぞ所詮は入れ物よ、入れ物に敬意を払っても仕方ない。肝心なのは魂だ。入れ物が立派でも、中身が腐っていればこの世に生まれた価値など皆無だからな」

「やはり……人の気持ちを踏み躙るッ! そうやって高い所から私達を見下ろすことしかできない高慢な化物め……! いつか人の手によって滅ぼされるがいいッ!」


 妃子の顔が歪む。声を荒げたために響いてしまったのか、彼女は肋を押さえていた。


「話が聞こえていないようだな、お前も童の時から変わらんヤツよ。悲しいことがあると、耐え切れずに母親を求める。その石にすがりつくお前を何度みたことか……これでは敦子も心が休まらん」

「気安く母の名を口にしなさるなッ! あなたにはわからない、私がどんな想いで今日まで北条を背負って来たのか!? 得宗家からどんな扱いをされて、叔父と共に耐え忍んできたのか!? その元凶のあなたにはわからない……優しくしてくれた最後の家族を亡くした私の悲しみを! あなたの一部になった、母の大切な人達であったのに……あなたは恩に背いて見殺しにした! お前は母上に家族を見殺しにさせたのですよ、夜叉丸! 許さない……私はお前を許さない……! 幕府も餓鬼も神も全てッ!」

「それが御魂入りをしたいと言い出した憎しみの全てか」

「そうです! 私にはもはや、生きる意味などありません。あなたの一部となって、餓鬼と紫紺の尼をこの憎しみで焼き尽くことが唯一の願い。だから殺してくださいませ、夜叉丸。幼き頃、あの朱雀の宮で母上を殺したように、母の墓前で私も眠りとうございます!」


 一度蓋を開けてしまった感情は、自制も利かぬ勢いで溢れ出し、理性を溺れさせた。自分の顔に流れ続ける涙にも気づかぬほどに。


「……そうか。言いたいことはそれだけか?」


 返事も待たずに夜叉丸は踏み出した。小面が暗示するのは冷酷で合理的な判断だと、妃子は確信した。


 ――これで、母上の元へ。


 喜びと安堵。それがじわりと心を優しく包む。


 もう思い残すことはない。全ては最後の望みのため、彼女は肉体を捨てることを神から許されたのだから。


 そう、願いは叶うはずであった――


「甘ったれんなッ! 妃子」


 不意に平手が、妃子の頬を叩いた。


 面の下から放たれた声は、驚くほど人間らしい怒りが宿る。乱れた口調、怒鳴り声、それは今まで冷淡であった神の言葉ではない――人間の少年の言葉だった。


「生きる意味? まだ17年しか生きてない小娘が何をほざいてやがる。狭い世界の価値観で母親の命を語るな!」

「なっ……!」

「何のために……敦子が俺に命を捧げたかも考えもしない。そんなお前が人の上に立つつもりだったとは反吐が出る」

「何のために? 北条のため以外に何がございましょう!?」

「それしか浮かばないのか? 敦子も哀れだ。お前はただ現実から眼を背けて、夢に逃げようとしているだけなんだからな! 童の時からまるで成長していない……!」


 あの無表情な小面が感情を隠せずにいる。何が彼をここまで駆り立てたのか、動揺する妃子にはまったく見当のつかない出来事であった。


 ただ、今の彼の言葉は、平常よりも妃子の心に応えた。


「お前に何がわかるの!? 私から大事なものを奪って、見殺しにしてその言い草とは! 破滅した人間をそれ以上の地獄に叩き落すおつもりですか!?」

「なら、そうやって、いつまでも誰かに助けを求めていればいい! 得宗家の忘れ形見が聞いて呆れる……お前より虎次郎のほうがよほどマシだ。お前は戦おうともしていないんだからな」


 それは二度目の侮辱だった。彼の言葉を引き金に、妃子の記憶から虎次郎との口論が掘り起こされる。


 彼は否定した、自分の生き様を真正面から。そして夜叉丸も、彼と同じ事を口にする。


 信念を抱いて生きることがそんなにもいけないことなのか――


「なぜあの方の名前が出るのです……!」

「あいつの記憶を見た。あいつは餓鬼でも紫紺の尼の手下でもない。ただの哀れな星の下に生まれたお前と歳も変わらぬ男子よ。ただ一度の事故がきっかけで、健全な身体を失った。二度とまともに話すこともできぬかもしれん身の上だ」

「知っています。あの方が話してくださいました」

「……ならば、お前は何をしているんだ?」


 何かが胸を串刺しにした。

 

 言葉が出ない。


 その瞬間、恐ろしく、頭は夜叉丸の真意を理解していた。


「わからないのか、妃子。お前と虎次郎は決定的に違う。あいつは運命に抗いながら、必死に自分の生きる道を模索している。限られた自分の可能性を試そうと努力しているんだよ。なのにお前は何だ? 健全な肉体、地位も財力もあると言うのに破滅しただと?」

「あの方と比べないで! 私は――」

「甘ったれ娘が。自分を導いてくれる人間がいなくなったとたん、訳がわからんと泣き喚いている幼子だよ、お前は! 人から言われたことしかお前はできない。自分で道を切り開く努力ができない、正真正銘のクズだ!」

「クズですって……! わ、私が現実から逃げているとおっしゃるの!?」

「俺を憎むのはいい。だが、お前の言う憎しみなんて薄っぺらな感情でしかない。痛くも痒くもない、戯言よ。その程度で御魂入りなど笑わせてくれる! この身に滾る魂どもの憎しみはそんなものではない。憎しみから己の望んだ未来を勝ち取ろうとする生きた人間の魂がここにいる!」


 仇が誰よりも命を尊んでいた事実に、妃子は言い返すことも出来なかった。


 先人を侮辱していたのは自分だ。その過ちに苦痛しか感じられない自分の器が呪わしい。


 認めたくない。だが、甘かった。甘えていたのだ。


 結局、夜叉丸が握り締めるその胸の奥にも、妃子の居場所はなかったのだから――


「俺の中には生きた人間(、、、、、)しかいない。俺に死を求めたお前の言葉は、こいつらへの無礼だ。それは断じて許さん」

「……」

「だから俺は言った。お前の魂など必要ない! お前なんて敦子の足元にも及ばない」


 聞くに堪えかねた妃子はついに耳を塞ぎ、その場にしゃがみ込んだ。止まらぬ涙で土を濡らし続ける彼女に、夜叉丸は容赦なく言葉を続けた。


「今のままならお前は黙ってても死ぬよ、妃子。そのくだらない高慢さが傷つくのに耐えかねて、いつか命を落とす」

「うるさい……」

「虎次郎も、家臣達もお前のせいで死ぬかもな」

「うるさい……!」

「考え方一つで全てが変わる。そのことに気づけない人間は、堕ちていくだけだ」


 泥濘に足音が立った。耳を塞いだ彼女はその音が遠ざかるのを気配で感じていた。ふと、涙に塗れた顔を上げた時、夜叉丸の背中が遥か彼方を行くように映った。


 夜叉丸の向かう少し先に、心配そうにこちらの様子を窺っていた寿福寺の尼がいた。すれ違い様に、夜叉丸は足を止め、尼達に向かって言った。


「……悪い、加減を間違えた」


 すると、


「……いいえ、これもあの方の試練にございます」


 妃子の心を完膚なきまで叩きのめしたにもかかわらず、夜叉丸を迎えたのは尼達の温かな眼差しだった。


 だが夜叉丸はきまりが悪くなったのか、無言で彼女達の元から立ち去った。


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