第拾壱話 制約、時と言う修正力
生臭い。死臭漂う清き土地とは、何とも矛盾を孕んだ冗談か。
つくづく、人間は建前が好きだ。
所詮は慰霊祭など言っても、そこには慰められるべき魂など存在しない。寺社と呼ばれ、神仏を尊ぶところとしても、このように血生臭い惨劇は起きるもの。
「目障りだ。他の奴らが殺気立っているせいで、あの尼の気配が消えた」
夜叉丸は山の頂からすぐ傍の朱雀の宮を見下ろしていた。
北門の炎は激しさを増し、南と西側は賊の本体が今、攻め入ってこようとしている。ならば、人々は東門から浜へ逃げるしかない。
「やられたな……袋の鼠だ。おそらく、浜には餓鬼がいる。皆殺しか」
もうだいぶ前か、夜叉丸は北門の森に火の手が上がったのを発見し、この場に留まった。それが賊による宣戦布告だと知っていたとしても、助けるつもりはない。
自分の目的は、紫紺の尼ただ一人。他の者など知ったことではない――
「……」
だが、一人だけ気になる人間がいる。癪に障るが、ここでもし死なれたらそいつが一体何者であったのか、もはや知る由はない。
そして困ったことに、もう一つ――
「……勘違いするな。お前のためじゃない」
彼は自分に言い聞かせるようにそう言った。
直後、夜叉丸は闇に消えた。彼の止まり木を、生暖かい風が優しく撫でて行く。
生臭さを伴って――
《朱雀の宮》
どこかの門が蹴破られ、殺気立った下郎達がこの境内を荒らし回る。南野の兵どもは決起し、命懸けの防衛に向かうが、火の回りの速さに苦境に立たされていた。
賊による襲撃と感知した直後、拝殿に清次が駆け込んで来るなり、無理やり彼を大柄の座衆に背負わせ、有無を言わさず逃げ惑う人々の群れに飛び込ませた。不安に取り乱す人々を彼らは力強くも誘導しながら、火の気のない海を目指して進む。
朱雀の宮周囲は炎に飲み込まれ、熱さに皮膚が鋭く反応する。虎次郎は結崎座座衆の背中に担がれながら、自分を引きずり込んだ混沌の渦の強さに動揺を隠し切れなかった。
『雪江さん! 高槻さん! どうすればいいの!?』
虎次郎は通信を『客観』ではなく『主観』に切り替え、頭の中で彼らに指示を仰いだ。目の前を何人もの血を流した武士が仲間に担がれながら後退してくる。そんな状況に鉢合わせたことがない彼は、当然、冷静でいられるはずはなかった。
『とにかく落ち着きなさい。君は何もしなくていい。今起こっている事件も全て過去に実際に起きた出来事だ。君が首を突っ込む必要はどこにもない』
『でも! 妃子もまだ来ていない……あいつ、きっと、まだ朱雀の宮の中にいる。俺が余計なこと言ったから!』
『虎次郎君、彼女が死のうとも君には関係のないことだ。全て、君の生まれる遠い昔に終わってしまった事だとわからないのかい?』
「え……」
迫りくる炎の熱を冷ますほど残忍な返答に、言葉が詰まった。
『役目を間違えてはいけない。オーバースピリットダイバーの使命は、隠された時代をその目で「見る」ことなんだ。過去の出来事に干渉することではない』
『今更……今更、それを言うのかよ!』
『彼女達に出会って、辛いのはわかる。だが、はっきり言おう。君がそこで足掻いたって結論そのものは変わらない』
「どういうことだ!」
顔の見えない高槻、口だけの同情、全てがムカつく。
苛立ちと焦燥は脳内に留まり切らず、その声を発する。突然、虎次郎が独り言を始めたようにしか見えない結崎座の座衆は走りながらも顔を見合わせ、彼の様子を窺った。
『君が誰かを助けたとしても、その人間が死ぬ運命ならば死ぬ、生きる運命ならば生きる。どんな影響を与えたとしても、それが未来に影響することは何一つない』
「何でそうやって言い切れるんだ……! まるで何でも知ってるみたいな言い草だな。 そんなことまで科学は解明してるって言いたいのかよ!」
『……仮説だが、ほぼ間違いのない事実だ。残念ながら、すぐに私の言っていることがわかるようになる』
「何だって……!?」
「あ、あんさん、さっきから誰と話とるんや?」
独り言にしては荒々し過ぎる。虎次郎の異変に、ついに彼を背負う座衆は恐る恐る声をかけるが、虎次郎の耳には入らない。
その様子を後方から見ていた清次は担いでいた負傷兵を他の座衆に託し、虎次郎の傍へと走る。
「どないした!?」
昼間の松林に差し掛かった頃、不幸中の幸いにも、風向きは彼らの向かう浜とは正反対に変わり、火の追撃は衰えを見せていた。
「それが太夫……独り言いいよんねん。俺らの声も聞こえてへんみたいやし……」
「何やと?」
浜は目と鼻の先。他の者を先に行かせ、清次と虎次郎を背負った座衆は歩を緩めて彼の独り言に耳を傾ける。客観的に見た彼の姿は、目に見えない何者かとの会話に意識を浸透させていた。
どこか違う――狭い空間の中で、彼は一人で閉じこもっていた。
『私達は君がダイブしてから、餓鬼以外のことで君に注意をせず、自由に行動させてきた。それがダイバーの使命に基づくものであるから、我々も口を出す道理がない。こうして運良く鶴岡八幡宮の関係者に接触することができたが、同時に彼らは最も餓鬼のリスクを伴う人間でもあった。そんな彼らの元に、君を留めたの何故だと思う?』
「身の安全のためだろ! ダイバースーツが回復するまでの……この通り、一人じゃ何もできない」
『それもある。だが、もう一つ……君を動かしたくなかった最大の理由がそこにある』
「最大の理由って――」
言葉は突如、浜の方角から上がった悲鳴に掻き消される。一つではない、何人もが発狂にも似た叫びを上げ、一心不乱に駆け戻ってくる。
嫌な予感――とても陰湿な罠。
――いる、あいつらが。
『わかるね? 何が起こっているか』
「……はい」
空間に犇く無数のバリアブルバブルが警鐘を鳴らす。虎次郎の身体に突如現れた倦怠感と精神的圧力はこの道の先に待ち受けているものを言葉なくして彼に教える。
しかし緊迫した空気の中、高槻は重々しくも柔らかな声で言葉を続けた。
『肩の力を抜いて聞いて欲しい。君を留めた最大の理由は、君の傍に現段階で絶対に死なない人間がいるからなんだ』
「――!」
静かに、と彼は虎次郎を制した。
『言葉の意味はそのままだ。史実と照らし合わせて、おそらくと言える人物がそこにいる』
誰が、と言いかけて虎次郎は横目で清次を見た。その視線に捉えられた清次は訝しげに彼を見つめ返す。
彼だ。彼しかいないのだ。
そして、高槻はこう言っているのだ。彼らの運命は変えられないが、その過程に『きっかけ』を与えることは出来ると――
「清次……信じれなかったらそれでいい。俺の話を聞いてくれないか」
「な、何でっか?」
呼吸を落ち着け、虎次郎は意を決して口を開く。
「浜に餓鬼がいる。喰われる人間が増える前に皆を逃がさないといけない」
「そ、そないなこと言っても、後ろは炎と賊に――」
「俺が囮になる。ヤツらを俺が引き付ける」
清次は思わず首を横に振った。
「無茶や……! できるわけあらへん! あんさん、動けへんやろ!」
「そう。だから、お前の力を貸して欲しいんだよ」
「力て……まさか、あんさん背負って鬼ん中飛び込め言うんやないやろな」
「そのまさかだよ」
清次は顔を引きつらせ、奇妙な笑い声を上げてその恐怖を押し殺す。虎次郎を担いでいた座衆も青白い顔で虎次郎の神経を疑った。
「太夫! あかんて……! こいつ、血迷ったか、何かでっせ!」
「あり得へん! 虎次郎はん、悪いでっが、できるわけありまへんやろ! わいやて、命は惜しいんや……!」
しかし、非難と蔑みに似た視線を突きつけられても、虎次郎の決意は揺るがない。真っ直ぐな視線が意識をしっかりと放さなかった。
「わかってるよ。でも清次、お前はそんな馬鹿なことを考える人間が、どこから来たか知っている。そんな馬鹿なやつを信じてくれてる」
「何が言いたいんや、虎次郎はん!」
「お前らの未来を知る人間として言う。お前が死ぬのはもっと先だ。遥か先、戦とは関係ないところで……お前は死ぬ。ここじゃない、絶対に」
時が止まった。
逃げ惑う人々の声も、鬼に食われたのであろう人間の悲鳴も別次元の出来事ように、虎次郎は清次の意識を完全に捉えた。瞬きや呼吸を忘れてしまうほど、清次にとって彼の言葉は衝撃的で、神の言葉に匹敵する神秘があった。
「死なんて……虎次郎はん、ほんまに? あんさんはわいの運命を知って――」
「全部知ってるわけじゃない。だけど、今、お前は絶対に死なない。目の前で刀を振り下ろされても、弓矢を放たれても、絶対に死なない。何があってもお前は生き残る! この中で唯一……それがわかる人間なんだ」
その先は言わせないで欲しい。
そんな顔で、虎次郎は清次を見つめた。言ったところで、彼の運命が簡単に変わるものではないが、先の見える人生ほどつまらないものはない。これ以上、彼に関することを話せば、虎次郎は清次のこの先の楽しみを、人生の潤いを奪うことになる。
それは人の人生を踏み躙るのと同じ。
「でも俺は死ぬかもしれない。また餓鬼に背中刺されたら、何が起きるかわかったもんじゃない……だから、俺は一人で戦うには頼りなさ過ぎる」
奴らの爪が再び突き刺されば流れ込むのは負の感情。その精神への負担は、現代で生命維持装置に繋がれている脳を病ませ、心臓を止めることもあり得るだろう。それより先に、消滅するのはこの魂か。
いずれにせよ、待っているのは戦いという一つの選択肢のみなのだ。
「正直怖い。これが俺の最後かもしれないって……そんな考えが頭から離れない」
「虎次郎はん! そないな縁起の悪いこと言うもんじゃあらへん!」
「……でも、だからこそ賭けてみたいんだ……目の前の僅かな可能性に」
「……」
「勝手な頼みだってのはわかってる! こんなこと言われて、お前が困ることも十分承知の上だ……だけど、このままじゃ、俺達は人が喰われるのを黙って見てるだけだ! そんなのは死ぬよりも辛い……!」
複雑だ。本来なら全て投げ出して逃げてしまいたいところだが、それを許した瞬間、自分は一生この日の後悔を引きずって生きることになる。
それこそ、生き恥だ。
虎次郎がどれほどの決意を抱いているのか、その瞳の奥から窺い知ることは清次にはできなかった。だがはっきり言える、彼は嘘をついていない。
語るのは真実――彼らが知る世界の仕組み。
自分達よりも神に近い知識が、そう言っている――
「お前がここで死なない人間なら、餓鬼の目の前で何かが起こるはず。俺はその漠然とした可能性を信じて挑みたい!」
「わいの……可能性……」
「頼む……清次! 俺を浜へ連れて行ってくれるだけいい! 頼む……!」
頭すら下げられないこの身体が自分の力量を物語っていても、虎次郎の決意は揺るがない。彼はじっと、清次の言葉を待った。
テコでも揺らぐことのない頑固な瞳に、ついに彼は折れた。
「……わかった。虎次郎はん、わいの背中に乗りなはれ」
「た、太夫! 何言うてんねん!? わざわざ死にに行くようなもんやろ! お人好しも大概にせいッ!」
虎次郎を背負う座衆は、顔を真っ青にして異議を唱えた。だが、当然のことと理解している清次は優しく彼の肩を叩いて笑った。
「言いたいことはようわかる。けどな、神様のおる時代にこないに救いのないことが起こるっちゅうのはおかしくあらへんか?」
「太夫、毒され過ぎや! この気違いのいうこと信じたらあきまへん!」
「そないな言い方するんやない! 聞け、平蔵……神様のおらん時代からわざわざ人がやって来るっちゅうことが、どないなことを意味してるかわからへんか? 目と耳を凝らして見てみ、この有様を!」
彼はそう言われて初めて周りを意識する余裕を得た。統制を失い立ち往生する人々、遠くから聞こえる断末魔、命辛々の撤退を強いられた血まみれの兵士。自分が虎次郎の話に集中している間に、死神の魔の手は刻々とこの身にも迫っていた。
このまま何もしないことと、虎次郎の無謀に付き合うことはまったく同じことだ――
「……わかったやろ? わいらは袋の鼠や。殺されんの待つか、死ににいくんかのどっちかや! それでも誰も助けてくれへん……神様がおるのに、その助けはあらへん」
「……ほんまや」
「所詮は人間を救うのは人間よ。信じられるのも人間や……どんだけ時が経とうともその事実は変わらへん。哀れやな……後の世にそれを言われてるようなもんや」
期待を抱き、夜叉丸を一目見ようと鎌倉へ来ただけに、清次の苦し紛れの自嘲が虎次郎の目に切なく映った。
「だから、わいは行くで。自分が死なんっちゅうことを真に受けてるからやない。わいにとって、この
状況に変化を起こすかもしれへん人が虎次郎はんだけだからや! 神様と同じ身体を作りおった人達に……わいは賭ける。平蔵、泣いてる暇はあらへんで! はよ、虎次郎はんを乗せな!」
結崎座の太夫の叱咤に彼はしゃくり上げながら、虎次郎の身体を清次の背中に移した。
「ほな……行きましょか、虎次郎はん」
「ごめん……ありがとう」
「平蔵、必ず戻るさかい。やばいと思ったら、逃げんやで」
清次は虎次郎を背負うとそれ以上何も言わず、一目散に浜への直線を走った。彼らの背中を見送りながら、平蔵と呼ばれた座衆は泣き崩れ地に膝を着く。他の座衆も不安げに彼らを見送りながら、餓鬼の気配に逃げる準備を整え始めていた。