第拾話 迫り来る業火
《隠された時代》 朱雀の宮
「妃子の奴、自分でお呼びしておきながら顔を見せぬとは何と無礼な」
「きっと虎次郎はんが心配で離れられんのですよ」
「神の身体を持つ少年か……不思議な日だ。姉の命日にこのような出来事に遭遇するとは、何かの前触れなのだろうか」
舞殿での一興に幕が下りると、鶴岡八幡宮別当、南野永常は結崎座の座衆を寝殿へと招き、祭の余興を楽しむことにした。料理や酒といった豪勢なもてなしを目の前にして、清次を始め一座ははにかみを見せながら、ご厚意に甘えることに至った次第だ。
予定通りならそろそろ妃子が合流するはずであったが、彼女の姿はまだ見えない。
――まさか! ちゃっかり、甘いひと時になってるんとちゃうか!?
年頃と女子と男子ならば、何かあってもおかしくない。そんな不埒な想像を頭の片隅に留まらせながら、清次は肴をもぐもぐと噛み締める。
「ところで、太夫。何故、大和から遥々鎌倉まで?」
清次と違って妃子の遅刻に何の疑いも抱いていない永常は杯を飲み干し、手酌を進める。中々の酒豪のようだ。
「神様の姿をこの目にするためです」
「ほう……」
その時、永常の手元が止まった。
「ならば、夜叉丸に新たな舞でも見出したのか?」
「さて、それはわかりまへん。そのつもりでしたが……率直に申し上げますと抱いたのは恐れにございます」
清次も膳に箸を置き、身を正す。
大和にも、夜叉丸の噂は届いていた。面を掛けた、餓鬼を圧倒する力を持つと呼ばれる少年の神。残酷であるがとても美しいと言われるその姿を清次は遠目からだが、つい先ほど目の当たりにしたのだ。
その風格は芸を極めた名人でさえも決して届かぬ荘厳なものであった。
圧巻の出で立ちに、清次は心を奪われたと同時に人間の限界を思い知らされた。あの領域に人が辿り着くことはない。それを知った瞬間、彼は夜叉丸が恐ろしく思えた。
「あれこそ幽玄の極み……ですが、それに届こうとあがく人間を黙って見下ろしてはる。餓鬼を倒そうと切磋琢磨しとるわいらを見て、面の下でこう呟いていると感じました」
「何と」
「『お前らには、俺が必要だ』と……そんな腹黒い考えが頭から離れまへん。御魂入りっちゅう、約束を知ってから余計に」
神の所業は人のために非ず。そうやって依存させる事で、鎌倉の人間は二重の意味で魂を喰われてしまっている。清次がここに来て感じたことはまさにそれだ。
「姉のおかげで私達は生きている。皮肉なことに、やっていることは餓鬼と変わらない。悔しくて仕方がないな……餓鬼が現れて百年、誰も夜叉丸に物申すことができんのだから」
「餓鬼が現れる前は、あの神様は鎌倉におったんでっか?」
「いや。餓鬼と同時期に夜叉丸は人々の前に姿を現した。太古の昔、一度姿を現したとの噂は伝承されていたが……不思議なことに一切の記述は残されていない。もしかしたら、別の神かも知れぬが」
「作り話だと思ったことが本当やった、と」
「うむ。夜叉丸の出現には必ず鬼が付きまとう。夜叉丸自身が餓鬼ではないかと、私もずいぶん疑っていたものだ……だが、それは違うとすぐにわかった」
その時、烏が一羽、寝殿の屋根に止まり足音を奇怪に立てる。
「違う……とは?」
烏の羽ばたきに視線を取られた永常は、神妙な面持ちで清次に顔を向ける。
「……最近のことだ、餓鬼の討伐の際に私は見てしまった。紫紺の帽子に藤色の袈裟を纏った一人の尼が、人を餓鬼に変えたところを」
「それって噂になっとる〈紫紺の尼〉って奴のことでっか?」
永常は静かに頷く。
「おそらくは。帽子のせいで顔は見えんかったが……これ見よがしに瀕死の侍を餓鬼に仕立て上げたのを見て、あの尼は私を殺しに来るかもしれんと、その時、感じたよ」
「殺しにて……そのことを妃子様は?」
「知らん。だが、確実だろう。あの後、すぐに夜叉丸も現れた。どうやら、夜叉丸はあの尼を追っているらしい……神でさえもその姿を追うことができない力の持ち主の存在を知った今、夜叉丸に対する見解は変わった」
「その尼を倒すために、神様は強い魂を欲している……」
「そう。自分の力を増幅させるためだ。現に夜叉丸の結界を越えて、紫紺の尼は餓鬼をこの鎌倉に放っている。それは他ならぬ脅威だ。それ故、姉が選ばれたとしたら……少しは気休めにもなる。妃子には口が裂けても言えんが……」
それを聞いて、清次は妙に納得した。
「なるほど……餓鬼が人を喰らうのも、その形を維持するため。夜叉丸様はそれ以上に強い魂を喰ってはるから、餓鬼にも負けんってこっちゃ」
より強い魂を身体に取り込むかによって、その力に差は生じる。夜叉丸は治承・寿永の乱での死者が集う魂の塊であり、幕府への恨みと生への未練は、餓鬼が摂取できる魂の強さ比ではない。あの圧倒的な力はあの中に住む、魂の怨念そのものなのだ。
では、虎次郎はどうだろう。彼は神と同じ身体を持つと言った。だが、彼が餓鬼でないことは、先の騒動により妃子を護ったことによって推測できる。何よりも、夜叉丸と対峙しておきながら殺されずにいること自体、ほぼ断定と見なしてもいい。
彼は、人の魂を喰らわずにあの身体を維持している。それは一体――
「結崎の太夫、私は思うのだ。あの虎次郎という少年は私達に残された最後の希望だと」
「希望……虎次郎はんが? それはつまり」
「魂を喰わぬ身体であれば、それは夜叉丸よりも強固なもの。故に真の神が、夜叉丸諸とも、この世から消し去るために遣わした人間の力の結晶ではないだろうか?」
その言葉に鳥肌が立った。永常の言いたいことを、清次はその瞬間全て把握した。いや、彼も自分と考えていることが同じだった。
それは時間という縁がもたらした力――
「後の世の人間が、神を滅ぼす……!」
「時が人間を成長させた。神の領域に挑めるようになるまで。我々の時代はそれを見届けることができると思うと……とんだ余興だ。そう思わんかね?」
「そうですね……」
虎次郎がそのような目的で自分達の前に現れたのか、情報は乏しい。だが言えるのは、彼と出会って、周囲が劇的に動き出しているのが一芸人の清次でもわかる。
変わる、この世界が。
神様に精神を依存せざるを得ないこの世の転機となるかどうか、まだ淡い期待でしかない。それでも、行き詰った運命は大きく筆を走らせることになるだろう。
前向きな気持ちに身を任そうと、清次は決意の一杯を口にしようとした瞬間、屋根の上にいた烏が突然、気味悪く鳴きだした。
「……烏め、せっかくの宴というのに」
だが、その鳴き声は異常だ。そこにいた誰もが胸を曇らせていく最中、烏の鳴き声に混じり、遠くから少女の声が耳に入る。
その時、はっきりと少女が『叔父上』と叫んでいることがわかった。
「妃子!?」
永常は立ち上がり、寝殿の外に出る。すると、血相抱えて走ってくる妃子の姿が飛び込んできた。
「叔父上! 火事でございます! 北門の森が燃えております!」
「何だと!? 火の不始末か……!」
「違いまする! 見張りが殺されております! 賊が、賊が祭りに紛れ込んでおるかもしれませぬ!」
宴の席が一瞬にして恐怖に凍りつく。客人達は蒼白の面持ちで顔を見合わせ、次に起こり得る恐ろしい想像に身を震わせる。
隙をつかれた屈辱とまだ見ぬ卑劣な賊への怒りで、永常は酔いをすっかり醒まし、この場所が戦場とする判断を下した。
「者ども! 宴は取り止めだ。すぐに戦支度をし、周囲の警戒に備えよ! 妃子、火の回り具合はいかがなものか!?」
「勢いは激しく、もうじき朱雀の宮に達します。近場の見張りを消化に回しましたが……おそらくはもう……!」
「ならば、ここを破棄する。消火を打ち切り、境内にいる者達を東門から浜へと誘導せよ! 妃子、お前は女どもを引きつれ、民衆の避難を直ちに開始せい。そして、動けぬ虎次郎殿を責任持って、お前が連れて逃げるのだ」
「かしこまりました!」
「わいらも手伝います! 虎次郎はんのことはわいらに任せて、妃子様は先に皆さんの避難を!」
清次はすぐに立ち上がり、妃子が彼の言葉に黙って頷くと座集を連れて寝殿を飛び出していった。
「では叔父上、また後で」
「うむ。すぐに向かう、頼んだぞ」
彼女はそう叔父に言い残すと、炊き出しで賑わう本殿へと急いだ。
それから間もなくして、賑わいはどよめきに変わり、妃子らを中心として民衆の避難は始まった。その
最中、胸騒ぎが治まる気配はなかった。
――まだ、何かある。
東門から、第一弾が出立した直後、不気味な馬の鳴き声を耳にした。思わず妃子らが振り返ると、火の手のない山の麓に明かりが灯っている。これが何を意味しているのか、わかった時には額に、油のような汗がまとわりついていた。
「――避難を急がせて! 誰か、守護に早馬を!」
最悪だ。母の命日に、母の命が絶えたこの地で戦が起きる。
賊の命さえも救ったと言える母の弔いの邪魔をする不届き者が、この社殿を食い荒らしに山を駆け下りてくる。
薙刀を握る手に殺意が篭る。妃子は心を鬼にした。