余燼
よろしくお願いします。
紙タバコの匂いが鼻腔を満たす。カーテンの隙間から覗く微光に、視線が吸われた。
外の光を覗いた。それがなんともおかしくて、口の端を強く引き上げる。
薄桃色の花びらが散る月。晴天の空が腐った世界を覆っている日。タイヤの摩擦音しか響かないこの時。
全て憎ったらしくて、壊したい。
タバコをもう1口、口元へ運んだ。
肺を刺し、満たし、快楽を齎すそれに感覚を委ねる。何故か存在している心の浮遊感も、小刻みに揺れる指先も、それによって全て気持ちが悪いから。
振り返って部屋を見渡した。
静謐で沈黙が続く面白みの無い部屋。でも、いつもと違うアレに、痺れるような快楽が体を襲う。
ワインレッドに輝く、鮮血。
真っ白だった絨毯に染み込んでいるそれは、まさに宝石のように美しい。
しゃがんでそれに片手を浸けた。ぬるくて、美しい。
_でも、足りない。
しゃがんで、鮮血の主を見た。
長い黒髪。焦点を失った瞳。動かない表情。
頭を掻きむしる。だって、気色が悪かったから。だって、だって。体中が、電流が走ったかのように痛かったから。
幽暗の部屋で、時だけが腐っていく。
結局の所、この世界は醜いモノで固められた狂想なのである。
何処までも閉塞された、灰白な世界。
幼い頃夢に見た、暖かい親子も光のように眩しい絆も、星のように連なる思い出も、全て虚実だった。
自分には、何も無かったから。
……愛されたかった。
途端、頭に過ぎったそれに、大きな不快感を抱く。
壊す。殴って、蹴って、己の欲求に思うがままに従った。
色のない箪笥も、テーブルも、ガラスのコップも、気味の悪い写真立ても。なりふり構わずに壊した。
ジンジンと拳から染みわたる強い痛み。
手足から滴る血が熱くて、熱くて。でも、満たされない。あの不快感も、死体に感じた感じたこともない感情も、全て晴れない。
息切れを治すため、胸を抑えた。
タバコの火は消えかけていて、苦い煙が辺りに広がっていた。
横目、死体の焦点を失った瞳と目が合った。
瞼から、一筋の熱い水が零れ落ちた。
痛かったから。壊して壊して壊した拳が痛かった、そのせいに違いない。
これもあの死体のせいだ。
毎日毎日抱き締められたのに心がザワついた。毎日毎日向けられた熱い瞳がうざったらしかった。毎日毎日投げかけられる言葉に、知らない感情を植え付けられた。
だから。
もう一度、目の前にあった棚を殴った。小物がずり落ちる轟音、鈍痛。目を過剰に潤した涙が、心をより濁らせる。それと共に、白く、色褪せた1切れの紙が宙を舞った。
乱暴に、舞い落ちていく紙を広いあげ、雑に紙を開いた。
『ずっと愛してる。 』
そう、書かれていた。
その筆跡はたしかに、あの死体のもの。
そう、何故か感覚でわかった。
頭に痺痛が走って、息切れが悪化していく。
記憶の吐息。
紙をグッと握りしめても、破いても、心の内がどんどん苦しくなっていく。
殴った棚の上を見た。飛び散った硝子の破片が、自分の酷く歪んだ顔をうつす。
__ああ。
発狂する。言葉にならない、今迄で1番の強いなにかを感じた。もがいて、もがいて、どうやってでも体の内側から吐き出そうともがく。
でも、晴れない。
この重くどす黒い感情を知らない。知りたくない。
紙を強く投げた。ヒラヒラと舞い、言葉は消える。残ったのは、汚れた自らの手。
彼女を見た。自らで殺めた、気味の悪い女。
彼女の元へ、蹴躓きながら歩いた。無意識に、自分の意思では無い。
そして殴る。強く、この感情を晴らしたく、何度も何度も殴った。
息が上がる。強い倦怠感と目眩で、頭が回らない。
モスキート音のような耳鳴り、鈍痛が喉に棘を刺す。
涙が止まらない。痛みでも、なんにでもなかった。
死体の長い髪を、人束持ち上げた。
あの時、己の頬に触れた髪。
あの時、綺麗に光を反射した髪。
あの時、己の唇を掠めた髪。
思わず、酷く歪んだ表情で、随分と冷たくなった彼女を抱きしめた。
強く。失った存在を確かめる。
そのまま床に沈む。己の鳴き声が部屋に響き渡る。
大量に零れた涙が、もう乾き出している彼女の血と、混ざりあった。
これは贖罪でも、懺悔でもなんでもない。
この感情は、きっと。
抱きしめた腕を、もっと強くした。
彼女の冷たく、あの時と違う体温が、己を蝕む。
最後に聞こえたのは、外の煩いサイレンの音。
最後に感じたのは、何処からか吹く、隙間風。
その時、彼女の冷たさが、己の温度をうつした。
紙タバコの消えかけた火が、ちょうど燃え尽きた。




