第拾六話 消えない傷痕
《隠された時代》 山中
夜叉丸の出現により、大半の仲間が殺された。餓鬼に手を貸した罪である。
「はぁ……はぁ……冗談じゃねぇよ、くそッ!」
社殿の陰から、仲間達が相次いで破裂していくのを目にし、怖気づいた彼は血相抱えて朱雀の宮から逃げ出した。触らぬ神に祟りなし、とっとと足を洗うのが賢明な判断だと信じて、下った山道を再び登る。
気配を消すために、男は真っ暗な雨の中を突き進んでいた。だが、長年培った獣並みの危機察知能力が、突如警報をならし、彼の足を止めた。
足下に蠢く、闇よりも黒い影に。
「な、何だ――」
「どこへ行くの?」
その声に、震撼した。聞き覚えのある、世にも冷徹な若い娘の声。
本能が逃げろと指令する。背中に走る鈍い衝撃。直後、背骨が砕かれた。
「う……がぁ……」
泥の上に崩れた彼は水から出された魚のように痙攣し、二度と立ち上がることはできなかった。不幸にも意識を残された彼の脳に、背中から突きつけられる殺意の持ち主が浮かぶ。そして、その勘の通りであった。
「酷い奴ら……仕事も私も放り出してどっか行っちゃうんだもん」
朱雀の宮襲撃前とは打って変わり、六生は若い娘らしい口調でそう言った。
男の生死を確認するなり、男の顔を覗き込むようにしゃがみ込み、指先で額に触れた。
「知ってる? 餓鬼ってのはね、遺伝子が持ってる人間の別の姿なのよ。人の脳に大量のバリアブルバブルを流し込むと、自然に遺伝子の情報がリセットされちゃうわけ」
何を言っているのかわからない。だが、落雷に照らされた真っ黒な瞳に、男は死よりも悲痛な結末を悟った。
「でも遺伝子に隠された人間の可能性は未知数。だけどね、憎しみが強ければバリアブルバブルは必然的に、ある特定の1パターンを選んでくれる。それが何かわかる?」
「がぁ……あ……」
「生物として一番攻撃に特化した姿を選んでくれるの。それが餓鬼、お分かり?」
六生の指先が青く光り、男の脳にある血管がその速度を速める。浮かび上がる青筋が次第に肥大化していく。
「ねぇ、あなたの人生をめちゃくちゃにした神様達に復讐したくない?」
「あ……あ……!」
「とんでもないポテンシャルを引き出してあげる。だから、最期の大輪を咲かせてちょうだい。私のためにッ!」
背後に落ちた雷に劣らぬ青い閃光が男を包んだ。直後、男の身体が大きく跳ね上がる。そして動きをピタリと止めたかと思えば、ぶくぶくと蛭が中で這っているかのように肉体のあらゆる部位が荒ぶり、筋肉と骨の膨張を始めた。
「あぁぁぁぁあぁぁああぁぁあああぁぁぁぁ!!」
崩壊していく肉体に、人の声とは思えない叫びが上がる。傍らで六生は琵琶の音を聞くようにうっとりと作品の製造過程を眺めていた。
肉厚に耐えかねて、彼の着ていた甲冑が凄まじい勢いで外れ、衣類は激しく破ける。彼の脳内に入り込んだ何かは、狂った情報を細胞に流し込み、骨や筋肉を切断しては接合し、また同じ過程を繰り返す。そうして、見る見るうちに荒ぶる肉体は巨大化し、人間とは別のものへと変化を遂げた。
出来上がった作品は、あの盗賊の御頭より大きな影を作り、獣のような呻き声で夜の森を震わせた。
「やっぱり。一人分じゃ、この大きさが限界か……仕方ない、何人か繋げる(、、、)しかないわね。首から下だけなら、細胞はこっちの脳にしたがってくれるだろうし……そうしなきゃ、ここの結界は破壊できないもの」
闇に紛れて、地べたを蠢いていたものが道を開けた。薄っすらと六生の身体が光りだすと、その姿が闇に浮き出る。
赤茶色の身体、二本の角の剥げ頭。四つん這いで主の指令を待っていた。
「ターゲットはあの子に絞る。絶対に阻止してみせるわ……生きるのは私だから」
不適な笑みの下に潜むのは、揺るがない自信か。
「準備が整い次第、鎌倉へ。あなた達はそれまでにたらふく食べて力をつけてね」
その声を追って、彼女の作り出した化け物達は一斉に示された方角へと進みだす。
《現代》 東応大学 特別医療研究室
虎次郎の脳波は『睡眠』にあたる状態を記録していた。虎次郎の意識が落ちたとしても、ダイバースーツは正常に機能し、虎次郎の脳に埋め込まれたダイバーインプラントは絶えず隠された時代にバリアブルバブルを循環させている。
またダイバースーツから半径10m以内ならば、虎次郎の視界情報なくして周囲の映像を得ることも可能であった。虎次郎の魂に引き付けられ、隠された時代から現代にやってきたバリアブルバブルを解析することで、客観的な視点を映像化することができた。
だが、この方法はダイバースーツ周辺のバリアブルバブルの濃度によって、解像度が大きく左右されるデメリットを持つ。幸い現在、夜叉丸という強大な生命エネルギーが近くにいるため、彼らは鮮明な映像を元に調査を進めることが出来た。
しばらくは、安全。そう見込んだ研究者達はこれまで起こった出来事を冷静に整理する。
「夜叉丸は虎次郎君からこちらの情報を得るつもりですね」
「構わんさ。彼の記憶にはオーバースピリットダイブの表面的な知識しかない。仮にこちらに直接〈スパイバブル〉を送り込んできたとしても、遥かに現代の方が素粒子の濃度は薄い。我々の魂から直接情報を引き出すことは不可能だ」
〈スパイバブル〉とはバリアブルバブルの可変性の高等応用技術であった。自分の意識の一部を素粒子に還元し、狙った相手の意識に潜り込むことを言う。つまり、相手の思考を侵食する技術のことだ。一度、魂から離れたバリアブルバブルが力を維持できる時間は僅かなものでしかない。素粒子の濃度が高い時代ならば、素粒子同士が共振現象を起こし、他のバリアブルバブルを吸収しながら進むために力の維持はしやすい。しかし、現代にはそれを可能にするだけの濃度はなく、夜叉丸がそれを使ったとして、現代に着いて数秒でスパイバブルが消滅することは間違いなかった。
「それよりも深刻なのは、ダイバースーツだ。意識の具現化のみならず、彼は短距離ダイブまでもやってのけた。素晴しい功績だが、あれは一歩間違えれば魂が拠り所をなくす危険な手段だ。訓練なしに連発させることは避けたいな」
「彼がダイブした位置、時間にして数分前、結崎座の大夫に背負われて立っていた場所です。憶測ですが、自分が過去にいた地点ならダイブ可能ってことかもしれません」
「どこまでの時間がダイビングスポットとなるのか、範囲の特定は困難だろうな」
嘆息。嬉しくも思える神の素粒子の奇跡を目の当たりにすることができたが、それに振り回されている事実は確かだ。
「しかし、ダイバースーツを素粒子レベルまで分解して、再構築するとは……彼の素質には脱帽です。よほど強い精神力の持ち主でなければ、自分の形(、、、、)に戻れなくなるってのに」
「同意見だ。だが、代償として彼のダイバースーツの密度はスカスカだ。今のまま餓鬼に出会ったら、確実にアウトになる」
「質量の回復には時間がかかりますが、リードダイバーが投入されるまでこちらでなんとか持ち堪えて見せます」
「頼んだ。秋宮忍が彼と接触したという情報は入っている、しばらくの辛抱だ」
この場に忍がいないことに胸を撫で下すばかりだ。
餓鬼が新たな姿を見せ、ダイバーに襲い掛かってきた。紛うことなき重大な事態に、対応しなくてはならないのは虎次郎ではない、自分達だ。
だが、情けないことに、現段階で可能なのは修復作業と次への準備のみ。腹案を実行するためには、あと一つ、鍵が要る。
忍がそれを連れてくる。今は彼女に頼るしかない。
「悔しいな……肝心なところで私達、研究者は役に立ちませんね」
「……そうだな」
「結局、最後に必要なのは高い技術でも知識でもなんでもない……人の信頼ですね。不本意ながら、このプロジェクトでそれを思い知った気がします」
ここまで、ダイバーを見守ることに徹することができたのは、虎次郎自身のひらめきと強い精神力のおかげだった。大餓鬼の出現を確認した彼らは、通常ならダイバーの強制帰還を選択していただろう。しかし、それを思い留まらせ任務を実行させたのは、虎次郎の見せた奇跡に分の悪い賭けへの価値を見出したからだ。
もっと見たい、魂の為せる可能性を。
淡々としていた雪江の好奇心は、いつの間にか激励へと変わっていた。感情移入など御法度ではあるが、このスタッフの中にも自分と同じ気持ちの変化を起した者がいるはず。
それほどまでに、魂を揺さぶる物語がある。
「雪江君」
突然、名前を呼ばれたことに彼女ははっとした。
「はい」
平然を装ってそう答える。
だが、人の名を呼んだにも関わらず、高槻は視線すら向けずに眼鏡を直し、徐にモニターを眺めたまま考え込んでいた。
少しの沈黙。そして、
「……餓鬼は本当に幽霊なのだろうか」
唐突な質問だった。
「幽霊って……元は人間の魂なんですから」
「いや、そうではなくて。ダイバーと同じように人体をバリアブルバブルで硬化しているのか、または……」
そこまで言いかけると、彼女は理解した。
胸騒ぎ。雪江は見落としていたものの恐ろしさに気づかされた。
「人体に入り込んだバリアブルバブルが、肉体に異常をもたらしたと?」
「おそらく、遺伝子レベルでな。だがそれも、今回の大餓鬼に限って言えることだが」
「確かに、初めの老婆の場合は夜叉丸が手を下した後に遺体は残っていません。バリアブルバブルが老婆の憎しみを具現化したと仮定すれば頷けます。てっきり、ダイバースーツと同じ理屈とばかりに思ってましたが、この大餓鬼の場合、まだ遺体が……」
パソコンの画面に出された映像には、夜叉丸に背負われた虎次郎。この組み合わせ以外に異様なところなど見当たらない風景だが、その画面の片隅に映り込んだ太い足に、一同は息を呑む。
「あります。全貌を――」
拡大しようとEnterキーに置いた指が静止した。手に汗が滲む。
夜叉丸が遺体を見ていたのだ。そして、目が合った。偶然こちらを向いたのではない、彼は画面の向こう側、時空の先にいるこちらを見たのだ。
「気づかれたな」
何でもない、と高槻は驚いた様子もなく画面を覗き込む。
「おそらく、彼が気にしているのは私の方だ」
「私の方だ、って……前回も、ということですか?」
静かに、高槻は頷いた。
「別の人間にも同じ人物の記憶がある。今まではそれが何を示すか漠然としていたのだろう……確信に変わったわけだ」
想定内の事態なのだと、雪江は少しほっとした。だが、今の一瞬で雪江の脳は夜叉丸への畏怖を覚えてしまったようだ。
恐るべき威圧感。あんな奴に虎次郎は立ち向かおうとしていたとは――
「ともかく、今回のパターンでは、紫紺の尼が餓鬼の製法を変えてきたのは事実だ。人体そのものを作り直した可能性が高い。言語能力があったのは脳が残されている証拠だ」
「通常の餓鬼は憎しみが具現化した姿のために本能のみに支配されている、と?」
「そうと見て間違いない。だから大餓鬼は、遺伝子を別の情報に書き換えられた人間と考えるのが妥当なのだろう」
紫紺の尼は何らかの方法で人間の遺伝子を別のものへと書き換えた。もはや、神の所業。浮上した残酷な事実が示す先には何があるのか。
おそらく、それは――
「彼女を鬼にしてしまったのは……私のようだ」
「え?」
ふと呟いた高槻の顔には、遠い過去を覗きこむような哀しみ。雪江の想像を超えた覚悟を、彼は背負ってこの場に立っているのだった。