プロローグ
※グロテスクな描写あり。とにかく血が出ます。苦手な方はUターンを推奨します。
例年にない暑い昼下がり、俺は植物状態になった。
野球の試合の帰り、俺は些細なことで大喧嘩を買ってしまった。周りが見えなくなった俺達の元に大型トラックが一台、突っ込んできたのが運の尽きだった。
逃げる間も与えず、トラックは俺達をはねた。
アスファルトに広がる血の海に浮かばされて、自分の哀れな姿も、隣にいた俺の親友がどうなったのかもわからないまま、俺は灼熱の太陽に焼かれていた。
だけど、薄れ行く意識の中であいつは突然俺の前に現れた。
『死にやしねぇよ、虎次郎。ただ生きる場所が変わるだけだ』
真っ白な女の面、鳥帽子と朱色の羽織。浮世離れしたそいつは、じっと俺の顔を覗き込んでいた。
『来いよ。お前の魂の力、見せてみろ。虎次郎……!』
男とも女とも取れるあいつの声は、心地良く俺の意識に溶け込んだ。
それを最後に、俺は意識を失った。
あの日から俺はまだ一度も目覚めていない。俺が覚えていた事故の記憶はここまでだ。
果たして、俺は生きていると言えるのか、それが疑問だった。
俺は二度と野球をすることができない。まして目覚めることなく死んでしまうかもしれない。絶望にすら気付かない自分が悲しくて仕方なかった。
だけど、そんな俺の前にあいつは再び現れた。
魂を越えた出会いが、俺の考えを根底から覆してくれた。
ありがとう。俺はお前達を忘れない。
俺は今、はっきりと言ってやる。
生きてるって――
《隠された時代》 朱雀の宮
――妙な夢だ。
海からの温かな風が優しく妃子の頬をなで、青葉の囁きは乱れたその心を静めんとする。額に薄っすらと汗を残したまま、彼女は半ば放心状態で庭先を見た。やわらかな日差しを浴びた白い砂利が明るく境内を照らし、季節の草花が茂るいつもの景色。
だが、彼女の脳裏には見知らぬ光景が恐ろしく焼きついて離れなかった。真っ黒な地面に巨大な山車のような鉄の塊、無機質な石の館の群れ、どれもこれも妃子の見たことのないものばかりであった。
その中で二人の少年が血を流して倒れている姿があった。彼らは武士でも公卿でもない奇妙な風体で、真っ黒な地面の上で動かなくなっていた。
「……夢? 慰霊祭の準備で疲れていますね……こんな不吉な夢を見るなんて」
視線を手元に下ろすと、書きかけの日記の上を筆が転がっていた。
どうやら、日記をしたためている最中にぱたりと眠りについてしまったらしい。
「しかし、不可解な……まったく私の知らぬ景色。一体、あれは……」
紙に汚れをつけぬように、妃子は急いで文机の上の物を定位置に戻す。
一体何の夢かはわからないが、あの二人を覗き込むように現れた何者がいた。
それこそ、あの知らない世界の中で彼女が唯一知る存在。
この世で最も憎い神――
「伝令ェェッ! 伝令! 山中に餓鬼が出現! 至急、雪下殿にお目通りをお頼み申す!」
早馬の鬼気迫る声に穏やかな午後は一転する。妃子は部屋から飛び出し、
居住区とお社を繋ぐ回廊を一気に駆け抜けた。すると声を聞きつけ加勢した家臣達が、興奮した馬を落ち着かせようと奮闘している最中であった。
「何事でございますか!?」
彼女は群集に向かってそう叫んだ。しかし、誰もが妃子の存在に気づかない。
それもそのはずだった。妃子は事態の重大さを目の当たりにした。
早馬の衣服や顔は返り血に染まり、目は一点を見据えたまま。支えなしでは馬から降りることもままならないほどだ。
つまり、彼は命からがら逃げてきたのだ。
「餓鬼が現れたとは真か!」
早馬が家臣達に支えられ、ようやく馬から降りると、この鶴岡八幡宮の若宮別当である南野永常が姿を現した。すると早馬は追いすがるように、ふらふらの足で永常に跪く。
「雪下殿……! ま、真にございます! 仲間が喰われ、この様でございます!」
早馬の報告に彼は唸った。
「餓鬼め……! 御魂入りの慰霊の儀は今宵と言うのに……」
「殿、農民達は祭の支度に沸いております。このままでは犠牲者は跳ね上がりましょう」
「わかっておる。皆の衆、餓鬼の討伐へと向かう! 確認できているのは一匹か?」
「は、はい」
「承知した。他にも潜んでいるやもしれん。最大の注意を払い、何としてでも仕留めるのだ、よいか!」
永常の号令に家臣達は即座に散開し、それぞれの持ち場に就く。その手際の良さと連帯感は、どこの武将が見たとしても目から鱗を落とすであろう。それほどまでの精鋭揃いなのだと、我が叔父の兵達ながら妃子は誇らしく思った。
「妃子」
初めからその存在に気づいていたかのように、永常は彼女を呼んだ。
「何でございましょう、叔父上」
「うむ。慰霊祭の猿楽奉納として、お前の呼んだ一座が間もなく到着するらしい。この間の悪さだ……彼らが餓鬼に襲われぬよう誘導を頼みたい」
「かしこまりました。私の客人です。そのお役目、私が果たして見せましょう」
「ただし、油断大敵だ。姉上の命日にお前に何かあっては困る」
「ご安心を。供を連れて行きますから」
女子であることを惜しまれるほど、妃子は武芸と学問に長けた才女であった。故に、永常の信頼は厚く、進んでこのような大役を任せることも少なくなかった。
その期待に応えるべく、彼女は馬小屋へと走る。すでにそこには彼女の刀と愛馬の手綱を握った従者と護衛の兵どもが彼女の到着を待っていた。
「待たせましたね。参ります! 皆の衆、よろしく頼みますよ!」
馬に飛び乗り、まさに走り出さんとする時であった。
晴天に閃光が走る。次の瞬間、青き光の柱が天を二つに引き裂き、海へと落ちた。
「あれは――」
吉兆か凶兆か。
海風が怪しく問いかける中、鈴の音が一つ鳴り響いたのを彼女は聞き逃さなかった。
その音色はあまりにも懐かしく、あまりにも憎らしい響きだった。
鎌倉 西部
「何やろ……あれ」
遠路遥々鎌倉へ神の姿を求めて、彼らは大和からの旅路を来た。そして、ついに目にしたのは摩訶不思議な光の柱、空と海よりも青い光の美しさに清次は心を奪われていた。
「う、噂の神様がご光臨されるんとちゃう!?」
「ほ、ほな急がんと……! はよ、奉納せいって怒ってはるんやないんでっか!?」
神秘の前に動揺する彼らの言葉すら、今の清次に届いてはいなかった。彼の意識はただ一点、あの不思議な光が落ちた先にあるものであった。
「行かへんと……」
「た、大夫!? どうしたんでっか!?」
好奇心に取り憑かれた清次は走り出した。道を下り、由比ヶ浜方面へと向かって無我夢中で走る。
いずれ出会う、彼の魂を揺るがす奇跡に。
《現代(2017年)》 東応大学 研究棟
都内にある東応大学の一室には、二人の学者がいた。
「鶴岡で発見されたのは、やはり、あの時代の物品だったよ。単刀直入に言う。今回で片をつけなくては、いずれ人の知れるところになるぞ」
「わかっていますよ。あなたに頼みたいのは、例の遺産を守り抜くことだけです」
「君らの腹のうちは知らん……だが、ダイバーは生きている人間だ。くれぐれも実験台などと、血迷った扱いをしないよう言っておくぞ。命の尊さを忘れるな……!」
考古学の権威であるこの老人は、彼にそれだけ告げて部屋を後にした。彼は味方ではない、ある一定の利害関係が一致している、ギブアンドテイクの関係でしかなかった。
内線電話が鳴る。タイミングを見計らったようにかかって来たそれは、彼にとって人生をかけた大戦への召集辞令でもあった。
「私だ」
結果はわかり切っていた。
彼は部下の報告を受けるとすぐさま、留守にしていたオペレーションルームへと戻る。
東応大学特別医療研究室 地下2階 オペレーションルーム。
ある少年の魂が、そこで時間という壁を越えていた。