第九話 未来、信念と融通
《朱雀の宮》
つまり、今日の慰霊祭は妃子の母を弔うものであると、彼は知る。だからこそ、祭と言うのに、本殿の周りに集うこの近辺の民衆から、しんみりとした空気が伝ってくることにも納得だった。
そんな日に餓鬼に出会ってしまった彼女は、一体どんな気持ちで自分をここに連れてきたのか。戸惑いの中で、虎次郎は必死に彼女への言葉を探した。
「――神楽が持ち場に着いたようですね。あの大夫が、どのような演舞を披露してくれるのか……楽しみです」
関西弁のあの芸人のことだ。確か名を清次と言った。外見年齢は虎次郎と同じくらいに見え、滅法明るい性格の持ち主だった。由比ヶ浜にて虎次郎がなかなか彼らを信じられずにいた大きな原因は、いかにもエセ関西人という口達者さ災いしたためであった。
そもそも関西弁だが、現代の雪江達が当時の言葉を最も近い現代語に翻訳したために、鎌倉後期ということを忘れてしまうほど酷くでたらめで、今風のものに聞こえるのであった。しかし、翻訳がなかったら妃子の言葉も古文を呼び上げられるようなもので、虎次郎には到底理解できないことになる。
ありがたい機能だが、自然過ぎて過去だと言う真実味がなくなるのが難点だ。
さて、その清次だが、彼は妃子がこの日のために直々に呼んだ一座の棟梁であり、猿楽師としてその腕はかなりのものらしい。
虎次郎のいる書斎から少し遠めの位置に舞殿があり、篝火に照らされた群集がそれを取り囲んでいる。おそらく、彼はもうじきあそこに現れる。
「母は元々体の弱い方でした。だから、こうやって舞や神楽を見ることが楽しみだったのを覚えています。慰霊祭では毎年、こうやって様々な演者をお招きいたしました。今年は珍しい舞を見せるという大和の芸人が鎌倉に入ったと聞きましたから……無理を言って来ていただいたのです」
その時、鼓が高く上がり群集のざわめきを一瞬にして沈めた。その静寂に取って代わって鼓と笛の音が場の空気を掌握し、翁の格好をした演者が舞殿に立ったその瞬間、演舞の幕は上がった。
あの翁は他でもない、清次であろう。
舞台に立つ彼は不思議な魅力を放つ。滑稽な動きは福をもたらす翁神そのもの。人にあらざる雰囲気を醸しだす彼の風体は、虎次郎を始め多くの観客を虜にした。
芸に沸く人々の声に紛れるように、彼女が言った。
「……私は夜叉丸が憎い」
「……母親が、御魂入りさせられたから?」
すると、彼女は首を横に振って。
「それだけではありません。私には未来がない。御魂入りをした親を持つ者は、幕府の政に関わることを許されないのです。これも、御魂入りを容認した評定衆などへの敵討ちを防ぐため……ただでさえ安定しない政情を余計なことで乱さぬためにございます」
「……それが、未来がないってことなのか」
「はい。私はこの先、鶴岡八幡宮の巫女として生きて行かねばなりません。あの神は私を世界の片隅に追いやった! 母の命を代価に存続しているというのに……幕府は私の一門を悉く除外する所存にございます。これ以上の屈辱がありましょうか、生き恥にございます……!」
想いを馳せた遠い記憶から怨恨が意識を引き戻した。何もできない口惜しさとプライドがその瞳に静かな炎を宿し、秘めていた本音を声にさせる。
歳にそぐわない落ち着きの下に隠れていたのは、こんなにも激しい感情か。
だが、どうしたことか、それを聞いた虎次郎は酷い不愉快さに顔を曇らせた。彼女は不幸だ、可哀想だ。それは確かなはずなのに、何故か神経が逆撫でされる。
――自由に動ける人間が何を言ってるんだ。
「生き恥……こんなに大規模や慰霊祭を取り仕切っているのに? こんなに大勢に慕われているのに? あんた達は、これが生き恥なのか?」
「当然にございます。私は北条得宗家の女子、武士の世を作りし一門の責務を果たせず一生を終えることになるのです。それは私にとって魂の篭らぬ人形に成り下がるのと同じ」
「……要するに意地と誇りだけかよ」
「……どういうことにございますか」
意地の悪い間の後、妃子は眉をひそめ、そう言った。その問に、唯一動く虎次郎の顔の筋肉がみせたのは、嘲笑だった。
何も自分から読み取ろうとしてくれない妃子に、虎次郎は嫌気が差した。
「いいよな、昔の人は! 立派な目標があって、それを達成することだけ考えてればいいんだからさ。単純だ! あんたみたいな人なら生きてりゃ、いつかできるだろうよ」
「何を……」
「生きてても、何もできない人間はどうしたらいいのかねぇ? いや……どうするも、こうしたもねぇか、俺はこのままでいいや。その方が、気が楽だ」
どっと笑い声が沸く。舞殿の清次はすっかり客の心を掴み、場を盛り上げていた。
羨ましい。それを見て虎次郎は思う。餓鬼に翻弄されながらも、この時代の人々は生活を楽しむ術を知っている。
生きること、一点に集中できる。
自分はどうだ。ダイバーである間には心配ないが、この役目を解雇されたらどうなる。もしも、肉体に戻されてしまったら、次に起こるのは自分の世話の問題。
姉と親族への経済的、精神的負担。考えたくもない。
この隠された時代にいない自分こそ、生き恥――
「おっしゃっている意味がわかりませぬ。このままで良いとは? 魂だけの……そのような不安定な体であり続けることは、真に苦しいものとお見受けいたします。元の体に戻れるのならそのようになさったほうがよろしいのでは?」
「できたらそうしたいさ! けどな、今あんたの目の前にある、こんな無様な体たらくの俺が、何倍もマシだと思えるような体だったら……あんたどうする?」
「そのように卑屈にならないでいただきたい! 私はただ――」
「『ただ』? 何だよ。あんたは残酷なことを言ったんだ。まともに口も聞けない、目覚めずに死ぬかもしれない体に帰れって言ったんだ! 卑屈になるしかない現実が俺を待ってるんだよッ!」
苛立ちから怒りへ、その導火線は限りなく近いものであった。一度、爆発してしまった以上、感情の激流は冷静さを押し流し、彼を熱くさせるばかり。首から下はまともに動かないにもかかわらず、全身から伝わるその怒りに妃子は圧倒され、言葉を失った。
「何だよ、その顔。だったら私は死を選ぶって言いたいのか? 今よりもっと、復権なんて難しいしな! そうだろ?」
「ち、違います! なぜ、そうやってヘソを曲げて捉えるのです!」
「羨ましいぜ、切腹が美徳な時代が。そうすりゃ、心置きなくダイバーとして生きる道を選べたのに……」
「あなたは私達を馬鹿にしているのですか!? 私達だって、いつ餓鬼に殺されるか、わからぬ日々を生きているというのに! 少しの汚れを恥と思って、すぐ死んでしまう人間とお思いですか!? それは間違いです……!」
「間違い? ふざけんなよ……他のやつらは知らねぇが、あんたは言った! 俺と違ってどこへでもいける体と力があるのに……何が生き恥だ。幻滅だ。あの北条氏の子孫がこんな薄情娘だなんて、最悪だ」
「もう一回言ってみさないッ!」
家の名前を出したとたん、妃子の顔つきが急変した。だが、虎次郎は怯む様子もなく険しい顔つきを緩めたりはしない。
一食触発の雰囲気が漂う中、舞殿の喝采が二人の耳に届く。一幕を終え、もうじき人々が動き出すだろう。腹の虫が治まらないと言っても、こんな修羅場と化した光景を見られては後々面倒臭くなるだけだ。
「……夜叉丸の言った通りです。あなたの魂は弱い」
「あんたもな……!」
無言のまま、彼らは目を合わすことはなかった。妃子は冷淡に会釈すると、そのまま彼に背を向け、その部屋を後にした。一人になったはいいが、妃子の言葉がじわじわと遅れて、虎次郎の心に波紋を呼ぶ。
「くそッ……!」
八つ当たりなのは知ってる。だけど、腹立たしくて仕方なかった。
『酷い荒れ様ね』
様子を見ていた雪江の声だ。
「ふん……」
『せっかく、貴重な情報を得られるチャンスだったのに』
「大筋は掴んだろ。あの甘ったれ女のおかけで」
『安心しなさいよ、忍さんは席を外してる。別の仕事をお願いしてね……外に出てるわ』
だから話してみなさいよ、と、彼女は言うのだ。皮肉屋な天邪鬼は普通なら彼女の手を払いのけだんまりを決め込むだろう。しかし、中途半端に発散してしまった感情を、そのまま心の内に閉まっておけるほど虎次郎は器用でなかった。
「……雪江さん、早く俺の身体を動けるようにしてくれ」
『もうしばらくの辛抱よ。高槻さんも忍さんも、そのために動き出してる』
「俺はオーバースピリットダイバーとして生きたい……生きてこの仕事を形に残るものにしたい、どんなに辛くても!」
この姿が自然の理に反する罪であっても、それでいい。
肉体から飛び出すことで、自分の可能性は広がった。未知の大海原の先に待っているのは絶望か希望か、それはわからない。
だが、誰かが渡らなくては海路が開くことはあり得ないのだ。
感情的とも言える言動だが、虎次郎の揺らいでいた心が決意に漲った。
幕府も、餓鬼も、神もどうなろうと知ったことではない。ただ言えるのは、いずれも現代には存在しない。それが答えだ。
そうなって行くのを、自分が見届ける。それが完全な身体を失った自分の使命。
こんなに生き様を馬鹿にされたのは初めてだ!
「――ッ!」
虎次郎のいた拝殿から飛び出し、妃子は篝火に照らされる境内を人気のない方角へと進んで行く。その先には、青々と夜空に茂る大きな桜の木があった。
熱いものが込み上げてくるのを堪え、彼女はその木まで必死に走り、木肌に触れたとたん、彼女は抱きつきように立ったままもたれ掛かった。
彼女は無意識にこの場所に来てしまった。それもそのはず、妃子の母は十三年前の今日、この木の下で生涯を終えた。
あの姿は、幼い妃子には眠っているようにしか見えなかった。
「違う……私は間違ってなんかいない」
記憶の中の母は決して答えることはない。だが、愛しき故人のために勉強も武術も怠ることもなく、男に負けじと努力を怠らなかった。
全ては母を奪った夜叉丸への復讐のため――
「北条は私と母上の全て、必ず取り返して見せる……!」
涙を拭き、彼女は顔を上げた。これから叔父の元へ向かうと言うのに、泣いていた素振りなど見せることができようか。妃子は顔をキリッと引き締め、再び本殿のある方向へと引き返す。
だがその時、北からの風が物騒な匂いを彼女の元に届けた。
「焦げ臭い……火の気のない方向からなのに」
最悪の事態が頭を過ぎった。境内には近辺の農民や漁民が集まり、賑わっている最中だ。もしも火災などが起こってしまったら、朱雀の宮はたちまち大混乱に陥り、人の死を嗅ぎつけて餓鬼が現れるかもしれない。
「嫌な予感です。もしや、何かに燃え移ったか……!?」
妃子は咄嗟に匂いの元を探した。だが、その匂いはだんだんと強くなり、パチパチと何かが燃える音が耳に飛び込む。その音と匂いを追いかけるうちに彼女は朱雀の宮の最北端に辿り着き、塀に飛び乗って外を覗き込んだ。
その元凶を発見した途端、全身から血の気が引く。
宮の外の森が真っ赤に燃えている。
「森が! これは一体……!? 早く知らせ――」
それだけではなかった。見張りの数がやたら少ないと思えば、真っ赤に燃える木々のすぐ下に、良く知る鎧を纏った武士達が炎の色よりも濃い赤色に染まり横たわっていた。それは明らかに、太刀で背中をばっさりと切られた傷であった。
「死んでいる! 賊が紛れているのか、あの民衆の中に!」
早く知らせなければ、火は間もなく朱雀の宮を取り囲む。そうなる前に皆を逃がさなくてはならない。
母の命日に、これ以上悲しい出来事が起こるのはごめんだ。
妃子は暗闇の中を疾走した。