第壱話 魂、時を越えて
《隠された時代》 由比ヶ浜
駿馬はすぐに妃子達を極楽寺付近まで運び、それらしき一座の発見に大いに貢献してくれた。一座もまた、あの青き光の柱を目撃し、海岸沿いまで急いできたところをたまたま妃子一行と鉢合わせた次第である。
運良く、餓鬼には遭遇せずに合流は叶った。
しかし、問題が一つ発生し、妃子はその対処に追われることとなる。それも結崎座の棟梁が単身、由比ヶ浜へ乗り込んでしまったという事態であった――
「まったく……! これだから芸人は!」
愛馬は颯爽と松林を駆け抜ける。他の座衆を供の侍達に預け、妃子は結崎座の棟梁を探しに浜へと急いだ。
餓鬼が猛威を為すこの世に、一人であの奇妙な光を追いかけると何と軽率か。しかし、緊急時とは言え、彼女自身も供の制止を振り切り、一人で彼の捜索に奔走している。
諌めたところでそれを指摘されてしまったら、ぐうの音も出ない。
気持ちを静め、彼女は周囲の警戒に努める。
逆に考えれば、自分にとっても好都合なのは違いない。知らせを受けている餓鬼の出現は山中、ならば由比ヶ浜の反対の方向だ。
あの光の正体、正直それは自分も気になるところである。餓鬼に遭遇する危険は低く、お役目を果たしながら疑問も解消されるならば、それに越したことはない。
好機と確信した矢先、太陽に煌く大海原が彼女を出迎えた。妃子は愛馬を止め、松林の出口に待たせる。
砂浜に降り立つと、予想通りの結果に妃子は安堵した。
何もない砂浜には一人、へっぴり腰で何かを覗き見る奇妙な男の姿があった。物々しさのかけらもない直垂姿は、妃子の探している結崎座の棟梁と見て相違ない。
「そこにおられるのは、結崎座の太夫か! 何をしておられるのです!」
浜辺に響く彼女の叱責に気づいたのか、彼は後ろを振り返り、必死な顔で「シーッ!」と妃子に訴えかけた。
不思議に思った妃子は足早に彼の元へ向かう。その際、彼女を呼ぶべきか、追い払うべきか混乱した彼は、よくわからない滑稽な動きの末、結局、彼女の助太刀を要請した。
「ま、まさか……つ、鶴岡の巫女様でっか……!?」
声を殺して、彼は尋ねた。
「左様でございます。結崎座の服部三郎清次ですね? お仲間が心配しておられますぞ」
「す、すんまへん……! ご迷惑をおかけして恐縮至極なんやけど――」
清次はちらりと、背後を見た。
その折、どこからともなく現れた、蛍に似た青い光がほわりと彼女の視界の端を飛んだ。それに事態を把握した妃子は、清次の陰で見えずにいた混乱の元凶を目の当たりにする。
そして、彼女は驚嘆した。
「蒼雪が舞う折、現れるのは神か鬼だと聞いておりましたのに……これは、人ではございませんか」
天からまっすぐに落ちて来た光の柱に導かれて、妃子達はこの由比ヶ浜の浜辺にやってきた。だが、彼女達を待ち受けていたのは鬼でも神でもなく、妃子と歳も変わらない一人の少年であった。うつ伏せのまま彼は深い眠りについているらしく、二人の殺伐とした気配に気づく様子はない。
「き、気をつけなはれや、妃子様。餓鬼は姿を変えるっちゅうし……何せ、光の中から現れたんやから、人ではありまへんやろ」
「光の中? では、あの光の柱は彼によるものなのですね?」
「は、はい。わいが来た時には、もっと蒼雪が舞っとりましたさかい……」
紅の簡素な直垂姿、とても武士とは思えない短髪、戦の気配も見えぬ横顔。普通の人間でないことは一目瞭然だった。
だが、それ以上に気になる点がある。少年の様子を観察してみたが、彼の肉体に違和感を覚えたのだ。理由はうまく説明できないが、生きている人間というよりは人形を目前にしているような感じがするのだ。もちろん、彼は息をしている。だが、生きている人間を前にした時、無意識に感じる「何か」が彼にはない。
一体、彼は何者なのだ。
「……ちょっと、妃子様!? やめなはれ、危ないって!」
これを好奇心と呼ぶのか。妃子はその真意を確かめたいという衝動に駆られ、眠る少年の左頬に触れた。そして息を呑んだ。違和感が暗示した通り、その肌は人の温かさではない、悲しい冷たさを帯びていた。
「冷たい肌……馬鹿な、これで彼は生きているのですか? まるで死人のような――」
その時だった。少年が唸った。
寝言のようなものでしかなかったが、二人は肝を冷やし、すぐさま少年から離れて動向を窺った。再び少年が唸り、突然寝返りを打つと、妃子は無防備な清次を庇うように太刀に手をかけた。
間もなく、少年は目を開いた。張り詰めた空気にも気づくことなく、少年はしばし呆然と空を仰いでいた。
そして彼は一言呟いた。
「生きてるのか……? 俺」
どこか負傷している様子もなく、少年は状態を起こし、由比ヶ浜を一望した。
「どこだ……ここ。俺は何でこんなところに……」
「ここは鎌倉の由比ヶ浜にございます」
「……鎌倉? そんなわけねぇ、だって俺は東京に――」
彼がそう言いかけると、少年は初めて妃子達の存在に気づいた。妃子は抜刀し、臨戦態勢で彼の目覚めを迎えた。だが、少年は殺気漂う彼女を認めても、身構える様子もなく、ただ魚のように目をぎょっと見開いてパクパクと口を動かすだけであった。
「大人しく私の問に答えるのならば、手荒な真似はいたしません。あなたは一体何者でございますか」
「ちょっと……状況が飲めないんだけど! あれ? 何だ、この服!? な、何それ本物? お宅ら時代劇の役者かなんかなの? いや、でも、俺、事故ったはずなのに何で海にいんの……!?」
「私が聞いているのです! 何を訳のわからぬことを――」
「あんたらが俺を連れ出したのか!? 俺を東京の調布からこんなところに連れてきたのか!? あの後、どうなったんだ! 昴は無事だったのか!? 野球部のみんなは!?」
「それ以上近寄りなさるな! さもなくば……!」
「ふざけてる場合じゃねぇって言ってんだろ!」
少年は豹変したように顔を歪め、彼女に掴みかかった。太刀すら恐れぬ気迫に妃子は面食らうが、話を真に受けないその狼藉振りに気の強い彼女は熱くなった。
両肩を掴んだ少年の手を振り払い、妃子はキッと彼を睨みつける。
「ふざける!? それはそちらのことでしょう! 都合の悪いことには答えようとしない! やはり私の思っていた通り!」
「はぁ!? 何言って――」
「結崎の太夫、こやつは紫紺の尼の仲間にございます! 餓鬼の偽りの姿、この妃子の目は騙せませぬ!」
「何、ファンタジー入り込んでんだ! 頭おかしいんじゃないのか!?」
「頭がおかしいですって……! 何と無礼な! 穏便に済めばよかったものをつけあがりおって! 成敗して――」
「ちょ、ちょっと待ちいな、おふた方! 話がややこしゅうなっとりますさかい!」
「邪魔です!」
清次が慌てて後ろから彼女の腕を押さえるが、怒った妃子はそれをいとも簡単に払い除けてしまう。
「問答無用! 正体を割らぬというのなら、力尽くでも吐かせてみせます!」
「あ、あかん! はよ逃げな――」
「斬ってみろよ、役者バカ! どうせ脅しだろ?」
「餓鬼め……! 覚悟ォォッ!」
最悪だ、と清次は目を覆った。今の一言で妃子は癇癪玉を破裂させ、彼に斬りかかってしまった。大人しくしていれば良かったものを、彼の喧嘩っ早さが運の尽き、ただの怪我では済むまい。
間違いなく殺傷沙汰だ、と清次は覚悟した。
しかし、予想は覆る。確かに、妃子の渾身の一撃は逃げる隙も与えないものであった。
だが、勝ったのは少年の動体視力。鋭い眼光を放ち、彼は刹那にして刃を白刃取りにしてしまったのだ。
まさかの事態に妃子は目を疑った。
「何ですって……!?」
「俺の動体視力をなめんな! バッティングセンターの球のが早いってのッ!」
「うわッ!」
屈辱を自覚する暇もなく、妃子は少年に太刀を奪われ、砂浜に尻餅をつかされた。
「うちの学校の剣道部のほうがよっぽど強ぇ。つーか、こんなもん振り回しやがって、あぶねぇだろッ! どういうつもりだよ、まったく」
少年は太刀の刃をぎゅっと握り、幼子を相手にする調子で妃子を叱りつける。だが、女は寝耳に水の入る如し、その光景に絶句していた。
「馬鹿な……! 何ともないのでございますか!?」
「な、何ともないって何がだよ」
恐れを帯びた妃子の声色が少年の表情を苛立ちから不安へ変える。
「あり得ない! そんなに強く刃を握って、手には血が流れていない!」
「血? まだそんなこと言ってんのかよ。それはこれが偽物だからだろ! ほら、ご覧の通り傷一つないし、血も出てない!」
「話が噛み合っておりません! 私が言いたいのは、その刀をそんなに強く握ったら、指を切り落としてもおかしくないと申したいのです!」
妃子の表情は化け物を前にしたものに等しかった。だが、彼はその事実の大きさに気づく様子もなく、ただ少し、困ったように刀と妃子を見比べていた。
「な、何だよ……そんな青ざめて! やめてくれよ、いい加減にその芝居!」
彼との会話が振り出しに戻ると、その傍らで二人の動向を見守っていた清次の脳裏に一つの疑問が生まれた。
少年は本当に何も知らないのではないか。
いや、言い換えるならば「何もわかっていない」というのが正しい。おそらく、そこに座り込んでいる妃子も同じことを思っているだろう。彼との話が噛み合う気配がないのも、彼がこちらの常識を何一つとして知らないからなのだ。
それは、彼がこの時代の枠組外の人間――異質な存在であることを示す。
「……ようわかった。あんさん、とりあえず落ち着いてわいの話を聞いてくれへんか?」
「な、何だよ。今更……」
「まず、その太刀を返してくれへんか」
「できるか! また、わけのわからねぇことをされちゃ、たまんねぇっての!」
「心配せんで。渡してくれはったら、こっちも観念して全部話ますって」
「……本当だな?」
「ほんま、ほんま! えらい怒らしてすんまへん。こっちも腹が決まったさかい、さあ、太刀を渡して次行きましょか」
できるだけ刺激しないよう清次は言葉を選び、彼を誘導していた。それが功を奏したのか、少年は口を尖らせ、ぶっきら棒に太刀を突き出した。
「ありがとうございます……せや、妃子様、聞きたいことがありますねん」
「何でしょう?」
「これでその流木、斬れまっか」
清次の背後、彼が親指で指した先には太い丸太が砂に突き刺さっていた。少年は怪訝そうに彼を覗き込むが、妃子は鋭い顔つきで頷いた。
「お安い御用です」
「は? お、おい……一体何するつもりだよ」
少年を気にも留めず、妃子はすぐに刀を受け取り、流木の前に立った。そして彼女は深く深呼吸し、太刀を鞘に納め、構える。
「まあ、見てなはれ」
清次が諭すようにそう言うと、妃子は目にも留まらぬ速さで抜刀した。瞬きも許さぬ間に、流木の上半分は空を飛び、どすっと砂の上に落ちた。
「え……」
まっすぐ斬られた美しい木目、その意味に少年の顔色が転ずる。そして、恐る恐る妃子と清次を見た。
「間違っているのはあなたでございます。ご覧になったでしょう? この太刀は本物にございます」
「本物……? 嘘だろ? だって俺は……!」
「そう。あなたの手は無傷のまま。あれほど強く握って傷一つない。しかし、この太刀は私のような小娘でも、丸太どころか人の首をたやすく一刀両断できる名刀にございます。あなたが人間であれば、その手が無傷なのはおかしなことでございましょう」
「おかしいって……」
「ご存知ですか? ご自分の肌が恐ろしく冷たいことを」
「え……」
彼は慌てて自分の頬を触り、その温感に神経を研ぎ澄ます。しかし、結果は妃子達が示した反応と同様に終わる。信じていたことが崩れ去り、絶望と対峙することなった少年の姿は哀れな道化そのものであった。
「記憶がないんか、芝居かは知らんけど、あんさんが人ではないことは確かや。幕府のお膝元に現れたんは運の尽きやで、紫紺の尼の手下やないんなら、はっきりそう言わんと鎌倉の神様に殺されてしまうで」
「人じゃない……? 俺が? 殺されるって・……何で!?」
「それはあなたが餓鬼である自覚がない可能性がございます故。我らに害を及ぼすならば人の敵、神が手を下さずとも幕府があなたを狩りましょう。もしも、まだ人としての心があるなら、全てをお話なさい。さすれば、私が助命のお力になります」
よほど精神的に追いやられたのか、かっとなって反論を飛ばす様子はなく、少年は沈黙し、一点を見つめていた。
妃子と清次にとっては緊迫の間だった。化けの皮を剥ぐのではないかと、妃子の太刀を握る手に力が篭るが、少年は顔を上げ、何かを見つけようと一帯を見渡すばかりであった。ついに、彼の求めるものが見つからなかったのだろう、その顔はさらに色を失った。
その時、彼は何かに気づいたのか、酷く動揺した様子で――
「そうか……俺、駄目だったんだ……!」
その身に背負いきれぬ後悔の念を露にした。
妃子と清次は互いに顔を見合す。
「……駄目だったとは?」
すると、少年はゆっくりと冷たい唇を動かして。
「サインしたんだ……! だから、俺こんなところに飛ばされたのか!」
「『さい』? それは何のことでございますか?」
「まさか昴もここに……? そんなバカな……嘘だ、嘘だ……」
聞いたことのない言葉、聞く気のない彼。事態を飲み込めずにいる妃子と清次を置き去りに、彼の心は暗い泥沼に囚われて窒息しかけていた。
震える背中に妃子が言葉を投げかけようとした時、一つの悲鳴が審議を打ち切った。一斉に声の方向に注意を向けると、石垣の間から、白髪の老婆がふらつきながら逃げてくる。
「何事かしら……!? 来なさい、二人とも!」
妃子が先陣を切って松林の傍の石垣へ向かうと、清次は消沈した少年の腕を掴み、走り出した。
「だ、誰かぁぁぁ! た、助けて……! 誰か……!」
「そこの方、いかがされましたか!?」
老婆は妃子に気づくと砂の上に倒れこみ、彼女の足元にしがみついた。
「どうされたのです……そんな血相を抱えて!」
老婆は硬直する手を必死に動かし、震えの止まらぬ指先で松林の奥を指した。
「息子が……息子が……! 餓鬼に!」
「何ですって!?」
戦慄が走る。妃子は泣き出す老婆の手を振り解き、石垣の向こう側へと飛び出した。清次も少年と共に彼女に続いたが、ほどなくその歩みは止まることになる。
松林の入り口に、それは無残にも投げ捨ててあった。
「これは……!?」
「首元が喰われております……もはや手遅れです」
松の木下、血に塗れた中年の漁民が一人、うつ伏せに倒れていた。彼は老婆の息子なのだろう。その首元には狼よりも鋭く長い牙で噛まれた穴が二つ空いており、それは骨まで達していた。
そして、その骸は妃子と清次の心にあったとある疑心を露呈させる。妃子はすぐさま振り返り、骸を目の当たりにして脅える少年を睨みつけた。
少年はその敵意にたじろぐ。
「はて、これは今できあがった骸ではございますまい。傷口の血の量から見て、一刻ほど時間は経っております。違いますか?」
「な、何だよ……」
「惚けなさるな! あなたなのでしょう? あなたは記憶がないことを偽って人間に近づくおつもりだったのでしょう?」
「俺が殺したって言ってんのか!?」
「妃子様! それはあんまりにも唐突な……」
「唐突なものですか、あなたもそう思っておられるはずです。この方は餓鬼だと! 傷つかない肉体、そして素性を明かせぬことが何よりの証拠! 我が兵どもに討たれる前に、この妃子がその息の根を止めてくれるッ!」
完全に彼を餓鬼と判断した妃子は太刀を強く握り締めた。敵意の眼に映る少年は、妃子の言葉が効いたのか、依然として青ざめたまま、落ち着きがない。
釈然としない態度に、妃子は苛立ちを募らせた。
「どうされたのですか? お顔のお色が悪いですよ! 図星でございましょう」
「俺じゃない! 違うんだ! あんたらにはわからないのか?」
「時間稼ぎですか? 往生際の悪い!」
「違うッ! 何も感じないのか!? さっきからこの辺りは異常に寒い! まるで血液が凍っていくみたいに!」
「寒い? わいは何も……」
「気をつけなされ、結崎の! こやつ、本性を現すつもりです! 早くその老婆を連れて逃げ――」
ところが、その老婆がいない。
避難の催促をするつもりが、肝心の老婆の姿がいつの間にか姿を消してしまっていた。不測の事態に、彼らは必死に辺りを見渡す。
「どこ行ったんや!? わいの後ろにおったのに……足音も聞こえへんかった……!」
息子の哀れな姿に耐え切れなくなったのか、他に助けを呼びに行ったのか、それにしても妙な後味の悪さが残る。それどころか、誰かに見られているような気配を覚えた。
頭上から突きつけられる圧迫感に耐えかねて、妃子は顔を上げた。
こんなに松林は薄暗かっただろうか。生暖かい風に吹かれた松の木が、不気味に彼女達を嘲笑う。この異様な空気に気づいたのは妃子だけじゃない、清次もだ。はっとして少年に視線を戻すが、彼は何かを警戒して動かない。
――彼が殺したのではない、間違ったのではないのか。
餓鬼へ豹変する素振りも見せない彼に、妃子がそんな懸念を抱いたまさにその時――
「来た」
血の気のない少年がそう呟いた。
妃子が咄嗟に顔を上げた瞬間、牙をむき出しにした赤茶色の醜い顔が飛び込んできた。
「――!」
本能が振り下ろされた長い爪をかわし、妃子は砂地に転がった。
「あかん! あいつが本物や! あいつがこの息子はん食いよった餓鬼や!」
砂地に突き刺さった爪を引き抜き、餓鬼は3匹の獲物に目を向けた。半分がまだ人間の顔のまま、赤茶色の肌に釣り上がった白目の老人の顔が残されていた。その見覚えのある顔に一同は言葉を失った。
「あの婆さんに化けてはったか……! さては浜でのわいらの様子を見とったな」
「だが、あの老婆が餓鬼であるなら、この方は一体……」
少年を見遣る。彼に逃げろと催促するか否か、判断を下しかねている間にも餓鬼は獲物を定め、突進してきた。
「逃げなさいッ! お二方!」
不運にも餓鬼と目が合ってしまった彼女は瞬時に身を起こす。人の筋力を超える速さで這う餓鬼に、妃子は斬りかかる。だが刃はその赤茶色の前足が繰り出す猛攻に弾かれ、妃子の体は松の根元へ叩きつけられてしまう。
「あかん! あの餓鬼は目標を妃子様に定めてしもうた。あの方を喰うまで獲物を変えんつりや! クソッ!」
清次は石を餓鬼の背中へ思いっきり投げつけるが、餓鬼はびくともしない。餓鬼の関心はただ目の前の妃子のみ。
一方で少年は、どうあがいても絶望でしかない状況に、ただ身をすくめていた。
「どうしたら……どうしたらいいんだ……!?」
「どうしたらって、助けるしかあらへんやろッ!」
「助ける……駄目だ。迂闊に手を出すなんて許されるのか……!」
「何言うとんのや! ずべこべ言わず手伝わんかいッ! 迷うくらいなら行動せいちゅうのがわからんのか!」
温厚な清次がかつてない怒号を腹から吐き出した。餓鬼がじりじりと妃子との間合いをつめる。それでも妃子は一点の恐れを見せず、勇敢にも立ち上がり、呼吸を乱しながらも太刀を構えた。
いたいけな少女が一歩も引かない理由は一つ、自分以外の命を背負っている他にない。
「……そうだ。知るか、知るもんか! 同じ思いはもうたくさんだ!」
「あんさん、何を……!」
「どうにでも……どうにでもなりやがれッ!」
妃子の勇姿か、清次の怒号か、何が彼に影響を与えたのかはわからない。だが、風前の灯であった彼の魂は激しい炎を宿した。
餓鬼の後ろ足が力んだ。彼女に飛び掛ると悟った清次は全身の血が引く思いだった。
「来い、化け物! 人間があの神に頼らずとも生きていけることを証明してくれる!」
後手に回っては不利。妃子は一か八か、自分から仕掛けに出る。しかし、餓鬼はその攻撃をかわし、再び松の木の上に飛び乗った。そして即座に、餓鬼は後ろ足で枝をへし折り、妃子に向かって突撃した。
「しまった! 妃子さ――」
だが、その時、清次の前を影が過った。
「うおぉぉぉぉぉッ!!」
雄叫びを上げ、妃子の前へ飛び出したのはあの少年だった。彼は無我夢中で妃子の腕を掴み抱きかかえるように引き寄せる。
間一髪、餓鬼の両爪は妃子の背後から現れた木を砕く。しかし、異様に盛り上がった筋肉は、餓鬼を次の攻撃へ安易に移させた。
「やばいッ! 早く逃げ――」
次の瞬間、餓鬼の猛攻が彼を射抜いた。反射的に妃子を突き飛ばすが、自身の背中に突き刺さった餓鬼の爪が、青い稲光を走らせて傷口を抉っていく。
「う、あぁぁぁぁぁぁッ!?」
「あんさぁぁぁんッ!」
バチバチと青い閃光に焼かれ、少年は悶える。それは明らかに普通の人間ではあらざる光景。血の代わりに、彼の体内から流れ出したのは蛍のような青い光。
「あなた! 今助け――」
血相抱えた妃子が再び立ち上がろうとすると、少年は苦しみの中で、かっと目を開き「バカッ!」と一喝した。
「だ、大丈夫……逃げろ……!」
「しかし! このままではあなたは……!」
「いいんだ……これで本当に死ねるなら……誰かの役に立てたなら……それで……」
彼が何を言っているのかはわからない。彼は死を望んでいるのか。
青い光の勢いは彼の命の灯か、それがだんだんと弱まっていく。
時間がない。焦燥と混乱が妃子の脳を麻痺させる。自分がどうすべきなのか、何も考えられぬまま、妃子は清次の手を引いてその場から走り出した。
「ま、待ちや! 逃げるんでっか! あの方置いて!」
「駄目なんです……早く、早くしないと……!」
去り際に見た少年の哀しい表情を見た時、彼女は気づいてしまった。
もう、自分ではどうにもできない。
取るに足らない力量は、同時に、この結末を忌まわしいあの神へ委ねるしかないことを本能的に理解させた。
「お願い……お願い、お願い、お願いッ! 夜叉丸! 夜叉丸来て! 来てくださいまし! あの人を助けて!」
息を切らし、松林の暗闇を悲鳴混じりの叫びが切り裂く。
「夜叉丸ッ! お願いでございます! あの方を助けて、お願いだから! もう、私のせいで人が死ぬのは見たくないのです!」
「や、夜叉丸って、あ、あんたまさか、あの神様を……!」
「夜叉丸! 夜叉丸! いるのでしょう! 答えてくださいまし!」
だが、その発狂にも似た懇願へ、答える者は誰もいなかった。
あの神はまだ自分を苦しみ続けるのか。堪え続けた恨めしさが身を憎悪の炎で焼き尽くす。そしてその怒りは彼女の喉を通し、魂の成せる強さをこの世に知らしめる――
「出てきなさいッ! 夜叉丸ゥゥゥゥゥッ!!」
小さな体が馬鹿でかい声を生み出したその瞬間、鈴の音が一つ鳴った。
妃子が思わず足を止めると、彼女の頭上を朱色の影が駆け抜け、突風が一帯の松の木を揺らした。それが何か、彼女には考えなくてもわかっていた。それこそ、妃子が待ち望んでいた奇跡であったからだ。
「い、今の……!」
存在を知りながら初めてその目にした朱色の影は、清次の記憶を曖昧にさせるほどの衝撃を与えた。
そして、妃子は安堵の片隅でこみ上げてくる黒い気持ちから逃れるように呟く。
「やはり……見ていたのでしょう? 私がもがき苦しむ様を」
彼女はすぐさま鈴の音を追いかけた。