第拾八話 悲劇、すれ違った心
《現代》 調布市 市街地
運命の日は例年以上の炎天下、雲一つない晴天に見舞われていた。
「おい、あれ、里見じゃね?」
「本当だ。一人で何やってんだ、あいつ」
練習試合の帰り、野球部の仲間は市役所前のベンチに腰掛ける昴の姿を見つけるなり、訝しげに彼の様子を窺っていた。木陰にも入らず真夏の太陽の下に一人、彼はぼうっと車しか走らない通りを一点に見つめているのだ。
明らかに何かあった様子だ。
足元には剣道の防具袋と竹刀袋、これを見ただけで虎次郎は大まかな理由に心当たりがあった。人伝に聞いた話ではあるが、おそらく、部活のこと、とりわけ人間関係で彼は深く沈んでいるに違いなかった。
昴は今年のインターハイで、2年生でありながら個人戦で優勝を飾った。その実力は、名門と呼ばれている我が高校の剣道部で入部当初から注目を集め、将来的には部長の椅子を確約されるほど光彩を放っていた。
だからこそ、眩し過ぎる功績が色濃い影を生み出してしまったのだ。入部して以来、団体のレギュラー陣、先生方にちやほやされ続けた彼を快く思わない連中は少なくなかった。昴の真っ直で真面目な性格も災いして、彼を庇ってくれた3年生が抜けた今、部長としての言動が不満を抱き続けた部員達を逆撫でしてしまっていることも事実だ。
しかし、虎次郎はそんな彼に対して冷ややかだった。
「放っておこうぜ……どうせ、声かけても機嫌悪くするだろうから」
彼の言葉が薄情だと思う部員は一人もいなかった。
「そうだな。あれで熱中症になっても、自己管理ってやつだしな!」
「放っとけ、放っとけ。プライド高いからな、あいつ」
この時、虎次郎と昴の関係は冷え切っていた。それも、二人が身を置いている環境に原因はあった。
虎次郎はと言うと、非常にレベルの高い投手の素質はありながらも、成績には恵まれなかった。残念ながら野球部は剣道部とは違い、至って平凡なポジションから抜け出せず、甲子園など夢のまた夢。せいぜい都大会で3回戦を勝てればよいところであった。
だが、部員との関係は昴と対照的に良好なものであった。虎次郎のワンマンチームとも言えるバランスの悪さだが、皮肉屋ながら明るく隙も多い彼の人柄もあり、仲間達からは慕われていた。彼らの学年は結束力も高く、おそらく良い成績が残せる代になると、監督のお墨付きもいただいている。
この温度差が、次第に親友達の会話を減らした。虎次郎はこの半年、ろくに昴と会話したことがなかった。笑顔さえも顔を合わせるなり引っ込んでしまう有様だ。
「……変わったよな、里見」
「……」
「中学の時はもっと活気があって優しかったのにさ……別人だよ、あれ。お前、そう思うだろ? 幼馴染なんだからさ」
仲間の言う通り、2年に入ってから昴の態度は一転した。常にピリピリとした空気を醸し出し、人を見下したような目で睨みつける。特に幼馴染である自分への八つ当たりは酷く、幼馴染なら許されると甘えていることが虎次郎は不愉快で仕方なかった。
「知らねっ」
――どうでもいい、あいつのことなんて。
虎次郎は大きなスポーツバッグをゆさゆさと揺らし、大きな歩幅で駅へと向かう。その後ろで、残された二人は心配そうに顔を見合わせ、虎次郎の後に続く。
その時、昴がふと顔を上げた。
「!」
彼は「しまった」という顔をして、何事もなかったかのように視線を元の位置へと戻した。やられた側からすれば、頭に来る態度だ。「俺は見てないから、さっさと行け」と言われたのと同じ、いつもの険悪だ――
「あの野郎……!」
「お、おい……」
だが今日に限って、虎次郎は昴のこの振る舞いを受け流すことができなかった。彼は肩を怒らせて、無視を決め込もうとしている昴の前で立ち止まった。
「何やってんだ、お前。日影にも入らねぇで」
「……別に。迎え待ってただけさ」
淡白な口調と見え見えの嘘。昴の家は虎次郎の家のすぐ近くだ。だから迎えを待つ必要なんてないことを彼は良く知っていた。
「練習帰りか? 誰も一緒じゃないんだな」
それは直球な嫌味だった。
見守っていた野球部の仲間から思わず、「ひぃっ!」と声が上がる。案の定、目を合わすことも拒んでいた昴が、険しい目つきで虎次郎を正面から捉えた。
ほら見ろと、虎次郎はその瞳を鼻で笑い返す。
「……お前こそ、何だ。試合か? その格好」
「そうだよ、練習試合だ」
何とも棘のある言い草で、昴は土で汚れた黒と白ユニホームを眺めた。そして薄っすらと口元に浮かぶ、人を馬鹿にした笑みに虎次郎は眉根を歪ませる。
「何がおかしいんだよ……!」
「負けたのか?」
「それが何だ」
「負けたくせにヘラヘラと帰ってきて、そんなんだから弱小なんだよ」
プチン、と何かが弾けた音を虎次郎は聞いた。無意識に彼はスポーツバッグを地面に叩きつけて、
「……おい、もう一回言ってみろ」
「や、やめろッ! 虎次郎!」
野球帽から覗く瞳孔は開き、表情一つ変えずに虎次郎は昴の胸倉を掴みにかかった。彼を無理やり立ち上がらせたところで、焦った野球部の二人が即座に止めに入り、虎次郎を押さえつけた。虎次郎も激しく抵抗するが、同級生二人の本気を振り払うことはそう易々出来るものではない。
だが、彼らの声が届かないのは昴も同じだった。これが発端となり、昴も溜まっていった鬱憤を吐き出さずにはいられなくなっていた。
「いいよな、お前は。仲良くしてれば周りは満足だ。良いプレーが出来ればいい、勝つことなんか二の次なんだから!」
「何だと!?」
「やめろッ! 二人とも!」
「そのくせ、甲子園に行きたいだのほざく! 中途半端もいいところだ! お前らみたいに口先だけの連中はうんざりだッ!」
「偉そうに! お前の部活と一緒にするな! 俺達は俺達のやり方でがんばってる……それの何が悪い! お前らみたいに仲間割れはごめんだ!」
「それが甘いって言ってるんだ! バカか、お前は。お前は自分の才能を無駄にしてるんだ! 楽しければそれでいいのか? 他の連中がお前の才能を殺してるのに! それとも自分一人ががんばれば何とかなると思ってるのか? とんだ自惚れだよ!」
「昴……! てめぇッ!」
彼は吠えた。怒りが頂点に達した拳は大きく振り上げられ、昴の顔面目掛けて振り下ろされようとする。しかし同級生達は誠意に誓って、虎次郎の腕にしがみついて離さない。
「バカ! 殴っちゃ仕舞いだろ!」
「いい加減にしろッ! お前らおかしいよ……何でそんなピリピリして――」
野球部の一人は無意識に周囲を見渡した。よほどの騒ぎになってしまったのか、こちらに集まる視線は少なくない。それと別の方向を見つめる人々も――
「おい……」
だいぶ離れた道沿いで、歩行者は足を止めて何やらその奥を凝視している。数秒後、血相変えて路地や空き地へと逃げだした。
彼は虎次郎を押さえたまま、もう一人の肩を叩き、それを指差す。
その時、遠くから悲鳴と長いクラクションが耳に届く。直後、ガチャァン! と何かが衝突する音も。しかし、虎次郎と昴は気づいていない。
「変わったな、虎次郎! 昔はもっと熱かった。もっと自分に厳しかったのに!」
「変わったのはお前だ! 八つ当たりばっかしやがって。甘えてんじゃねぇぞ!」
「八つ当たりだと!?」
「そうだろ! 現にお前は――」
「に、逃げろォォッ! お前らッ!」
――キィィィィィッ!
耳を引き裂くブレーキ音に彼らの声は掻き消され、二人の腕が物凄い力で虎次郎を引っ張った。
突如、視界に10tトラックの車体が猛スピードで飛び込む。
そこからの数秒間は、シャッターを切るように虎次郎の脳に焼きついていた。
逃げなきゃ。でもこの位置、昴だけ間に合わない。
「虎次――」
目の前で野球帽が宙に舞う。
すでに彼らの腕から虎次郎は抜け出し、彼は硬直した昴を庇って飛び出してしまっていた。
虎次郎が昴の頭を抱きしめた瞬間、トラックは二人の身体をはね、横転したまま建物に突っ込んだ。
投げ出された体はアスファルトに激突した衝撃で大きく弾み、ぴたりと動かなくなった。
この段階で、まだ微かに二人の意識はあった。灼熱の太陽の下、うつ伏せで僅かに動きのある昴と、空を仰いで硬直したままの虎次郎が横たわる。
「こ……じろ……」
昴の手を伸ばす先、虎次郎の頭部から紅い血がアスファルトに広がっていく。その呼びかけも彼に聞こえるはずもなく、先に昴が力尽きる。
そして、自分も。
思い出したくもない悲劇だ。痛みと悲しみ、後悔ばかりが募り精神を苛む。
この一瞬さえ来なければ、今まで通りだったんだ。俺は自分の生きる意味なんて考えないで暮らしていられた。
死ぬとか、生きるとか、考えないで――
『でも、本当にそうですか?』
誰? 女の人の声。
『全てが今まで通りであったら、あなたはずっとご友人とすれ違ったままですよ? 本当にそれでよかったのですか?』
そんなことない。きっと、時間が解決してくれたはずだ。時間が経てばきっと……!
『彼がなぜあのようなことを口にしてしまったのか、わかりますか?』
……。
『それこそ、何も変わりません。あなたもまた、自分のことで精一杯ではどんな姿であっても結果は同じです』
自分のことで精一杯だって……こんな姿にされちゃ、誰だって。
『運命です。あなたは健全な身体を失う運命なのです。割り切りなさい』
無いものねだりだって、言うのかよ!
『今のあなたにできることはなんですか?』
何?
『何のために怖い思いをしてまで、戦ったのですか?』
……。
『やり残してしまったことがあるから、生きることを選んだのでしょう?』
……はい。
『それをどんな姿で成し遂げようと私は否定いたしません。ただ私が申し上げられるのは、その身体はあなただからこそ神が与えたもの』
俺だからこそ与えられた……。
『他の誰にも成し得ない、あなただけの試練なのでございますよ』
待って。行くなよ! まだ話を――
女の声が遠ざかった。幻の中に迷い込んでしまったのか、どこからか吹いた風が女の声を探す虎次郎の元に突如、桜の雨を降らせる。
その遥かなる道の先、桜色の羽織を纏った長い髪の女が立っていた。
「待っ――」
その小さな後姿へ手を伸ばす。しかし、風に舞う数多の花弁が視界を遮り、虎次郎の足取りを妨げた。
幻想に独り残された彼を迎えに来たのは柔らかな日差し。
その光に抱かれて、彼はあるべき場所へと還る――