表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
16/36

第拾五話 激突、神の素粒子の力

 舞殿の屋根の上で、紫紺の尼はこの光景を楽しげに眺めていた。


「生身で戦ったら、肢体がバラバラ。さあ、どうする……」


 もう少し高みの見物を決め込みたいところだが、厄介な気配が近づいていることに、せっかくの余興を中座せざるを得なかった。


「……気づいたか。邪魔したところでもう遅いのに」


 ――実に不愉快だ。


 紫紺の尼は顔を歪ませ、闇に身を隠した。


隠された時代ハイデンヒストリー》 朱雀の宮


「な、何や……あのオッサン! でか過ぎやろ!?」

「……あれも餓鬼だ」

「わ、わかるんでっか!? 虎次郎はん!」

「ああ……身体が引き付けられる。海岸の奴らなんて比じゃないくらい」

『バリアブルバブルの周辺濃度、最高値を更新。気をつけなさい! そいつに殴られでもしたらダイバースーツと言えど――』


 「危ないッ!」と、雪江が叫ぶ。瞬時に大餓鬼に目を向けると、拝殿の柱をへし折り、それを手にして、


「グアァァァァァッ!」


こちらを狙って投げた。


 その速度は新幹線のごとく、切り裂かれた空気が鼓膜を痛める。運よく的を外すが、背後からの呻吟と絶叫に彼らの第六感がぞっと疼いた。


「う、うわぁぁぁぁ……!?」


 直感は正しかった。不運な守護の兵が一人、柱に身体を射抜かれ、斜めに土に突き刺さっていた。


 その惨劇に、あろうことか餓鬼が大声で笑い出した。


「すげぇ! すっげぇぇぜッ! 鬼の力は! 今まで人間でいたのが馬鹿らしく思えるぜ、こらぁッ!」


 予想を遥かに超えた悪夢は、餓鬼の桁違いの力に留まらなかった。

 

 前代未聞。言語を駆使する餓鬼など、この時代の常識にも載っていない事件――


「う、嘘や……喋りおった……! 夢でも見てんとちゃうか!」

「知能が残ってるって言うのか……!? どうなってんだ、これは!?」


 どう考えても、正面切って戦うのは無謀だ。女一人でどうにかなる相手ではない。


 彼らは必死に妃子の退却を訴えるが、彼女は何の反応もしない。それどころか、先の攻撃の際に拾ったのだろう、宝刀白鷺を握り締め、大餓鬼との間合いを計っていた。


「あかん、妃子様ッ! 戦ったらあかんッ! 逃げなはれ!」

「妃子! そいつは今までの餓鬼と違う……! お前の勝てる相手じゃないッ!」


 ダイバースーツに胸騒ぎに似た感覚が立ち込める。彼らの心配をよそに、妃子はゆっくりと白鷺を純白の鞘から引き抜いた。


 その威勢の良さに、大餓鬼は口笛を吹いた。


「大した度胸だ、小娘。幕府のお姫さんにしちゃ、上出来だな」

「殺してやる……叔父上と同じ目に遭わせてやる!」

「叔父上? ああ、こいつのことか、怒んなよ。あまりにも小せぇんで鼠かと思ったら、あんたの叔父上様の頭――」

「うわぁぁぁぁぁッ!!」


 喉が引き千切れんばかりの絶叫を上げて、彼女は大餓鬼に突撃をしかけた。小さな身を生かし、鬼の爪をかわして死角へ回る。妃子の俊敏さが上だった。一瞬の隙をつき、ガラ空きの脇腹を突き刺す――が、世にも硬いものが宝刀の刃を弾いた。


「妃子! 避けろォォォォ!」


 ――わざと。


 熱が急激に下がる。咄嗟に顔を上げると、まるで背中に目でもついているのか、餓鬼の双爪が背後の妃子に襲い掛かる。間一髪。右袖が裂かれ傷を負ったが、柔軟に富んだ身のこなしで餓鬼の魔の手から辛くも逃れた。


 餓鬼は振り向き、妃子の右腕から滴り落ちる血の痕を見て、興奮したように奇声を放つ。


 容赦なく、大餓鬼は第二撃を繰り出してきた。今度は拳。猫背の巨体を捻り上げ、洒落にならない拳骨が、すれすれのところに落ち、床を破壊する。


「逃げられると思うなよォッ!」


 一発、一発をすれすれ、すれすれで回避。こちらから仕掛けられる余裕などない。

その時、大餓鬼が反対の拳を振り上げた。

汚い笑みが示す視線の先、それは大餓鬼がぶち抜いた穴――哀れな永常の骸が横たわる奈落の底だった。


「やめろォォォォッ!!」


 あれ以上、無残な姿にするつもりか。


 憤怒した彼女は攻撃対象をその拳に定めるが、それが裏目に出てしまう。一瞬の注意の欠落が、片方の拳の行き先を見失っていた。

 

 刹那、強烈な裏平手が妃子の胸部を押し潰す。


「妃子ォォォォォ!?」

「あかん!?」


 虎次郎の目の前で、妃子の身体が凄まじい勢いで宙に投げ出された。高欄を超え庭に落下する予定の身体を、兵達が懸命に追いかけ、寸前で受け止めた。


 皆、土の上を転がるが、大事はない。だが、妃子は先の打撃で胸の骨をやられたらしく、苦痛に顔を歪ませ、立ち上がることができなかった。


 清廉な少女をいたぶる欲望が増した大餓鬼は、高欄を破壊し、庭先に降りてきた。狭い拝殿から開放され、猫背の図体を気持ちよさそうに動かす。


「悪りぃな。俺、餓鬼になったばっかでよ、力加減がわかんねぇんだよぉ」

「ば、化け物め……!」


 もはや人の勝てる相手ではない。


 動物の勘がそう言っている。絶対的な強者に為す術はないと、戦おうとする理に反して本能はその足元を強張らす。誰もが怖気づく自分と葛藤するが、同じ地面に降り立った大餓鬼の尋常でない威圧感に勝てる気など一切ない。


 そんな彼らを大餓鬼は舐めるような視線で一巡する。強者の前に恐れ戦く弱者の顔が並ぶ傍らで、ただ一人、彼の意にそぐわない顔つきがある。


 背負われた彼が気に触って仕方ない――


「何だ、お前? 恐怖で縮み上がっちまって、立つのもままならねぇってか?」


 大餓鬼は哀れな虎次郎の体たらくを嘲笑するが、不愉快にも彼は挑発に微動だにしない。虎の目は真っ直ぐ鋭い光を放ったまま、信念の矛先を大餓鬼へと突きつける。絶対的な暴力に屈しないその瞳が、大餓鬼の腸をふつふつと煮え繰り返した。


「何だ、その目は!? お前の頭も握りつぶしてやろうか!?」

「お止めなさいッ! この甲斐性なしが!」

「……あ?」


 大餓鬼が踏み鳴らした矢先、凛と通る声が空気をぴたりと止めた。とたん、大餓鬼の額に青筋が浮かび上がる。


 まさか、と額に汗を滲ませ、清次と虎次郎は声の方向を振り向いた。


 どうして誰も止めなかったのか。


 ボロボロの妃子が自身の身体に鞭を打ち、立ち上がっていたのだ。


「調子に乗るなッ! 餓鬼だろうが人間だろうが、お前はただの無能です! 人を捻じ伏せなくては安心できない臆病者!」


 大餓鬼が黙った。静かに、彼の理性が崩壊していることに虎次郎達は焦った。


「やめなはれ! 妃子様!」

「動けぬ人間にそのような真似をして……恥を知りなさいッ! この下郎が!」


 頭に血が上っているのは妃子も同じ。誰の言葉にも耳を貸さず、自分の正義のままに罵声を浴びせる。


 その素直な言葉が、大餓鬼の潜在能力を引き出そうとしていることも知らずに。


「もう駄目だ……紫紺の尼が何て言おうが知らねぇ! お前をぶっ殺してやんよッ!」


 大餓鬼の額に角が生えた。背を丸め、力む仕草。骨がボキボキと咆哮し、大餓鬼の筋肉は荒々しく波を打ち始めた。


 一回り太くなった手足が大地に減り込む。四つん這いの姿勢。身体を思いっきり引き上げ、力んだ足が桁外れの脚力で土を蹴った。


「え……」


 ドンッ、と地響きを置き去りに大餓鬼が視界から消えた。


 次の瞬間、妃子の肉眼に振り上げられた大餓鬼の拳が映った――


「しまっ――」


 冷や汗すら流す暇を与えず、大餓鬼は妃子目掛けて鉄槌を下した。


 無理やり身体を捻り、彼女はこれをかわす。だが、大餓鬼の執拗な攻撃は終わらない。大餓鬼の爪は土を掘り返し、それを妃子の目にくれてやった。


「くッ!?」

「目潰しだ! やばいッ!」


 眼球に飛び込んだ土は、妃子の動きを瞬時に奪った。真っ赤になった目を必死にこじ開けると――不覚、容赦ない大餓鬼の左手が高見から迫っていた。


「妃子ォォッ!!」


 猛烈な平手が彼女の身体を弾いた。妃子の身体が宙に浮く。虎次郎は反射的に清次の背から降りた。しかし、よろめいたとたん、清次に行く手を阻まれる。


「な、何すんだよ! 放せ! 妃子が――」

「あかんッ! 行ったらあかん! もう……仕舞いにしましょう……」


 声を押し殺して、清次は言った。予想もしなかった彼の諦観に虎次郎は言葉を失う。その時、妃子の身体が高欄の下まで転がった。


「あんさん、残念やけど……何も起こりまへん。つまり、それが運命っちゅうことやろ」

「清次……! 諦めんのかッ!」

「諦める? そうや! まだ足掻くっちゅうんなら、海岸で見せてくれはった神風をもう一度起こしてくだされ、虎次郎はん!」

「……!」

「できへんやろ? そういうことっちゃ……奇跡が起こらんっちゅうのは、これが妃子様の定められた運命なんや! 未来は変わらへん!」

「放せよ……放してくれよ……! 頼む……ここで何もしなかったら俺は――」

「何もできへんからこそ、わいは自分の意志であんさんだけは生かす! あんさんを死なせんことがここでの最良! あんさんは生きるだけでええんや!」


 虎次郎を掴んだ両腕に益々力が篭る。だが、その手は震えていた。


 清次の言う通り、妃子は元々、ここで死ぬ運命なのかもしれない。ダイバースーツが動かなくなったことも、彼女の運命を変えないために時が仕組んだロジックだったのかもしれない。そう考えれば、楽だ。すべては諦めるべきことなのだから。


 大餓鬼が右手の爪を伸長させ、指の間接をゴキゴキと鳴らしながら、高欄の下で呻く妃子に近づいていた。あの爪で止めを刺すつもりだ。そして地響きの体感が大きくなるに連れて、妃子は虫の息とも言える状態から身を起こそうと動き出す。


「終わりだ、小娘。これで腸引き裂いて、烏の餌にしてやるぜ!」


 大餓鬼は妃子の前に立ちはだかり、その鋭利な右手を闇夜に掲げた。


「そんなの……嫌だ……」


 ――結果がわかっていたら、何もしなくていいのか?


 生きているだけなら誰にでもできる。ダイバーに選ばれなかったら、眠っているだけの自分だってそうだ。死ぬまでじっと、待っているだけの人生であればいいんだ。


 ――だけど、生きるってそうじゃないだろ。


 負けるとわかっても、全力でやるから予想にもしなかったものが生まれるんじゃないのか。九回の裏、打たれるとわかっていても最後の一瞬まで全力で投げ続けた。それで負けたから、悔しかったから、あの時よりも強くなった。


「俺は……嫌だ……」


 諦めたくない、最後の一瞬まで。


 彼女が死ぬと決まったわけじゃない。絶望的でも何かがあるはず。魂だけとなったこの身体だからこそできることがあるはずなんだ。


「俺は……絶対――」


 思い出せ、夜叉丸に見せつけた魂の力を――自分に残された最大の可能性を。


 受け入れてたまるか。


 ここで諦める人生なんて絶対に――


「死ねやァァァァァッ!!」

「――俺は絶対そんなの嫌だァァァァァァッ!!」


 想いの強さにダイバースーツは呼応した。大餓鬼が止めの一撃を振り下ろした背後で、強烈な青い閃光が広がり、大気を飲み込んで収縮した。

 

 刹那、虎次郎の重みが腕から消えた。咄嗟に清次は目を開くが、やはり虎次郎がいない。

 

 現代の感覚で0,1後、正確にはそれよりも早く、大餓鬼の照準の先に激しい閃光が走った。


「な、何だ!? が、がぁぁぁぁッ!?」


 あまりの光量に、目を潰された大餓鬼はその手元を狂わせた。


 その時、清次に掴まれていたはずの虎次郎が閃光の中から飛び出した。


「うおぉぉぉ!!」


 彼は妃子身を抱え、そのまま――


「糞がぁぁぁぁぁ!」


 目を潰された大餓鬼の我武者羅な攻撃を間一髪でかわし、二人は勢いのまま地面を転がった。


 何が起こったのか、清次はその光景を、息すら忘れて見入っていた。他の兵達も同じような反応で開いた口を塞げずにいた。

 

 訳がわからない。なぜ妃子は命を拾い、虎次郎はそこにいるのだ。


 ただ、わかるのは誰もが願った遅すぎる奇跡がここに――


「な、何だお前ぇぇぇぇ!?」


 目を庇い、指の間から覗く乱入者の顔に大餓鬼は動揺した。あのろくに動けやしないクソガキだ。それがなぜここにいる。奴は背後で指をくわえて仲間が死に行く様を見ていたはずだ。


 釈然としない、不気味な存在に大餓鬼は焦った。


「ちいッ……!」


 ――こいつも消さなくては。


 汗に塗れた鬼の手は再び爪を伸ばし、逃した獲物に今度こそ最後の一撃を加えんと勇む。


 だが、はっきりと聞こえた鈴の音に、彼は凍りついた。


 音を耳にした直後、矢よりも速い何かが大餓鬼の胸を射抜いた。その速さと力に図体は地面から足を離し、勢いのまま本殿の壁に磔にされる。


「うがあぁぁぁぁぁぁッ!?」


 分厚い胸部を貫通したのは、大刀。金と漆黒の漆で塗り固められた業物。太刀の頭には金色の鈴が朱色の紐で結び付けてあった。


 見覚えのある者、聞き覚えのある者、その太刀の輝きと凍てつく美しさに、()の神を見た。向かいの社殿の上、月下の湿った風に朱色の衣をなびかせ、白き小面の眼は哀れな下郎の精神を鋼鉄の針山に晒す。


 信じられない出来事。だけど、彼しかいない――


「や、夜叉……丸……!」


 一命を取り留めた妃子の目に飛び込んだ、もう一つの憎しみは、月影からその姿を消し、回廊の屋根を一直線に駆け抜ける。


「ふがっ……ふがっ……ふざけんじゃねぇぞ……! 何が神だ、この野郎ォォォ!!」


 闇に紛れた殺意の瞳、クズをクズとしか見下せない無機質な瞳。恐怖がかつて抱いた神への憎悪を呼び起こし、彼に最後の力を与えた。


 渾身の力で胸に刺さった大刀を引き抜き、本殿の柱よりも太い豪腕でそれを仕返しとばかりに投げ返す。


 だが、空を裂く高速の大刀を、夜叉丸は容易くその掌中に収めた――


「う、うわあぁぁぁぁッ!?」


 神速の夜叉丸は即座に大餓鬼の頭上を捉え、奪取した大刀で大餓鬼の左肩を叩き斬った。

大餓鬼の左腕が、宙を飛んだ。


 飛び散る青い光。それ以上の蒼顔で、大餓鬼は舞い降りた死神にひれ伏した。


「あと3本ある。次はその足をもらおうか」

「や、やめ――」

「俺の問に正直に答えろ。〈六生〉はどこだ?」

「ろ……ろく?」

「お前にその力を与えた紫紺の尼のことだよ」


 突きつけられた刃よりも、恐ろしいその名前。記憶に刻まれた戦慄は彼に激しく首を横に振らせた。


「し、知らねぇよ……知らねぇ!」

「ほう、知らないのか。だったら、他の連中に聞くしかない」


 美しく研ぎ澄まされた刃がカチャリと音を立て、切っ先が首元に圧力を加えていく。

その時、大餓鬼は気づいた。雨が降っている。そして微かな音が耳に響くほど、辺りがしんと静まり返っているではないか。


 夜叉丸の面の下から、嘲笑が漏れる。その声は嫌に無邪気なものだった。


「ああ、忘れていた。お前の仲間は全員ここにはいないんだったな。俺が来るなり、目の前で全身の穴から血を噴出した。とんだ病だ、見れたものじゃない死に顔だった」

「あの尼……嘘をつきやがった! 何が任せろだ、なぜ死神がここにいる!?」

「馬鹿な。その程度の力で慢心したお前が悪い。初めから噛ませ犬として作られた存在だったんだよ、お前は」

「ふざけんなッ! まだ死ねるか……南野が、南野の一族がまだそこに――」


 その先の言葉は、彼の運命に記されてはいなかった。


 野望半ばにして、大餓鬼の頭部は夜空に高く跳ね上がり、その大きさに不釣合いな鈍い音を静かに立てて墜落した。頭部を失った肉体から流れるのは赤い血ではなく、青い光。絶え間なく放たれる青い光は蛍のように一瞬を輝き、雨垂れの中で儚くも消えていく。


 仇の最期に、妃子は永常の形見となった宝刀〈白鷺〉を握り締めた。


「この光のせいで……」


 ――何もかも失った。


 青い光に照らされる朱色と金の羽織を、夜叉丸は翻して太刀を納めた。視線の先では、地べたから立ち上がれずにいる、生気を失った妃子の瞳が呼んでいた。傍らで横たわったままの命の恩人に気を留める余裕もない酷さだ。


「……」


 虎次郎の様子がおかしい。動く気配がない、意識を失っているのか。


 まさか、と夜叉丸が踏み出した矢先、彼の身体にどす黒い感触が走った。


 「――貴様!?」


 悪寒の根源はすでに夜叉丸の裏をかいていた。息すら立てぬ虎次郎の真横に立つ半透明の紫紺と藤色の袈裟の尼。彼女は鬼気迫る勢いで虎次郎の首を圧し折らんと締め上げる。


 夜叉丸は駆け出した。そのわずかな間に、虎次郎の傍にいたはずの妃子は身動きできなかった。

落雷が妃子の瞳に、初めて見る諸悪の根源の素顔を焼き付ける。


 濁った真っ黒な人形の目。

 

 紫紺の帽子(もうす)から覗く、正常な精神ならば持ち得ない怨念の塊に毒されてしまったのだ。

妃子の静止した視界の中に、夜叉丸の姿が飛び込む。肉眼で追えない神速の抜刀が、尼の帽子(もうす)を掠めた。


「初めからこのつもりか!? 六生!」


 太刀筋と同じく、あの神が声を荒げていることに妃子は衝撃を受けた。夜叉丸は太刀を振り回し、紫紺の尼を追い回すが、悉く斬撃は紙一重のところで回避されてしまう。餓鬼を退治してきた一撃必殺の剣術が、自分達から尼を追い払うだけで精一杯という事実に、妃子は敵の恐るべき力量を知る羽目となった。


「どういう風の吹き回しだ。散々、餓鬼を隠れ蓑にし、己の姿を現さなかった貴様が、こんなガキ一人のために直々に手を下しに来るとは! 余程込み入った事情のようだな」


 夜叉丸の太刀が青く輝く。集約されたバリアブルバブルが水分子と化し、刃から雨露の弾丸が放たれた。空気抵抗を失った水弾丸が紫紺の尼の足元を蜂の巣にするが、彼女は自分から攻撃する素振りも見せず、木の上に舞い降りた。


 そしてそのまま、一言も語らずに姿を消した。


「……なるほど。俺ではないと、そういうことか」


 尼の撤退を予測していたのか、夜叉丸の口調は冷静であった。


 雨は激しさを増す。泥濘に横たわる虎次郎は依然として動きを見せない。


「虎次郎はんッ!」


 手も足も出ぬ状態に置かれていた清次と守護の兵は、やっとの思いで彼らの元に駆けつける。清次が虎次郎の体を抱き起すが、さっきよりも冷たい手足、生気のない顔、まるで等身大の人形を抱えている感触に彼は愕然とした。


「し、死んどるんとちゃうよな、虎次郎はん! ただ気失っとるだけやろ!? なあ!?」

「当たり前だ。そいつは今、夢の中にいる。普通の人間が手を出すべきでない力を二度も使った疲労で、大本が落ちた。それだけのことだ」


 意外な声の主に一同は固まった。雨に濡れた白い小面は、次に放心状態のまま雨に打たれ続ける哀れな妃子に目を向けた。


「酷い有様だな、妃子」

「……」

「言葉すら忘れたか。隣で死に損なっている男に気にも留めないわけだ」


 嘲笑、というよりは叱責の語り口だった。いつもならかっとなって言い返すだろうに、残念ながら今の彼女にその気力はない。


「失望だ。自分だけしか見えていないお前に用はない。さっさと鶴岡に帰れ。骸は全て俺が焼き払ってくれる」

「……嫌です」

「ならばそこで野垂れ死ね。身内の亡骸をと共に雨曝しのまま果てるがいい」

「……そうしたい。死んだ方がマシでした」

「き、妃子様……何を」

「もう……何も無くなってしまった……また独りに……」


 涙なのか、雨露なのか、わからない。だが、普段の彼女ならば絶対に口にしない言葉を彼女は言った。


 死にたい、と。


「夜叉丸……私はこの青い光が憎い。あなただけではない……餓鬼も、あの尼も……そして、私を生かしてしまったこの方も……」

「妃子様! それはあまりにも――」

「楽しいですか? 私を苦しめるのは」


 酷く充血した眼で、彼女はそこに立ちすくむもの全てを睨んだ。やり場のない妃子の怒りの矛先に、夜叉丸以外の者達は視線を右往左往させるばかり。


 そして彼女は、その青ざめた唇を開いた。


「……夜叉丸、今すぐ私を御魂入りさせなさい」

「断る。そんな痩せこけた魂など俺には必要ない」

「どうして……! これほどの憎しみが宿った魂ならば、あの餓鬼をも喰い殺せます! 私の魂を宿してあの尼を倒せばいいッ! そうすれば、あなたのお役目も果たせるのでしょう!?」

「……守護の兵どもに命じる。この小娘を直ちに鶴岡に連れ戻せ。お前らもついていくがいい。当分、あの尼は様子を見るだろう。餓鬼の気配もすっかり消えた」


 本当に気が違ってしまうことを恐れてか、夜叉丸は妃子を刺激するような言葉を避け、清次らにさっさと去れと遠まわしに勧告した。


 相手をされなくなった妃子の激情は留まる気配もなく、「夜叉丸! 夜叉丸!」と兵どもに抗いながら、姿が見えなくなる一瞬まで彼に噛みついていた。


「妃子様……」

「お前らも行け。この男のことは心配いらない」


 清次は耳を疑った。海岸での夜叉丸の暴虐無礼を忘れたわけではない、その経験が彼をここにおいていくべきではないと叫んでいる。


 例え、それが神の命令であっても――


「……殺しはしない。安心していい」

「どこが? 残念ながら、信頼できる要素が一つとして見当たりまへんな」

「紫紺の尼がこいつの持っている情報を盗んだ。同時に、こいつの夢に干渉しているはずだ……俺はその脅威を取り除く」

「死ねと、はっきり言った相手を助けるんでっか? 神様も言うことが二転三転しますな、ほんまに」


 いつになく強気な態度に、座衆はひやひやと両者を見比べる。相手が相手なだけに、心拍数は早まる一方。


 だが、ここで夜叉丸の様子が変わったのだ。


「……あれは言い過ぎた。素直に謝る」


 ――謝る?


 しばしの間が流れる。本格的に自分の耳はおかしくなったようだと、清次は試しに耳をほじってみた。


「あかん、あかん。疲れで聴力が……」

「虎次郎が現れて以来、六生の気配が絶えなかった。理由はお前が目にした通りのものだ。あれは俺と同じ力……そのために、虎次郎を挑発した」


 どうやら耳は至って正常なようだ。だが、聞こえてくる内容が今まで抱いていた夜叉丸の印象とはかけ離れていることに、周りは動揺を隠せなかった。


「それはつまり、虎次郎はんの素性を探るためにわざと……!」

「半分は本――」


 本気と言いかけて、夜叉丸は言葉を止めた。そして、


「うるさい! こっちも理解の必要性は感じてるんだ……!」


 それは清次ではなく、他の誰かに言っているようにも聞こえた。そう、浜へと逃げる際中、未来の人間の指示を仰いでいた虎次郎とまったく似ている光景に映る。


 言動が青い。幼さの残る神だ。


 人との関わり方を模索しているようにも見える。


 夜叉丸の隠れた一面に、清次は今まで立てた憶測を見直す必要があると考えた。夜叉丸に対して反抗的な意思を貫こうとしたが、どうやらそれは正解ではないらしい。


 しばし、付き合い方を変えてみる必要がある。


「……とにかく、紫紺の尼が虎次郎はんに何か仕込んだのやったら、それは夜叉丸様にしか対処できへん」

「さあな、俺の理解の範疇を超えることでなければの話だ」

「ほな、ほんまにお願いしていいんですね?」

「その必要はない。本音は俺もこいつの中の情報を知りたいだけだ。人がどこまで神の領域に踏み込んでいるのか……知っておかなくてはならないからな」


 それだけ言うと清次は十分承知したようで、この場を全て夜叉丸に任せることにし、座衆を連れて妃子の後を追った。


 雨は境内に塗れた血を洗い流すほど強くなっていた。朱雀の宮に残されたのは、骸の片付けに追われる守護の兵達、夜叉丸と眠る虎次郎のみ。次々と派遣される武士達は夜叉丸の姿を尻目に、悲惨な最期を遂げた者達を弔うために働き始める。


 夜叉丸は膝をつき、虎次郎の額に触れた。


『少しは上手になりましたね』


 優しい女性の声が、夜叉丸の脳裏に響く。辺りには人の姿はない、女は極めて異質な存在であった。


「何を」

『人に頼み事をなさることが』

「……よくわかない。だが、俺はこいつ相手だと何故かムキになるんだ」

『魂が似てらっしゃるのです。あなたとこの方は』


 ピンと来ない。自分は数多の魂から成った存在――この女もその一部だ。そんな複数の人間が住まうこの魂とたった一人の人間の魂がどうして似ることがあろうか。


 ――まったく、見当外れも甚だしい。


 彼はその魂の輝きを体現させた。再び闇夜を照らす青い光は、虎次郎の体をも包み込む。慌てる必要はないが、六生の送り込んだ悪意を取り除かない限り、虎次郎は眠ったままだ。それでは話は進まない。


『助けてあげてくださいませ』


 女は夜叉丸にそう言った。


 儚くも哀しみを映したその声は、そこで途切れた。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ